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雪溶ける ツンデ令嬢 春きたる

作者: 埴輪庭

 §


 時の流れは残酷である。かつてサルード王国中にその名を轟かせたメルヴィル伯爵家の広大な屋敷は、今や栄華の残滓を辛うじて留めるだけの古びた額縁のよう。壁紙は色褪せ、絨毯は擦り切れ、かつて客人を感嘆させた調度品の数々も次々と金貸しの手に渡っていく。


 この屋敷の空気は常に埃っぽく、そして冷たい。それは単に暖炉にくべる薪が足りないからというだけではない。


 コリーン・メルヴィルが記憶している限り、彼女の世界は常に欠乏と隣り合わせにある。そしてその欠乏をもたらしたのは、他ならぬ彼女の父、メルヴィル伯爵その人であった。


 コリーンの父、アーサー・メルヴィルは決して悪人ではない。むしろその逆。彼は誰に対しても分け隔てなく接し、困っている者には惜しみなく手を差し伸べるのだ。だが貴族社会という伏魔殿において、無防備な善意は悪意ある者たちの格好の餌食となる。善意は利用されるためにのみ存在する。それが現実。


 コリーンが六歳の頃だったか。アーサーが得意げに持ち帰ってきたのは、東方の国から渡来したという触れ込みの「火を吐くトカゲの卵」。日に焼けた胡散臭い商人は、それを磨けば磨くほど価値が上がり、孵化すれば王城すら買えると唆す。アーサーは人を疑うという機能が欠落しているかのようで、貴重な収入源であった領地の森を一つ売り払い、それを手に入れた。


「コリーン、見てごらん。これが孵れば我が家は安泰だ。皆が幸せになれる」


 アーサーは無邪気に笑う。だが、その卵が決して孵ることはない。それはただの巧妙に細工された石ころに過ぎなかったのだから。商人は姿を消し、後に残るのは莫大な借金と、磨き抜かれて虚しく光る石ころ一つ。


 似たようなことは数え切れないほど繰り返される。存在しない鉱山の権利書、名もなき画家の手による大家の贋作、必ず儲かると謳われた新大陸への投資話。その度にメルヴィル家の財産は砂時計の砂が落ちるように、着実に、そして容赦なく失われていくのであった。


 その状況に最初に耐えられなくなったのはコリーンの母、セリーナである。彼女は聡明で現実的な女性。夫の愚かさを嘆き、何度も諫めたが、アーサーが聞く耳を持つことはなかった。


「あなた、目を覚ましてください! このままでは私たち親子は路頭に迷うことになりますのよ! あなたの善意が家族を不幸にしているのが分からないのですか!」


 母の悲痛な叫び声が、人気が減りつつある屋敷中に響き渡る日々。だがアーサーは困ったように眉を下げるだけ。


「大丈夫だよ。次はきっとうまくいく。私はただ、皆を信じたいだけなんだ」


 その現実に根差さない楽観主義が、母の心を蝕んでいく。そしてコリーンが八歳の誕生日を迎えた翌朝、母は姿を消した。


 彼女はコリーンを連れて行くことすら諦めたのだ。いや、もしかしたら、メルヴィル家の忌まわしい血を引く娘を連れて行くことが、彼女の新たな人生の足枷になると考えたのかもしれない。


 セリーナが最後に残した言葉を、コリーンは決して忘れない。それは別れ際の温かい抱擁でも、優しい口づけでもなかった。冷え切った寝室で、旅支度を整えた母はコリーンを見下ろし、こう言ったのだ。


「コリーン。あなたは強く生きなさい。誰のことも信じてはなりません。信じれば裏切られる。優しさを見せれば食い物にされる。それがこの世の理ですわ」


 氷のように冷たく、硬い声。セリーナは一度も振り返ることなく、用意させていた馬車に乗り込む。コリーンは広すぎる玄関ホールに一人取り残され、呆然と立ち尽くすばかり。温もりと信頼という概念が、彼女の世界から永遠に失われた瞬間。


 セリーナが去った後、家の凋落はさらに加速する。使用人たちは次々と暇乞いをし、屋敷は墓場のような静寂に包まれた。広大な厨房に火が入ることはなく、食事は日に一度、固い黒パンと具のない冷たいスープだけになる。


 社交界に出れば待っているのは嘲笑と、それよりも性質の悪い憐憫。


「あら、メルヴィル伯爵家のコリーン様。まあ、ドレスが随分と古風ですこと。流行遅れもいいところですわ」


「お父様はまた何か新しい事業を始められたとか。今度は何を失くされるのかしら。楽しみですわね」


 悪意に満ちた囁き声が、コリーンの耳に突き刺さる。彼女は背筋を伸ばし、相手を睨みつけることしかできない。泣けば負けだ。弱みを見せればさらに付け込まれる。セリーナの言葉が呪いのように彼女を縛り付けていた。


