エルフ、新しい名前をもらう その1
「すでに近代文学まで消滅していル」
そういって、カレヴァは壁を見上げた。
薄暗いフローリングの廊下を、俺たちは歩いていた。
両側の壁には天井まである作り付けの棚が並んでいる。棚の中は空っぽだ。古い紙の匂いが、最近までこの棚に本が置かれていたことを物語っている。ここには、たくさんの本が収められていたのだろう。
「おそらく、明日にはほぼすべての小説が消滅するはズ――」そこでふと足を止めて、カレヴァは俺たちを振り返った。「どうしタ」
俺たちはまだカレヴァを警戒して、数メートルの距離をとっていた。
「あの」メサが恐る恐る切り出す。「どうして兄さんがここに?」
「さっきもいっただロ」カレヴァは相変わらず無表情だ。「ボクはこちらの世界のあらゆる可能性を観測する必要があるんダ」
「でも……」
「アイティからもいってやってくださイ」カレヴァは肩をすくめた。
「鐘が鳴ってしまったから――計画が実行に移されてしまったから、もうカレヴァは私たちに危害を加えることはしないわ」アイノさんがメサの肩に手を乗せる。「あとは、この世界が滅びるのを見守るだけ。そうよね、カレヴァ」
カレヴァはうなずいた。
「俺とメサが飛ばされた仮想空間では、本が残っていた」俺は空っぽの棚を見上げた。「でも、今回は本が――いや、それだけじゃなくて、音楽や絵画も消えてしまっている。なぜなんだ」
「あれはあくまでも仮定の場合だったからネ。今回は完全にこの世界とのリンクを切ってしまわなければならなイ。そのために、こちらの人間の想像力を喚起させるようなものはすべて消滅させル。向こうの世界ではそう判断したんダ」
「でも、負の感情はどうするんだ」俺はいった。そもそもの発端は向こうの世界で生じた負の感情の受け皿としてこの世界が生み出されたことにある。「もしかして、もう別の世界を創りだしてしまったのか」
以前、カレヴァがいっていた。この世界を壊して、またいちからやり直したっていいのだと。
「既にほぼ出来上がっていル。あとはこの世界とのリンクを切って、新たな世界と新たなリンクを構築すればいいだけダ」
「そんな……」ほたるがつぶやいた。
カレヴァは続けた。「この世界の揺らぎはあまりにも大きすぎル。今はたまたま安定しているが、いつまた人々の想像力がなくなってしまう事態に陥るとも限らなイ。だから、この世界を捨てて新たな受け皿を構築することにしたんダ」
「こんなことをお前に尋ねても仕方ないのはわかっているけど、カレヴァ、これをなんとか回避する方法はないのか」
俺はダメもとでいってみた。でも、カレヴァから返ってきた答えは意外なものだった。
「なくはなイ」
「え……」
「兄さん、それって……」
俺とメサが思わず口走った。
「それほど驚くことではないだろう、メサ。お前も知っているように、未来は常に揺れ動いているんダ。この状況を覆す未来も存在すル。実現する可能性は限りなくゼロに近いけどネ」
「でも、私たちはそれに賭けるしかないの」アイノさんがカレヴァの方へ歩み寄って、俺たちを振り返った。「とにかく今は時間がない。急ぎましょう」
廊下の突き当りには、両開きの大きな鉄の扉が俺たちを待ち構えていた。
扉の両側には、黒いスーツ姿のアジア系の若い女性がふたり立っている。双子だろうか、そっくり同じ顔だ。ひとりがそっと手を挙げて俺たちを立ち止まらせ、もうひとりが携帯電話で通話を始めた。
「今到着しました。……はい。そのように伝えます」
携帯電話の女性が通話を切って、俺たちにいった。
「CIOは手が離せないそうなので、先に進めてくださいとのことです」
俺には何のことかわからなかったけど、どうやらアイノさんとカレヴァには通じているみたいだ。アイノさんはうなずいて、扉の方へ足を踏み出した。
ふたりの女性が扉に手をかけて両側にスライドさせた。とてつもなく重そうな、ゴロゴロという音を立てて扉が開いていく。ふたりは顔色ひとつかえず、完全に扉を開けきると、部屋の内側にあるスイッチを操作した。
