黒猫
私たちは再びアルテナの町の門をくぐり、本日の宿を探すことにした。どこか落ち着かない気配の中、何人もの自警団の姿が視界を横切る。やはり、冒険者を殺害した犯人を探しているのだろうか。擬態がいつバレるかという不安が胸の内で膨らみ、自然と私はサクラの影に隠れるようにして歩く。
最初は四つん這いで歩くことにためらいがあったものの、案外すぐに慣れてしまった。このアクセサリーは着心地が良く、四足歩行でも不思議と疲れを感じない。もしかすると、このアイテムを現実に再現した際に、何らかの特殊効果が反映されたのかもしれない……。
ほどなくして、私たちは町の中で比較的大きな宿屋を見つけた。サクラが宿泊の手続きを進めると、女将さんが私の姿を見てやや怪訝そうな表情を浮かべた。その様子を察したサクラは、すぐさまフォローを入れる。
「おお、女将。この猫は拙者の“使い魔”でござる。部屋を汚したり傷つけたりは決してしないゆえ、どうかご容赦いただけぬか」
そう言って、サクラは基本料金の3倍もの金額を女将に差し出した。使い魔……なるほど、なかなか良い言い訳だ。このゲームには魔獣を使役する“サモナー”という職業があり、使い魔という存在も珍しくはないはずだ。
女将さんは高めの宿泊料を受け取ると、にこやかな笑みを浮かべて部屋へ案内してくれた。どうやらこの世界でも、信用はお金で買えるらしい。まあ、サクラの高価そうな装備と太っ腹な態度を見て、有名な冒険者だと思ったのだろう。実際には、昼間に登録したばかりのDランク冒険者なんだけどね。とにかく今夜の宿が確保できたのは、素直にありがたい。
「女将、ついでに頼みがあるでござる。部屋に適当な食事を2人前、持ってきてはいただけぬか? 拙者、大食らいゆえ、1人前では足りぬのだ」
そう言ってさらに追加料金を渡すと、女将は満面の笑みで快諾してくれた。本来なら1階の酒場で食事をとるようだが、サクラは私が気兼ねなく食べられるようにと、わざわざ部屋食を頼んでくれたのだろう。中の人がまさかのネカマだったことには正直驚いたけれど、本質は変わらず”いい人”だと、改めて感じた。
私たちは部屋に入ると椅子に腰を下ろし、ようやく一息ついた。強靭な身体のおかげで肉体的な疲れはほとんどないが、それとは裏腹に精神的な疲労はずっしりとのしかかっている。異世界転移、ネカマ発覚、ゴブリン退治、冒険者殺害、そして猫への擬態……人生で一番濃い一日だったかもしれない。ゲームだったら年齢制限がつきそうなゴブリンの生々しい死体、そして事故とはいえ冒険者を殺してしまったこと――どちらも、一生忘れられないトラウマになりそうだ。
しばらくすると、女将さんが2人前の食事を部屋まで運んできてくれた。正直、あまり食欲は湧かなかったが、せっかく用意してもらったので、少しでも口にすることにした。私はいったん黒猫スーツを脱ぎ、装備も外して軽装に着替える。……なのに、なぜか軽装になった方が体が重いという、この違和感にはいつまでも慣れそうにない。
「おお、普通に食えるでござるな。味もなかなか美味いでござる」
「ほんとだ、ちょっと意外かも」
用意された夕食は、普通に美味しかった。ファンタジー世界といえば生活水準が低いイメージがあり、食事も質素で味気ないと思っていたけれど、予想外にクオリティが高くて驚いた。これはまるで、現実世界のチェーン店やファミレスで出される料理の完成度だ。さらに不思議なことに、お風呂やトイレといった設備も現代的な水洗式が完備されている。けれど、街灯や部屋の明かりはというと、ガラス容器の中で輝く鉱石が光源になっていたりする。――こういった、チグハグな世界観のギャップがどうしても気になる。
「ファンタジー世界なのに、現代的すぎると思わない? 食事もそうだけど。フィールドは明らかに広いのに、モンスターが全然いないし」
「……確かに。冒険者ギルドもガラガラだったでござるな。ああ、それとシノブ殿を探していた時、町の入り口でワープポータルらしきものを見つけたでござるが……起動できなかったでござる」
