泡沫の夢、恋、花火。
夏は嫌いだ。
あの頃を思い出してしまうから、嫌いだ。
俺は白鳥夏斗。
夏に生まれたからという理由で名前に夏を付けられた、冬好きの男だ。
夏は嫌いだ。
暑いし、汗かくし、雨は降るし、いい思い出なんてこれっぽっちもない。
夏は、嫌いだ。
あの頃の夢を見てしまうから、夏は――嫌いだ。
「白鳥くん。次で決めないと、ノルマ間に合わないよ? しっかりしてね、若いんだから」
「はい、すみません」
派遣で営業の仕事をしている俺は、今年で28歳になる。
卒業してから随分と経つが、心は未だに高校生気分だ。
そんなものなんだ、男なんて。
高校卒業後、なんとなく大学に進学し、なんとなく合わなかったので退学した。
もちろん新卒枠なんて用意して貰えず、何のスキルも資格もない俺は非正規の仕事を転々としていた。
心が燃えるような熱いイベントなどそれこそ高校時代が最後で、毎日死んだようにスーツに袖を通している。
どうも社内でも実家でも肩身の狭い俺は、駅近のワンルームで一人暮らしをするようになって早数年。
毎日生きることの繰り返しに、感情が揺さぶられることは無い。
「お疲れ様でしたー」
俺のスマイルに返事があることなんてほとんどない。
今日も孤独を抱えたまま一人寂しく、家路に着くのだ。
「――だけどよー。俺だってもうブチ切れよ。そこで言ってやったわけ、お前みたいなマウンテンゴリラじゃときめかねーよって」
「はは、そりゃ笑えるな」
「だろ?」
唯一俺が人間活動しているな、って瞬間。
それは、高校の同級生からたまにかかってくる通話をしている時だ。パソコンのアプリで、俺たちは連絡を取っている。
この阿久津は、何かある度に俺につまらない話を聞かせてくるのだ。
だけど、それくらいがいい。
こういう人との触れ合いがあるってだけで、ありがたいもんなんだ。
阿久津はプログラマーをしていて、俺と同じで派遣社員だ。
だからこそ気兼ねなく話せるし、同じ目線に立てる。
安心感があるのだ、こいつは。
「あっ、そういえばさ。渡辺覚えてる? あいつ結婚するらしいぜ」
「……そうなんだ」
興味無い。
昔の友人なんて、もうこいつしかいないのだ。
俺にとって高校時代はなんでもない時間だったが、今になって思えば一番キラキラしていた時間でもあった。
俺にはもう一生涯、あのキラキラを超える瞬間はないだろう。
過去を振り返ったって、悲しいだけだ。
キラキラしていたと同時に、後悔や未練もある。
もう、思い出したくない。だって、どうすることもできないから――なんて思っても、毎日のように思い出してしまう。
「ま、いい奥さん捕まえたよなー。バリバリのキャリアウーマンで、時期課長だって言うんだもんな」
「……へぇ」
「そんなことよりさ、ゲームでもしようぜー」
「そうだな。なにする?」
阿久津は、これだから安心する。
こいつにとって、友人のゴシップなんて話題は軽いのだ。ほっとけばすぐに次の話題に移るし、引きずることもない。
俺が少しばかり後ろめたさを耐えれば、その後は楽しい時間がまた待っているのだ。
「――あれ。なんかメールがきた」
「誰から?」
突然俺のスマホが震え、通知のランプが光る。
緑色に点滅するこの合図は、誰かからのメールが来たことを意味する。
こんな通知、阿久津以外ではしばらく来ていない。
親からの連絡か、はたまたスパムか。
あるいは、昔の友人からマルチの勧誘がきてたりして――。
そんなことを思いながら軽い気持ちでスマホを開くと、そこに浮かんでいた名前を見て時が止まった。
「――七海、琴葉」
「七海? って高2の時の?」
七海琴葉。
俺の過去の象徴のような人物で、海馬に深く刻み込まれている存在。
早い話が、好きだった女の子だ。
高2で同じクラスになって出会い、恋に落ち、何事もなく卒業した。
何事かありそうな雰囲気はあったが、俺が腰抜けだったせいで見事何事もなかった。
以来、高校時代の後悔として俺の心にこびり付いて離れないのだ。
「懐かしいなぁ。夏斗が盛大にコケて額から血が出た時、5重に絆創膏貼ってくれてたよな」
「頭の怪我は危ない、馬鹿になっちゃうとか言ってな……えっと、『お久しぶりです。今度、一緒に食事に行きませんか? お返事待ってます』……だって」
「おっ、もしかしてお前……あるんじゃね?」
「……いや、ないだろ。ないない」
なんて平静を保っているが、内心は動揺でいっぱいだ。
この期に及んで、俺にこんなイベントがあるとは。
こんな誘いはもう二度とないかもしれない。
行くべきだろう。というか、断る理由がない。
強いて言うなら、俺の現状を知られるのが恥ずかしいというくらいだが……失うプライドなんて、既にありはしない。
