どうかお元気で、当主様。
「リリエーヌ! お前はクビだ! 今すぐ、この屋敷から出て行け!」
絹のように滑らかな長い金髪とサファイアのように美しい瞳を持つ、侯爵家の若き当主、ヘルムート・ヘルツェンバインは居丈高にそう言って、指を振り降ろす。
メイドのリリエーヌは跪いたまま、主人を見上げて涙ぐみ、震えていた。
「お待ちください当主様、私に至らない所があれば直します、どうか御願い致します、これからもここで働かせて下さい」
「私の命令は絶対だ。今日の日没までには荷物をまとめ、この屋敷から出て行くのだ」
しかし跪くリリエーヌを見下ろし、ヘルムートは冷徹にそう告げた。
†
観念したリリエーヌは侯爵家の使用人の宿舎に戻り最後の仕事として、脱いだお屋敷支給のメイド服を洗濯し、物干し場に干した。そして私物のメイド服に着替えると、僅かな私物を鞄にまとめ挨拶の為侯爵の執務室に向かった。
「当主様、長い間大変お世話になりました」
「まだ居たのか。私はもうお前の主ではないし挨拶は無用だ、すぐに出て行け」
リリエーヌが慇懃な礼を捧げても、侯爵はそんな返事をしただけだった。
けれどリリエーヌには責任感があった。本当は自分がこの館でしていた仕事を誰かに引き継がせたかったのだが、これだけの時間で自分の代役を見つけるのは不可能だったのだ。ならばせめて、主人本人には伝えておかないと。リリエーヌは膝をつき頭を下げたまま言った。
「今夜はホルシュタイン公爵の夜会に向かわれるのかと思いますが、お気をつけ下さい、ホルシュタイン様は男色家で当主様の体を狙っております」
ヘルムートは口をつけかけていた紅茶を噴き出す。
「待てリリエーヌ、何の話だ」
「私はもう当主様の身をお守りする事が出来ませんので……こういう事は私だけが知っていれば良い事だったのです。公爵様が勧める飲み物には気をつけて下さい、強い薬が入っている可能性が高いですから」
リリエーヌは今まで何度も、公爵が勧めた飲み物を手にしたヘルムートに体当たりを食わせ、それを口にしないよう差し向けていた。何も知らないヘルムートはその度にリリエーヌを叱った。
ヘルムートはもちろん、そんな訳があったとは全く知らなかった。
「それから、ジーゲルト侯爵は当主様の命を狙って月一で暗殺者を差し向けて来ています、これまでは私が対応しておりましたが、誰か代わりの者に対応させるよう御願いします」
「うっ、嘘だ、ジーゲルトは友人だぞ、出鱈目を言うな!」
「申し訳ありません当主様、執事長にお尋ね下さい、いつも後片づけを御願いしていますし、何人も口を割らせてますので間違いありません」
「待て待てリリエーヌ! 何故私は命を狙われているのだ!?」
「知らない方が宜しいかと存じます……お世話になりました」
侯爵に袖を掴まれたリリエーヌは、悲しげに首を振り、立ち去ろうとする。ヘルムートはリリエーヌの前に回り込んで迫る。
「屋敷で時々聞こえる銃声や地下室からの悲鳴、いつもあれは何なのだろうと思っていたのだ、さあ、詳しく話せ!」
「お許しください当主様、私の口からはとても申し上げられないのです」
リリエーヌはそう言って膝をつき、さめざめと泣き出した。
「私が話せと言っているのだ! 分かった、お前に退職金を出す、金貨千枚もあれば十分だろう」
「違います、そんなつもりではありません」
「何故! 私が奴に狙われるのだ!?」
「そっ……それはッ……」
観念したリリエーヌはすすり泣きながら、言葉を絞り出す。
「エルザ様です……」
「エ……エルザの? お前は何を言ってるんだ?」
エルザはとある伯爵の令嬢で、国一番の美姫との評判もある、ヘルムートの婚約者だった。
「ジーゲルトがエルザの為に暗殺者を雇い、私に差し向けているというのか? 嘘だ……お、お前はクビにされた腹いせで、そんな事を言っているのだ」
ヘルムートはそう呻くように言う。
「それで構いません当主様、私はこれで失礼致します」
「待て待て待て! 何故エルザが!? 彼女の愛は偽りだと言うのか!?」
リリエーヌは立ち去ろうとするが、ヘルムートは彼女の両腕を掴んで引き止める。
リリエーヌは涙を流し俯く。ヘルムートは本気でエルザを愛しているように見えるので、リリエーヌとしては、これを言うのは大変心苦しかった。
「違います、エルザ様は当主様を愛しているのですが、それ以上に、自分を巡って男達が争うのを見るのが何より好きなのです」
「こっ……心当たりが……ある……」
ヘルムートの脳内に未来予想図が思い浮かぶ。自分の棺桶の前で号泣する、黒いドレスを着たエルザ。その姿は誰もが惑わされる程、妖しく美しい。
エルザの涙は決して偽物ではない、彼女は心から泣いている。自分の狂わしい程の美しさと恋愛体質のせいで、また一人の男が死んだと。そしてそんな嫋やかな自分の姿を見てまた新たな男達が罠に堕ちるのだと、恍惚に酔い痴れている……あれはそういう女だ。ヘルムートは、そう思った。
リリエーヌは脱力したヘルムートの腕をそっと離させ、涙を拭いて立ち上がる。
