ピー・カー・ブー!
カサブランカの花が咲いている。じわりと花弁に滲む赤。白い縁取り。
ロベルトマリン郊外チェダース三番ブロック。蜘蛛が巣を張るような薄汚れた路地裏の事務所でボル・ブロワ―は絶叫した。
「Fu○k! このフニャチン野郎、ここを開けなさいよ!」
草臥れた木のドアを蹴っ飛ばすボル。見た目はクールビューティな彼女だがパンチ一発で鉄板を曲げる。そのボルが蹴っ飛ばしてもダメなのだ。見た目通りのドアじゃない。
「セニョリータ、君が暴れないと約束してくれるなら」
「暴れるに決まってるでしょ! アドは無事なんでしょうね?!」
「この名に誓って、あの子を傷付けたりしない」
ドアの外、気取った様子で答えるのはジョン・クレイドル。ボルは忌々しい勘違いコスプレ野郎の言葉に一先ず安堵の息を吐く。
この男の目的が何であろうと少なくともアドニスを傷付ける理由は無い。信用ではなく計算だ。
「……ふん!」
どがしゃ。古ぼけた椅子をドアに叩き付ける。当然のようにびくともしない。
「あー……、落ち着いたら話をしよう。買い出しに行ってくる。腹が減ったら冷蔵庫の中の物をどうぞ」
「逃げんな! アタシが怖いの?」
「そうだな。君は背筋が震えるくらいに美しい」
「Fu○k! 蹴っ飛ばしてやる! アンタのカン・フーなんて右ストレートで一発よ!」
それはまた後にしよう。ジョンは小さく笑いながら立ち去った。ボルは喚いた。
「出せーっ!」
やれやれ困ったぜ。ジョンはテンガロンハットを被り直しながらぼやく。
通りに出てオータム・ハンターを起動。黒いボディが震え、ガルウィングドアが持ち上がる。
「ヘイ、ジョン!」
「ん? シビル! 今日もチャーミングだな。今から出勤かい?」
乗り込もうとした所に声が掛かる。向かいのアパートの屋上で鱗の生えた女、シビルが手を振っている。
シビルは自分の周囲にフライパックと呼ばれる小型の飛行撮影機を飛ばして写真撮影をしていたらしい。被写体は彼女自身。
そのシビルは南側を指差した。
「お友達が沢山ね。パーティするんだったらウチの店を使ってよ」
黒塗りの車に黒スーツの男達。チェダース地区を牛耳るマフィア、サマリアのソルジャー達だ。
問題はそのサマリア・ソルジャーズがどうしてこんなとこで張り込んでいるか、である。
ジョンはシビルに手を振る。
「あー、そうだな。是非そうさせてもらうぜ」
直後オータム・ハンターに乗り込んで緊急発進。エネルギーガンの斉射が始まったのはほぼ同時だった。
――
肌寒い風が吹く。ダッフルコートを調達したメイア・シックスはそれをアドニスに被せながら微笑んだ。
そう、微笑んだ。少なくともメイア自身はそのつもりだ。
「わぷ! ……ねぇ、ボルは?」
「怒っていらっしゃいます。暫くはそっとしておいた方がよいかと」
「ジョンは?」
「こちらに向かっています」
「何て言ってるの?」
「私と同意見です」
アドニスはうーんと考え込んだ。この少年にとってボルは冷たくて薄暗い研究所の中、家族のように親身になってくれた人物である。
「大丈夫です、ミスタ・ポートマン。彼女に酷い事はしない筈です」
「うん、分かってる」
灰色の雲をネオンが照らす。スプレーで落書きされた壁。空に浮かぶ映像ウィンドウ投影用飛行機。それらはどれも下品な客寄せをしている。
赤い、人を不安にさせる色形をしたミラーボールのようなオブジェの横を通り抜けると少し落ち着いた場所に出る。
メイアの目的はその地区にあるスーパーマーケット。そこではワニの亜人が何事か怒鳴っている。
「だから! 昨日は半分以下の値段だったろうが! 今日の朝も! 俺の面を見た途端値札を変えやがっただろう!」
猫耳、猫っ鼻の猫男がやれやれ、と肩を竦めた後ハイキックを繰り出す。ワニ男の口がひん曲がってぶっ飛んだ。
スーパーマーケットの外まで転がり出たワニ男にとどめを刺し、ふんと鼻を鳴らす。
