二、秋
じりじりと暑い太陽が、障子を抜けて私の手許へと遣ってくる。動くことのない鉛筆が、生暖かくなり、私はいつもここで、原稿用紙を丸めて、ゴミ箱へと放り投げる。
まったく小説が書けない。
私には、もう書ける小説など、存在しないのではないのか? そんな考えが頭の隅から真ん中へと遣ってきては、意識的にまた隅へと追いやる。そう云った日々が、もう一ヶ月も続いて、ボディービルを辞めてしまった私の身体は、やせ細り、死んだときの強靭な肉体は、もう其処にはなかった。
新しい小説は、どんな題材にすべきなのだろう?
私は、ネタ集めも兼ねて、新聞を開き、最近のニュースを一通り眺めた。しかし、私にとって魅力的なものはなく、毎日開いては、またなかったか、と閉じる日々である。
果たして憲法について書けば、みなは満足するのか、それとも、大まかに日本を憂う内容なら……いや、私にはもう書けない、そのような内容の小説は、死を前提にしていなければ、到底書けぬものだ。
私は自室に戻り、編集者から、と云うノートパソコンなるものを開いた。どこをどう触れば、この薄い機械は動き出し、どこをどう扱えば、私の小説が出来上がっていくのか、皆目検討がつかない……。このすこし凹凸の有る、QWERTYと並んだ四角を、ひとつずつ押下してみたが、この薄い物体は、うんともすんとも言わない。困ったものである。
私は、編集者に訊いてみようと思い立ち、もう一度部屋を出て、中居に、
「なあ、電話を貸してくれないかね」
「ああ、そこを行った突き当りに在ったと思いますけど」
「在ったと思う?」
「ええ、最近誰も使わないので、」
「……使わない?」
「はい、スマホが有るんで」
「…………」
この時代は、最早スマートフォンが有れば、どうにでも生きていけるようだ……。私も、スマートフォンを持ってみようかしら。スマートフォンを題材にした小説? 否、そんな安易で凡庸なものは書けぬ。やはり私には、日本を憂いた小説を書く道しかないのかもしれない。
確かに誰も使っていないと云うのが分かる。埃が受話器に付いていて、私は手に付いた埃をズボンに擦りつけ、十円玉を五枚入れ、新潮社に電話を掛けた。
直ぐに電話に出てくれたが、声から察するに、編集長ではなさそうだった。
「あ、もしもし、三島だけど、編集長を出してくれないか?」
「え、三島? どちらの三島さんですか?」
「三島由紀夫だ」
「……ほんものですか?」
と若い声が訊いてくる。受話器の向こうで、何やら小さな声で、またいたずらかよ、などと聞こえてくる。
「ああ、編集長に変わってくれ」
「えっと……、分かりました」
ぴんぽろぴんぽろと音が流れ出したかと思うと、直ぐにまた通話状態に為った。
「あ、三島先生、」
「ああ、君か、よかった」
「あ、はい、で、何でしょうか? もしかしてもう書き終わったんですか?」
「いや、ご期待に添えず申し訳ないのだが、まだ小説は書けていない。きょうは小説のことではなく、貴方が送ってくれたノートパソコンなるものに就いて訊きたいのだ」
「え、ああ、どうです、タイプライターみたいなものですよ」
「いや、私には扱えなそうだ」
「そうですか、じゃあ原稿用紙が足りなくなったらまた電話して下さい。此方から送りますんで」
「ああ、頼むよ」
とだけ私は言って、受話器を元の場所に戻した。
私はやはり日本に就いて書くことにした。まだ遣り残したことが有るとしたら、やはり其れしかない。さて、日本の何に就いて書くべきか、やはり憲法改正に就いてか、それではあまりにも芸がないのではないか? では何を? などと考えていると、
「失礼致します」
と中居が私の部屋の扉を静かに開いた。
「なあ、君は私に何を書いてほしい?」
「え、それは……三島さんが書きたいものを書いたらよろしいかと……、」
「ああ、そうだな、唯訊いてみただけだ。気にしないでくれ」
「はい……」
と中居が居心地が悪そうに、料理をテーブルに置いて、そそくさと部屋を出て行ってしまった。その姿を見て、私は川端先生の、『眠れる美女』を思い出した。
そうか、次の小説は、この旅館を舞台にした、現代日本に生きる人間たちの群像劇にしたらいいのだ。
そう思い立った私は、ずっと喉に張り付いた魚の骨を飲み込むように、一気に白米を胃の中に落とし込んだ。――
翌る日、私は血相を変えて、蛇を丸ごと飲み込むかのように、原稿用紙とにらめっこして、言葉をただひたすらに連ね続けた。
もしも私の中に、此れからの社会、此れからの時代、此れからの若者に遺す言葉が存在するとすれば、其れはペダンチックな言葉では決してなく、ただ、純粋無垢な、地球に初めて降った雨のような、そんな言葉でなければ為らない、と私は、鉛筆に力を込め続けた。
