一、夏
道は夏の日ざかりの日を浴びてしんとし、鮮やかな緑だけの木々は風に揺れ、コンクリートの濁った灰色に、鋏で入れたようなきれぎれの影を落としている。
私は確かに死んだのである。楯の会の茶の上着を弄り、腹を見てみれば、一本の松の葉のような線がスッと入っていて、どうやら血の色合いは残っていないようであったが、如何にも自らが施した傷に他ならないのである。即ち私は輪廻転生したわけではなく、唯この身を以て、生き返ったとしか思えない。
誰かが私を治療してくれたのかもしれない、もはや死んでいて、魂だけが体の形を保ち、私の意識の中にフィックスしているのかもしれない。
兎にも角にも妻、瑤子の許へ帰らねばならぬ。
厚すぎる上着を脱ぐ、べったりと血管をなぞるように汗がティシャツに染み込んでゆくのが解った。煙草の吸い殻一つないコンクリートの道をすこし歩くと、空まで突き抜けるかのような、雨が降れば地面に埋もれてしまいそうな、三角屋根が下品な真っ黄色に塗られた本屋が佇んでおり、咄嗟に私は中へと入ってしまった。
勝手気ままな自動ドアを抜けると、まだもう一枚、目の前に硝子が敷かれていると云うのに、インドのガンジス川を流れる淀んだ水のような、或いは、彼の自衛隊員の冷たくも怒りの込もった視線のような、神秘的でありながらも人工的な冷気が私を包んだ。入り口付近に、二本ののぼりが立っている。両方とも何処も見ていない大きな目と、栄養失調真っ只中を感じさせる細い身体の絵が描かれており、のぼりの下には、「異世界生活」「異世界転生」と云う文字が踊っている。他の世界や、他の人生に思い馳せるようになってしまったら、その人生は最早斜陽である。この類の小説が読まれ、好まれている社会は、おそらく景気が悪いのであろう。
それでも尚、私の遺作である豊穣の海の影響が脈々と継承されていることが、素直に愉快であった。
内装は極めてハイソな造りで、右手にはCafeがあり、瀟洒な黒と白の縞々の紙コップを、スカイブルーのティシャツを羽織った男の子が今飲もうと云うところだった。私は一目散に「異世界生活」と印刷された中吊りの形で掲げられた広告のところへと向かった。まだこう云った形で広告が打ち出されている、この事実から察するに、私が死んでからまだ間もない、とは明言することはできないが、百年も経っていないことが窺えた。果たして私の小説はまだ読まれているであろうか?
十冊ほど、何とも奇怪な絵が描かれた表紙の本が積まれている。私は厭な気がした。裸に為っているわけではないのに、卑猥な色合いが、スカアトの内に描かれた線や、無闇に強調された胸元から浮かび上がっている。官能小説であれば官能小説として、より淫靡な、華の中の蜜が茎に流れてゆくような絵を表紙にしたらいいのである。しかしこの絵には幼稚さしか内含していないように思えた。
鉤括弧が十三個並び、地の文が存在しない頁の下には、雨が降った後の部屋の中のようなじめじめとした空白が広がっている。「エクスカリバー!」「ぐぬぬ!」「どうだ!」「やられた!」「まだだ!」と読み進めたところで、私は思わず呻吟した。
「ああああああーーーーーー!!」
私は、傾倒する前になんとか踏ん張った。この稚拙な、いみじくも厭らしい乱雑な書物に傾倒することなど有り得ぬ。こんなに身体が反応し、文字通り傾倒し、地面に頭から落ちてしまうような事柄も珍しいのではないか。危うくもう一度死んでしまうところであった。
「どうしました?」
と、薄っぺらい化学繊維丸出しの、緑のエプロンのような布を纏った女が私に近づいてきた。この拝金主義を全面に打ち出した本屋によく似合っているように思う。
「なんだね君! この低俗な文章は!」
「え?」
「ぼくの声が聞こえなかったのか? ぼかぁね、こんな主格が省略された文章は初めて読んだね」
「え、ああ、それはライトノベルって言うんですよ」
この女は丁寧に教授しているつもりなのだろうが、私の質問には何も答えていない。
「最近はね、こういうのが流行なのか?」
「ええ、まあ普通のエンタメ小説よりは売れてますけど、やっぱり漫画が一番売れてますね」
「そうなのか……」
私はこの時代で、どんな小説を書けるであろう? 私の言葉は、この時代に生きる人間に、まったく届かず、響かず、ないものとして通り過ぎてしまわれるのではないだろうか。……
「それ、ラノベでは一番売れてますよ」