 何よりも恐ろしく、屈辱的だったのは債権者たちの存在。彼らは容赦なく屋敷に乗り込んできては、残された金目のものを奪っていく。ある時、一人の粗暴な男がコリーンの机の上にあった小さな銀のブローチに目をつけた。それはセリーナの数少ない形見であった。


「これは駄目! お母様のものよ! 触らないで!」


 必死に抵抗するコリーンを、男は嘲笑いながら突き飛ばす。


「ガキが偉そうな口をきくな! 借金は借金だ! お前の親父の愚かさを恨むんだな!」


 埃っぽい床に倒れ込んだコリーンの目の前で、ブローチは乱暴に奪われた。アーサーはその光景をただオロオロと見ているだけ。彼は自分の娘一人守ることができないのだ。


 その夜、コリーンは鏡の前に立つ。鏡に映るのは青白く、やせ細った自分の姿。だがその瞳には暗く、冷たい炎が宿っていた。


「もう嫌」


 彼女は呟く。


「こんな惨めな思いをするのは、もうたくさんだわ」


 彼女は悟る。アーサーは頼りにならない。誰も助けてはくれない。他人の善意など期待するだけ無駄なのだと。信じられるのは自分だけ。自分とこの家を守るためには、自分が強くならなければ。


 舐められてはいけない。隙を見せてはいけない。


 彼女は自分の心を凍らせることを決意する。感情を押し殺し、誰に対しても冷酷に、傲慢に振る舞う。それがこの残酷な世界で生き残るための唯一の方法。


 その日からコリーン・メルヴィルは変わる。高慢ちきで、可愛げのない「悪役令嬢」へ。彼女の言葉は鋭い棘となり、その態度は高い壁となって、他者を寄せ付けない。


 それは彼女が身につけた鎧。傷つきやすく、脆い本心を隠すための、分厚い氷の鎧。


 ただ一人、赤ん坊の頃から彼女に仕え、すべてを見てきた古参の侍女、マチルダだけがその鎧の奥にある真実を知っていた。マチルダは去っていく使用人たちの中で、最後までコリーンの傍に残った唯一の存在である。


「お嬢様。それでよろしゅうございます。強さこそがお嬢様を守ります。ですが、どうかお忘れなきよう。その鎧は、本当に大切な方の前では脱ぎ捨てる日が来るかもしれません」


 マチルダはそう言ったが、コリーンは冷ややかに首を横に振る。


「そんな日は来ないわ、マチルダ。私はこの鎧と共に生きていくのよ。誰にも私を傷つけさせはしない」


 こうして、いわゆる「氷の令嬢」は誕生した。


 それから7年後──。


 §


 縁談とは、多かれ少なかれ打算の産物である。それが貴族社会という閉じた世界であればなおのこと、家と家を結びつける契約としての側面が色濃くなる。愛や恋といった不確定な要素は、契約が滞りなく履行された後、もし運が良ければ生じる副産物に過ぎない。


 ハイネ・カッサンドラはそのことを十分に理解しているつもりだった。カッサンドラ家は祖父の代に海運業で巨万の富を築き、その財力をもって子爵位を得た新興貴族。金はある。それも唸るほどに。


 王都の一等地に構える屋敷は、古くからの伯爵家のそれを凌駕するほど豪奢だ。しかし、彼らには決定的に欠けているものがあった。歴史と格式である。社交界において、カッサンドラの名は常に「成り上がり」という嘲笑と共にある。


 一方、婚約の相手であるメルヴィル伯爵家は、建国以来続く由緒正しい家柄だが、その内情は火の車だという。現当主、アーサーは人が好すぎるというより、危機感が欠如していた。怪しげな商人の口車に乗せられ、法外な値段で贋作を掴まされ、幾度となく資産を失ってきたのだ。


 歴史はあるが金がないメルヴィル家。金はあるが歴史がないカッサンドラ家。両家の利害は、恐ろしいほど完全に一致していた。


 そして今日が、その契約の当事者同士の初顔合わせ。


 ハイネは指定された高級茶房の個室で、相手の到着を待つ。柔和な顔立ちと穏やかな物腰の彼は、争い事を好まない性質だ。だが相手の令嬢、コリーン・メルヴィルの評判は決して芳しいものではなかった。「氷の令嬢」「傲慢不遜」。彼女を知る者は皆、口を揃えてそう評する。


 約束の時間きっかりに、扉が開く。


 現れたコリーン・メルヴィルは噂に違わぬ美貌の持ち主。だがその表情はまるで氷の仮面のように硬く、射抜くような青い瞳は挑戦的な光を宿している。彼女はハイネを頭の先から爪先まで一瞥すると、冷たく言い放った。


「待たせたかしら。まあ、構わないでしょう。あなた程度の相手なら、待つのが当然というものですわ」


 開口一番、これである。しかし棘のある言葉を紡いだ瞬間、コリーンの唇が微かに引き結ばれ、その瞳にかすかな後悔の色がよぎる。どうして初対面の相手に、こんな言い方しかできないのかと、自分自身に苛立っているかのようだった。いつから()()なってしまったのか──コリーンはもはや、自身の本音すらまともに言えない。彼女の唇は、反射的にとげとげしい言葉を紡いでしまう。