行かない、という選択肢はないのだろう。
普通なら。
「……行きたく、ねぇなあ」
「なんで? お前彼女いないだろ?」
「そうだけど……って、別にそういうんじゃないだろ、さすがに」
「そうか? ワンチャンあると思うけどなぁ」
俺の高校時代は後悔だらけだった。
だけどそれでも、綺麗な思い出として胸にしまっている程度には思い入れがある。
そんな高校時代の象徴、後悔の象徴、未練の象徴。
それこそが、この七海琴葉という女性なのである。
思い出は綺麗なままであるべきだ。
一時の気の迷いで、その綺麗な思い出にメスを入れてはいけない。
高校を卒業してから10年。
その長い年月で、俺は彼女のことを美化してきた。神格化してきた。まさしく、世界で最も尊い存在だと定義してきた。
それが、俺の身勝手で利己的な妄想であることなどわかっている。自覚している。
現実の七海琴葉では、俺の中の『七海琴葉』を超えることは出来ないのだ。
それが分かっているのにこの誘いを受け、その象徴の前に立てば。
間違いなくその思い出は、一生立ち直れないほどにズタズタにされるはずだ。
「とりあえず行けばいいじゃん」
「そうは言うけどなぁ……」
とりあえず。そんな軽い気持ちで会ってしまったら、死ぬまで後悔するかもしれない。
縋るものも芯になるものも失い、虚無の中で野垂れ死ぬかもしれない。
――だけど。10年振りに好きな女性に会えるという誘惑には逆らえず、俺は『久しぶりですね。行きましょう』と返事をして、ため息をつくのだった。
■
後日。俺は、自分のクセのある短髪を柄にもなくワックスでギットギトのベッタベタにキメた姿で、ファミレスの駐車場に立っていた。
面接の時よりも緊張する。
どんな顔をすればいいのか。どんな話をすればいいのか。
そもそも何故、俺を食事に誘ってくれたのか。
心の準備もままならないうちに、背中から声をかけられた。
「――白鳥くん?」
その声は、俺の記憶にあるものより少しだけ大人びていた。活発なイメージはなりを潜め、ゆったりとした落ち着きのある口調。
だけど、忘れるはずもない。彼女の声だ。
「――あっ、久しぶりだね、七、海……さん」
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった。じゃあ入ろっか」
振り返ると、そこには煌びやかなアクセサリーに身を包む明るい茶髪の女性と、スーツを着込んだ中年の男性が立っていた。
「――でね、白鳥くんもやっぱり……今よりもうちょっとだけ、お金があればなぁーってこと、あるでしょ? このビジネスは、少しの空き時間で稼ぐことも出来て――」
「――」
「――のセミナーがあってね。教材費としてちょーっとだけお金はかかっちゃうんだけど……」
やっぱり、来るんじゃなかった。
まさか、こうも綺麗にフラグを回収するとは。
マルチ商法の勧誘だった。
そりゃもうどストレートに、テンプレ通りだった。
最悪だ。これから俺は何に縋って生きていけばいいんだ。
今は見える世界の全てが、悪意の塊に見える。
「――いやぁ、でも久しぶりに白鳥くんに会えて嬉しいよ。高校生の頃を思い出しちゃうね」
――何を言っているんだか。こっちの気も知らないで。
なんて思いつつも、やっぱり好きな人だったから。
現実を受け止めるのに苦労してしまう。
もしかしたら。隣のこの男にマルチ商法を進められた七海琴葉は、何らかの理由で断れなかったのではないか。
そのマルチ商法にはノルマがあって、破ると酷い仕打ちを受けるとか。
マルチ商法の相手に俺を選んでくれたのは、頼れる相手だと思ってくれたから、とか。
――そんな笑い話のような妄想は、彼女の左手の薬指にはまった高そうなリングを見つけた時に、泡となって消えた。
耐えられなくなって、話の途中なのに席を立った。
逃げた。走った。涙が出てきた。
「――クソッ」
なんと弱い人間だ、俺は。
現実を見ろ。
俺たちはもう28歳で、高校生じゃない。
結婚くらいするし、マルチ商法なんてありがちな話だ。
なのになんで、こんなに胸が苦しいんだ。
なんで、涙が止まらないんだ。
なんで、後悔に蓋をして見て見ぬふりをしていたんだ。
気が付けば家の鍵を開け、当てつけのようにドアを勢いよく閉め、何かを考える前にベッドに潜って意識を沈めた。
現実逃避のツケがまわってきた。
頭の中でぐるぐると回る考えを全て押さえ込み、俺は無理矢理まどろみに落ちていった。
■
「夏斗ー! そろそろ起きないと遅刻するわよー!」
「……ぅあ、わかっ――!? え!?」
最悪の気分で意識を失った俺は、最悪な気分で目を覚ました。
俺の部屋に勝手に入ってきて、耳が壊れるような金切り声で叩き起してくる母親が嫌いだったっけ。