と女が、私の右手に、縒れて、くたびれた老婆のような態で、伸び切ってしまった本を指差して言った。
「……買って行こう」
「お買い上げ、有難う御座います!」
私のきれぎれの小声を、女はしっかりと拾い上げてくれたようだ。やはり金に目がない店である。
カウンターの前で、私は金など持っていただろうか、とすこし心配になり、役目を果たした老婆のように、右腕に掛かった楯の会の制服を着直し、襟を正した上で、内ポケットに左手を忍ばせると、和紙の混ざった紙幣が、二つ折りに為っているのが確認でき、安堵した。
「キャッシュレスだと還元がありますけど」
などと言い放つ女に、
「キャッシュレスとはなんだね、金を払わなくてよい時代に為ったのか?」
「はい? スマホで決済すると還元されるんですよ」
「スマホ? スマホとは何のことだ?」
「ええと、」
と女は煩わしそうに、エプロンの右ポケットから一枚の、硝子のような、手鏡のような、四角く細長い物を取り出し、私に、どうだ、いいだろう、欲しいだろうと云うような顔で、
「これがスマートフォンです」
と言ってのけた。
「君は先程スマホと言ったはずだが?」
「だから、略してスマホです」
「君はなんだね、」
と、言って、私は口を噤んだ。日本語はここまで乱れてしまい、日本人はここまで言葉を喪失し、ただの腑抜けた機械のような存在に成り下がったのかと、呆気に取られたのかもしれない、否、他人から見れば、私はただ時代に取り残された、謂わば頑固爺としか見られていないのだろうな。……
「じゃあ、現金でいいですね?」
「あ、ああ……」
私は内ポケットから伊藤博文が肖像画として描かれている千円札を、女に手渡した。
「ん、えっと、これ、使えるかな」
などと、か細く声を出す女を見て、私は、現金も使えぬ時代に為ったのかと不安に思ったが、その後直ぐに、この時代の金を、まだ私は視認していないことに気が付いた。
「えっと、店長に確認してくるんで、ちょっと待ってて下さい」
ただの機械だから、このような不測の事態に対応できないのである。しかし私の説教など、この時代に生きる人間には、決して響かない。それどころか、蛇蝎の如く嫌厭されてしまうだろう。
「あ、お待たせしました」
と、女がやってきて、
「使えます、大丈夫です」
と続けた。待ってもいなければ、何が“大丈夫”であるのかも、判然としない。
「袋に入れますか?」
「ああ…………」
女は手早く本を袋に入れる。小銭を私に手渡し、すぐさま本の入った透明な袋を差し出してきた。私は乱雑に受け取り、袋の中に小銭を捨てた。その様子を見ていた女が、
「ありがとうございましたー」
と叫んだ。誰に対して放った言葉なのか、私にはよく判らなかった。
外では拡声器の電源を付けたときの、サーと云う音に似た、色のない小雨が降っていた。側溝の脇にできた小さな水溜りに、自分の姿が映り、楯の会の制服、茶色が、灰の色にまで濡れ、ひどく安っぽく為ってしまっている。
私は形式に拘泥し過ぎたのである。素直に拡声器を持参して行けばよかったのだ。それでも、武士の心を説くに、自らが様式美を捨ててしまったら、論理が一本化できぬではないか。私はプリミティブな人間だから、どうしても様式や形式を重んじ、そのことに依って、伝統の重みを背負おうとし、もしかしたら潰されてしまったのかもしれない。
どだい、あの場に居合わせた自衛隊員たちは、実戦部隊ではなかった、がしかし、もし実戦部隊であっても、私の言葉が届くことはなかっただろう。それを理解した上で、私は森田氏の熱意に押され、市ヶ谷駐屯地を占拠した。もしかしたら、私は心のどこかで死に場所を求めていたのかもしれない。
人間、二十歳のうちに死ななければ、もう美しい死とは云えない。私は恥ずかしげもなく、(すくなくとも他者からはそう見えていたはずだ)四十を過ぎても尚、生きようとしていた。しかし自らの生が、矛盾と欺瞞に満ちていて、どうしても耐えられなく為ってしまったのである。矛盾とは? 欺瞞とは? 私が日本人であることこそが矛盾であり、私が日本国憲法下で阿呆な顔をして生きていることが最大の欺瞞である。私の小説は、西洋の構成を参考にし、西洋の文体を模写したものである。日本的なもの、日本的な様式は、あくまで表層にしかないのである。果たして、現在、憲法は改正されているのだろうか?