猫男は茶色の毛並みを整えた後マーケットの青い制服に着いた返り血を払った。
「失せろ玉無し野郎。……メイアか、今日はあのクソッタレはどうした」
エプロンスカートを優雅に摘まんで一礼するメイア。
「ごきげんようミスタ・キッドマン。今日もセクシーですね。
ジョンは別件です。直ぐに追い付くかと」
「そのガキは?」
猫男、キッドマンは琥珀色の縦に割れた瞳でアドニスを睨む。
アドニスは金髪はふるふると揺らしながらメイアの後ろに隠れた。キッドマンの目付きは人殺しのそれだ。
「こちらはミスタ・ポートマン。現在の私の護衛対象です」
「ふん? 飯の種って訳か。お前らの事だ。またデカいヤマを嗅ぎつけたんだろう」
アドニスは勇気を振り絞って顔を覗かせた。
「ここ、こんにちは。良い天気ですね」
キッドマンは空を見上げた。相変わらず汚染物質に覆われた灰色の空だ。昨日も一昨日もその前もこんな空だった。キッドマンは皮肉気に笑った。
「あぁこんにちはボーイ。良い天気だ。必要なら俺の店へどうぞ」
「あああ、ありがとう」
キッドマンはワニ男を蹴り転がして財布を抜いた。クリーニング代ぐらいは貰っておかねばならないのだ。
直後、キッドマンは財布を放り捨ててワニ男を更に蹴る。革靴の先から嫌な音が響く。
「コイツ、無一文で俺の店に来やがったのか!」
ハナから難癖付ける気だったな?! そう怒鳴る猫男の後ろをメイアとアドニスは通り抜けた。
「……個性的な人だね」
「チェダース地区で最も信頼の置けるマーケットのオーナーです」
「信頼?」
「えぇ。複数の意味で」
薄汚れたブロックにあるが店内は意外にも清潔だった。客足も多くそれなりに賑わっている。
「キッドマンは自分の毛が落ちないよう常に気を配っています。また、落ちても直ぐに清掃できるようにしています」
マーケットの隅には清掃ロボットが常に待機していた。それも複数個所に。
「こんな風に買い物するのって凄く久しぶり!」
「そうでしたか」
プラチナブロンドを揺らしながらメイアがアドニスを見る。
見上げるアドニスは目をキラキラさせている。
「ずっとママと会えなかったから……」
「ミスタ・ポートマンとお買い物出来て嬉しいです。
後で画材を一式買いに行きましょう」
「それって僕の為?」
「絵がお好きと聞いています」
「へへ、ありがとう」
メイアの慰めにアドニスは無邪気に笑った。
アドニスはパプリカを籠に入れながら訪ねる。
「ねぇ、ジョンは……僕をママに会わせてくれるって」
「はい。必ず貴方をお連れします」
「い、いつぐらいになりそう?」
メイアは気遣うようにゆっくりと答えた。
「このチェダース地区はアウトローの力が強い地区です。暫くは此処で身を隠す必要があります」
「僕達って狙われてるんだよね」
それぐらいはアドニスにも分かる。ジョン・クレイドルは軍の研究所を襲撃してアドニスを連れ出した。追手が掛からない筈がない。
「ジョンと私がミスタ・ポートマンをガードします」
「す、すっげー……! ジョン・クレイドルが僕のボディガードだ」
メイアは少し沈黙した。口を真一文字に引き結んでいる。
「私もです、ミスタ・ポートマン」
「あ、ごめん。うん、ありがとう。凄くうれしいよ」
メイアは口端だけを吊り上げる無機質な笑みを作って言う。
ジョークです。
グレイメタルドールのジョークって分かり難いなぁ。アドニスは唸った。
そんな事を考えているとアドニスの肩がマーケットの客とぶつかった。
ビスケット類の棚を眺めていたらしい太った男はアドニスを振り返る。
焦げ茶の体毛。短い手足に太い胴体。ストライプのシャツがポップで優し気な印象を醸し出す。
熊だ。ベアだ。動物的特徴が強く表れているタイプの亜人らしい。アドニスはほあー、と男を見上げた。
「あぁすまん邪魔だったかな。……おや、メイア君」
「ごきげんようミスタ・ミグノン」
ミグノンと呼ばれた大男はメイアに挨拶し、アドニスにもにっこり笑いかけた。