それがたまらなく嫌で嫌で。いつからか、俺はイヤホンで音楽を流しながら寝るようになったんだ。
見覚えのある部屋だ。丁度、小汚いあのワンルームの部屋と同じくらいの広さの部屋。
だけど、あのドアの向こうには外の世界ではなく廊下が続いている。
小学生の時に買ってもらった勉強机も、父親のお下がりのMDが聴けるコンポも、一人暮らしのワンルームには置いていないものだ。
「……実家!? なんで!?」
「なんでも何もないわよ。早く準備しなさい。ご飯片付けちゃうわよ」
「は――え、7時半!? 遅刻だ!」
起こしてくれるのはいいが、これじゃ間に合わない。
実家からだと職場までは電車とバスを乗り継いで1時間ほどかかる。
8時半には出勤していないといけないので、今から準備したんじゃ滑り込みアウトだ。
「何言ってんのよ。あんた、部活もしてないんだから早く学校に行く必要なんてないじゃない。阿久津くんを見習いなさい。阿久津くんはサッカー部だから――」
「――部活? 学校……!?」
懐かしい響きの言葉を聞いた。
そんなもん、今や思い出したくもない暗黒の過去だ。
昨日の今日でその言葉を聞かせるとは、うちの母親も切れ味が鋭いことで――、
「――あれ、なんか若くなった?」
「馬鹿なこと言ってないで早く準備しなさい。ほら、顔洗って」
そう言って、俺は無理やり部屋を追い出される。
おかしい。言葉にできない違和感が俺を包み込む。
なんだ、この違和感は。何かがおかしいんだけど、何がおかしいのか分からない。
あ、そうだ。
あのベッド、俺が一人暮らしを始めた時に捨てたって言ってたっけ――。
「――若、返ってる」
鏡に映る俺の顔は若々しさで溢れていた。
青くなった髭の跡も、クマの目立つやつれ顔もそこにはなかった。
まるで高校生のような――否。高校生の俺が、そこには映し出されていた。
「そういえば昨日、担任の古川先生とスーパーで会ったんだけど――」
どうやら、二度目の高校2年生の夏が始まったらしい。
■
「――ということなので、各自提出するように。じゃあ、号令」
「きりーつ」
7月8日。
確かに昨日は7月7日だったので、今日が8日なことに違和感はない。
――11年前の7月8日だということを除けば。
「夏斗ー。1限目の数学さ、俺宿題やってないんだよ。写させてくれ」
「――阿久津」
阿久津と直接会ったのはもう2年ほど前だろうか。
俺の記憶よりも大分ハツラツとしていて、フレッシュだ。高校生って、こんな感じだったな。
えっと、宿題だっけ?
「答えはNOだ。自分でやらなきゃ意味が無い」
「……お前もやってないのか」
「答えはYESだ」
そんなもん、やってるはずがないだろ。
俺にとって昨日ってのは11年と1日前だぞ。
やってたとしてもどれが宿題なのか分からないから、持ってきているとは思えない。
しかし、周りを見渡してみると、こんなやついたっけ? と思わざるを得ないクラスメイトが多数いる。
高校時代を綺麗な思い出に昇華してるくせに、大して思い入れがなかったことに今更ながら気付かされるな。
もう一度やり直せるチャンスがこの身に降りかかったなら、今度はもっと大事にしていこう。
「でさー、昨日ねー」
「――」
ふと耳に入ってきたその声に、心臓が跳ねる。
俺にとっては未練と希望と絶望の象徴であり、つい昨日聞いたはずの声。
俺はたまらず、勢いよく声の方向に振り向く。
「――え、えっと……おはよう、白鳥くん?」
「――あ、うん……おはよう」
声の方向はほぼ真後ろだったので、彼女にとっては突然豪速で180°ターンを決め込んだ不審な男が俺だ。何やってるんだ俺。
七海琴葉。俺が片想いしていた相手であり、昨日精神的にボッコボコにされた相手でもある。
そんな彼女が、クラスメイトとして目の前にいる。
俺は、どうしていいかわからなかった。
「でね、おばあちゃん家の猫が――」
そんな俺を気にすることも無く、彼女は友達との会話を再開した。
当たり前だ。これは日常で、なんでもない瞬間。
11年振りにここに帰ってきた俺の方が、おかしいのだ。
1日は、あっという間に終わった。
高校生の1日なんて、勉強&休み時間&勉強&昼飯って感じだ。部活のない俺にとっては尚更、なんでもない時間の繰り返しなのだから。
だけど、そのなんでもない時間が今は心地いい。
未来の不安も、同級生との格差も、面倒臭い人間関係も何も考えなくていい。
高校生というのは、幸せな時間だ。
「おーい夏斗。カラオケ行こうぜー」
「いいけど……阿久津、部活は?」
「ふっふっふ。なんと今日は――休みだ!」
そうか。よかったですね。
じゃあ行くか、カラオケ!