もし改正されていなかったとしたら、私の死はほんとうに無駄だった、言葉通りの無駄死にである。
先程私の小説が、後世にまったく踏襲されていないことを確認した。もし思想も継承されていないとしたら、私の生はなんだったのだ?
太宰治のように、ほとほと悲観的になるつもりはないのだ。ただ、ただ私は、この世に何も遺せなかったばかりか、特攻隊として、夏の夜空の花火になることもできなかった、腑抜けた日本人でしかなかったのではないかと云う疑念が、外部から、楯の会の制服をすり抜け、胸の奥へと入り込み、渦巻いて止まないのである。
私は、冷たいコンクリートに坐り込み、街の雑踏と、二重にぼやけてはっきりとしない、絶え間のない人々の足並みを眺めていた。はっきりとこの世界の人々の着ている服が、私のいた時代とは違う。しかし、“ご依頼承ります。”と、明朝体で書かれた看板を見るに、やはりそこまで経過が経っているとも思えない。
「あ、大丈夫ですか?」
と、後ろから女の声が聞こえた。
「ん、」
私は首だけで振り向き、彼女の顔を注視した。その女はいかにも芋っぽい、田舎娘に見えた。私の眼光の鋭さに気圧されたのか、その女は身を仰け反らせ、
「あ、救急車とか、」
「とか? “とか”を使うときは例をふたつ並べねばならん」
「え?」
「まあいい、もう諸君には何も期待していない」
「スマホあります? 救急車呼びましょうか?」
またそれか、スマホ、いかにもこの空白の、伽藍堂の、安っぽい軽薄な時代に相応しい単語だな。
「いや、問題ない」
「でも、心配だし、認知症とか……」
「私はそんなに歳を取って見えるか?」
「あ、いや、でも、何をしてるんですか?」
「時代を見てる」
「は?」
「君のような空白人間には永遠に理解できないだろうな」
「は? いい加減にしないと、警察呼びますよ」
「見てみなさい」
と私は正面を歩く全身黒ずくめの貴婦人と、その隣をとぼとぼ歩く子供を指差して言い、
「雨が降っていないのに、子供が黄色い傘を差して歩いている。きっと傘を差すのが楽しくなってしまったのだろう。それに付き合うように、母親もヴィニール傘を差している。今そこで一匹の烏が地面から飛び立った。夕日がコンクリートのグレイを照らしているのが見えるだろう?」
と続けた。女は、
「は、は? ほんとに意味分かんない……マジで大丈夫?」
「ああ、君には見えないんだろう、美しいものも、汚いものも、すべてが空っぽな人間だからな」
「そ、そんなことないわ! もういいわ、心配したのが馬鹿だった」
「ああ、君は莫迦だな」
「う、マジで腹立つ。なんかむかつくから警察呼ぶわ」
「勝手にしろ」
私の横から、無機質な声が聞こえる。
「あ、あの、なんか道の真ん中で坐ってるおじさんがいて…………、はい、そうです、なんかやばい感じの人なんで、ちょっと来てくれませんか? はい、お願いします」
私は唯待っていた。待っていたのだ。
私の時代が来ることを!
