エルフ、たたかう その2
「――綾音先輩のあまりの剣幕に、俺はたじたじになった。
『ちょっ、先輩。なんでこんなところに』――」
ほたるは適当な箇所を抜き出しながら俺の小説を読み続けた。
「――俺は思わず首肯した。先輩の顔が間近に迫る。微かなシャンプーの匂いが俺の鼻腔をくすぐった。胸元から白い肌が覗く。俺は……」ほたるが言葉を詰まらせた。
「俺は……」とまた読みかけて、でも、ほたるは沈黙した。
そして、スマートフォンを持つ手をだらりと降ろした。
「私は悔しいよ、京ちゃん」ほたるは、うつむいて、自分のつま先をじっと見つめていた。「すっごく、すっごく、悔しいんだよ」
「お前だって、ラノベ読んでるじゃないか」
「読んでるよ。でも、こんなの別に、京ちゃんが書かなくてもいいじゃない」
うつむいたまま、肩をいからせて、ほたるは大きく息を吸い込んだ。
顔を上げて、俺を見返したほたるの左目から、涙が一筋流れ落ちた。
「どうして? どうして京ちゃんが、こんなもの書かなきゃならいないの」
「俺が書きたいからだ」
「嘘よ!」
「嘘じゃない。書きたくないものなんて普通は書けない。書きたくないものを書くのがどれだけ苦しくて、みじめで、恥ずかしくて、大変なことか、お前はわかっていない」
ほたるは視線を逸らした。
「開けて」
ほたるの視線の先には、開かずの間があった。
俺は答えなかった。
ほたるは、開かずの間の前に歩み寄った。
「ここを開けて!」
ダン! とほたるが開かずの間のドアを叩いた。
「開けてよ! まだあるんでしょ。まだちゃんと残してあるんでしょ。どうして捨てないのよ。どうして大事に取ってあるのよ。京ちゃんにはもう必要ないはずでしょ!」
「そうだ。もう今の俺には必要がないものだ。ただ捨ててないだけで、俺にとってはもうなくなってしまったも同然のものばかりだ」
ほたるはスカートのポケットに手を突っ込んで、キーホルダーを取り出した。
そこから鍵をひとつ選び出し、開かずの間のカギ穴に差し込んで、ドアを開けた。
「お前、いつの間に」
「私、この家の鍵、持ってるんだよ」
俺に背を向けて入り口に立っているほたるの向こうにある開かずの間の中を、俺は覗き見た。
数年ぶりに見たその部屋の中は、当然だけど、昔のままだった。
俺の母親が残した、たくさんの蔵書が置かれた部屋。
俺とほたるに、俺の母親がいろんな本を読み聞かせてくれた部屋。
ほたるが大きく息を吸い込んだ。
「変わってない。この匂い。古い本の匂い」ほたるはいった。
所狭しと積まれた本に囲まれた部屋の入り口に、ほたるは左手を添えた。
俺に背を向けて、彼女の唇から言葉が零れ落ちた。
「君はもう習ったかな。
食塩水の塩分濃度の求め方――」
「ほたる……」
「黙ってて!」
俺は口を閉ざし、彼女は再び言葉を放つ。その部屋の中へ。
「君はもう習ったかな。
食塩水の塩分濃度の求め方。
1リットルの水に10グラムの食塩を溶かしたら、塩分濃度は0.99%。
10割る1,010で、0.990099009900……。
永遠に繰り返されるパーセンテージ。
君は知ってるかな。
海水の塩分濃度。
それは、約3%。
君は憶えているかな。
みんなで海に行った日のこと。
あのとき、初めて舐めた海の水。
塩分濃度3%の海の味。
こんなの飲めないやって笑った海の味。
君は知っているかな。
涙の塩分濃度。
それは、0.9%。
ほたる。
海の水に比べたら、涙はそれほどしょっぱくないんだよ。
海の水は飲めないけど、涙なら大丈夫。
だからほたる。
これから君が流す涙は、僕が全部飲み干してやる」
部屋の入り口を掴んでいたほたるの左手に、ぎゅっと力が込められた。
「お母さんが死んで、泣いてばかりだった私に、京ちゃんが書いてくれた詩だよ。
私は、何度も、読んだよ。
私は、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、数えきれないくらい読んで、もう覚えてしまったんだよ」
ほたるは振り返った。
ほたるの顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。
「この詩は私のここにある」
ほたるは自分の右胸をどんどんと叩いた。
ほたるが自分の胸を叩くたび、俺の胸は痛んだ。本当に痛かった。
「だからね、京ちゃん。この詩はなくならないよ。私が生きている限り、この詩はなくならないんだよ」
ほたるは胸に当てていた手をぎゅっと握りしめた。
「だから、もしこの部屋にあるものを捨てても、京ちゃんの中からはなくならないよ。きっと、ずっとなくならないよ」
ほたるは大きく息を吸い込んで、そして吐き出した。
「私はね、京ちゃん。私が本当に悲しいのはね。京ちゃんが私に本当のことをいってくれないからなんだよ。京ちゃんが私に、何もいってくれないからなんだよ。悲しいとか、悔しいとか、苦しいとか。京ちゃん、そういうの、何もいってくれなくなっちゃったからなんだよ」
ほたるは、ぺたん、と床の上に座り込んた。
ほたるは床の上を見つめたまま、声を出さず、涙だけをぽろぽろと流し続けた。




