エルフ、帰還する その1
「日本の夏って、ほんと、暑いわねぇ」
と、俺の前のテーブルに麦茶の入ったグラスを置いて、アイノさんがいった。
「こっちに来てから二回目だけど、なかなか慣れないわ」
俺の隣に座るアイノさんに、向かいの席のリエンがうなずく。
「私もびっくりしました。ホーチミン市より確実に暑いですよ」
「あら。そうなの」
「ベトナムって確か四季があるんだよな」とダオ。
「北部はね。雪が降る地域もあるわよ」
「雪かぁ。いいなぁ」フィフィがいった。「私の周りでは最近、北海道とか東北が人気なんだよね」
「俺んとこもだ」と、ダオ。「CMでよくやってる」
「あら。雪なんて、私の国にはいっぱいあるわよ」
そういって笑うアイノさんにリエンはうなずいた。
「確かに」
「遊びに来てくれたら案内するわ」
「行ってみたいけど、フィンランドは遠すぎるよ」
腕を組むフィフィに、アイノさんがカウンターの方に向かっていった。
「じゃあ、今回の件が落ち着いたらリーリン主催でツアーを組んでもらいましょう。もちろん費用は白龍グループ持ちで。どう?」
「会社のお金を勝手に使うわけにはいきません」カウンター席のリーリンがテーブル席の俺たちの方を向いていった。「でも、まあ、考えておきます。そのときはセンセイもぜひ」
リーリンの隣に座っている平沢教授が肩をすくめる。
「授業が休みの時に頼むよ」
「みんな行き渡ったんじゃない?」
カウンターの向こうに立っているヨシカさんが、アイノさんにいった。
アイノさんが、持っていたビールのグラスを掲げる。
「それじゃあ、改めまして。右京さんとメサの帰還を祝して――かんぱーい!」
みんなの「かんぱーい」の声を、俺はなんだか他人事のように呆然と聞いていた。
斜め向かいの席に座っているメサも、ぼーっとした顔でグラスを見つめている。
「右京さん、ほんとにビールじゃなくていいの?」アイノさんが、俺の顔を覗き込んだ。
「あ、はい」俺は慌ててうなずいた。「なんかちょっとそういう気分じゃなくて」
「ウキョウさん」俺の真向いに座っているリエンが、日本語でいった。
「はい」
「ウキョウさんはもう小説は書かないんですか」
「あー。どうかな」俺は言葉を探す。
隣の席のほたるがじっと俺を見ている。
「書くとしても、たぶんもう、これまでみたいなラノベは書かないと思います」
なんとなくほたると視線を合わせづらくて、俺は斜め向かいのメサを見た。
メサは神妙な顔つきで、両手に持ったグラスの中のジュースをストローでちゅうちゅうと飲んでいる。
「大丈夫? 京ちゃん」
心配そうなほたるに、俺はうなずいた。
ヨシカさんがテーブルに料理を運んできた。
「フィフィさん、これ全部ハラルだから、安心して食べていいわよ」
「オー。ありがとうございます、ヨシカさん」
フィフィがヨシカさんにお辞儀をしている。
「ところでさ、ずっと気になってたんだけど」ダオが右京に尋ねる。「メサちゃんって、フィンランド出身なんだよね。確かフィンランド神話の『カレワラ』にはエルフって出てこなかったと思うんだけど。エルフが出てくるのは北欧神話の方で」
「ああ。それは……」俺が口を開くより前にアイノさんが答えた。「メサは右京さんが書いた小説の中に出てくる登場人物の姿かたちを借りているからなんです」
「大昔、俺が子供の頃に書いた小説だったからさ。そのあたりは適当だったんだ」
「なるほど。でも、うらやましいよ。だって、自分の書いた小説の登場人物が実体化してるんだから」
ダオの言葉に、フィフィが大きくうなずく。
「ああ。それって、私たちみたいな人間にとっては、夢みたいなことだよね」
二人の言葉に、メサは「えへへへ」と、照れ臭そうに笑みを浮かべた。
誰かのスマートフォンの着信音が鳴って、リーリンが電話に出た。
中国語で二言三言話をすると、リーリンは通話を切り、俺たちにいった。
「最後のひとり、田井中さんが発見されました」
ヨシカさんの店の中は安堵のため息で満たされた。
「たぶん、センセイにも連絡が来ると……」リーリンの言葉の途中で、平沢教授がスマートフォンを取り出して、耳に当てた。
平沢教授はしばらく電話で話した後、通話を切って、俺たちに報告した。
教授の知り合いの作家で行方不明者の最後のひとり、田井中さんからで、無事に家に戻ったようだ。これで『トゥオネラ』によって、連れ去られた作家たちはすべてこちらの世界に戻ってきたことになる。店の中の雰囲気は一気に明るくなった。
「とりあえず、危機は去った……ということでいいのかな、リーリンさん」ダオがカウンターの方を振り返っていった。
「私の一族では今のところ特に危険を検知していません。もっとも、未来は常に揺れ動いていますから、絶対ということはありませんけど。アイノさんはどうですか」
「そうねぇ」アイノさんは唇に人差し指を当てて、天井を見上げた。「私も感じないわ。メサはどう?」
「私は……」メサは視線を泳がせた。俺と目が合うと、俺に話しかけるようにいった。「兄さんの気配はずっと近くに感じています。でも、危険な感じはしません」
メサの言葉はみんなを安心させた。みんな口々に、お互いの労をねぎらい始めた。
「ちなみに」と、俺はダオたちにいった。「君たちのほうは、どうなんだ。これからもライトノベルを書いていくつもりなのか」
ダオたちは顔を見合わせた。フィフィが口を開いた。