いったい、この世界は何なんだろう。印象としては、”現実世界を模して再構築されたゲーム世界”という感じがする。良いところをつなぎ合わせて作られた、“都合のいい”異世界――そんな印象だ。しばらくの間、お互いに仮説を出し合いながら議論してみたが、結論が出ることはなかった。
「……あふ」
深夜と呼べる時間帯になり、自然とあくびが漏れた。そういえば、この宿屋にはひとつ問題があった。シングルサイズのベッドが一つしかないのだ。
「シノブ殿…そ、そろそろ寝るでござるか? あ、ああ、拙者は床で寝るので、ベッドはシノブ殿が使ってくだされ」
「えっ、いいの?」
「もちろんでござる」
本当に、サクラは優しい。今日は色々と辛いことがあったけれど、そのたびにサクラの優しさに救われたのは事実だ。優しくて気さくな年上の男性……案外、理想のパートナーってこういう人なのかもしれない。
異世界では何が起こるかわからない。だから、念のために寝る前に装備を付け直し、黒猫スーツも着用しておく。身体が縮むせいか、シングルベッドがやたらと広く感じられた。サクラは床に寝転がり、背を向けたまま静かな寝息を立て始めている。「サクラ、ありがと……」そう小さく呟いた。
部屋の灯りにそっと触れると、ふっと光が消え、窓から差し込む星明かりだけがぼんやりと辺りを照らしていた。私は薄闇の中、天井に向けて右手を掲げてみる。一般人に近い冒険者やゴブリンを、簡単に殺してしまえるこの力。手加減を覚えなければ、またいつか、取り返しのつかない事故を起こしてしまうかもしれない。
私は空中でそっと拳を握る。――もう、同じ過ちは繰り返さない。そんな決意を胸に、張り詰めていた心がようやくほどけていくのを感じながら、私は静かに深い眠りへと落ちていった。
――暗く深い闇の中に、幾億万もの星々が美しい輝きを放っている。そこは、極限までに研ぎ澄まされた魂が保管される霊廟――まさに“魂のストレージ”。
静かに聞こえる鼻歌に合わせて、空間そのものが揺らぎ、まるで世界がその音色に合わせてワルツを踊っているような、不思議な情景が広がっていた。
はやく、逢いに来て――
女性にも、声変わり前の少年にも聞こえる、どこか幼さの残る高い声が呼びかけてくるような気がした。そのとき――私は、ハッと目を覚ました。目の前にあったのは、目を見開いたサクラの顔。至近距離だ。
「うわっ!」「どわっ!?」
あまりの驚きに、心臓が早鐘のように脈打つ。寝起きのせいで思考がうまくまとまらず、状況がまったく理解できない。先に口を開いたのは、サクラだった。
「あ、いや……これは。ち、違うでござる! 決して、やましい気持ちで寝顔を見ていたわけでは――」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解してしまった。サクラはやましい気持ちで、私の寝顔を見ていたのだ。寝惚けていた私は、反射的にサクラの顔面を殴っていた。サクラはすごい勢いで吹っ飛び、部屋の扉に激突。そのまま扉の蝶番が壊れ、彼は廊下に倒れ込んだ。
――やばい。
昨夜、寝る前にあんなに”手加減を覚えないと”と誓ったばかりだったのに。レベルカンストの拳が、またしても炸裂してしまった。
「いてて……ご、誤解でござるよ。黒猫姿で寝ているシノブ殿があまりにも可愛くて、つい……」
サクラは何事もなかったかのように、すくっと立ち上がると、そのまま土下座のような体勢で許しを請う。もし相手が一般人だったら危なかったかもしれないけれど、さすがは前衛職。防御性能の高さが命拾いした要因だろう。
「……わかったよ。とにかく、そういうのやめてよね。心臓に悪いから!」
まったくもう……昨日、ようやく見直したばかりだったのに。これじゃ全部、台無しじゃないか。そういえば、何か不思議な夢を見ていたような気がする。しかし、寝起きのサクラの顔のインパクトが強くて、夢の内容が全く思い出せない。思い出そうとすると、サクラの顔が邪魔してくる、まったく……腹立たしい。
その後、サクラが朝食を運んできて、何度も何度も平謝りしたので、私は仕方なく許すことにした。外見はどう見ても美しい女性だけど、中身はやっぱり男なんだ。これからは寝るときに自衛手段をしっかり講じよう――そう、心に誓った。
「今日は、昨日できなかった情報収集の続きをするでござる」