そうしてきょうは、三頁書き、また中居が持ってくる食事を堪能して、寝床についた。
編集者が私の許へと遣ってきて、
「あ、三島先生、こんにちは」
「ああ、」
「どうですか?」
「やっと書け始めたよ」
「え、一寸読んでもいいですか?」
「ああ」
編集者は、手早く原稿用紙を読み進め、実に三分も掛からず、私の書いた十枚程のまだ書き終えていない原稿を、テーブルに置いた。
「いいじゃないですか、」
「そうか……何だかすごく久しぶりに小説を書いているような気がして、自分では此の小説が優れているのか、判別できぬのだ」
「いいですよ、すごくいい、早く続きが読みたい」
「それはありがとう、また書き進めるよ」
「はい。
実は編集長から、『三島さんが全然書けてないみたいだから、お前一寸見てこい』って言われたんですよ」
「そうか、其れはすまなかったな」
「いえいえ、でも安心しました」
「恐らく後一ヶ月、長くても二ヶ月もあれば完成すると思う」
「分かりました。じゃあ、僕は此れで、」
「ああ、」
「あんまり来ない方が集中できますか?」
「うーん、そうだな、別に来てもらっても構わんが」
「分かりました」
と編集者は言って、部屋を出て行った。
私には、編集者が言った、「分かりました」と云う言葉が、どちらの意味を内含しているのか、はっきりとは理解することができなかった。
其れから私は、食事、排泄、風呂以外の時間、ただひたすらに小説を書き続けた。
死ぬ前、私は昼に起き、コラムやインタビューなどの仕事をして、夜の十二時から、朝に掛けて小説を書いていたが、今は、朝、日の光を目に受けて起き、中居の持ってくる食事を摂り、それからお茶を啜りながら小説を書き始めるような生活に為ってしまった。
だからなのか、私の筆が、何だか乗らないのだ。気分を変える為に外へ出て、散歩などをしても、その憂鬱は消えることはなく、其れ処か、夕日と一緒に、自らの身も沈んでいくような、憂鬱が私の体内を広がっていくような、そんな気さえするのである。
私はきょうも夕日を見ないように、外へ散歩に出掛けた。
「あ、こんにちは」
と、玄関を出た所で、中居が声を掛けてきた。
「今は何時だね?」
「えっと、十六時くらいですかね」
「私はずっと疑問に感じていたのだが、夕方には『こんにちは』が正しいのか、『こんばんは』が正しいのか、君はどっちが正しいと思う?」
中居は明確に困った様子を見せ、俯いたまま、
「うーん、考えたこともなかったですね……」
「そうか、困らせて悪かったな」
「いえいえ」
「なあ、」
「はい?」
「深夜に私の部屋に珈琲を持ってきてくれないかな?」
「ええ、いいですよ、何時ですか?」
「十二時くらいに頼めないか?」
「分かりました。ブラックですか?」
「ああ、頼むな」
「はい」
私は中居に軽く会釈して、散歩に出掛けた。
すこし歩くと、夕日が厭に明るく、道のつれづれを紅く染めている。私は、その明るさから逃れるように、細い路地へと入った。
錆で荒れた鳥居が、辺鄙な路地、コンクリートの冷たさに、不可解な影を落としている。諏訪神社だろうか、田園地帯が広がった土地だから、おそらく五穀豊穣の神であろう。私は鳥居の左端を通り、境内へと入った。周りを見渡してみても、手水舎は発見できなかった。社の中に目を遣ると、般若のお面が、こちらを睨んでいる。私も負けじと般若を睨む。彼の声は一向に聞こえない、しかし、私には彼の気持ちがよく分かる。彼は、もう誰にも姿を見せない。そして、死んでから勝手な解釈を社会が行う、そんな様を、私も経験している。彼の思いは、日本を象徴している。もう一度、人生の全てを掛け、血で以て、原稿を綴るのである。
三頁、三頁と、毎日じりじりと歩を進めるかのように、鉛筆を走らせた。
息抜きにノートパソコンを触ってみたら、何やら画面に表示される少な過ぎる文字。私は、下に在る“み”と印字されたボタンを押下した。“n”と表示されてしまった……。うーむ分からん。あの中居に訊いてみよう。
私はあの中居を探し、外へ出ると、彼女が佇んでいて、
「なあ、ちょっと、」
「はい?」
彼女は髪を耳に掛け、私に微笑んでくれた。歳はまだ二十歳そこそこといったところだろうか。
「ノートパソコンの使い方を教えてほしいんだ……」
「あー、うーん、私もパソコンはあまり使わないので、」
「そうなのか……残念だ」
「あ、でもスマホなら、」
「ん、」
「何か調べたいことがあるんですか?」
「調べたいこと?」
「ええ、言って頂ければ私が調べますけど」
調べる? 何のことだろう?