 だがハイネはそのほんの一瞬の揺らぎを見逃さない。穏やかな表情を崩さぬまま、背後に控える侍女マチルダへと僅かに視線を送る。何か意図があっての事かを確認したのである。


「初めましてお目にかかります。ハイネ・カッサンドラです。本日はお会いできて光栄です」


「ふん。随分と調子の良いことですわね。成り上がりの子爵家が歴史あるメルヴィル家と縁続きになれるのですもの。さぞかし嬉しいでしょう」


 再び放たれる刺々しい言葉──だが、やはりハイネにはしっくりこないのだ。成り上がりだとて貴族は貴族である。そして貴族とは、相手の言葉の裏に隠された本音を見極める業に長ける者たちである。残念ながらアーサー・メルヴィルにはその資質は欠如していたが、ハイネにはある。


 そんな貴族としての感覚が囁くのだ。


 “()()は、違う”と。


 するとコリーンの背後に影のように控えていたマチルダが、心得たとばかりにすっと前に進み出る。彼女はハイネに向かって深々と頭を下げると、朗々とした声で言った。


「ハイネ様。お初にお目にかかります。わたくし、お嬢様付きの侍女でマチルダと申します。以後、お嬢様のお言葉を通訳させていただきます」


「通訳?」


 ハイネは耳を疑う。


「左様でございます。先ほどのお嬢様のお言葉、『さぞかし嬉しいでしょう』というのは『歴史あるメルヴィル家の名に恥じぬよう、この身を捧げる覚悟で参りました。カッサンドラ家の皆様に受け入れていただけるか不安でなりません。ハイネ様のような素敵な方にお会いできて、心から安堵しております』という意味でございます」


 目の前の光景が信じられない。あまりにも流暢な、そしてあまりにも事実に反する通訳。当のコリーンはといえば、依然として不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。だがその耳がほんのりと赤くなっているのを、ハイネは見逃さなかった。


 マチルダは穏やかな微笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。


「お嬢様は大変繊細なお心をお持ちでして。お気持ちと言葉が裏腹に出てしまうのでございます。こたびの縁談は決して失敗してはならない類のもの……ゆえに、絶対に誤解されたくないとお嬢様が仰いまして。この様に私が通訳としてお嬢様の本心をご説明させていただきたいと考えております」


 そんな馬鹿な話があるだろうか。ハイネはそう思うも、コリーンがマチルダの言葉を否定しない。それが何よりの証拠だった。


 そうしてこの奇妙な茶会は、終始この調子で進んでいく。


「それにしても、この紅茶、ぬるくて不味いわね。こんなものを客に出すなんて、カッサンドラ家の財力もたかが知れているのかしら」


 言ってしまってから、コリーンはしまったという顔でテーブルの下のドレスを固く握りしめた。


 ハイネはその小さな仕草に気づき、マチルダに助け船を出すように目配せする。


「通訳します。『緊張のあまり喉が渇いておりました。とても美味しい紅茶で、心が落ち着きます。ハイネ様のお気遣いに感謝いたします』」


「あなたのその間の抜けた顔を見ていると、虫唾が走るわ。少しはましな話題を提供できないの?」


「通訳します。『ハイネ様の穏やかなお人柄に触れ、心が安らぎます。もっとあなたのことを知りたいので、色々な話を聞かせてください』」


 ハイネはもはや笑いを堪えるのに必死だった。これは喜劇だ、それも極上の。勿論、単に逆張りをしているだけなら柔和なハイネとて気を悪くしただろう。しかし、メルヴィル家の惨状を彼は事前に学んでいる。


 貧困という泥沼の中でもがき続けてきたメルヴィル家。当主であるアーサーは詐欺師たちの格好の餌食。弱みを見せれば、たちまち食い物にされる。コリーンは舐められないように、常に気を張っていなければならなかったのだ。彼女が身につけた傲慢な態度は、自分と家族を守るための唯一の鎧。その鎧は長い年月を経て彼女の皮膚の一部となり、今更脱ぎ捨てることなどできなくなっていた。


 そして、その鎧の下にある本心を理解できる唯一の存在が、赤ん坊の頃から彼女に仕えてきたマチルダなのだろう。


 その辺のことを短い時間で察しえたハイネは聡明と言ってよい。ゆえに、彼はコリーンの奇態にも気を害することはない。人間は衣食が足りなければこの様に歪む事もあると、若くして理解しているのだ。


