50 異鬼と聖騎士
血眼が来る。襲い来る。生命を憎むようにして。
灰騎がぶつかっていく。闘争を悦ぶようにして。
不死と不死が死闘を繰り広げる狂おしき戦景……吹きつけてくる死を呼吸するような戦場にあって、人間にできることは何か。
「恐れるな! 隊伍を密に! 我らの在ることを地に刻みつけよ!」
アレンヌの指示は雄叫びと咆哮により応答された。
「聞こえたな野郎ども! 隙間開けんな! 俺たちゃ壁だ! 城だ! 崩れちゃならねえんだ!」
ウラタの声は良く通る。最も危険な位置から歩兵たちを叱咤する。
士気は高い。熱気を発するほどに。
布陣は四方八方隙もなく、槍を構えることの十重二十重。アレンヌ直率の百騎を中心にして歩兵三千五百卒は固く方陣を敷き、騎兵四百騎は二隊に分かれ歩兵と連携する構えだ。
血眼の数はおよそ五百騎。
すでにして散り散りに乱れ、灰騎の狩るところのものとなっているが。
それでも来る。暗黒の瞳孔に血涙を滾らせて、身も世も砕けよとばかりに突進してくるのだ。
「突き立てよ! これは我らの戦である!」
命じつつアレンヌは視る。帝都での安寧を経た目に、血眼は今、奇妙な新鮮さで映る。
暴力の化身のような化物であり、他の生物には目もくれず人間のみを狙う。獲物を苦しめることを愉しむ加害者でありながら、抵抗され敗れる際には被害者じみた怨嗟と狂乱を示す。個体差は武器の違いくらいしかない。兵法は力任せで、ひたすらに乱暴であるばかり。
つまるところが、害獣だ。見分けがつかず、数えるより他に表しようのない災いそのもの。だからか人間の区別がついている様子もない。嵐が人を選ばないようにして。
異鬼は、違う。
血眼の群れの中に稀に交じる紅の眼光。狂奔に染まらぬ断固とした殺意。灰騎同様に個々別々の武装であり、用いる兵法も高度にして多様。
異質にして強力なそれらは、アレンヌから見ても区別がつく……こちらを見分けてもくる。
そら、目が合った。
槍を携えた異鬼。乱戦を避け、血眼の群れの陰に潜むようにして接近してくる。その狡猾さ。明らかにアレンヌを狙っている。なぜか。人間の軍の中央にあり、馬上から指揮を執る者の価値をわかっているのだ。
灰騎は気づいていない。いや、気づかぬよう血眼をけしかけられているのか。
「各々方、我が剣の向く先を注意せよ」
百騎へと呼びかける。あれは来る。冷ややかな殺気がアレンヌを刺し貫いている。
異鬼。見れば見るほどに血眼とは違う。動きは灰騎と似る。しかし印象が異なる。暗く、刺々しく、頑なで、呪わしい。灰騎の戦いにはどこか競技のような清々しさや晴れがましさがあるというのに。
―――何者なのだ、貴様は。
心に問いかけて、アレンヌは自分が異鬼を人として見ているのだと気づいた。
気づけばなおよく見える。紅の目にはああも意思と計算高さが見て取れる。さりとてアレンヌを人として見ていない。まるで虫けらを見るかのような……あるいは弓の的の高得点部を見定めるかのような、その酷薄な視線。
―――どこから来た。何を望む。いかなる故あってのことなのだ。
血眼数騎が突進してきた。槍衾へとぶつかった。兵列がきしむ。男たちが吠える。狂おしい勢いへと抗う。己が命を不死に晒すおぞましさを、咆哮で打ち払わんとして。
何か、おぞましいものが宙へ跳んだ。
異鬼だ。槍に刺し貫かれた馬を捨て、鞍を蹴っての跳躍だ。
―――そうまでして。
誰かを踏んだ。殴り、蹴り、怪力の槍で薙ぎ払った。いよいよ物騒に光る紅の眼光。アレンヌへと駆け来る。その足元が黒く煙った。煙は黒馬となった。にわかに生じた騎馬の疾駆。歩兵を蹴散らして、点のごとく狙いすまされたあの穂先。