ということで俺たちは学校の近くにあるカラオケに来ていた。
折角の若い体だ。体力いっぱい、張り切って歌いまくるぞ! と思ったら、部屋に入るや否や阿久津が神妙な面持ちで話を始めた。
「……聞いてくれ、夏斗。大事な話がある」
いつになく真面目なその表情は、とてもじゃないが茶化す気にはなれなかった。
まさかとは思うが、こいつまでタイムリープしているんじゃあるまいな。
阿久津からは天然モノのフレッシュさを感じたが、あれでいて10年後も似たようなものだ。
大人の阿久津が成り代わっていても、気付かないかもしれない。
俺はその神妙な面持ちに応えるように、静かに向かいに座った。
さぁ、話してもらおう。阿久津の秘密を――。
「――俺、隣のクラスの斎藤が好きなんだ!」
「……へぇ、そう」
「なんだよその顔!? 興味無くてもありそうなフリしろよ!」
どうでもいい話だった。
いつもそうだ。阿久津はどうでもいい話をさも重い話のように語るのだ。
まぁせっかくなので、一応話に乗ってやるか。
「……どこが好きなの?」
「最初はやっぱ、胸だよな! ――ここだけの話、Eはあるらしいぜ。おいおいとんでもねぇな!」
「最低じゃねぇかこの脳ミソ肉ダルマ!」
「待て待て待て――え、酷くない? そこまで言う? ……最初はそうだったんだけどさ。接してくうちに、あいつの気配り上手で控えめなところが魅力的に見えてきてさぁ」
思い出した。11年前にも同じ場所で、同じ話を聞いている。
最初からどうも既視感があるなぁとは思っていた。
だけどまぁ、このカラオケは高校時代によく来た場所だし、そりゃ見覚えがあって当然かと思っていたが。
どうやら、11年前と同じように時が進んでいくらしい。
この後の阿久津の言葉はそう、『夏斗はいねぇの? 好きな――、
「夏斗はいねぇの? 好きな人。いるだろ? 俺ら高2だもんな!」
高2だからの意味はよく分からないが、いる。
当時から、好きな人は変わっていない。
七海琴葉だ。俺が本気で好きになった人は、生涯でこの人だけ。というか、引きずりすぎて他の人を好きになれなかったのだ。
だけど、11年前俺はこう答えた。『いないよ。そんなことより勉強しろよ』。
勉強などほとんどしたことがないのに、滑稽なことだ。
青春という沼に足を突っ込むことから逃げたのだ、俺は。
思えば、これが長く重たい未練の始まりだったように思う。ここでの選択を間違えたから、俺は11年後も付き纏っている黒い靄との共同生活が始まったのだ。
俺は、やり直す。後悔も、未練も、全部無くすために。
一歩踏み出すチャンスが、巡ってきたのだ。
「――いるよ」
「っかぁー! これだから優等生は――え、なんて?」
「好きな人、いるよ。俺は七海琴葉が好きだ」
「――お、おお……ついに認めたか、石頭め。今日はお祝いだ、歌うぞ!」
なんのお祝いだよ。
あれ? っていうかさ。
「え、待って。バレてたの?」
「そりゃ見てればわかるだろ……同じクラスなんだからさ」
11年前の俺って、そんなにグイグイいってたっけ?
――いや、いってない気がする。そんなに分かりやすいの? 俺って。
ってことは、同じクラスの奴は全員わかってる――!?
