彼とわたし
わたしが奴を許すことはない。
どのような理由であってもそれは揺らぐことはない。
それは奴がこの世に生を受けている限りではない。
奴が地に堕ち、それでも尚許しを乞うて来ても、わたしの気持ちに変化をきたすことはない。
奴は家族の敵、それ以上でもそれ以下でもない。
わたし自身、良家の出身と言うわけではなかった。
今思えばそこそこの土地で野菜を作って、そこそこの慎ましい暮らしをしていたと思う。
厳しい母、頼りになる父、強くて自慢の兄、どこまでも甘かった祖父母。
あのときはそれが当たり前だと思っていた。
今は復讐だ。
ただそれだけだ。
だからわたしは入隊したのだ。
辛い訓練にも耐えた。
非情な仲間の切り捨ても容認したし、上司からの嫌がらせにも耐えてきた。
髪は誤解を生みやすいように緑に染め、上官の命令も無視して今回の潜入作戦を行ったのだ。
どんなことをしてでも奴を討ち取るために。
それでも。
それでも、彼には酷なことをしたなと思ってしまう。
いや、今後のわたしは彼を殺したことを、きっと一生忘れることはできないだろう。
自身の目的のために、自身の復讐のために、わたしは彼を利用した。
彼自身も奴に手を貸し、あの方たちを利用したのだから貸し借り無しなのかもしれない。
しかし、それはそれだ。
彼にとってはそうせざるを得ない、何か重要な理由があったに違いないのだ。
それは確実だろう。
わたしは彼のそんな思いや考えを無視するのだ。
彼がどんな状況に置かれているのかは知らない。
しかし、あのときの言葉は、きっと一生耳に残って離れることはないだろう。
初めて出逢ったあのときのあの温もりは、きっとその身に一生残るだろう。
あれ自体は演技だ。
わたしをスイ・ドラゴルーツと勘違いしたまま、それを奴と再会させるために自身の妹として扱い、周囲に勘付かれるわけにはいかないとして絞り出した言葉だろう。
それでもだ。
そうだとしても、あの瞬間わたしは安心したのだ。
心の底から安心してしまった。
あんな拙い言葉でも、あんな名前の言葉でも、それでも安心してしまったのだ。
もう一度兄に会える、そんなありきたりな言葉で彼に心を許してしまった。
何故か。
何故かそのたった一言で、わたしは彼に気を許してしまった。
彼は微塵も気づいていないだろう。
だからこそ、あの瞬間まで、わたしが彼に短剣を突き刺すあの瞬間まで、こちらを疑うことはなかったのだ。
そうして現在彼は、わたしの目の前で蹲っている。
必死の抵抗なのか、奴は彼を抱え急上昇し、人質として利用するようではあったが、なんとかそれを妨げることには成功した。
『閃光』の魔法は竜種に対して、実際に効果があったという結果が表れたことにも嬉しさを感じるが、それ以上に彼を奴という害獣に手渡したくはなかった。
いくら竜種の手助けをしていようとも、それでも彼は人間だ。
とどめを刺すなら、せめて同じ人間からの方が彼の名誉も傷つくことはないだろう。
そして訓練通り忠実に、作戦通り的確に、弩槍砲台を『召喚』の魔法で展開、五基の一斉掃射により数本が命中、奴を墜落させることができた。
前回の襲撃とは異なり、今回は準備も体制も万端の状態で迎えることができた。
奇襲自体も成功だし、前回時には一時的な威力しか発揮できなかった槍にも、今回は毒物を仕込ませることで墜落させることもできた。
ここまでは作戦通りである。
第三者的には、ではあるが。
そう、わたしとしては彼に出会ったことで、作戦を既に破綻させてしまっているのだ。
ターゲットに対して心を許した。
それだけで判断は鈍っていたのだ。
本来なら、奴を空から降ろすまでもなく出会い頭に、『召喚』を使うべきだったのだ。
本来なら、彼の脇腹ではなく、胸を一突きにするべきだったのだ。
そうして本来なら今、最後の言葉を彼に問うべきではないのだ。
話しかけるこちらを虚ろな表情で見つめている彼。
俯せのまま苦し気に口を動かしている。
何故訊いてしまったのだろうか。
きっとこれも彼への気の緩みだ。
憐れんでしまったのかもしれない。
自分は見届けることができなかった、そのことへの、せめてもの償いなのかもしれない。
「君の名前は?」
震える声で言った彼は問うてきた。
答えるころには尽きているかもしれない、そのわずかな命をわたしの本名を知るために使ってきたのだ。
恨み言の一つでも言ってくれた方が良かった。
どうしてそんなにも申し訳なさそうな顔をしているのだ。
どうしてもっとわたしを恨んでくれないのだ。
「わたしは……」
答えようと口を開き、言葉を紡ぐ。
彼の瞼は既に覆いきってしまっていたが、それでも関係ない。
それが彼の最後の望みだというのなら、きちんと答えるのが義の通し方だ。
そう思い、わたしはわたしの名前を口にする。
「ぐはっ!!」
後方から呻き声が上がった。
自身の名を告げる直前に、わたしの部下の悲痛な声が耳に届いたのだ。
急いで魔具「送声盤」を起動させる。
昨今の魔具の開発は著しい。
数十年ほど前まではこのような道具誰も考えつかなかったであろうものが、ここ最近普及し始めている。
この「送声盤」もその一つだ。
大柄の人物ならその手に収まるほどの大きさしかない板ではあるが、その実、遠方からの音声を送受信することができる装置となっている。
今でも書簡というのは連絡手段の一つとして成立しているが、それでも利便性という点においては「送声盤」を超えるものは存在しないだろう。
使い方はとっても簡単。
耳元に添え魔力を流すだけ。
それだけで、同型機を使用している者と通信を介することができる。
「報告を!」
反応が無い。
いや、そんな筈はない。
自身の部隊の編成は十六人。
わたしを含めなければ十五人もの、対竜種に特化した隊となっているのだ。
それが一瞬にして全員と連絡が取れなくなる、そんなことはあり得ない。
仮に他の魔物が襲ってきても問題はない。
対処はできるように訓練してきたのだ。
では、奴の仲間か?