騎兵が立ち塞がった。頼もしい背という背。相討ちを望むような、前のめりの気構え。
しかし、人間の懸命さを歯牙にもかけないからこそ、不死は恐ろしいのだ。
―――私を殺したいか。
跳躍、再びの。
月光を遮る黒影を見上げ、アレンヌは鞍上へ立ち上がっていた。来るとわかっていた。自分を見下ろす紅色の硬質から目を逸らさない。
アレンヌは歯を剥いた。
―――来い。目にもの見せてやる。
渾身の刺突。
衝撃。熱。天地定かならぬ混乱。
地べただ。うつ伏せている。脳裏に閃光が連続する。吐いた。血なのか泥なのか。真っ赤に歪んだ視界の先に、赤よりも赤い紅が一つきり輝いている。アレンヌは笑んだ。異鬼が、アレンヌの剣を目から引き抜いている。その忌々しげな所作。
―――見たか。しかも、私は生きているぞ。
立ち上がれない。だが右手は動いた。腰をまさぐり短剣を探す。あった。あったが、身体が邪魔で抜けない。寝返りどころか身をよじることもできない。諦めず手指を動かす。
妙なことに異鬼が構えない。変にくつろいだような姿勢で辺りをうかがうそぶりだ。
騎兵が、歩兵が、灰騎が、一斉に来援したようだ。
散々に斬られ刺される異鬼の様子を見届けて、アレンヌはまた笑んだ。小さく吐息し、直後に後悔した。力が抜けていく。意識が赤黒い闇へと沈んでいく。
―――死ねない。まだ。
食いしばる歯の所在もあやふやだから、想いを言葉にし、繰り返した。死ねない。ポイを奪還するまで死ねるわけがない。それでも心身が冷えていく。不可逆的な終わりが差し迫る。
嫌だと、まだ駄目だと、焦る。どうしてこんなところでと、嘆く。
泣き方も叫び方もわからない暗黒の中で、アレンヌは足掻きに足掻く。そんな見苦しい自分を冷静に見つめる自分もいて、身体がどれほどに痛めつけられたかをつぶさに把握もした。
左肘が逆方向へ曲がっている。左鎖骨と肋骨数本が折れている。左半身から落下したものか。
右の眼球が、ない。
槍先に引っかかり、右耳の上半分と一緒に抉り取られたらしい。
骨のひび割れや捻挫、切り傷、打ち身などは数えきれないほどだ。内臓も痛めている。呼吸に血臭が濃い。鼓動が激しさを失うばかりか、動きそのものを止めようとしつつある。
―――神よ。どうか。
闇夜だ。あったはずの月もない。
アレンヌは独りである。
低く重苦しく、音が響いている。砂嵐だろうか。それとも瀑布か。絶え間なきその音には不快で不穏で不吉な気配があって……あるいは悪臭すらも漂ってくる気さえした。
遠ざかるようにして彷徨うも、ひどく寒くて寄る辺もない。心細さに身をかき抱いた。
もっとずっと先に、焚き火。
人影もある。たくさんの戦士たちがそこに集い、火にあたっているようだ。どの一人にも見覚えがあった。童顔の兵士が笑っている。優男が笛を構えている。古馴染みが腕を組んでいる。二児の父が薪を足している。他にも。他にも。
そっと、アレンヌに寄り添った誰かがいた。
やわらかな手のひらに撫でられて、アレンヌは自分の頭がどこにあるかを思い出した。やさしく、やさしく、手はアレンヌを撫でていく。アレンヌの輪郭が明らかになっていく。
「神は在らせたもう。炎こそ証。我らは絶えず、慈愛を賜り続け来たり」
女性の声だ。どこかで聞いたことのある声だ。
「……生きてください。私たちは寿がれているのですから」
誰かの名を呼び、手を伸ばして。
呼んだ名を忘れ、手に押されて。
アレンヌは朝日の下へと生還を果たした。胸に神秘の火熱を印しづけられて。