「……はっず」
「はは、よかったよかった。多分七海も――ま、お祝いだ、歌うぞ!」
「だからなんのお祝いなんだよ!」
清々しい。俺は今、最高に高校生してる。
あの頃の俺は、こんなに新鮮で美しい景色を見ていたのか。
なんと羨ましい。そして、この景色を見ていながら何も行動に移せなかったことが――なんと、腹立たしいことか。
■
「おはよー」
「おはよう」
「おはよ」
朝の『おはよう交換会』である。
各々がたった一言ずつを交換するこの儀式が、なんとも心地よい。
職場では、俺の挨拶に返事なんて帰ってこなかったからなぁ。
さて、このやり直しで前回とは違う結末を目指すことに決めた俺だが、具体的にどう動くかは決まっていない。
というか、高校生というのが余りに居心地が良くて気を抜いたら普通に高校生してしまいそうだ。
確か――七海琴葉とのイベントで、転換点となり得るものがいくつかある。
まずは、高2で同じクラスになったこと。全ての始まりだ。
そして、流血した俺の額を絆創膏責めしたこと。俺が彼女を好きになるきっかけになった。このイベントは既に終わっている。
そしてもうひとつが、夏祭りに――、
「――白鳥くん、ちょっといい?」
「――七海さん」
意識の外から、耳あたりのいい声が染み込んでくる。
声の出処を探ると、なかなか目の合わない七海琴葉が俺の横に立っていた。
「――明日の夏祭り、い、一緒にっ……一緒にいかないっ?」
ようやく目の合った七海琴葉は、顔を赤らめていた。
一番大きな転換点はきっと、この夏祭りだ。
止まっていた時が、動き出す。
■
「俺はさ、なんで七海さんのことを好きになったんだろうな」
「え……俺に聞かれても」
「別にさ、普通の女の子なんだよ。可愛いし、面白いし、話してるの楽しいし。普通の女の子で、普通に好きになって、普通に終わるはずの恋だったんだよな」
「何言ってんだよ? 始まったばかりだろ」
普通に魅力的な、普通の女の子。
変な話、もっと可愛い子はいくらでもいるし、もっと性格のいい子も星の数ほどいるだろう。
絶世の美女とか、慈悲の女神とか、そんなんじゃない。
なのになんで、俺は11年もの間彼女に執着していたのか。
こうやって再びクラスメイトとして接して、この考えは尚更俺の心に染みてきた。
普通の、女の子だ。
唯一他の女性と違う点があるとすれば、人生で初めて本気で好きになった人ということだけ。
「結局さ、初恋って一生引きずるんだろうな。結婚して、子供が生まれて、孫も生まれて。で、最期に沢山の孫に囲まれて死ぬ時、『あの人はどういう人生を歩んだんだろう』って思いながら死ぬんだ」
「なんか今日のお前めちゃくちゃ嫌だな……っていうか、叶えればいいだろ、これからなんだから」
「……叶ったら、どうなるんだろうな」
「そりゃお前……」
俺には――俺の人生には、少なくとも七海琴葉が常にいた。どんな理不尽な思いをして、屈辱を感じて、胸が苦しくなった時も。理想の体現として、彼女の存在を思い描いてきた。
それがなくなったら、どうなるのか。
もしこの2周目で付き合えたとして、高校生だ。
ずっと続くとも限らないし、結婚なんて現実的とは思えない。
ならば、彼女を失った時に俺はどうなるんだ。
空っぽの空虚な人生が幕を開けるのではないか。
そう考えると、やはり一歩を踏み出すのが正解なのかどうかわからなくなった。
このまま高校卒業までのおよそ1年半、また近くで彼女を見られるだけで十分なのではないか。
それが、平和なのではないか。
そう思えてならないのだ。
「うだうだ考えてねーで、頑張れよ。せっかく夏祭りに誘われたんだろ? そこでキメればいいじゃねーか」
「……そうだなぁ」
煮え切らない思いで、俺は当日を迎えるのだった。
■
「お、おはよっ」
「おはよう、七海さん」
7月10日、金曜日。
この日ばかりは、よく覚えている。
11年前にも、俺は七海琴葉から夏祭りに誘われて、一緒に花火を見た。
この頃になると、11年前の俺も恐らく七海琴葉と両思いなのではないかと勘づいていた……ような気がする。
11年という長い時間の中で薄れかけていた記憶だが、彼女といい感じだった瞬間もあるのだ。
それを踏まえて思うが……恐らく、リミットは今日だ。
今日の出来事をきっかけに、彼女との心の距離は遠くなっていった。
そして、俺にとっては長い長い暗黒の時間が始まるのだ。
「突然誘ってごめんね……放課後、18時に駅集合でいい?」
「うん、いいよ。楽しみだね」
「うん! すっごい花火が上がるらしいよぉ」
彼女は、本当に俺のことが好きなのだろうか。
もしそうなら、いつから? なぜ?