つられてアドニスも笑い返す。ミグノンはうんと頷く。
「久しぶりだね。仕事の方は順調かな?」
「いつも通りです。……ミスタ・ポートマン、こちらへ」
メイアはアドニスに籠を渡して自らの背後へと導いた。
アドニスは首を傾げた。メイアが存外強い力で自分を引っ張ったからだ。
「? どうかしたのかい?」
「いえ、特には。ミスタ・ミグノンは……おやつの買い溜めですか?」
「そうそう。ウィリーキンバーから新しいビスケットが出てね。これが美味しくて美味しくて。
医者は止めろって言うけど無理だよね、ウィスキーとビスケットは」
大らかに笑う熊の亜人、ファットマン・ミグノン。首回りのふさふさの毛を撫でつける彼にメイアはそうですかと一つ頷き、アドニスを振り返る。
「ミスタ、伏せていて下さい」
「ほら、これだよ」
ミグノンが籠に手を突っ込むと、そこには無骨なパルスグレネードが握られていた。
緑色の光が放射状に広がり奇妙な焦げ臭さが鼻を突く。
マーケットの冷蔵設備が機能を停止し、店内の照明が一部ダウンした。
マーケット内の客は慌てず騒がず、或いは舌打ちしながら遠ざかる。荒事には慣れっこの国民性もここまで来ると恐ろしい。
「メイア!」
アドニスが叫ぶ。大熊とメイアが組み合う。
体格の差は歴然としていたがメイアは小揺るぎもせず、事も無げに言った。
「私には」
「イィィヤッ!」
ミグノンの膝蹴り。巨体に似合わぬ俊敏さ。鳩尾の部分に突き刺さるがけろりとしている。
「有効な装備、戦術ではありません」
「そりゃ残念だ!」
ガオオ! 組み合ったまま顎を開いてメイアの喉を一噛みにしようとするも、ヘッドバッドで手痛い反撃を受ける。
仰け反ったミグノンが呻きながら腰に手をやる。服の裏側に大振りのナイフが隠されていた。
逆手に持ったナイフが閃く。やはり早い。が、メイアの性能を上回る物ではなかった。
メイアの白く細い指がナイフを掴んだかと思うと、次の瞬間には圧し折った。
大熊の間抜け面。
「冗談だろ? オカモトテックの合金ナイフなんだけど……ぬわぁぁぁぁッ!」
ミグノンが折れたナイフを見て唖然としているところ、その大きな腹にメイアの掌底が減り込んだ。
太った体が陳列棚を薙ぎ倒し、空中で一回転してからトマトの海に突っ込む。
「い、い、今のは」
「狙いは貴方かと。この地区には軍も早々手を出せません。だから彼が雇われた。
……想定より二日早いですが」
しれっと言うメイア。キッドマンが猫っ鼻を怒りで歪ませながら現れる。
「俺の店で何してやがる」
「ミスタ・キッドマン、お代はそちらの方から」
照明が復旧し、店内に明るさが戻る。ばらばらになった陳列棚と巻き込まれた客が数名。キッドマン以外の店員達は何事も無かったかのように営業を続けている。
火事場泥棒なんて珍しくも無いからだ。一つの事にかまけていられないのである。
「テメェの制御回路はジャンクかメイア。次俺の店をぶっ壊したら今度こそ容赦しねぇと言った筈だ」
「正当防衛です」
潰れたトマトの海の中で巨体が跳ねる。ミグノンの手の中には小さな銃が握られている。
暴徒鎮圧用のスタンガンだ。人間の爪程度の大きさのニードルを発射し、目標に刺さると電気を流して無力化する。
メイアに向けて二射。腹と胸。
「しびびびびび!」
「め、メイア、大丈夫?!」
何がどうしてこうなったか状況を察したキッドマンは猫の俊敏性を生かして跳躍する。
彼は相手が誰であろうと(何であろうと)自分のマーケットを荒らす不届き者を許しはしない。
ミグノンは敵対する気配を見せたキッドマンにもスタンニードルを発射するが、素早過ぎてとても中てられない。
空中でくるりと一回転。華麗な突き蹴りが炸裂。ぐえぇと胃を押さえながら倒れるミグノン。キッドマンは舌打ちしながら言った。
「マーケット・キッドマンで銃を抜いたらどうなるか、ママに習わなかったのか?」
「ま……ママはいつも、仕事で忙しくてね」