実際に来たのは警察であった。
「あのーだめだよーこんなとこで坐ってたらー」
語尾を伸ばす癖のある警官であった。
「私の勝手ではないか?」
「アルコールは入ってますか?」
「いいや、だが、もう酔いは覚めたようだ」
「へ?」
「もう私は期待しない代わりに、もう一度社会を変えようと努力することにした」
「は?」
そうだ、待っているだけでは、何もやってこない。自ら変えようと努力し、継続しなければ、社会など変えられないのである。
私は立ち上がって、警官に、
「もう行くとするよ」
「え、どこ行っちゃうんですか?」
「未来だ」
「はぁ?」
訝しげに私の顔を覗く警官に、新しく芽吹いた切れ味鋭い青葉のように、私は眼光を向けた。警官はすぐに私の顔から目を背け、
「じゃあ……気をつけてください…………」
と言ってきたので、
「ああ、もう君らには日本は護れないがな」
と私は吐き捨て、また歩き出した。――
私は兎に角自分の家へと帰ろうと思った。が、果たして私の家はまだ現在するだろうか? そして、果たして帰ったところで、私に何ができるだろうか? 私は妻に何と声を掛ければいいのだろうか、と思案しながら歩みを進めていると、ひとりの男から、
「三島! 三島だろ?」
と呼び止められた。まだ私の姿を記憶している人間がいることに感激し、
「お、誰だね?」
と、目の前の男に訊ねた。
「え、只のファンだけど、よく似てるねぇ。でもハロウィンでもないのに、よくコスプレなんかできるねぇ」
私は、ハロウィンだか、コスプレだか、分からない言葉ばかりで、参ってしまった。ここはもしかしたら日本ではなく、戦争が起こって、占領した地なのかもしれない。唯、まだ二十代に見える男に、私の存在が識られているとは、感じ入った。
「似ているも何も、私は三島由紀夫だ」
「ええ、じゃあ本名は?」
「平岡公威」
「じゃあ妻の名前は?」
「瑤子」
「おお、凄い、ニッチなことも知ってるんだねぇ」
まだ私が偽物だと勘違いし、私が三島由紀夫で、平岡公威であることを信じていないようだ。でも、其の人にしか知り得ぬことを訊いていくと云う方法は正しいように思えた。
「瑤子は元気か?」
「え? もう死んだと思うけど」
「そうか……今は何年だ?」
「二○二○年です。あ、三島になら令和二年て言った方がいいのか」
呼び捨てで私を呼ぶことから察するに、こいつはまだ私を三島由紀夫だと信じていないな。令和か、天皇陛下が崩御あそばされたのだな……。
「ショック? 因みに貴方が死んだ昭和から令和に為ったわけじゃなく、途中で平成が入りますよ」
此の男、私が三島だとやっと認識してくれたわけではなく、面倒な人間に拘ったのをいいことに、ちょっとこいつに付き合ってやろうと云うような、浅薄な考えが見え見えである。
「あ、後、崩御したわけではなく、生前退位したんですよぉ」
と言う男が、何だか卑しく見え、私は、
「何? 生前退位だと? 日本人はもう其処迄腑抜けてしまったのか」
「まあ、天皇、今は上皇ですけど、上皇が望んだことですし」
「そうか…………そうなのか……」
「そんなに落ち込まないでください。あ、家には帰れないとは思いますけど、取り敢えず新潮出版社に行ってみたらどうですか? 生きていた頃の編集者がいるかもしれませんよ。まあ今も生きているわけだけど……。ていうか生き返ったの!?」
こいつ……、やっと俺を三島だと認識してくれたようだな。
「そうだな、行ってみることにしよう」
「生き返った……?」
と訝しげに私の顔を凝視する男に、
「すまないな、助かった」
と感謝の意を伝え、私はまた歩き出し、新潮出版社へと向かうことにした。