俺は、どうすればいいんだ。
ここに来て、怖気付いている。
その日の授業は、まるで頭に入らなかった。
ただでさえ11年前の授業の続きとか上手く頭に入らないのに、余計にちんぷんかんぷんだ。
決心したようで、鈍る。
踏み出そうとして、二の足を踏む。
この優柔不断で意志が弱い俺だから、七海琴葉がいつまでも呪いのように付き纏っているんだろう。
俺は、どうしたい。
俺は、七海琴葉と――琴葉と、どうなりたい。
「であるからして……時間です。じゃあ、復習を忘れないように」
4時間目。
「つまり、この公式を……今日はここまでです。じゃあ、号令」
5時間目。
「次回はここをもっと掘り下げていきます。お疲れ様でした」
6時間目。
「じゃあ、気をつけて帰るように。解散」
ホームルームまで終わってしまった。
結局、俺の流されやすくて腑抜けな考えは纏まらなかった。
俺は、俺は――。
「一緒に帰らない?」
「――あ、うん。いいよ」
正直、こうやって青春を繰り返せているだけで十分すぎるほどだ。
付き合えるなら、付き合いたいという気持ちもある。
好きという気持ちは、薄れていない。
だけど、ずっと先の未来のことまで考えると。
ここで付き合ってしまうことで、今まで以上の後悔を背負うことにはなりはしないか。
よく、『やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい』と言う人がいる。別に間違っちゃいないと思うが、今回に関しては話が別だ。
ここで、前回と同じ選択をすれば――少なくとも、今以上の苦しみを背負うことは無い。
同じ人生を、繰り返すだけで済む。
でもここで一歩踏み出してしまったら。
全然違う世界に足を踏み入れることになるわけだ。
それは、ひょっとしたら今よりも何倍も苦しいかもしれない。
もし付き合えたら、喧嘩はするだろう。
ずっと理想の存在だった『七海琴葉』に腹を立て、心無い言葉をぶつける俺がいるだろう。
そんなの、耐えられない。
もし付き合えたら、別れるだろう。
出会いがあれば、別れもある。
ずっと仲睦まじいカップルのままいられるわけがないのだ。
最悪のケースとして、彼女が事故で死んでしまうかもしれない。未来が変わるのだ、ありえない話じゃない。
そんなの、耐えられない。
もし結婚できても、恋愛感情はなくなるだろう。
運良く結ばれたとしても、次に待つのは妻として――その先に、母親としての『七海琴葉』が待っている。
母親なんて碌なもんじゃない。
慎ましさも恥じらいも捨てた彼女が、俺を顎で使うのだ。
そんなの、耐えられない。
「じゃあ、また後で」
「――うん、また」
あぁ、俺の悪い癖だ。
踏み出すのが、怖い。
■
「お待たせー。ど、どうかな?」
「――似合ってるよ」
目の前には、浴衣姿に身を包む七海琴葉の姿があった。
その姿は、俺の記憶に最も頑固にこびり付いたものであった。
彼女を空想する時、その殆どが目の前の浴衣を着ていたのだ。
言い換えれば、これこそが俺の後悔と未練の象徴だった。
「じゃあ、行こっか」
「うん、行こう」
手を繋ぐわけでも、組むわけでもない。
ほんの少しだけふたりに空いた距離が、俺たちの心の距離を示していた。
――この頃の俺は、こんなに近くにいたのか。
少し手を伸ばせば容易く届いてしまうほど、こんなに近く――。
「――」
「――あっ、ごめん!」
だからって本当に手を伸ばすやつがあるか、アホ。
無意識に伸びてしまった右手を切り落としたくなるほどの後悔に、俺は苛まれた。
俺の無礼な接触に七海琴葉は――顔を赤らめ、こう言った。
「――手、繋いでいい?」
「――」
七海琴葉はそっと左手を差し出し、俺の右手に触れた。
手のひらと手のひらさえ触れない――ましてや、恋人繋ぎでもない。
それは、指先同士のソフトキスだった。
この感触は、俺は知らない。
俺の知らない世界は、ほんのちょっとのはずみで訪れるほど、簡単に入り込めてしまうものだったらしい。
この瞬間俺は、『七海琴葉』ではなく琴葉という一人の女の子を見たのだ。
高揚する気持ちにいい感情を抱けず、俺は口数が減っていく。
会話という会話もないまま歩き続け、ちらほらと露店が現れ始めてきた。
「私、肉まんが食べたいなぁ」
「それはどうだろう、肉まんの屋台なんてあるのかな……」
「コンビニ行く?」
「ここまで来て!?」
自由奔放な子である。
そうだ、彼女はこういう子だった。
全くもって忘れていたが、当時はこういう子だからこそ好きになったのだ。
「売り切れみたいだね……」
「えーっ! 残念……6Pチーズでいいや」
「なんで!?」
コンビニは非常に混雑していて、飲み物や軽食は軒並み売り切れていた。
おにぎりやサンドイッチは多少残っていたのに、なぜそのチョイスをしたのか。想像もつかなかった。
何百回も何千回も空想したはずの彼女なのに、想像もつかなかった。
「私人混み苦手なんだよね……かき氷食べるために20分並ぶなんて、ちょっと耐えられない」
「なんでお祭りに来たの……!?」
「それは……肉まんよりかき氷より大事な、用事があるから……かな?」