「なら来世ではまともな親に産んでもらえるよう祈れ」
倒れ伏す熊に容赦のない踵落とし。顔をぺちゃんこにしてミグノンは失神した。
「お手間を取らせました、ミスタ・キッドマン」
スタンニードルを引っこ抜いたメイアがアドニスを背後に庇いながらミグノンの様子を窺う。
「諸々コイツに請求しろって?」
「そうして頂けると有難いのですが」
「ジョンは? お前のオーナーにもきっちり話をしとかないとな」
「もう直ぐです」
メイアは壊れたマーケット内の設備を見遣って話題を変える。
「やはり、店内をオートメーション化した方がよいのでは?」
「金が溜まりゃそうするさ。他所の店みてぇに、スイッチ一つで物が出てくるようにな」
お前らが毎度荒らしてくれるから中々上手く行かねぇが。
キッドマンがぼやきながら携帯端末を操作する。待機状態だった清掃ロボットが動き始めて散乱した品物の回収を始めた。
「オータム・ハンターの接近を検知」
唐突にメイアが言った。アドニスが見上げてくる。
「……カーチェイス中のようです」
キッドマンが頭痛に耐えるように額を押さえた。
「お前らが追われてる時は、いつも大体俺の店が吹っ飛ぶ」
「いつも修繕費の取り立てに協力しているではありませんか」
「ぶっ壊されたいか、ファッキンダッチワイフ」
キッドマンがトラジマの尻尾をぶんぶん振ってメイアを威嚇した時、マーケットの入り口から破砕音が聞こえた。
割れたガラスが飛び散り客の悲鳴がこだまする。エネルギーガンの毒々しい光とビニールを燃やしたような嫌な臭い。
「あぁぁクソッタレ」
キッドマンが駆け出す。メイアもアドニスを促して共に駆け出した。
マーケット・キッドマンの入り口を突き破って黒塗りのエアカーが店舗を滅茶苦茶にしていた。
フロントガラスは割れており、運転席では黒いスーツの亜人が血を流して気絶している。
後部座席から転がるように降りた、こちらも黒いスーツの男がマーケットの外に向かってエネルギーガンを発射した。
それに全く恐れを成さず破壊された入り口から飛び込んできたのはジョン・クレイドル。
「ヘイ、この下手糞! よく狙えよほら、……ピー・カー・ブー!!」
いないいないばぁ。そしてとんとん、と自分の眉間を指し示す。スーツの男は屈辱に顔を歪めながらジョンの思惑に乗って眉間を狙う。
ジョンの口端がニタリと吊り上がる。男がエネルギーガンのトリガーを引く呼吸を読み、体を捻った。
避けた。ジョンの蟀谷をかすめて光弾が飛んで行く。何時の間にやらジョンの手にはナイフが握られており、彼は回避と同時にそれを投げていた。
男の右肩に突き刺さるナイフ。そこにキッドマンが跳躍していた。
後頭部に膝蹴り。男は絶叫して崩れ落ちる。
ジョンは埃を払ってハットを被り直す。
「悪いなキッド。店を壊したのは俺じゃないが一応謝っておくぜ。……所で十円ハゲは治ったか?」
「良いかクソ野郎、今、俺に、詰まらないジョークを一言でも、言うな。怒りを抑えてる所だ。
……で、この義務教育を受け損なったボケどもはどこから来たんだ? ゴミ捨て場か?」
「ジョン!」
アドニスが走ってきてジョンに飛び付いた。ジョンは危なげなくそれを受け止め、軽々頭上に持ち上げて肩車する。
「ようアドニス、そっちは……」
ジョンは荒らされた店内と転がっているミグノンを見つけた。
「……中々素敵なアトラクションだったらしいな」
「メイアが凄く強かったんだ」
「当然だ。ニンジャやアサシンでもアイツにゃ勝てない」
そのメイアが進み出てきて倒れた男のスーツからバッジを引き剥がす。
大きく実った麦穂のエンブレム。
「”サマリア”の構成員のようです」
「まぁ、そうか。チェダース街で好き勝手出来るのは連中だけだ」
「ミスタ・キッドマン。どうされますか?」
キッドマンは深く深く深呼吸した。
「例えマフィアが相手でも、損害賠償に関して話をする必要がある」
――
