母に捨てられた私
私の名はエルミナ。この国エルゴット王国のオールドフォード伯爵家の長女ではあるけれど、七歳の時に母親が私をこの家に置いたまま家を出てからは、伯爵家の娘だと実感することはない。
あの時は母が家の中のどこにも見当たらくなって泣いてばかりいた。
メイドのウェラが慰めてくれたけれど、私が悪い子だから母が出て行ったと思った。
たぶんそのせいで、私は母がいたころの記憶を消したのだと思う。
不思議なもので母が私を抱きしめてくれた感触だけはなぜか消えないが、今はもうそれ以外はほとんど覚えていない。
その二年後に父親が再婚した。再婚相手はある男爵家の未亡人だという。
義母バーバラは、後添えを探していた我が家に彼女の娘と共にやって来た。父の知人の紹介だという。
父は私に直接言わなかったが使用人たちの話では、男爵家は亡くなった夫の弟が爵位を継ぐことになったので、彼女たちも一日も早く落ち着き場所を見つけたかったそうだ。
義母が連れてきたその娘ジェナは、年齢は私と同じで生まれは私より少し遅いという。華やかなオレンジ色の髪の可愛らしい子だったが、私が「よろしくね」と言ってもそっぽを向いて返事をしない。義母もそれを窘めない。幼い私には不可解な人たちだった。
「これでこの家も賑やかになるね。エルミナ、仲良くするんだよ」
父はそう私に言って、すぐ仕事に出かけた。
義母はこの家に来た当初は私を格別に可愛がることもないが、冷淡と言うこともなかった。
だが、彼らが来て二か月ほど経った頃から、ジェナは何が気に入らないのか、時々私を抓ったり噛んだりするようになった。
私は義母にジェナが私を傷つけようとするので何とかして欲しいと頼んだ。ところが彼女は私の話を耳を傾けることもなく私を非難し始めた。
「あなたが先に手を出したってジェナから聞いたわ」
「違います。ジェナがいつも私を抓ったり噛んだりするの」
「可愛いジェナがそんなことするはずないでしょう。ジェナの方が痛いって言ってるのだから、あなたが虐めたに決まっている。性格の悪い上に嘘つきなんてどうしようもないわね」
自分は何もしていないと言ったところで、義母はさらに私を追い詰めるに違いないと思って口を噤んだ。それがきっかで私は義母を信頼する気持ちを失った。義母もこの辺りから、私に酷い言葉を投げかけるようになった。
実は不思議なことに、ジェナに叩かれても噛まれても、それほど痛くはなかったのだ。その痛みがそのままジェナに行ったようで、いつもジェナの方が痛いと騒いでいた。
そして翌年、弟が生まれてからは私への風当たりがますます強くなってきた。
私が弟の傍に寄ると「触るな、近づくな」と、ひどく叱られる。
叱られるのが怖いと言ううより叱る義母の顔が怖かったので、私は弟に近寄ることが無くなった。だから残念ながら弟のことは何も知らない。
少し大きくなっても、弟の姿が見えると隠れた。弟は私が姉だと言う認識はなかったと思う。
義母は私の立場が弟に伯爵家を継がせるための障害だと感じていたのは分かっていた。
父親はほとんど家にいない。
国の建設事業の責任者をしていて仕事が大変らしい。あちらこちらの建設計画の進行状況の視察や確認のために国内を飛び回っている。
それにあまり大きくもないが領地もある。
領地は代理人がいるがやはり任せっぱなしにはできないと言っていた。
父は家庭内の現状は何も知らなかったのだと思う。
私の部屋の場所はそのままだったけれど、母親に捨てられた惨めな子にはこんな豪華な家具は必要ないと、お気に入りのチェストや椅子はすべて義母の部屋に移された。
衣装入れの中のめぼしいドレスやリボンも「さすがに伯爵家の物は違うわね。でもこれはあなたよりジェナの方が似合いそう」と取り上げられた。
メイドのウィラも「私のメイド」から外された。
だから、私は身の回りのことはすべて自分でしなくてはいけなかった。
最初は戸惑ったが、子供なので慣れるのも早かった。
私は母に捨てられた悪い子だから仕方がないのだと思っていた。
洗濯メイドにも無視されたから、水魔法を使えるようになるまで洗濯はとても大変だった。特に冬の寒い日は小さな身に堪えた。
ただ、不思議と義母は私が厨房の隅で食べる一日二回の食事には何も言わなかった。
父の目を気にしていたのは確かだ。
私が痩せ細るのはまずいと思っていたのかもしれない。
「あなたを捨てた母親のせいで私が苦労するの」
そう言われて服の上から叩かれることは何回かあったのだが、痛いのは私ではなく義母の方だった。
それで義母は私に「気持ち悪い。あんたは呪われているんだ」と言うようになった。
妹のジェナは、見かけによらず結構危ない性格をしていた。
階段ですれ違いざま押されたり、鋏を持って突然私の髪を切ろうとしたり、掃除中のバケツの水を蹴って私を転ばせようとしたこともある。
でもそんな時はいつも、風が吹いて私を支えてくれたり、ジェナが転んだりする。
だから、ジェナにも「エルミナは呪われている」とよく言われた。
彼女は私を『お義姉様』とは、めったに言わない。それを言うのは、すごく機嫌のよいときか悪い時のどちらかに限られる。あるいは父がいるとき。
私が呪われていると思われた結果、二人とも私に暴力を振るうことはなくなったのだが、言葉の暴力は止むことはなかった。
私を大事にしてくれた執事のフェイスは『年で物忘れがひどくなった』ことを理由に義母に追い出された。
そして若いフットマンを執事にした。彼も他の使用人たちも義母に逆らうことなく私をいない者として扱った。
使用人の中で唯一の味方は、古くからメイドをしているウィラと料理長のケビン。
後から我が家に来た庭師のマイロも優しい。時々庭に咲いている季節の花を束にして、私にそっとくれる。
だが彼らも表立っては私をかばうようなことはできない。彼らもそれをすれば私が更に冷遇されることを知っていたからだ。例えば掃除の範囲が増えるとか、シーツ類の洗濯をすべて私にやらせるとか。
父が久しぶりに家にいると、義母は「何も言うな」と鬼のような顔で私を睨む。
私も父に言ったところで、義母とジェナが家にいる限りは何も変わらないだろうと思っていたので、父に彼女たちのことを話すことはなかった。
父には何度か「幸せか?」と聞かれたことがあったが、返事はしなかった。
成長する私の洋服類に関しては最低限必要な物をウィラが持ってきてくれた。私の姪のお古ですがとは言うが新品同様だった。
私はいつもひざ下の長さで全体を覆う灰色のエプロンをしていたので洋服にうるさいジェナには気が付かれなかった。もちろん服はクローゼットには入れない。ベッドの下に隠していた。
父が家にいるときだけは、ジェナのたくさんの洋服の中から一つを私に持ってきて、「そのエプロンを外してこれを着ていなさい」と言うので、やはり義母は私を虐めていると父に知られたくないのだと確信した。