「じゃあ、三島由紀夫に就いて」
「え、あ……はい」
と、彼女は言って渋々といった様子を見せ、自分のスマートフォンに指を侍らせている。
「あ、どうぞ、」
と彼女が私にスマートフォンの画面を見せてくれた。
「自決の理由……」
「…………」
「ただの自己満足」
「あ、えっと、」
「これは誰が書いているんだ?」
「いや、えっと、匿名ですかね……」
「匿名? 今の時代は名を名乗らずに意見が発信できるのか?」
「え、あ、はい……」
やはり此の時代はすべてが際限なく空っぽである。
「すまなかったな、手間を掛けさせて」
「ああ、いえいえ」
私はノートパソコンの使い方を完全に理解した。此のアルファベットは、ローマ字表記に為っており、エム、アイ、と押せば、“み”と画面に出てくる。下のすこし窪んだ、平らな面は、画面の中の矢印を動かすものである、唯、こんなものを使って小説が書けるとは思えない。習得出来ないと云う意味ではなく、こんなものでは、文学を確立出来ない。
此の世界に生きる人々が、自ら望んで莫迦に為ったのではなく、聡明さを希求した先のTechnologyが、彼ら、彼女らの頭の中を、不純物だらけの濁流のように鈍らせているのだ。
然し、その現実を蔑ろに出来るのか? 私が此の時代に蘇り、此の時代を生きているのは厳然たる事実として在って、その事実を受け止め、文章の中、文字の凄みに昇華出来なければ、自分の小説が、本来でも意味で、価値がなく為ってしまうのではないのか? 私が小説を書く意味がないのではないのか?
“五月雨が深く砂利道を濡らし、自然的な人の顔のような形を作っているところであった。私がその顔を消し去ろうと右足を出すと、「止めなさい」と云う声が後ろから聞こえた。”
さて、私はどこへ行くべきか? 結局現実に戻ってきてしまうなら、何をしても無意味で、後世に何かを遺す意味など、そもそも存在しないのではないだろうかと云う気に為ってしまう……、それでも、私には小説、文学、言葉しか、遣ること、出来ることがない。今からペンキ屋で、はみ出でぬように気を遣う事など、出来やしないのだ。だから、もう一度死に、もう一度生き返っても、私は小説を書き、其れに付随するように、評論を遣り、若しかしたら戯曲を書いたり、映画を作ったりなどするのだろう。
私には其れしかないのである。
まだまだ小説は完成しそうになかったが、他の仕事が、私の許へと舞い降りてきた。
今最も売れている大衆小説家との対談、大枠ではそのような内容の仕事らしかったが、ほんとうは対談ではなく、殆どインタビューのかたちを取るようである。別に断る義理もなかったから、快くではないが、私は二つ返事でこの仕事を承諾した。
帝国ホテルの一室で対談は行われるらしく、其の日はいつもより早く起床し、朝食代わりの珈琲を一杯だけ飲み、身支度を済ませ、タクシーで帝国ホテルへと向かった。
秋の道は、私が蘇る前のような紅葉を含んだ冷たい空気を持たず、街路樹なんてものはなく、道を行き交う人々は、例のスマートフォンを眺めるばかりで、やはり私が生きていた頃より、日本はひどく空っぽに為って、私はまた、殻に逃げ込む蟹のように、まだ冷房の効いたタクシーの中で蹲る。
帝国ホテルの指定された部屋の扉を開くと、既に対談相手の男は其処に居て、ファシリテーターであろう女がひとり、その男と、何やら談笑している。
「あ、三島先生!」
と、其の禿頭の男が立ち上がって、私に対して深くお辞儀する。
「いいんだ、そんなに堅苦しくして貰わなくても」
「あ、三島先生、きょうはよろしくお願いします」
と女が言って、椅子を引いて、私を招くような態を取っている。
机の上には一匹の蟹が置いてある……。
「どうぞ、三島先生の為に用意したんですよ」
「これは……嫌がらせか?」
「え?」
「私は蟹が大嫌いなんだ……」
「そうだったんですか……?」
「ああ……」
「じゃ、じゃあ直ぐに下げますので、」
「いや、君は食べたいだろう?」
と、禿頭に訊ねると、
「あ、いやぁ……大丈夫ですよ」
この男の妙に鼻につく関西弁が、私の気分をより悪くさせる。
「まあいい、早速始めようか」
「…………」
結局蟹は下げられて、机には女のスマートフォンだけが転がっている。
「あ、改めて三島先生、よろしくお願いします」
と、男が、座ったまま私に頭を下げた。