ボルは事務所内を漁り、クラシカルな黒檀の机の上の情報端末にアクセスすることに成功していた。
一応のガードは施されていたがボルはそういうのを誤魔化す手管に長けている。それに彼女が手首に付けている銀のリングは、”そういった事”にも向いていた。
「あいつら一体何なのよ。馬鹿みたいに扉をガンガンガンガン。まぁあたしの家じゃないから良いけどさ」
ボルは監視カメラの映像を確認する。ジョンの事務所の扉をこじ開けようとスーツの男達が四苦八苦しているが、上手く行っていないようだ。
開いて欲しいが、開いて欲しくない。今すぐこんな所を出てアドニスを探すか、或いは上役に連絡を取らねばならないが……。
今の状況で扉が開いたら、まずあの友好的でないスーツの男達に対処する必要がある。
どうみてもお茶会を開いて談笑する流れではない。
ボルは一先ず目先の問題を置いて情報端末の中身を精査した。
「へぇ、トランスポーターね。まさに”ジョン・クレイドル”な訳だ」
仕事の履歴やメールの内容。確認出来る限りではあのコスプレ男は、運び屋として危険なヤマに幾つも関わっている。
「(でも本当にヤバそうな情報はこの端末には無い。頭の中身は見た目ほど間抜けじゃ無いのね)」
それと奴の身元に関する情報も。
一番古い情報は一年と九ヶ月前。匿名のスポンサーから出資を受けて事務所を開設。最初の仕事は……。
「子犬の送迎……。ぶっくく」
あの格好つけのナルシストの初仕事は、どこぞの金持ちのペットを送り迎えする事だったようだ。
一生小銭を稼いで暮らしてれば良いのに。そう悪態を着いていたら、メール機能がONになった。
新着のメールが空間投影型ウィンドウに表示される。ボルはそれにタッチして内容を確認した。
「サマリア?」
どうやらチンケな暴力団から脅迫まがいのメールが届いたらしい。
内容はジョンの仕事に関して話がしたいと、率直でない言い方に留まっている。
しかし流し読みする内にボルは顔色を変えた。文面に「お前の連れているガキ」という単語が出てきたのだ。
「(このサマリアとか言うのがジョン・クレイドルのクライアント……?)」
古臭いマフィアにアドニスを狙う理由があるとは思えないが、少なくともこの件に関わっているのは間違いない。
ボルは事務所の扉を今度こそこじ開ける事に決めた。ついでに、外で喚いている能無しどもを片付ける事も。
――
「伝統あるファミリーを自称する連中だ。自分達は名誉ある男だと本気で思ってる」
「今まではフレンドリーにやってこれたが、それもここまでらしい。残念だ」
オータム・ハンターを飛ばしながら肩を竦めるジョン。キッドマンが助手席で葉巻を銜えるのを見遣る。
「…………チッ」
キッドマンは忌々しそうにシガーケースを開きもう一本葉巻を取り出した。
それをジョンに銜えさせマッチを擦る。二人の遣り取りを見ていたアドニスは何だか素敵な物を見た気分になった。
「(なんかオトナって感じ)」
マッチなんて、実物を見るのは生まれて初めてかもしれない。今時こんなクラシックな物を使う人は居ないよ。
濃い煙が立ち上る。ジョンはオータム・ハンターの窓を開けた。忽ち煙が冷たい風に流されて行く。
「オイ、窓を開けたら煙が逃げる」
「逃がしてるんだ」
「俺が何のために葉巻をやってるか分からねぇのか。香りを楽しむんだ。
あぁクソ、エアリムーバーを付けろ。ヘドロみてぇな臭いが入って来やがった」
「後でな」
「おいジョン」
「アドニスも居るんだ。少しは譲れ」
キッドマンはバックミラー越しにアドニスと視線を交わす。
「ナチュラルヒューマンなんだろ。薬や汚染物質への耐性は俺の比じゃねぇ。副流煙如きでどうにかなるかよ」
「だとしても生育によくないからな」
「笑わせるぜ。世の中もっと良くない物で満ち溢れてる」
猫の亜人であるキッドマンと違い、純粋な人類であるアドニスは化学物質や細菌等に対し高い抵抗力を持っている。