歩いて行く、新潮出版社迄の道のりは、私が生きていたあの時代から、随分様変わりしていて、何度も飼い主のいない野良猫のように、細い路地へと迷い込みはまた大通りへと戻ることを繰り返した。
結局電車に乗ることにした。改札口では、みながスマートフォンなる機械をかざして、ホーム迄歩いていく。私はただ、駅員を探し、やっとの思いで廁の前で駅員を見つけ、声を掛けた。
「切符を買いたいのだが、」
「え、ああ、其処の機械で発券して下さい」
「機械?」
「ええ、」
とだけ駅員は言い、私のもとから立ち去り、何処かへ行ってしまった。
さて、私はまた迷子に為ってしまった。兎に角機械の前へと向かわねば。
この機械、とても良心的である。「ここをタッチ」と親切に書かれたすこし下に、「切符を購入する」と表示されている。私は迷わず其の部分を人差し指で強く押した。すると新しい画面が何処からか遣ってきて、モニターの真ん中に駅の名前が順序良く表示された。
そうだ、私は神楽坂へと向かわなければならないのだ。私は神楽坂という黒い文字を、やはり人差し指で強く押した。すると機械なのに一丁前に金を要求してきたので、私は周りを見渡した。このイニシエーションは全く問題はないようだ。小銭を入れて発券するのが主流に為ったのか……。しかし、此の世界の住人はみながみな軽薄なのにも拘らず、機械は非常に親切丁寧である、なんだか気味が悪い。……
電車から降り、私は一目散に新潮社へと向かった。滴り、飛び散る汗を拭うこともなく、私はひたすらに走った。私は生きているのだ! 生きている! 今正に息を吐き、風を感じている! 速く走ろう、早く私を知っている人間の許へ!
新潮社はまったく様変わりしていないようにも思えたが、外装がすこし色あせ、薄い色に変わったか、とも思った。私は逡巡していた。もし私が三島だと名乗れば、彼ら彼女らは私を気違いだと認識する筈だ。ではなんと名乗ればいいのだ。私は紛うことなく三島由紀夫である。即ち、正々堂々と名乗ればいいのだ。武士とはそういうものである。
私は寒すぎる新潮社の一階フロアで、受付の女に声を掛けた。
「申し訳ない。三島が来たと編集部に伝えてくれ」
「え? 何ですか?」
「三島が来た、と伝えてくれ」
「え、あ、はい……」
女は立ち上がることなく、手元の受話器を手に取り、自らの耳に当てた。
「あ、あの、何か三島が来たって伝えろって、え? いやだから三島来たと、ふざけてません」
私は業を煮やし、
「代われ」
と言って、無理やり彼女から受話器を取り上げ、自分の耳に当て、話し始めた。
「私は三島だ、誰か出てきてくれないか?」
受話器の向こうから、若そうな男の声が聞こえる。
「は? 何言ってんですか? さすがに警察呼びますよ」
此の時代の人間は直ぐに警察を呼んで、自分で物事を解決しようとしないらしい。
「兎に角来てくれないか?」
「いや、ちょっと怖いんで無理っすね」
自衛隊も説得できなければ、編集者も説得できぬのか。私の言葉にはそんなに価値がないと云うのか……。
「では私が赴こう」
「いや、それはマジ勘弁して下さい」
「では一人でいい、誰か此方に寄越してくれ」
「…………分かりましたよ、行きますよじゃあ。絶対刺したりしないで下さいよ」
「ああ、そんなことはしない」
私はどうやら直ぐに誰かを刺すか、自らを刺す人間だと思われている嫌いがある。
編集者は直ぐに来てくれた。
「うわ、めっちゃ似てるじゃん……」
「私は正真正銘、ほんものの三島由紀夫だ」
この一言だけですべてを理解してくれると思った。
「ええ、うそー」
やはりこの時代の人間は妙に疑い深く、妙に芯のない人間が多いようだ。
「君のような若者じゃなくて、私を知っている人間をい寄越してくれないかね」
「えー、編集長が知ってるかなぁ」