 帰り際、ハイネはコリーンに向かって深々と頭を下げる。


「本日はありがとうございました。コリーン嬢。あなたのような素晴らしい女性と婚約できて、私は本当に幸せ者です」


 その言葉に一片の偽りも感じられない。しかし、コリーンは最後まで素直になれなかった。


「せいぜい、私に釣り合う男になることね。期待はしていないけれど」


 そう言い残し、彼女は馬車に乗り込む。だがその直後、マチルダがそっとハイネに耳打ちした。


「お嬢様はハイネ様こそが自分にふさわしい相手だと確信しておられます。ご覧いただけたかと思いますが、顔がもう見ていられないほどに真っ赤でしたから……。どうか、末永くお嬢様をよろしくお願いいたします」


 ハイネは満面の笑みで頷く。この奇妙で不器用な婚約者に、強い興味と、そして奇妙な愛おしさを感じ始めていた。


 §


 婚約期間は、綱渡りのような均衡の上で始まった。ハイネは頻繁にメルヴィル伯爵邸を訪れるようになる。カッサンドラ家の財政支援により、荒れ果てていた屋敷は少しずつ修復され始めるが、コリーンの心の壁は依然として高い。


 ある日の午後、ハイネは王都で評判のブティックにコリーンを連れ出した。彼女に最新の流行のドレスを贈ろうと考えたのだ。


 店主が自信満々に持ってきたのは、繊細なレースと真珠がふんだんに使われた豪奢なドレス。ハイネはこれが彼女の美貌によく映えるだろうと確信していた。


「コリーン嬢。こちらはいかがですか。あなたの瞳の色によく似合うと思います」


 しかし、コリーンの反応は冷ややかだ。


「趣味が悪いわね。こんな下品なドレス、誰が着るというのよ。それに、こんな高価なもの、無駄遣いもいいところだわ。カッサンドラ家は金銭感覚が麻痺しているのね」


 言葉にした途端、コリーンは自分の心の狭さに嫌気がさす。ただありがとうと言えば済むことなのに。彼女はきゅっと唇を噛み、俯いてしまった。


 ハイネは彼女の拳が白くなるほど握りしめられているのを見て、そっとマチルダに視線を移す。マチルダは頷く。二人の呼吸ももう大分仕上がってきている。


「ハイネ様。通訳させていただきます」


 マチルダは微笑む。


「先ほどの『趣味が悪い』『下品なドレス』というお言葉ですが、これは『わたくしにはもったいないほどの素晴らしいドレスですわ。ですがあまりにも高価なものはカッサンドラ家にご負担をかけてしまいます。もっと質素なもので十分です』という意味でございます」


 ふ、とハイネは内心で苦笑した。別にコリーンを嘲笑ってのことではない。マチルダさんも大変だな、というちょっとした同情の念を覚えたのだ。なにせ、コリーンの言語は複雑すぎる。


「そして、『あなたのセンスのない贈り物なんて欲しくもない』というのは『ハイネ様がわたくしのことを思って選んでくださっただけで、胸がいっぱいです。ドレスよりも、あなたのそのお気持ちが何よりも嬉しいのです』という、お嬢様なりの感謝の言葉でございます」