今の時代のヒューマンはタフでなければやっていけないのだ。
「ジョン、僕も吸ってみたい」
「ダメです、ミスタ・ポートマン」
「えぇー」
「ダメです」
頑として譲らないメイア。タバコは二十歳を過ぎてから。メイアお姉さんとの約束である。
「しかしサマリアはどうしてお前にちょっかいを?」
「アドニスさ」
「ガキが? コイツ、マフィアの関係者か」
「いや違う。軍に狙われてる。だがチェダースでは奴らは自由に動けない」
「……だからサマリア。マフィアが軍のペットになったって事か」
その件に関して話をしに行くのさ。
ジョンの返答にキッドマンはそれ以上興味を示さなかった。店の修繕費さえ出してもらえれば後は何でも構わない。
空路交通法を無視してスカイロードを疾走するオータム・ハンター。空に敷かれた光の道の外側を、震える黒いボディが駆け抜けていく。
120階立ての超高層ビルの間を縫い、とあるフローティング・バーに乗り付ける。
「まだ昼過ぎだ。太陽が高いと……風情って奴が無いな」
重力制御装置によって宙に浮いたステージで、酒と、タバコと、女と、乱暴なミュージックを売り捌く酒場だ。数年前までは危ない薬も売っていた。
店の強みは全方位に見える薄汚れた街並み。野外ライブ場に似た趣がある。
ミラーボールの光が激しく乱反射する高所恐怖症殺しのそれ、上空三百メートルの位置にあるバーで、シビルは待ち構えていた。
「ハイ、ジョン! 約束通り来てくれたのね!」
大きく胸の開いたシャツと大胆なスリットの入ったロングパンツ。結い上げた髪、セクシーなうなじ。
鱗を持つ青い肌のシビルは舌なめずりしてジョンに呼び掛ける。
オータム・ハンターを滞空させジョンはバーに飛び降りた。待ち構えていたかのようにボーイがトレイを差し出してくる。
「エネルギードリンクよ、アタシの奢り」
そこにずどん、と音を立ててメイアが着陸した。メイアはジョンよりも先にトレイ上のグラスを手に取ると粉々に握り潰した。
飛び散る破片とドリンク。ボーイは慌てず騒がず清掃用ロボットの準備をする。
「何よこの人形女!」
「ジョンは貴方からドリンクを受け取りません」
「あー、すまないシビル。メイアは以前の事をまだ忘れられなくて」
ほら、アレだ。ジョンはハットをくい、と持ち上げた。
「君にハードな薬を盛られて、俺は危うく何人ものレディを傷つける所だったからな」
「……べーだ! ……まぁ良いわ、勘弁してあげる。でもそのダッチワイフをアタシに近付けないでよね!」
舌を出してメイアを威嚇するシビル。メイアは無表情のまま言い返した。
「機会があれば、また貴方の指を圧し折って差し上げます」
シビルはおぞましい物を見るような顔になる。アドニスとキッドマンが飛び降りてきて、きょろきょろと周囲を見渡した。
「懐かしい空気だ。バーってよりはクラブだな」
「す、スゲー、こういう所初めて」
周囲では亜人達が酒を浴び、ミラーボールの光の中で思い思いに踊っている。
長い髭を奇妙な形に結んだDJが威勢よくミュージックナンバーを叫び、更なる重低音がアドニスの腹の底を揺らした。
「見られてる」
キッドマンが周囲に視線を巡らせた。アドニスもつられて周りを見回すが何も分からない。
ジョンがソフトドリンクの入ったグラスを煽りながら歩いてきた。
「そりゃそうだろう。ここはサマリア御用達の店だ。少なくとも今いる客の内五分の一は直属の構成員で、半分くらいは何らかの関係者さ」
「今すぐ頭を吹っ飛ばされてもおかしくない訳か」
「シビルがそんな事許さない」
だと良いが。吐き捨てながらキッドマンはラウンドテーブルに着く。
すかさずボーイが近寄ってきてグラスを差し出した。
「お連れ様、当店からのサービスです」
キッドマンは鼻面を歪めて猫髭を揺らす。トレイにチップの紙幣を一枚放るとグラスを受け取った。
「アドニスとか言ったな、お前も座ってろ。悪戯されない内に」