「それから伯父上様にはお気をつけ下さい、ヘルツェンバイン銀行の資産をご自分の投資に注ぎ込んでいます。それと、領民への福利を蔑ろにして重税を課すデニス殿は荘園管理に向いておりません、皆当主様に遠慮して沈黙しておりますが、抗議活動が頻発しておりそろそろ危険です……それでは当主様、どうかお元気で」
「行くなリリエーヌ!」
「きゃああ!?」
今度こそ立ち去ろうとしたリリエーヌは、後ろからヘルムートに抱きつかれ驚いて悲鳴を上げる。
「お前はそういう事を知っていながら何故黙っていた!?」
「申し訳ありません当主様、メイドの私にはそのような事に口を出す資格はないのです、お許し下さい、」
実際リリエーヌは今まで何度も、人知れずヘルムートに忍び寄る危険を始末し侯爵領に横たわる問題を解決して来た。
それは勿論並大抵の苦労ではなかった。ヘルムートに直接言う事が出来れば簡単な事でも、全部秘密裏に処理しなくてはならないのだから。
「お前はいつもそうだっ、口を開けば当主当主と、その前の若様呼ばわりも気に入らなかった、何故お前は私を名前で呼んでもくれない!?」
再びリリエーヌの前に回って来たヘルムートは、その美貌を歪め号泣していた。
「申し訳ありません、ですが私は」
「何故お前は私を愛してくれなかったのだ? 何故お前は約束を破った! お前は約束したはずだ、大きくなったら妻になってくれると、」
「それはあの、当主様が5歳くらいの頃におっしゃった事ですから、」
ヘルムートに泣きすがられながら、リリエーヌはため息をつく。ありがちな事だがあの時は自分も15歳で、子供の言う事だとしか思っていなかったのだ。
「12歳の時にも確認したではないか、お前は間違いなく私の妻になってくれるのだろうなと、だけどあの時は返事をはぐらかされた、」
リリエーヌは俯く。仕方なかったのだ、あの頃の自分は22歳で、頼みもしないのに方々から舞い込む縁談を断るのに必死だった。
あの時、自分がヘルムートから求婚されているなどと世間に知られたらどうなっていたか? 自分は側仕えの立場を利用して高貴な少年を誑かした稀代の毒婦と世間から非難され、しまいには逮捕されて公開処刑されていたのではないか。
そうなれば若いヘルムートの心に、どんな傷を遺す事になったか解らない。
「申し訳ありません、ですがあの時は」
「私が17の誕生日を迎えた時には、正式にプロポーズしたではないか! だが父の猛反対はともかく……お前自身に、きっぱりと断られた……」
それは3年前の事で、さすがにリリエーヌもよく覚えている。何も知らなかった先主は激怒、ヘルムートを廃嫡し勘当するとまで言い出し、ヘルムートはヘルムートで、二人で遠い国へ駆け落ちしようとまで言い出すのだ。
ヘルムートより10歳年上のリリエーヌは、ヘルムートの想いは知恵熱のようなもので決して本気ではないし、貴族の生活を捨てて駆け落ちなどした所で、すぐに後悔するに違いないと考えていた。
つまりあの時は、そうするより他になかった。当のリリエーヌに断られたのではヘルムートも家出のしようがないし、先主も怒る必要がなくなるのだから。
「お前を忘れるのに、燃え盛る情熱の炎を消すのにどれだけ苦労したと思う……それでエルザと出会いようやく新しい人生をやり直せると思った矢先に、何と言う仕打ちだ……」
ヘルムートはリリエーヌから手を放し、床に蹲って肩を震わせる。リリエーヌは屈み込みハンカチを出して、その震える肩に添える。
「御労しい当主様……どうか元気を出して下さい、当主様は若く強く美しいのです、貴方を愛する乙女は星の数ほど居ます、きっとエルザ様よりずっと良い御縁にも巡り合えます」
「白々しい……お前は私が嫌いなのだろう」
ヘルムートは這いつくばって体を丸めたままそう呻く。リリエーヌは当主の肩から手を放し、畏まって告げる。
「違います、私の愛する方は当主様の他に居ません、他の殿方からの求婚を全て断るのもその為です、今までもこれからも、私は当主様だけをお慕いし続けて生きて行きます」
「だったら何故私の物になってくれない!?」
「きゃあ!?」
顔を上げたヘルムートは四つん這いのままリリエーヌに襲い掛かろうとする、リリエーヌは仰向けに腰を落としたまま後ろに這って逃れる。
「大好きだリリエーヌ、今度こそ私の物になれ!」
「いけません当主様、貴方は高貴な方なのです!」
大型犬のように猛然と這い寄るヘルムート、海老のように後ろに這いずって逃げるリリエーヌ、
「大反対していた父の喪も明けたもう我慢ならぬリリエーヌ!」
「いけませーん!!」
そしてヘルムートの腕がリリエーヌの胸元に延びた瞬間、数多の血迷った男達を一閃の元に沈めて来た、リリエーヌの巴投げが炸裂する。
ヘルムート・ヘルツェンバイン侯爵の体は高い放物線を描き、大きな吹き抜けのあるリビングを越え、隣の寝室の巨大なベッドの上へと飛んで行った。
―― ドガシャーン!!
「グスッ、その高貴な御身体を下賤な私の体で穢す事など、例え当主様が許されても私が許しません、今度こそさようなら当主様、どうか良い人を見つけて下さい」
大粒の涙をぽろぽろと零しながら、リリエーヌは鞄を拾い上げ、走り去る。