 それを聞いたハイネがコリーンを見ると──表情は相変わらず仏頂面で腕を組んでいるものの、その頬は明らかに赤らんでいる。


「コリーン様。ありがとうございます。あなたの深いお心遣いに、感動しました。ですが心配はいりません。私はあなたに最高のものだけを贈りたいのです」


 ハイネはそう言って、店主にドレスを包むよう指示する。コリーンは抗議しようとするが、ハイネの真摯な瞳を見て、言葉を飲み込んだ。


「……勝手になさい。私は一度しか着ないから」


「通訳します。『ありがとう、ハイネ様。一生大切にしますわ』」


 コリーンはマチルダの言葉を否定しない。


 別の日、ハイネはコリーンを連れて王都の劇場へ。演目は古典的な悲劇。コリーンは元々読書家で、物語の世界に没頭するのが好きだった。


 クライマックスの場面で、主人公が悲劇的な運命に翻弄される姿を見て、コリーンは思わず涙を流す。ハイネは驚いて彼女を見たが、すぐにハンカチを取り出して差し出す。


「コリーン嬢……」


 コリーンはハッとして、慌てて涙を拭う。自分の弱さを見られたことに動揺し、そしてその動揺を隠すため、反射的に攻撃的な言葉を口にした。


「なんて陳腐な物語かしら。こんな安っぽい感傷に浸るなんて、馬鹿馬鹿しいわ。時間の無駄だったわね」


 彼女はそう言って席を立つ。ハイネは彼女の後を追った。劇場の外は、冷たい夜風が吹いている。ハイネはコリーンの肩に自分のコートをかけた。


「風邪をひきますよ」


「余計なお世話よ。気安く触らないで」


 口ではそう言うが、本当に嫌ならばかけられたコートを振り落とすくらいは出来るはずだ。しかしコリーンはそうしない。後から追いついたマチルダが静かに言った。


「お嬢様は物語の主人公の純粋な心に深く感動しておられました。そして、ハイネ様の前で涙を見せてしまったことを、とても恥ずかしく思っておられるのです」


 マチルダはコリーンの肩にコートをかけ直しながら、続ける。


「お嬢様はハイネ様の優しさに触れ、心が温かくなったと感じておられます。『この人の前なら、素直になってもいいかもしれない』と、そう思っておられるのです」


 ハイネがコリーンの顔を覗き込むと、彼女の顔は赤い。それは怒りからではなく、紛れもない羞恥心からだった。


「コリーン嬢。あなたの心がそれほどまでに美しいとは知りませんでした。私はますますあなたに惹かれていきます」


 ハイネは真摯な瞳で言う。コリーンは言葉に詰まり、何も言い返せない。ただ、ハイネのコートの温かさが、彼女の凍りついた心に染み渡っていくのを感じるだけ。


 ハイネは少しずつではあるが、コリーンの態度の裏にある本質を理解し始めていた。彼女の言葉は棘だらけだが、その棘は彼女自身を守るためのものであり、決して他人を傷つけるためのものではない。彼はそんな彼女の不器用さが愛おしくてたまらないのだった。


 §


 季節は巡り、王都は社交シーズンの最盛期。歴史ある伯爵家の令嬢と、成り上がりの新興貴族の御曹司。この組み合わせは、社交界の好奇と嫉妬の的となっていた。


 ある夜、王家主催の盛大な夜会が開かれる。コリーンはハイネにエスコートされ、会場に入った。彼女が身に纏うのは、あの時ハイネから贈られたドレス。その姿は美しく、多くの人々の注目を集める。


 しかし、その注目の中には好意的なものばかりではない。


 コリーンとハイネが挨拶回りをしていると、ある侯爵夫人が彼らを呼び止める。彼女は扇子で口元を隠しながら、意地悪な笑みを浮かべていた。


「あら、コリーン嬢。ご婚約おめでとうございます。それにしても、随分と景気の良いお相手を見つけられたのね。これでメルヴィル家も安泰ですわね」


 その言葉には明らかな皮肉が込められている。コリーンの表情が強張った。自分の家が金のために娘を売ったと言われているようで、屈辱を感じる。


「お褒めいただき光栄ですわ、侯爵夫人。ですが言葉には気をつけあそばせ。下品な物言いはあなたご自身の品位を貶めるだけですわよ」


 コリーンは毅然とした態度で言い返す。だが侯爵夫人はさらに続ける。


「あら、怖い。でも、カッサンドラ家といえば、元はと言えばただの商人でしょう。貴族としての品格も歴史もない家柄ですもの。コリーン嬢も苦労なさるでしょうね」


 それは明らかな侮辱。ハイネはコリーンの隣で、拳を握りしめていた。自分が侮辱されることには慣れているが、コリーンまで巻き込まれることには耐えられない。


 ハイネが何か言い返そうとした時、コリーンがそれを制す。彼女は一歩前に進み出ると、侯爵夫人を真っ直ぐに見据えた。


「侯爵夫人。それ以上、わたくしの婚約者を侮辱することは許しませんわ。成り上がりだろうと、今の王国の財政を支えているのは彼らよ。あなたたちのように先祖の遺産を食いつぶすしか能のない者たちが口を挟むことではないわ」


 コリーンの声は冷たく、鋭い。会場は一瞬にして静まり返り、侯爵夫人は顔を真っ赤にして怒りに震える。


「な、なんて無礼な! この私に向かって!」


「事実を申し上げたまでですわ。それとも、図星を指されてお怒りになられたのかしら」


 コリーンは一歩も引かない。その迫力に侯爵夫人はたじろいだ。


 その時、二人の間に割って入ったのはハイネ。彼はコリーンの手を引き、侯爵夫人に向かって静かに頭を下げる。


「申し訳ありません、侯爵夫人。私の婚約者が失礼をいたしました。どうかお許しください」


 ハイネはそう言って、コリーンを連れてその場を離れる。コリーンは不満げな表情で彼を見た。


「どうしてあなたが謝るのよ。悪いのはあちらの方でしょう」


「分かっています。ですがこれ以上騒ぎを大きくするわけにはいきません。あなたの立場が悪くなるだけですから」


 ハイネはそう言って、コリーンをバルコニーへと連れ出す。夜風が心地よい。ハイネはコリーンに向き直ると、真剣な表情で言った。


「コリーン嬢。先ほどは私を庇ってくださってありがとうございました」


「別に、あなたを庇ったわけではないわ。私はただ、あの女の態度が気に入らなかっただけよ」


 コリーンは素直になれない。顔をそむける彼女の姿に、ハイネは苦笑し、マチルダに視線を送った。


「ハイネ様。通訳させていただきます」


 マチルダは静かに言う。


「お嬢様はハイネ様が不当に貶められることに、ご自身の誇りが傷つけられたと感じておられるのです。『私の大切な人を侮辱することは私への侮辱と同じだわ。絶対に許せない』と、そう仰せです」