「ああ、頼む、直ぐに呼んできてくれ」
「あー、分かりました……」
と不服そうに若造は来た道を戻って行った。
十分も経っていないだろう、若者は歳をとった男を連れて私の許へと戻ってきた。
「あ、ほんもの、ほんものだ…………」
私はこの爺のことを知らない、歳をとったから、私が単に思い出せないだけだろうか。
「すまぬが君の顔を私は知らない」
「あ、親交はなかったんですけど、市ヶ谷駐屯地に乗り込んで行ったとき、僕は社会部で三島さんの記事を書いたんですよ。
今、貴方の声を聞いてはっきりと分かりました。貴方はほんものの三島由紀夫ですね?」
「ああ、そうだ」
「えぇ!」
と歳をとった男の隣で、若者が驚いたと云うような声を上げた。
「これは凄いことになりました……貴方は何故…………生きておられる、」
「私にもよくは分からない。が、目が覚めたら此の時代にいて、此の楯の会の制服を着ていた」
「あ、じゃあ……死んだときに肉体ごと未来に飛ばされた……と云うことでしょうか……?」
「さあな、なにわともあれこうして私は生きている。復活したのか、時空ごと未来に飛ばされたのか、定かではないが、兎に角生きているのだ」
「ええ……」
と、今度は歳をとった男が、驚きではなく、何かを理解したような声を出した。
「編集長、これはスクープですよ!」
「馬鹿! お前本人がいるのに失礼だろ!」
此の空っぽな時代で、やっと私を完璧に私だと認識できる人間と出会えた。
「三島先生、」
いきなり先生か。
「先生はこれからどうなさるおつもりですか?」
「どう? 俺は唯小説や戯曲や評論を書くだけだ」
「え、ほんとですか? それは凄い……」
私は文学者だ。文学者が言葉を紡がないでどうする。
「先生、直ぐに記者会見を開きましょう」
「記者会見?」
「ええ、三島由紀夫が復活したとなればみんな大騒ぎですよ」
「そうか、しかし此の時代の人間は、俺のことなどもう覚えてないのではないだろうか」
「そんなことないですよ! これはほんとうに凄いことです、奇跡です!」
「そうか、じゃあ記者会見を開くことにしよう」
「ありがとうございます!」
と歳をとった男が私に対して、深くお辞儀をした。
「先生、其れから、」
「今度は何だ?」
「出来ることなら、復活の第一作目はうちで書いて頂けないでしょうか?」
「ああ、いいだろう、其れも了解した」
「ありがとうございます! じゃあ明日にでも記者会見を開いて、その後で、私共が用意した旅館で執筆と云う流れでどうでしょうか?」
明日とはまた急な、まあいいだろう。
「ああ、それで構わん」
「じゃあきょうは我々が取るので、ゆっくりホテルで休まれて下さい」
「ああ、感謝するよ」
私はひとり、狭いホテルの一室で、次の小説に就いて、構想を固めていた。何を書くべきなのか、此の時代の人間に、私の言葉は届くのだろうか、豊饒の海以上の小説が書けるだろうか、様々なことを考えたが、結局、私は考えを纏めることができずに、硬く、安っぽいベッドで、眠りに就いた。
翌る日、私は午前四時に置き、真っ白なバスローブから、編集長が用意してくれたスーツに着替えることなく、テーブルの上に置かれた、昨日見たスマートフォンなるものと同じくらいの大きさのメモ帳に、「不安である、朝が私を迎えにくるとき、光さえ私の身体を包みさえしなければ、私はただ、もう一度暗闇へと耽溺できるのである」と、小説の濫觴のような一文を書いた。
冷蔵庫にあった缶コーヒーを飲もうとしたところで、ホテルの電話が鳴った。
「はい」
「あ、三島先生、お早う御座います」
「ああ、お早う」
「きょうの午後の二時に帝国ホテルで記者会見をする予定ですので、宜しくお願いします」
「ああ、分かった」