真っ暗だった室内に、カカカカカ、と手前から奥にかけて、照明が灯っていく。
そこは、巨大な書庫だった。
天井はかなり高く、まるで海外の大規模量販店や物流倉庫のようだ。棚にぎっしりと本が詰まっている。
「どうぞ、お入りください」
女性のひとりが手を差し伸べる。よく見ると、彼女たちのひとりは青いネクタイ、もうひとりは赤いネクタイをしている。
俺たちはその書庫に足を踏み入れた。
見た限りでは文庫本が多い。その色とりどりの背を見るまでもなく、そこに収められている本が何なのか、すぐにわかった。
ライトノベルだ。
広大な書庫にライトノベルがずらりと収納されている。見たところ、ありとあらゆる出版社、レーベル、作家のものが網羅されているようだ。俺もほたるもメサも、その圧倒的な量に呆然と立ち尽くしていた。
「ここには、これまで出版されたライトノベルの全てが保管されています」
俺の隣に立ったスーツ姿の女性のひとりがいった。青いネクタイのほう――名前を聞ける雰囲気ではないので便宜上ブルーと呼んでおく――だ。
「正確にいうと、一九八〇年代後半から現時点までのもの、約四万冊あります」ブルーが続けた。「自費出版を除く、すべてのライトノベルです。もちろん、シリーズ作品は全巻揃っています。ライトノベルの定義はあいまいで、説明し出すと長くなるので割愛しますが、初期のヤングアダルトやティーン向け小説も含んでいます。一方で、最近のライト文芸と呼ばれるものもすべて収められています」
「すごいです……」メサがつぶやいた。
赤いネクタイのほう――レッドが棚に取り付けてある梯子を移動させて、上の方の棚にある数冊を抜き取っている。
「この書庫の収容冊数は約五百万冊です」ブルーがいった。「まだ空いている棚が多いのですが、残念ながらそれが埋まることはもうなくなってしまいました」
「こいつらは――」俺はカレヴァにいった。「ライトノベルはまだ消えないのか」
「ここにある本、ライトノベルが消滅するのは最後の最後だヨ。ライトノベルが人々の想像力を奪うムーブメントのきっかけになるはずだったんだかラ」
そうだった。もともとは、俺がライトノベルを書くのを止めるために、メサが現れたんだ。
「そんなものが残っていたところで、大勢に影響はないという意見もあったみたいだけど、万が一ということが――ボクたちの世界ではそれが当たり前なんだけど――あるからネ。でも、アイティたちはその万が一に賭けるみたいだけド」
リーリンさんたちが何をやろうとしているのか、俺にもわかりかけてきた。
「時間がありません」ブルーが壁際に置かれていた一人掛けのソファを片手で軽々と持ち上げて、メサの前に置いた。「どうぞ」
メサとアイノさんが視線を交わす。アイノさんがうなずくと、メサはソファに腰を下ろした。
数冊の本を抱えたレッドが梯子から降り立ち、メサに本を手渡す。
メサは表紙をめくると猛烈な勢いで読みはじめた。いや、これは読むというよりも、ただページをめくっているだけといっていい。ほんの一瞬、ページに目を向けると、すぐさま次のページへ。そうやってどんどんページがめくられていく。メサを図書館に連れて行ったときに、初めて目にした能力だった。そしてもうひとつの能力。ダイニングキッチンのテーブルに積まれた料理本が脳裏に浮かぶ。
「京ちゃん、どういうこと?」
ほたるが俺に尋ねた。そうか。ほたるは知らなかったんだ。
「メサが本を読むスピードは恐ろしく速い。そして、読んだ内容はすべて憶えているんだ」
「憶えてる?」
「本に書かれている文章をまるまる、一字一句すべて記憶しているんだよ」
「じゃあ……」
俺はアイノさんにいった。「ここにある本、まだ消えずに残っているこの膨大なライトノベルをメサに記憶させるんですね」
アイノさんがうなずく。「本がすべて消えてしまっても、メサの記憶は消えません。だから、メサの記憶がこの世界で唯一の本に――人々の想像力を喚起させる創造物になるんです」
ぱたん、と本を閉じる音がした。メサがすでに一冊読み終えてしまったのだ。
メサはレッドに手を差し出した。
「次、ください」