 ハイネは驚いてコリーンを見る。


「お嬢様はハイネ様のことを誰よりも尊敬しておられます。だからこそ、ハイネ様が侮辱されることに我慢がならなかったのです。どうか、その一途な思いを受け止めてあげてくださいませ」


 マチルダの言葉は、コリーンの本心を的確に言い表していた。コリーンは自分の心が丸裸にされたようで、居心地が悪い。


 ハイネはコリーンの顔を覗き込む。彼女の瞳は揺れていた。


「コリーン嬢。あなたの気持ちは嬉しいです。ですが私はあなたに傷ついてほしくないのです」


 ハイネはそう言って、コリーンの手を優しく握る。


「私は大丈夫です。私は自分の力で、誰にも認めさせてみせます。ですから、あなたはあなたのままでいてください。あなたの強さも、弱さも、すべて私が受け止めます」


 ハイネの言葉は温かく、力強い。コリーンは彼の瞳の中に、自分への深い愛情を感じる。胸が熱くなるのを感じていた。


 彼女は何か言おうとするも、言葉が出てこない。ただ、ハイネの手を握り返す。それが彼女なりの答えだった。


「……分かったわ。でも、もしまたあなたを侮辱する者がいたら、私は容赦しないわよ」


 それが彼女の精一杯の愛情表現。ハイネは微笑む。


「ええ。その時は私もあなたと共に戦います」


 二人は見つめ合う。その間にはもはや言葉は必要ない。マチルダの通訳も。


 §


 平穏な日々は長くは続かない。ある日、ハイネのもとにメルヴィル伯爵家が再び財政危機に陥ったという知らせが届く。原因はまたしても伯爵の悪癖。怪しげな投資話に乗り、莫大な借金を抱えてしまったのだ。しかも、その額はこれまでの比ではない。


 ハイネが伯爵邸に駆けつけると、応接室には青ざめた顔の伯爵と、怒りに肩を震わせるコリーンの姿があった。


「お父様! 何度言ったらわかるのですか! あなたはいつもいつも騙されてばかり! メルヴィル家の名が泣いていますわ!」


 コリーンの怒号が響き渡り、伯爵は縮こまって何も言えない。


 ハイネは二人の間に割って入る。


「コリーン様。落ち着いてください。まずは状況を把握しましょう」


 コリーンはハイネを睨みつけた。


「あなたは黙っていて! これはメルヴィル家の問題よ。あなたには関係ないわ!」


 しかし言葉の激しさとは裏腹に、コリーンの両眼には涙が溜まっている。


 ハイネがマチルダを見ると、マチルダがすかさず通訳した。


「通訳します。『ハイネ様。助けてください。私一人ではもうどうすることもできません。あなたの力を貸してください』」


 コリーンは悔しそうに唇を噛み締める。だが、マチルダの言葉を否定することはできなかった。


 ハイネが伯爵から事情を聞き出すと、ある商人から「必ず儲かる」と言われ、新大陸の鉱山開発に投資したのだという。だがそれは真っ赤な偽り。商人は金を持ち逃げし、伯爵の手元には莫大な借金だけが残った。


 その額はカッサンドラ家といえども、簡単には用意できないほど巨額。このままではメルヴィル家は破産し、爵位を剥奪されるかもしれない。


 ハイネは決断し、父であるカッサンドラ子爵に頭を下げ、協力を求める。


 数日後、メルヴィル伯爵邸の応接室には重苦しい空気が漂う。カッサンドラ子爵──ハイネの父であり、海運業で一代にして財を成した傑物──が、腕を組んでソファに深く腰掛けていた。その鋭い眼光は、アーサー・メルヴィルの顔に突き刺さっている。


「メルヴィル伯爵。これで何度目ですかな」


 子爵の声は静かだが、鋼のような硬さがある。


「申し訳ない……。返す言葉もございません」


 アーサーは顔を上げることすらできず、ただ消え入りそうな声で謝罪する。


「謝罪で金が戻ってくるのなら、私もいくらでも頭を下げましょう。だが現実は違う。今回の負債、我が家で立て替えます。ハイネのため、そして何よりコリーン嬢のために。しかし、これ以上同じ過ちを繰り返すわけにはいかない」


 カッサンドラ子爵はそこで言葉を切り、アーサーの目を真っ直ぐに見据える。


「アーサー殿。あなたは善人だ。だが、その善意が家を滅ぼしかけている。もはや、あなたが当主の座に居続けることは、誰のためにもなりません。どうか、ご隠居なされませ」


「……っ!」


 アーサーは息を呑む。事実上の引退勧告。


 その日のうちに、家督の譲渡は正式に執り行われた。歴史上、最も静かで、最も唐突な当主交代劇。


 新しくメルヴィル伯爵となったコリーンが最初に行ったのは、カッサンドラ子爵を自室に招き入れることだった。


「子爵様。この度のこと、感謝の言葉もございません」


「いや、当然のことをしたまで。それより、これからが大変ですな、伯爵」


 子爵の言葉に、コリーンは静かに首を横に振る。


「いいえ。わたくしはこの爵位を、カッサンドラ家に譲渡いたしますわ」


「な……!?」


 流石の子爵もこれには驚きを隠せない。サルード王国法ではこういう場合、爵位が繰り上がる。つまり、カッサンドラ子爵家は伯爵家となるのだ。そしてメルヴィル伯爵家は消滅する。ただ、この制度が実際に適用されることはサルードの歴史を紐解いてみても稀であった。当たり前だ、貴族とは家を護る者。その家をまるごと売り渡すような貴族など、早々いやしない。


