悲しい幻覚
「モカ。少し濃いめにして」
繁華街の入口にあるコーヒーの専門店。彼女はいつも閉店の少し前に来てそう注文した。
派手な色の長い髪。濃いめの化粧と赤いマニキュア。短めのタイトスカートから伸びるすらりとした足にピンヒール。「ここ、禁煙よね」つまらなそうにそうつぶやく。
「あなた、バーテンダーだったんでしょ。うちの店に来ない?」
ある日、僕がコーヒーを淹れる様子を眺めていた彼女は、唐突にそう言った。
「こんなところでコーヒーを淹れてる姿なんて、似合わないわよ」
うっすらと笑みを浮かべて、彼女は挑戦的なまなざしを僕に向けた。
数年前にこの店に来るまで、僕はバーテンダーとして働いていた。ここより繁華街の奥にある、朝まで眠らない一角。そこは人々の欲望が渦巻き、退廃的な空気で満ちていた。
そんな街で、当時の僕は恋に落ちた。今にも消えてしまいそうな白い肌。艶のある黒い髪。どこか寂しさをたたえた瞳。彼女の姿を見た瞬間、雷に打たれたように心が震えた。
あんな感情は初めてだった。どうしたらいいかわからない。他のすべてが見えなくなるほどの激しい思い。ほんの少し目が合っただけで、心の底から喜びが沸き上がった。知りたい。そして、そばにいたい。僕は自分の感情にまかせて、深い深い闇に堕ちていった。
そして気がついたとき、僕は心に深い傷を負い、無防備なまま打ち捨てられていた。
そこから堕ちるのは早かった。自分を見失った。渇ききった心のまま、巧みに甘い言葉で誘い、何人もの女性と関係を持った。自分をすり減らすように、毎日を生きていた。
――いったい、僕はどこへ行こうとしているんだろう。
あるときそんな生活に嫌気がさし、僕はバーテンダーを辞めた。もう少し、人として明るいところで生きていけるようになりたいと思った。必死にもがいていた。
でも、このコーヒーの専門店で働くようになってからも、自分の渇きを抑えることはできなかった。バイトに来る女の子たちはみんな、少しずつ虚しさを抱えていた。僕の手にかかれば彼女たちは何の苦労もなく、いとも簡単に落とすことができた。
「まあ、いいわ。とりあえず一度飲みに来てよ」
仕事が終わった夜。彼女から渡されたカードの店に行き、久しぶりに浴びるほど飲んだ。足元がふらつくほど飲んだのはいつ以来だろうか。現実とのはざまで、僕は幻覚を見た。
「好きよ。あなたのこと。ずっと、そばにいて」
艶のある黒い髪がほんの少し揺れて、甘い香りが広がる。僕は必死に手を伸ばした。
テーブルに、こぼれたブランデーが広がっていく。明日は、まだやって来ない。




