俺とドラゴン
『なんだ?
今どきの童は、目上の者に対して挨拶もできないのか?』
ドラゴンが至極まっとうなこと言ってる。
土煙が晴れ、俺に対して話しかけていたドラゴンの形も、よりわかりやすく見えるようになった。
巨大な翼に巨木のような脚。太く唸る巨大な尾。
身長としては三メートルと言ったところだろうが、全長にしたら五メートルはあるかもしれない体躯。
全身を真っ赤な鱗に覆われ、額には二本の角を生やしている。
いわゆる「西洋竜」と言うやつだ。
翼を持つ巨大なトカゲなだけかもしれない。
そして、そんなおとぎ話に出てくるような存在が、左隣であぐらをかいて、俺に対して挨拶を求めているのだ。
挨拶。
挨拶?
ドラゴンが挨拶?
「ふぅ……」
一息ついて思う。
ーーもう俺ダメなんだな。
脱水症状を起こしたからだろう、頭がバカになっているのだ。
これならまだ異世界にやってきた夢を見ている方が、よっぽど現実的だ。
さっきは否定したが、まだ夢の可能性は十二分に存在するようだ。
むしろ、夢の線が濃くなったと言える。
確かに、脱水症状になったときの体の変調はリアルだった。
気分は悪かったし、吐き気も十分だったし、その上吐きかけたし。
でも、あれさえも夢だとしたら。
今、ドラゴンが語りかけてきたことだって、十分辻褄が合う。
まあ夢だったとしたら、どれだけ俺の脳内は自殺願望があるのかって話だけど……。
『……い』
でも、夢にしては絶望感がハンパじゃなかった。
死の瀬戸際が垣間見れたというか。
三途の川を危うく渡りかけたと言うか。
『……ぉい』
でも、それさえもイメージだとしたら。
疑心暗鬼になりっぱなしでいきていけそうにもないようn
『おい!』
「はい!」
はっと意識を戻す。
そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃない。
…………どんな場合だっけ?
『挨拶。オレはそんなに厳しく言うつもりはないが、オレ以外は何を言うかわからん。
だから、練習だと思って、今ここでしておいた方がいい』
そうだ、挨拶。
学校においてもバイト先においても、よく指摘されていたことではないか。
何事も正しい挨拶をすれば上手くいく。
初対面の相手なら尚更だ。
ドラゴンであっても人間であってもそれは違いはないはずだ。
そう思い俺は、素早くその場に立ち上がり、斜め四十五度にドラゴンに向かって頭を下げる。
「おはようございます!」
「……」
ん? おかしい、返答がない。
否、おかしいのは俺の挨拶の方か。
こんな真昼間に、おはようございますなんて挨拶は適当ではなかったかもしれない。
しかも、今俺は命を救ってもらった身だ。
そんな挨拶より先に言うべきことがある。
「え、と。あ、ありがとうございました!」
「……」
反応がない。
おかしい、何が違うのだろうか?
しかし、聞くに聞けない。
「どこがおかしいのか」、それを聞くこと自体は非常に簡単なことだ。言葉に発してしまえばいいのだから。
しかし、それでは自分の無知さ加減を、初対面の相手に露呈させてしまう形になってしまう。
無論、相手に言わせる形だとしても、無知さの露呈は免れない。
だが、それを自分から行うのは少し気が引けてしまう。
いやむしろ、こういうことは自分から積極的に行った方がいいのかもしれない。
でも、それで自分のバカさ加減を相手に教えるのは少し気後れするというか。
だけどやらないよりはマシなのかも
『なあ、童よ』
そんなことをうだうだと考えているうちに、唐突にドラゴンに声をかけられた。
表情を見る限り、怒っている感じではないのだが、イラついているようには見える。
『お前、人竜だろう?』
「…………はい?」
いきなり知らない単語だ。
これでわかった、完全に異世界だ。
意味もわからない言葉が、夢の中に勝手に出てくるはずがない。
そう解釈し、しかし、ドラゴンからの問いには間の抜けた声での返答しかできなかった。
『なるほど、自身の生まれさえ把握していないか。
つまり、お前の両親はお前を人間として育てたという……
わからない話ではない』
だが、ドラゴンの方はそれを拡大解釈していた。
単語を理解していない→親から教わっていない→親が隠している、と言ったようなところか。
実際は、単語を理解していない→この辺の人間ではない→「お前はどこから来たのだ?」、とでも聞かれれば支障なく話を進めることができたのだが。
でもここは会話を合わせた方がいいだろう。
その方が、自分の置かれている状況も理解しやすい。
『なら、オレが教えよう。
竜族に対する挨拶はこうだ。
右手を左胸に添えて、「竜神様のために」。これだけだ』
「え、あ、その、俺、じゃなくて僕、その、人間といいますか、人竜じゃないと言いますか……」
『「竜神様のために」だ。やってみなさい』
促されるまま真似をした。
「りゅ、竜神様のために……」
『初めてにしては、なかなか綺麗にできているじゃないか。
これでいつ何時、オレ以外の竜族から声をかけられても大丈夫だな』
「あ、その、はい、そうですね……」
丸め込まれてしまった感が否めない。
さて、ここから先の展開は大体予想がつく。
今、俺の身なりは制服だ。
学校指定のワイシャツに、下はスラックス。
運動部でもないので靴はローファー。
この異世界がどのような世界設定かは知らないが、科学力も文明力もおそらく低い。
否、低く考えておいた方がいいだろう。
定番の設定としては中世レベル。
ドラゴンがこんな風に日本語を話していることを鑑みて、武力の象徴は剣や魔法、
モンスターを狩って生計をたてている者もいる、と考えるべきだろう。
なら、当然のことながらこの格好は、奇異の目で見られることは違いない。
漂白剤なんてものが存在しない世界で、真っ白なシャツなんて珍しい以外のなにものでもないだろうし、
綺麗に保たれた靴というのも、貴族でなければ難しい筈だ。
だとすれば、この服装を見たドラゴンからは
『童、お前の服装はこの辺りのものではないな?