11年前もこうやって振り回されたのだったか。
このイベントの結末が印象的すぎて、そこまではどうしても思い出せない。
だからこそ、新鮮で、懐かしい。
さて、この先はもうよく覚えている。
時刻は18時45分。
花火が19時から始まるので、そろそろ場所を移動しようと言われるのだ。
「もうこんな時間かぁ。ここからだと花火が見づらいし、ちょっと別のところ行かない?」
「わかった、行こっか」
向かうのは、とある神社の階段を登った先だ。
ふたりで息を切らしたことは、今でもよく思い出す。
高台になっているそこは絶好の花火観測ポイントなのだが、もちろんそれを知っているのは俺たちだけではない。
俺たちの他にも、階段を登る男女がまばらに見受けられる。
「これは、いい、運動にっ……なるねぇ、はぁ」
「角度が、殺人的、だからね……ふぅ」
一段が非常に高いつくりとなっているため、高校生の肉体でもキャパオーバーの重労働だ。
花火でもなけりゃこんなところ寄り付かない。
俺たちは、一段、一段と踏みしめるように登った。
一生焼き付いて離れない景色を見るために。
「――きゃっ」
「おっと」
足を滑らせ、階段を踏み外した彼女を支える。
危ない、本気で天国への階段になるところだ。下りだけど。
「――あ、ありがとう……ごめんね」
「大丈夫だよ、危ないから気をつけてね」
28歳の俺だったら支えきれずに共倒れの大事故になっていたかもしれない。
やはり高校生の体というのは羨ましいほどに軽い。
そんなことを考えていると、息も絶え絶えな彼女が貴重な酸素を消費して喋り始めた。
「私、ね。お母さんが、いないの……ふぅ。小さい時に病気で死んじゃったんだけど……入院する前は、毎年家族で花火を見に行ってさ」
「――」
その話は、知っている。
昔聞いてから、『七海琴葉』ではなく琴葉のエピソードとして印象深く焼き付いているからだ。
「私、花火はそんなに好きってほどじゃなかったんだけど……綺麗だなぁ、とは思ってた。そんな時、お母さんが入院しちゃって」
「――」
「花火、連れてってあげられなくてごめんね、って。私はそれよりもお母さんにお家に帰ってきて欲しかったんだけど、はぁ」
俺が相槌のひとつも打てないもんだから、琴葉は休む間もなく喋り続けている。
だけど、その話を止められない。
一度聞いているのに、止められない。
琴葉の顔が、俺の妄想の中にいる『七海琴葉』の、どの表情よりも綺麗だったから。
「最後の夏、もうあんまり体も起こせなくなってたお母さんが、その日だけ起き上がって――花火が照らすお母さんの横顔が、すごく綺麗だった」
もし過去に戻れたら。あの日に戻れたら。
そう考えたことなど、数え切れないほどにある。
そうなった暁には、キザで詩的でイケメンな返しをして、彼女をキュンとさせよう。
そう思っていたはずなのに、やはり何も言えなかった。
俺の安い言葉などむしろ邪魔に思えるほど、琴葉は完成された美だった。
「ふぅ、やっと着いたね……来てくれてありがとう。正直、来てくれないかと思ったよ。最近の白鳥くん、なんかちょっといつもと違かったから」
「そんなこと……」
ある。中身は28歳のいつまでも初恋を引きずった気持ち悪いおっさんだ。
彼女の目にはさぞ変わり者に写っただろう。
「白鳥くんの悩みは私には分からないかもしれないけど……私と同じ顔をしてた」
「――同じ顔?」
「絶対に譲れない思いと、見なきゃいけない現実の中で揺れてる顔。私にとっては……花火がそうかな。花火を見るといつでもあの頃に帰れる。だけど、いつまでもお母さんのことを引きずってちゃダメみたい……忘れたくないのに」
「――」
「いつまでも子供じゃ、いられないんだね」
こんな台詞は、知らない。
その表情も、見たことがない。
それは、理想の体現である『七海琴葉』がしてはいけない顔、一番見たくない表情。
浅ましく卑しいこの俺と同じ顔――未練だ。
美しい彼女の横顔が、いつまでも女々しく思い出にしがみつく俺のものと重なる。
俺と正反対の存在だからこそ抱いていた想いが、音を立てて崩れる。
――七海琴葉は七海琴葉であり、『七海琴葉』なんて虚構の存在はどこにも存在しない。
そんな当たり前のことを、理解させられた。
俺の子供心は、否定された。
そろそろ前を向いて歩き出せと、叱られた気がした。
帰るべき現実があるだろうと、諭された気がした。
「ねぇ……」
『ねぇ……』
ヒュルリと、音を立てて一筋の糸が琴葉の背中を過ぎる。
「花火は、好き?」
『花火は、好き?』
大きな音が優しく俺たちの耳を撫でる。
ちっぽけな男女を照らすその光は、とても儚く、美しいものだった。
永遠にも思えた時間にも、終わりはある。
どんなに綺麗な花でも、いつかは萎む。
いつまでも変わらないでいることは、人間には不可能なのだ。
それに気付くと、虚構が、妄想が、後悔が、未練が、自責が、罪悪感が、初恋が――優しく咲いて、消えていく。
温かな光に照らされた琴葉はやはり、今までに見たどの景色よりも綺麗だった。
■
――プルルル、プルルル。