「うん。私は喋らない方がいいよね?」
「うむ、この辺りには猫人間種も見かけぬし、普通の猫のふりをしておいた方が無難かもしれぬな」
猫人間種という種族には、人間の姿をベースに猫耳や尻尾が生えたタイプ、猫の姿をベースに人間サイズになったタイプ、見た目は完全に猫だが人語を話せるタイプなど、さまざまな亜種が存在する。だが昨日、町を歩いていたときには、そうした姿の者を1人も見かけなかった。
SMOの世界観が反映されていると仮定するなら、主な種族は大きく分けて、人間種、機械種、妖精種、闇妖精種、小人種、不死種、猫人間種、狼人間種などが存在する。さらに細分化すれば、これらの種族間で生まれたハーフも存在する。ただし、この世界にゲームの設定すべてが反映されているかはわからない。サクラの言う通り、”喋る猫”という存在が目立ちすぎるのは得策ではない、という判断なのだろう。
こうして私たちは二手に分かれ、この世界のこと、そして仲間たちの情報を集めるため、それぞれ行動を開始するのだった。
宿を後にして、私が最初に足を運んだのは、昨日冒険者を手にかけてしまった事件現場だった。「犯人は事件現場に戻る」という言葉があるが、その気持ちが少し分かった。どうしても気になって、足を運ばずにはいられなかったのだ。
件の裏路地は昨日と同じように人通りがまばらで、殺人現場とは思えないほど静かだった。外壁には私に似せた似顔絵入りの手配書が貼られていた。おそらく、冒険者ギルドや町の至る所にも貼られているのだろう。問題は、冒険者ギルドの受付嬢と話したときに、サクラと一緒にいたのを見られている点だ。手配書にはサクラのことは書かれていなかったが、自警団にはすでに情報が伝わっていると考えた方がいい。
私は黒猫の姿で、町の屋根を軽快に移動する。この姿は移動がとても楽だ。ただ、どうやら身体能力が極端に抑えられているような気がする。今朝、サクラがほぼ無傷だったのは、そのおかげだろう。この姿なら、力加減も容易にできそうだ。
問題は武器の類が装備ができず、使える特殊技能にも制限がかかっているようだった。抜足や索敵のような斥候系の特殊技能は問題なく使えるが、複雑な体術や強力な物理攻撃は使用不可らしい。どのみち、この町に滞在している間は、黒猫の姿で過ごすしかなさそうだ。
町の外周をぐるりと時計回りに走りながら、住民たちの会話に耳を傾ける。耳寄りな情報として、2週間ほど前に凄腕の冒険者が現れ、周囲のモンスターをほぼ殲滅したうえで町を去ったらしい。町の周囲にモンスターが少ないのは、その影響のようだ。そして最近では、この町と隣村をつなぐ街道に、冒険者崩れの山賊が出没しているという噂もある。その件で、冒険者ギルドには高額の依頼が張り出されているが、これまでに討伐に成功した者はおらず、未だ未解決とのことだった。昨日、掲示板を見た時にはそんな依頼は見受けられなかった気がするけど……まぁ、誰かが受けているのかも。
町の施設のひとつに、学校のような場所を見つけた。どうやら、現実世界でいうところの義務教育レベルの勉強を教えているらしい。そこで私は、無邪気な子供たちに木の棒で追い立てられるという、なんとも情けない目に遭った。無邪気という言葉の裏には、無知ゆえの残酷さが潜んでいるとつくづく思い知らされる。下手に反撃するわけにもいかず……子供、怖い。
私は逃げるようにして学校裏の公園にある噴水まで移動し、その脇でひと休みすることにした。今は猫の姿だから、噴水のそばで大胆に寝そべっていたとしても、誰も気に留めない。結局、こちらから話しかけられないというのは、情報収集において致命的なハンデだと痛感する。凄く歯がゆくて、もどかしい。
「はぁ……疲れた」
そう、つい声に出してしまったその瞬間だった。
「猫さんって、お喋りできるの?」
間近から聞こえてきた少女の声に、私はハッとして身を起こした。すぐ隣には、小学生くらいの女の子がちょこんと座っていた。
――ああ、やっちゃった。自分の不用意さに、私はただ落胆するしかなかった。
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