「じゃあ、一時にはそちらにタクシーを寄越しますので」
「いや、一時半でいい」
「分かりました、じゃあそっちにタクシーが着くのを一時に調整しますね」
「ああ、頼んだ」
と私は言って、受話器を置いた。
そして私は、またテーブルの前に立ち、言葉が空から落ちてくるのを待った。比喩ではなく、頭の中を空っぽにして、ボールペンを持ったまま、唯待っていた。しかし、言葉はまったく降りてくることはなく、唯時間だけが過ぎ、私はボールペンをテーブルの上へと、ゆっくりと措いた。
タクシーの運転手が、私の部屋迄来てくれた。
「おお、有難う、待ってたよ」
「そんなに待たせてしまいましたか?」
「ああ、いや、そうじゃないんだ」
「じゃあ、準備が出来たら下迄来て下さい。待ってるんで」
「ああ、分かった。宜しくな」
「ああ、じゃあ」
と運転手は言って、よく洗濯されていることが想像できる程真っ白な手袋で、静かにドアを閉めた。
煙草の臭いのしないタクシーの車内で、私は、”もう私の言葉には、強度も説得力もない“のではないかと云うことを、ずっと考えていた。私は、記者会見で、何を話すべきか、そして、私の言葉は、記者や其れを見た人間たちに、果たして届いてくれるのだろうか。
タクシーが帝国ホテルの正面玄関の前に停まると、運転手が私に、
「着きましたよ、お代はもう頂いてるので、」
と言った。私は自動で開けられたドアから身を乗り出し、外へ出た。空気は澄んでいて、昼間とは思えない、静かな時間が流れている。
「あ、三島先生、お待ちしてました」
と、編集長が私を、玄関前で待ち構えていた。
「ああ、きょうは宜しく」
「あ、まあ私は何もしませんけどね」
「そうか、じゃあ、私は何処へ行けばいいんだ?」
「あー、えっと、取り敢えず控室で待ってて下さい。時間に為ったら呼ぶので」
「ああ、分かった」
「あ、三島先生、時間なので、記者の前に向かって下さい」
時間は直ぐにやってきた。私はやはり、何か言葉を紡げぬか、と云うことばかり考えていた。が、どうしても言葉が出てこない。……
私が金屏風の前へと向かうだけだと云うのに、記者が手に持ち、構えているカメラから放たれるフラッシュが、薔薇の棘のように私の目の奥を突いた。金屏風の前の、肘掛けの付いたヨーロッパ風の、コロニアル様式チックな椅子に座ると、左手に立ち、マイクを持った編集長が、
「では、始めさせて頂きます」
何だ、司会をやるならそうと言ってくれればいいのに。
「じゃあ、まず三島さんから何か仰っしゃりたいことはありますか?」
と、編集長が私を睨んだ。
私はスーと息を吸った後で、話を始めた。
「私は、見ての通り、生き返ったわけであります。そんなに驚かれないで下さい。すくなくとも私には、生き返った理由やメカニズムに就いては存じ上げておりません。
しかし、この身体を以て、このように日本語を話し、諸君に何かを伝えようとしている以上、恐らく、神の思し召しか、或いは何かの気まぐれか、私にもう一度チャンスが与えられたのだと、私自身解釈しております」
編集長が、私の話が終わったのを目で確認すると、
「では、記者の方々から何か質問はありますか?」
と、大勢のカメラを持った人間たちの方を向き直した。
「あ、じゃあ其処の方、」
「はい、毎日新聞の山田と申します。三島さんは生き返ったメカニズムに就いては分からないとおっしゃいましたが、ほんとは、整形した人が『自分は三島由紀夫』だと吹聴してるだけなんじゃないんですか?」
「それはどうでしょうね、すくなくとも、生きていたとき、詰まる所、市ヶ谷駐屯地で自決する前の記憶はございますので、私自身は自分のことを三島だと認識しております」
「じゃあ、其処の方、」
「あ、朝日新聞の鈴木です。三島さんは此れから何か小説や戯曲を書くご予定は有りますか?」