「正気ですか? メルヴィル家の歴史を、そう易々と……」


「歴史も格式も、腹の足しにはなりませんわ。それよりも、この家にはまだ価値が残されております」


 コリーンはそう言うと、一枚の古い領地地図と羊皮紙の束をテーブルに広げる。


「これは父が詐欺師どもに売り払った土地の残りの権利書。そして王家から拝領した、誰も見向きもしない荒れ地の利用権です。父はこれらの価値を全く理解していませんでした」


 彼女の指が、地図上の一点を指し示す。


「この荒れ地は、ただの不毛の地ではございません。わたくしは書庫に残された古文書を何年もかけて読み解きました。二百年前の土地台帳に、この一帯が『陶土の丘』と呼ばれていた記述を見つけ、近隣の村の古老に聞き込みを重ね、土質を密かに調べさせたのです。結果は予想通り。王都で流行している白磁器の原料となる、極上のカオリン鉱床が眠っておりますわ。そして、こちらの寂れた港。父の代で寂れる前、祖父の代の古い航海日誌を分析しましたところ、年に二度、特殊な潮の流れが発生することがわかりました。その流れを利用すれば、南方の諸島へ、現在のどの航路よりも三日早く到達できます。香辛料貿易において、この三日の差がどれほどの価値を持つか、子爵様ならお分かりのはず」


 彼女の口から語られるのは、父アーサーが夢見たような一攫千金の話ではない。長年にわたる地道な調査と、確かな分析に裏打ちされた、緻密な事業計画。


 カッサンドラ子爵は息を呑んだ。彼女の着眼点は、百戦錬磨の商人である自分と全く同じ。


「……恐れ入りました。あなた様は、ただの深窓の令嬢ではなかったようですな」


「わたくしは、この目で見てきましたから。人が何に価値を見出し、金を払うのかを。父が失ったものを、今度はわたくしが取り戻します。カッサンドラ家のお力添えをいただければ、の話ですが」


 子爵はふと、疑問を口にする。


「ですがコリーン様。これほどの才覚をお持ちでありながら、なぜ今まで……?」


 その問いに、コリーンは自嘲気味に微笑む。


「わたくしには権限がございませんでしたから。伯爵家の資産を動かすには、当主の印章と署名が不可欠。そしてお父様は……わたくしの地道な提案には耳も貸さず、常に次の一攫千金を夢見ておられました。わたくしは、ただ歯痒い思いで見ていることしかできなかったのですわ」


 その言葉には、長年の鬱屈が滲んでいた。


 §


 そして、結婚式の日がやってくる。天気は快晴で、空は青く澄み渡り、まるで二人の未来を祝福しているかのよう。


 コリーンは純白のウェディングドレスに身を包む。その姿は美しく、まるで女神のようであった。


 控え室で、コリーンは鏡の前に座っている。マチルダが彼女の隣に立ち、最後の仕上げをしていた。


「お嬢様。とてもお綺麗ですよ」


 マチルダは感極まった様子で言う。彼女の目には涙が浮かんでいた。


「マチルダ。泣いているの?」


「申し訳ありません。お嬢様が赤ん坊の頃からお仕えしてきた身としては、感慨深いものがございます」


 マチルダはハンカチで目元を押さえ、コリーンは彼女の手を握る。


「マチルダ。今までありがとう。あなたがいてくれたから、私はここまで来ることができたわ」


 それはコリーンの心からの感謝の言葉。


「私はこれからも、色々と迷惑をかけるかもしれないけれど。これからも、私のそばにいてちょうだい。あなたの通訳がまだ必要な時があるかもしれないから」


 コリーンはそう言って、少しだけはにかむように笑う。


「もちろんでございます、お嬢様。私はいつまでも、お嬢様のおそばにおります」


 マチルダは力強く頷いた。


 式は厳かに執り行われる。大聖堂には多くの人々が集まり、二人を祝福していた。


 祭壇の前で、二人は向かい合う。神父が誓いの言葉を述べた。


「コリーン・メルヴィル。あなたはハイネ・カッサンドラを夫とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」


 コリーンはハイネの瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女は一瞬ためらうが、すぐに意を決したように、震えながらも凛とした声で口を開いた。