もう何百回と聞いたアラームの音が、けたたましく鳴り響く。
俺は軋む体を無理矢理動かし、枕元の時計を叩いた。
ぼんやりとした意識が徐々に覚醒し始めると、段々と状況がわかってくる。
枕には、泣き腫らした後のような染みがある。
スマホの電源ボタンを押すと、しっかりと7月8日を示していた。
「――夢、だったのか」
そうは思えないほどに感覚はリアルで、夢の中で寝て起きた記憶もある。
だけど、夢の体感時間が現実のものとは関係ないこともわかっている。あれこそが全部、虚構だったのだろうか。
俺は体を起こすと、洗面台の前に立つ。
青髭の目立つ、冴えないおっさんがそこにはいた。
いつも通りの日常。当たり前の日々だ。
だけど、鏡の中の顔は昨日よりもマシなものに見えた。
なんとなくスッキリしていて、目付きも悪くない。
腹を括った男の顔、とでも言うべきか。
「――気のせいか」
ま、夢を見たくらいでマシになる暮らしはしていない。
いくら夢の中でスーパースターになったところで、現実の収入は十ウン万なのだ。
だけど、考え方ならば。
精神的な面なら、多少の変化を起こすことは出来るだろう。
夢の中身は今もなお徐々に薄れてきてはいる。
きっと、数日後には綺麗さっぱり忘れているだろう。
だけど、心に小さな灯火が宿ったのは感じる。
これの正体はわからないが――せめて消さないように、必死に生きてみよう。
多分、悪い夢じゃなかったから。
■
「お疲れ様ー」
「あ、白鳥さん、お疲れ様でーす」
白鳥夏斗、33歳。
正社員6年目で、営業マンをやっている。
特に役職が付いたり無敵の成績を叩き出したりはしていないが、まぁそれなりにやっている。
5年前までは肩身の狭い派遣社員をやっていたことを考えれば、現状はまずまずと言ったところだ。
「もしもし、母さん? どうしたの、電話なんて……あぁ、この前俺が送ったフルーツ? いや、別に高くないって。美味しかったなら良かった、また送るよ。じゃあこれから用事があるからさ。うん、またね」
今日は、昔の友人と食事をする予定がある。
そのため、残業もせずにこうして駅にやってきたわけだ。
「お、七海ー! 久しぶりだなぁ!」
「――阿久津。あれ、お前太った?」
「あ、バレた? 幸せ太りってやつ?」
「……よかったな、お前を貰ってくれる人がいて」
「いやぁ、ほんとだよなー」
阿久津は高校の同級生だ。
数年前に同じ高校の斎藤と偶然仕事で再会し、すぐに付き合い始めたらしい。
この度、結婚が決まったようだ。
「俺もお前も、抜け出せてよかったなー。危うく一生傷を舐め合うところだったぜ」
「そうだね。今はSEしてるんだっけ」
「そうそう。お前も彼女見つけられてよかったなぁ。結婚はしねーの?」
「……ま、そのうち」
俺の彼女は、今の職場で知り合った3つ下の事務員さんだ。
大人しくて口数は少ないが、笑った時にできるえくぼがとてもチャーミングで魅力的。
付き合い始めて2年になるので、そろそろゴールインも考えたい。
「じゃあ、居酒屋でも行くかー」
「そうだ、な――」
ふと、向かいの改札に目を引くキラキラのコートを羽織った女性が見えた。
高そうなアクセサリーを身にまとい、キャリーケースを引いて駅を出ようとする女性。
俺は、勝手に足が駆け出していた。
「おい、どこいくんだよ!?」
「――悪い、先行っててくれ!」
「東口の高架下の居酒屋にいるからな!」
「わかった! また後で!」
走る。走る。
向かいの改札ということは、西口だ。
全力で走れば、追いつけるはずだ。
人をかき分け、息を切らし。
もう完全におっさんと化した俺の肉体は、ほんの数百メートル走るのでも精一杯だった。
駅の構内を抜け、密度の低くなった人混みをまだ走る。
赤信号で、ようやくその人を見つけて、叫んだ。
「――七海さん!」
その人は、俺の叫びに一拍遅れて反応した。
やがてゆっくり振り向くと俺に気付き、
「――白鳥くん?」
明るい茶髪で、高そうなネックレスと指輪。
それから、俺の記憶にはなかった浅めの皺が顔には刻まれている。
だけど、間違いない。俺が長い間片想いをしていた、七海琴葉だ。
マルチ商法に誘われた日を境に、彼女のことはあまり思い出さなくなった。
だけど一時期は、もう一生忘れられないんじゃないかと思うほどに彼女の幻想を抱き続けていた。
なぜ今さら、彼女を見て体が動き出したのかはわからない。なぜ、こんなにも心が熱いのかはわからない。
だけど次の言葉は――答えは、まるでずっと持っていたかのようにすんなりと出た。
「俺も好きです! ――花火!」
■
『ねぇ……花火は、好き?』
『――いや……普通、かな』
『そっか』
キラキラと輝くその瞳に捉えられた俺は、照れくさくて、小っ恥ずかしくて。
なにより、素直な気持ちを出すのが怖くて。
俺はあの日、自分の気持ちに正直に答えられなかったんだ。
だけど今ならわかる。
あなたも、怖かったんでしょう?
自分を曝け出すことが、不安で堪らなかったんでしょう?
後悔も未練も、作らずに生きていくことは出来ない。
だけど俺は、それを乗り越えて生きていく。