「ああ、済まないのだが、私は君のことをよく知らないのだが、」
「あ、僕は何本か小説を書いています」
「其れは知っているんだが、」
「あ、百田尚樹と申します」
「百田くん、いや、百田さんとお呼びした方がいいかな、」
「ああ、なんでも構いません、なんなら尚気ちゃんでもなんでも、」
「そうか、では尚気くん、きょうはよろしく」
「はい」
と百田が言うと、女が割って入ってきて、
「じゃあ、まず百田先生から何か三島先生にお訊きしたいことなどは有りますか?」
「あ、じゃあ、まずお訊きしたいのは、もう三島先生は憲法改正については興味ないんですか?」
「ああ、もう既に一度、私は世間に訴えましたから、もう憲法はおろか政治については興味がない、と云ってしまえば大げさですが、もう日本社会には何も期待していないんです」
「そうですか……」
「残念そうですね」
「はい……今、安倍総理が憲法改正しようと頑張ってるんです」
「其れでも改正出来ていないどころか、発議すらしていないのだろう?」
「……ええ」
「私の頃も自民党は在りましたが、彼ら彼女らは何も出来ない、そして何もしてこなかった、そうじゃ在りませんか?」
「……ええ、そうですね」
「ですから私はもう日本国民には何も期待していないし、当然政治家に対しても何も期待していないんです」
「そうですか……」
と俯き、黙ってしまった百田を気遣ってか、女が、
「じゃあ、同じ小説家として、今度は三島先生から何か百田先生に訊きたいことはございますか?」
と、私に提案してきた。
「申し訳有りませんが、今は百田さんの小説含め、文学と云うものを読めていなくて、其れでも、生き返った直後、本屋に立ち寄ったんですけれども、ライトノベル? と云うものを勧められて買ってみて、すこし読んだのだけど、あれは小説では有りませんね」
「そうですね、ライトノベルは僕も小説ではないと思います」
「別に貶してるわけじゃないんです。ただ私が遣っていることとかけ離れすぎている。つまり位相が違うんですね」
「でも、僕はエンタメ小説を書いてるので、ライトノベルもすこしはいいと思いますけどね」
「君は大衆小説を書いているのか」
「ええ、本屋大賞も貰えて」
「本屋大賞?」
「はい。全国の書店員が選んでくれるんです」
と百田が不思議な笑みを浮かべていると、目の前の女が、
「インタビューで直木賞なんかより価値がある賞と仰っていましたよね」
「直木賞より?」
と私が疑問に似たひとり言を呟くと、
「はい、直木賞より売れますし、」
と百田が話を始める。
「私は売れることが一番大事だと思てます」
百田は「大事」と云う言葉に目一杯の語気を含めてそう言った。
「でも本屋が決めるんでしょう?」
と私が訊くと、
「だから価値が有るんですよ」
「本屋なんて所詮素人でしょう?」
「はい、だからいいんです。一般の読者に刺さったってわけですから」
「でも価値はないねぇ」
「なんでですか?」
「素人は素人です。素人に真贋が判るはずが有りません。
其れに、ライトノベルなどと云う下劣な読み物を好む大衆が正しい評価を下せるとは到底思えない」
「…………」
女が淀んだ空気を察してか、
「ま、まあ、多くの人に読まれることはいいことですから、」
と腑抜けたことを言うので、
「多くの人に読まれなくたっていいんです。ただ良いものを書けばいいんです」
「何を以ていいとするんですか?」
「文章に強度がある、其れだけです」
「…………」
女が立ち上がり、
「じゃあ、ここら辺で、」
と対談を終わらせようとしたので、
「ああ、君も純文学を書き給え、」
と私は捨て台詞めいた言葉を其の場に残し、女より先に部屋を出た。
私も大衆小説を何本か書いた。だが、あれは唯の休息で、専ら心血を注いでいたのは純文学だけである。
もし、ほんとうの意味で日本が日本でなくなるときは、日本語を喪ったときだ。国語さえ護れれば、どんなに現代が空っぽであっても、私が言葉を紡ぐ意味が有ると云うものだ。先ずは一本、今書いている小説を書き上げ、戯曲や映画などは其の後でいい。先ずは純文学、日本語を正しく使った小説、此れを完成させなければ。――
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(まだまだ続くよっ)