「ええ、書くと云うよりは、書いてしまうかもしれません」
「じゃあ、次は、其処の方」
「あ、産経新聞の佐藤です。三島先生は自決の直前、憲法改正を訴えておりましたが、現状として、我が国は未だに憲法改正は成し遂げておりません。そのことに対して、何か憂慮と言いますか、三島さんはどうお考えに為られていますか?」
「あー、そうか、まだ改正していないんだな、じゃあ俺の死は無駄死にだったって訳だな、ハハハッ」
会場がドッと沸いた。私は其の様子をゆっくりと見渡した後で、
「そうだな、気骨の有る政治家が居ないのか、或いは日本国民が腑抜けてしまったのか、若しかしたらどっちもか、私にはまだ判断できません。しかし、私の思想、つまり、憲法改正をすべきだと云う主張は揺るぎなく、此れから何度死んでも変わらないでしょうね」
「じゃあ、次が最後と云うことで、其処の方」
「読売新聞の町田と申します。今三島さんの話を聞いていて、ふと疑問に思ったのですが、もしほんとうに憲法を改正したいのなら、三島さん自身が政治家に為ればいいのではないでしょうか? そのごつもりはないんでしょうか?」
「ハハッ、そんな気は微塵もございません。私は所詮物書きですから、此れから出来ることと言えば、唯小説を書くと云うことだけです。
もう楯の会のような活動も、しようとは考えておりません」
すべての質問が終ると、編集長が、
「じゃあこれでお開きと云うことで、三島さん、ありがとうございました」
と言い、私にお辞儀した。私はその姿を見て、彼に会釈しようかと思ったが、其れをせずに、席を立って、会場を後にした。
次の日から、私は旅館の一室に籠もり、執筆を始めた。かと云って、殊更何を書けばいいのか、皆目検討がつかぬ。私は気分転換にでも散歩に行こうと、部屋を出ると、女将が私のところへとやってきて、
「三島先生、これ、編集者さんが、」
「ん、何だ此れは?」
「ん、見る限りノートパソコンだと思いますが、」
私は何だかまた莫迦にされる気配を察知し、
「ああ、有難う」
とだけ言って、女将からノートパソコンなるものを受け取り、自分の泊まる部屋のテーブルの上に置いて、すこし眺めてみたが、使い方も判らなければ、何のために寄越したのかも判らず、結局ノートパソコンに触れることさえもなく、部屋を出た。
玄関から外へ出ると、中居が水を撒いているところであった。まだ日本も風情を喪っていないのかもしれない。
「なあ、」
「はい、なんでしょう?」
「ノートパソコンとは、何のことだ?」
「何のこと、何のことと云うのはどういうことですか?」
「だから、ノートパソコンと云うのは何に使うものなんだ?」
「え、えーとインターネットを観たり、其れこそ小説を書いたりするものだと思いますけど」
其れこそと言ったわけだから、この女は俺が三島由紀夫だと知っていると云うことか。なら話は早い。
「私は如何せん最新の物やことに疎い、すこし教えてくれないかね」
「ああ、はい、じゃあ具体的に何を知りたいですか?」
「何を……うーん、」
と私は自らの顎に手を遣り、一考した後、
「そうだな、スマートフォンというやつが在るだろう? あれは何なんだ?」
「えーと、何なんだと言われると説明に困りますが、まあノートパソコンの小っちゃいやつだと思っておけば間違いないと思います」
益々スマートフォンというものが何なのか、私には分からなく為ってしまった……。
「そうか、じゃあ、今の所はそれくらいかな」
「あ、はい、」
夕日が石畳を照らし、まだ六時だと云うのに、もう空は陰りだしている。
此の時代に対する、様々な疑問を残したまま、未だ辛うじて暑さの残る私の夏は、終わろうとしていた。――