「私はこれからもライトノベルを書いていくつもりよ」フィフィは手のひらを俺の方に向けた。「もちろん、ウキョウが話してくれたことは、ちゃんと覚えてるわよ。カレヴァの仮想空間で体験したこと、それが実際に起こる可能性があることも理解してる。でも、こうやって作家たちも戻ってきた。未来はたぶん良い方向に変化したんじゃないかな」
「俺もそう思うよ」ダオがいった。「戻ってきた作家たちは、姿を消していた間に何があったか口を閉ざしているみたいだけど、俺はウキョウが体験したのと同じような体験をしているんじゃないかと踏んでる。そして、彼らはもうライトノベルを書かないんじゃないかと思うんだ。事実は変わっていく。未来も変わっていく。だからカレヴァは作家たちを解放したんじゃないか。たぶん俺たちがライトノベルを書いたって、大勢に影響しないよ」
「私は……」リエンがいいよどんだ。「私、以前は悩んでました。自分が本当に書きたいのは何だろう。私は本当にライトノベルが書きたいんだろうかって。でも、今は私もライトノベルを書きたいです。もしかしたらいつか違うものを書くかもしれませんけど、今の私が書きたいのはやっぱりこれなんだって、思いました。それに、これが自分の本を出す一番の近道ですから」
「確かに、消えた人たちも戻ってきて、危機は去ったのかもしれない」俺は膝の上で組んだ自分の両手に視線を落としたままいった。「それに、みんなの気持ちもわかる。日本人の書いたものじゃなくて、自分たちの書いたライトノベルが自分たちの国の本屋に並ぶ。それを望むのは正しいことだ。でも」
俺は顔を上げて、メサを見た。メサもじっと俺を見ている。
「前にもいったけど、俺がカレヴァの仮想空間で体験したこと、ああいう状態になってしまう可能性は、俺はまだ消えていないと思っている」俺はダオたちに語りかけた。「仮想空間のあの光景は、忘れたくても忘れられない。あんなことは決して起こってはならない。でも、本当に恐ろしいのは、俺は自分の心の奥底で、もう一度あの光景を見たいと願っているんじゃないかと、そんか気がすることなんだ。本当にあんなことが起こってしまう、それを実際に証明するために。俺のこの危機感が正しかったと、みんなに証明するために。あの狂った世界が本当に到来したら、それがみんなに証明できる。だから……」
そこで俺は言葉を切った。俺の肩に、ほたるの手がそっと置かれたからだ。メサも心配そうにこちらをじっと見ている。
「ウキョウさん」リエンが口を開いた。「ライトノベルがそんなに悪いんでしょうか。ライトノベルがたくさんの人に読まれることが、本当に人々の想像力を奪ってしまうんでしょうか」
俺はリエンに向き直った。「――朝日を浴びた妹の横顔は、どこか切なげで物悲しく、ただ座っているだけなのに俺の心を激しく揺さぶった」
「それって、もしかして」リエンがいった。「ウキョウさんの『異世界転生しても俺は妹から逃げられない』のなかの一文ですか」
「そうだ」俺はうなずいた。「ここは最初、もっと抽象的な表現だった。でも、もっとわかりやすくしろと編集にいわれた。ここだけじゃない。婉曲的な表現は極力なくして、とにかくわかりやすく、描写を細かく、説明的に、そうやって無数の箇所を直した。数え切れないくらいだ。それだけじゃない。最初の十ページまでに妹の着替えのシーンを入れること、最初の十ページまでに妹が恥ずかしがるシーンを入れること、最初の十ページまでにエロい会話を入れること、五人以上の女の子から主人公が好かれるようにすること。そうやって修正がどんどん入っていった。そんなシロモノが、読み手の想像力を豊かにすることができると、あんたたちは本当に思えるかい?」
リエンたちは顔を見合わせた。フィフィがいった。
「私もあんたのその小説は読んだ。でも、あの小説は、今あんたがいったような部分だけじゃない。あの小説の肝は、あの小説の面白さは、もっと別のところにある。くだらない周囲の意見に惑わされることなく自分の感覚を信じろ。それがあの小説のポイントだ。私はそう読んだ。そうじゃないのか」
「ありがとう、フィフィ」俺は素直に認めた。「そういってもらるなんて、作者冥利につきるってもんだ。あんたのいう通りだよ。でも、読者が求めているのはそっちじゃないんだ。だからそういう修正の要求が入るんだ。俺がさっき挙げた文章は、俺にいわせれば『小説』じゃない。『説明』だよ。『解説』だよ。心を使うことなく、頭を使うことなく、感覚を使うことなく――まあ実際に俺たちの想像力は『トゥオネラ』にあるんだが――とにかく安易に手軽に何も考えずに、懇切丁寧に与えられる情報に過ぎない。そして、そういう書物は確実に人々の想像力を奪っていくし、ゆくゆくはメサたちが予測したような世界につながっていく流れを作る元凶になるんだ」
「なら、あんたはどうするんだ」ダオがいった。
「わからない」俺は首を振った。「わからないけど、もしも君たちがライトノベルを書き続けるというのなら、俺はそれを阻止する。この世界からライトノベルを駆逐することができるのなら、その方法を探す」
「おい、何バカなこといってるんだ」フィフィがいった。
「あんたにそんなことをする資格はない」ダオも強い口調でいった。
「資格があるとかないとか、そんな問題じゃないんだ」俺は思わず大声を上げた。
ほたるが俺の肩に置いた手に力を込めていった。「京ちゃん」
俺はほたるの手を振り払った。「誰かがやらなくちゃいけないんだよ。誰かがそれをやらなきゃ――」
俺の言葉はそこで途切れた。
なぜなら、店の中に突然、歪んだギターの不協和音が大音量で鳴り響いたからだ。