どこから来た?』
と、聞かれるに違いない。
そうした際に言うとすれば
「ここからずっと東の島国です。異国との交流が少ない土地ですので、知らないとは思いますが」
と答えれば恐らく問題はない。
その後は流れに身を任せればいいだろう。
一緒に姫を助けに行こうとかでも、モンスターをハントしに行こうとかでも、リーダーを倒してチャンピオンになろうとかでも、村長になってくださいとかでも問題なくできる筈だ。
『ときに童』
はい! わかってますとも!
東の島国から来た旅人です!
『その服装から鑑みるに、お前、異世界人との交流があるのか?』
「異国との交流が少なくてですね……え?」
『ん? 異国? 何の話だ?』
あれ? ミスった。
確かに相手が話している途中から、自分の想像に言葉を乗せてしまった感があるけれど……
いやそこじゃない。どういうことだ?
テンプレを逸脱した? 何で?
しかも何だ? 異世界人?
あれ? 普通この流れだったら、俺は異世界から来た人間だって隠しておくのが、定石なんじゃないか?
「え、と。い、異世界人? ですか?」
『ん? 知らないのか? しかし服装はそれに近いものがあるが……まぁ、そういうこともあるか』
勝手に納得された。
こちとら全然理解が追いついていないわけですけどね。
でも、よくよく思い返せばさっきこのドラゴン、「異世界人との交流」って言ってたよな。
つまり、俺のことは普通にこっちの世界の人間だと思っているわけだな。
それはそれで安心できることだ。
ただ疑念自体は全く晴れない。
しかも、展開も見えない。
次の言葉が見当たらない。
『童よ』
今度はしっかりとした口調で言葉が発された。
こちらの返事を待ち、それ次第で言葉を選ぶようだ。
まぁ、そんな意図がわかってたとしても、
「え、えと、はい、なんでしょう?」
としか、答える他ないんだけども。
ドラゴンの表情が、この数分の間に完全に理解できたとは言えないが、しかし、神妙な面持ちであることはわかった。
どうやら深刻な話らしい。
『お前の命の恩人は誰だ?』
それを言うなら恩竜じゃない? とは、口が裂けても言えない。
というか、なんて図々しい物言いなんだろうか。
確かに助けてもらったことには、感謝してるけれども。
そんな念を押すような言い方はどうかと思う。
「あ、あなたです……」
少し声が小さかったかもしれない。
顔怖いししょうがない。
『では童、その恩義に報いて貰いたい』
まぁ、そう来ることは予想してましたけどさ。
何がしかの要求はされると、最初から思っていた。
否。むしろ、何の要求もなく助けてくれる方が、胡散臭いというものだ。
自分には何の特別性もあるわけじゃない。
それなのに、無償で助けてくれるなどというのは、ただの偽善者か、裏に何かがあるかしか考えられない。
だからこそ、こんな感じに自分から「何かして欲しい」と言ってもらえるのは、そういう疑念を晴らすのにおいて、最も簡単な行動だとは思う。
しかし、
ーー直球過ぎね?
このドラゴン、どうも歯に衣着せぬ物言いが標準らしい。
日本社会ではやっていけないだろう。
欧州圏はギリ大丈夫かもしれないが。
「えと、は、はい。何でしょうか?」
ここは従順にしておくのが良いだろう。
変に反抗的な態度をとって、今後の関係をわざわざ悪化させる必要もない。
『すまない。
手間かもしれないが、オレの左側へ回ってくれないだろうか』
頷き、そのまま四つん這いになって背後から移動する。
あまり凝視すべきではないと思うが、しかし、何となく観察せずにはいられない。
このドラゴン、見た目の割に筋肉量はさほどではないように思える。
無論、巨大であることは間違いない。
人間などひとたまりもないであろう腕や脚、鋭い牙に爪、強固そうな鱗。どれをとっても規格外だ。
しかしどうにも、イメージよりも細く小さく感じた。
例えば腕。巨木のようではあるが、強さと言うよりは、若干の弱々しさを感じてしまう。
往年のスターの引退後というか。
カッコよさよりも、それを使って何かを覆い隠そうとするようなそんな感じが。
言うなれば病弱。
弱っているように見える。
否、弱っていた。
明確に。
わかりすぎるほどに。
大きな背中を観察している途中で気づいた。
異様なものが、明らかにドラゴンのものではない異質なものが、その強靭であるはずの鱗をすり抜け生えていた。
いや、刺さっていた。
『手間をかけるが頼まれてほしい
それを抜いてくれ』
巨大な槍がその背中を刺し貫いていたのである。