確かに、もう一体別の竜種がいたのなら話は変わってくる。
一つの部隊で対応できるのは一体までだ。
それ以上ともなると規模や編成を変化させねばならない。
しかしこれもないだろう。
竜種は接敵するとき耳を劈くような咆哮をあげる。
彼を刺したときも奴はそれを行った。
つまり威嚇に近いものなのだろう。
だが今回はというと。
後方からの音声は途切れたが、咆哮は聞こえてこない。
では何だというのだ。
『そ、総隊長……』
かすれた声が「送声盤」から発されてきた。
二番隊長チョウジの声だ。
「どうした? 何があった?」
極めて冷静に努める。
部隊を束ねるべきわたし自身が、不測の事態において慌てるべきではない。
むしろ第三者の介入は第一に用心してきているのだ。
これは予想通りの出来事と言ってしまっても過言ではない。
ただしそれは、
『こ、後方部隊十四名は……全滅です……』
生存が前提の話だ。
言葉を詰まざるを得ない。
驚愕だ。
対竜種に特化した部隊ではあるが、しかしそれでも一般的な魔物との対抗を怠ってはいない。
それこそ最も下級であるとされるスライムやゴブリン、中級種のオークやビッグリザード、巨大種のクラーケンや幻霊種のハイゴーストなど、多種多様な魔物を冒険者組合から身分を詐称して討伐を引き受け、実践演習を行ってきたのだ。
また、この町周辺の草原地帯には、そもそも魔物と呼ばれるものの絶対数は少ない。
竜種の活動が特に活発なこの地域においては、それが一種の牽制となり魔物の行動領域を狭めている。
竜種はここら一帯の空を制しているのに対し、その他多くの魔物は町から遠く離れた森林地帯に鳴りを潜められているのだ。
だからこそあのお方も、この地を活動拠点とし町の発展に貢献した。
故に油断が無かったとは言わない。
しかし、それでもだ。
それでも、わたしの部隊はここいらの魔物に後れを取るような、やわな魔法を使用するわけでもなければ肉体を形成してもいない。
では、一体。
「正体は何だ? 襲撃は一体何によって行われた?」
言葉が返ってくることに期待はしていない。
これはあくまでも、自身の気持ちがそのまま言葉になってしまった結果だ。
他が全滅したのであれば、当然チョウジの身も危険に晒されたはず。
そんな中、こちらの質問には答えられないだろう。
それに後方部隊が反撃するような、爆裂音や戦闘音などは届いてきていない。
つまり反応する間もなく襲撃されたと見るべきだ。
襲撃元の姿形はおろか、どの時点で襲われたかも判別できていない可能性は非常に高い。
しかし、
『た、隊長、女です』
予想に反して言葉が返ってきた。
女?
女と言ったか? 今?
「雌」ではなく「女」?
つまり魔物ではなく人間ということ。
対人は確かに全くと言っていいほど想定はしていなかった。
だからと言ってそれはそれで意味が解らない。
なぜ女?
コーラルか?
あの女狐が男を取り戻すために追ってきたとか?
いや、それは無い。
わたしの偽装を黙って見ていたのだぞ?
彼の味方だというのなら、あのときわたしの嘘を彼に伝えることが正しい行いだ。
なら、
『ぎ、銀髪の女です。気をつけてくださ』
言葉の最後を聞くまでも無く、音声は聞こえなくなった。
送られてきた言葉が途切れたのでは無い。
「送声盤」を持つわたしの腕がわたしから離れていったのだ。
弩槍砲台は造語です。
そんな言葉は存在しません。