「わたくしは……言葉を素直に伝えるのが、とても下手ですわ。ですから、これだけは、はっきりと伝えます。あなたを夫とし、生涯、愛し抜くことを……誓います」


 会場は、一瞬の静寂に包まれる。誰もが、あの「氷の令嬢」から発せられた、あまりにも率直で、熱のこもった誓いの言葉に息を呑んでいたのだ。やがて、その静寂は割れんばかりの温かい拍手へと変わっていく。


 マチルダは、最前列でただ静かに涙を流している。通訳など、もう必要ない事が彼女には分かった。無論それがコリーンとの決別を意味しない事も。


 ハイネは驚きに目を見開いた後、これ以上ないほどの愛おしさに満ちた笑みを浮かべる。そうして唇を寄せ──


 誓いのキスの後、ハイネはコリーンに囁いた。


「……参りました、コリーン。世界一の幸せ者です、私は」


「……馬鹿ね。当たり前でしょう」


 コリーンは顔を真っ赤にしながら、それでも悪態をつく。しかしその顔は幸せに輝いていた。コリーンはついに自分の居場所を見つけたのだ。彼女の氷の仮面は愛の温もりによって溶かされ、その下からはいまや美しい笑顔が咲き誇っている。


 §


 結婚から半年が過ぎた秋の日。アーサー・メルヴィルは、娘の幸せな姿を見届けたことに安堵したのか、それとも長年の心労と、当主の座を降りたことによる気力の衰えか、静かに病の床に就いていた。


 知らせを受け、コリーンとハイネは急ぎメルヴィル邸の別棟に用意された隠居部屋へと駆けつける。かつてあれほど頑健だった父は、今は見る影もなく痩せ細り、浅い呼吸を繰り返している。


「お父様……」


 コリーンがベッドのそばに膝をつくと、アーサーは薄っすらと目を開ける。その瞳にかつての無邪気な光はなく、ただ穏やかな諦観が浮かんでいた。


「……コリーンか。息災そうで、何よりだ。ハイネ殿も、ありがとう。娘を、よろしく頼む」


「はい。必ず、幸せにします」


 ハイネが力強く頷くと、アーサーは満足げに微笑む。そして、最後の力を振り絞るように、コリーンの手を弱々しく握った。


「すまなかったな……コリーン。お前には、苦労ばかりかけた。わしは、愚かな父親だった……」


「……いいえ」


 コリーンは静かに首を横に振る。


「そんなことは……」


 だが、アーサーはもはやその言葉を聞いてはいなかった。彼は娘の顔を最後に目に焼き付けると、安らかな寝顔のまま、静かに息を引き取った。


 葬儀はカッサンドラ家の支援のもと、メルヴィル家の歴史にふさわしい厳かで立派なものが執り行われた。そんな中、コリーンは終始気丈に振る舞い、一粒の涙も見せない。だがハイネには、コリーンが無理をしている事がありありとわかった。近寄って、抱きしめたい──そんな想いを押し殺す中、葬儀はつつがなく終了した。


 それから数日後。カッサンドラ家の屋敷の書斎で、コリーンは父の肖像画を前に一人静かに佇んでいた。ハイネがそっと部屋に入ると、彼女は振り返らないまま、ぽつりと呟く


「わたくし、ずっとお父様が憎かった。その愚かさ、無能さが……。でも……」


 声が、微かに震えている。


「……可笑しなものですわね。私もお父様の娘ということなのでしょうね。だってあれほどまでにお父様の無能を憎んできたというのに──今、こうして涙が止まらないのだから」


 コリーンの肩が小さく震え始め、振り向いた彼女の頬には大粒の涙が伝っていた。


 ハイネは何も言わず、彼女の体を優しく抱きしめる。コリーンは彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。


 しばらくして嗚咽が少しずつ収まると、コリーンはハイネの胸に顔を埋めたまま、絞り出すように呟く。


「……さようなら、お父様」


 それは、長年コリーンを縛り付けてきた過去との決別の言葉であった。


(了)

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シドは呪われている。
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「曇らせ剣士シドの輪廻冒険譚④:輪廻する剣士と半月の王子」

シドは呪われている。
死んでも何度でも転生してしまう呪いだ。
シドは呪われている。
その性癖が。
シドは呪われるべきだ。
余りにも性格が酷いから。
※ 本作は曇らせ剣士シドシリーズの3作目にあたります。
1作目と2作目は作品トップの上部、シリーズのリンクからどうぞ。
また、別作「イマドキのサバサバ冒険者」および「Memento-mori」のスピンオフ的作品でもありますが、これらを読んで居なきゃ何も分からないという事はないと思います。
なお、本作はAI挿絵を採用しておりますのでご了承ください。
本作はカクヨム、ハーメルンにも掲載しています。
「曇らせ剣士シドの輪廻冒険譚③:輪廻する剣士と紫毒姫」

シドは呪われている。
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「曇らせ剣士シドの輪廻冒険譚②」

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死んでも何度でも転生してしまう呪いだ。
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シドは呪われるべきだ。
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