ジョンが席に着き、メイアがアドニスの傍に控える。キッドマンに従いアドニスはおずおずと歩き出す。
露出の激しい服を着た中性的な犬の亜人が唐突にアドニスの頬っぺたを鷲掴みにした。
「あーん? 可愛い坊やじゃねぇの。どれ、あたしが……」
最後まで言う前にメイアがその亜人の頭部を鷲掴みにする。
「あがが、て、てめ!」
「行きなさい。死にたくなければ」
「この……! あぁぁ分かった! 分かったから!」
亜人は転がるように逃げていく。アドニスはメイアの指がめりめりと食い込んでいくのをハッキリと見た。
キッドマンがグラスを干してボーイに渡す。
「お前の所の”ママ”は相変わらず働き者だな」
「助かってる。アイツがいなきゃ事務所が回らない。……来いよアドニス。折角だ、大人の遊びを教えてやる」
「ジョン、ミスタ・ポートマンに破廉恥な事を教えないでください」
「こいつも一人前の男になる時が来る。予習は必要だろ?」
「僕、やってみたい!」
「ハハハ、その意気だ。……ジョークだメイア。普通の遊びだよ。……だからその、火炎放射器は止めてくれ」
兎にも角にもアドニスは席に着いた。メイアは何があっても対応できるように三人の傍で直立不動の態勢を取る。
シビルがカウンターでの仕事を切り上げてジョン達のテーブルへとやってきた。ジョンはアドニスとコインを使った遊びに関して色々と話し合っている。
「写真で見るよりチャーミングね、アドニス」
アドニスは当然の疑問を返した。
「僕の事知ってるの?」
「サマリアは貴方に興味津々」
ジョンが身を乗り出す。
「君達のボスと話し合いたい。呼んでくれるかい?」
「もうこっちに向かってるわ」
シビルはシルバーのボトル三本取り出すとお手玉を始めた。軽やかなジャグリングに目を奪われるアドニス。
「ふあぁ」
少しの間それを続け、中身が十分にシェイクされた頃合いでボトルのスイッチを押す。
小さな口が開いて中身が溢れ出した。シビルはそれを危なげなくアドニスのグラスに注いだ。液体だった筈のそれらは混ざり合うと途端に凝固した。
「カレーシャアップルのゼリーよ。最近の流行り」
「ありがとう!」
「うふふ、可愛いわね、ぼーや」
ジョンはシビルの為に椅子を引く。
「なぁシビル。何故朝、俺に警告してくれた?」
「”ジョン・クレイドル”が簡単にやられちゃったら面白くないじゃない。
それにアタシが何か言わなくたってあの程度はどうにかしたでしょ」
「まぁ、そりゃな。……一応礼を言っとくよ」
ここはサマリア・ファミリー傘下の店だ。そこの主であるシビルは当然サマリアの構成員だ。ジョンに利するのは不思議な事だった。
シビルの本気か冗談か分からない返答にジョンは笑って見せる。メイアは何も言わなかったが無機質な表情でシビルを見詰めていた。気を許していなかった。
――
路地で爆発が起こった。スーツの男達が数人まとめて吹っ飛び、爆炎の中から白衣の女が現れる。
「ゲホッ! ウェェ! エホッ! あー、最低の気分だわ」
ボル・ブロワーはジョン・クレイドルの事務所からの脱出に成功した。扉を四苦八苦して開けた後、突然現れたボルに驚いたチンピラどもを片付けたのだ。
白衣は煤で汚れ髪は乱れっぱなし。奴らの銃を奪い取ったのは良かったとしても、ガス管に鉛弾を撃ち込んだのはやり過ぎだったか。
何にせよアドニスを救出する手筈を整えなければ。ボルは早足で歩きながらシルバーリングを起動する。
「ID470605、ボル・ブロワー。誰か聞いてる?」
返答は直ぐにあった。
『ボル! 無事だったのかい?! 今まで何してた!』
答えたのはカメレオン、シンクー・ロップだ。彼にしては珍しく大声である。
「通信妨害されてたらしくてね、今脱出した所よ。場所はチェダース地区三番ブロック」
『あぁそうだろうね。大体予測は着いてた』
「気になる言い方だけどまぁ良いわ。大至急救出部隊を要請して」
『それは出来ない』
「出来ない? どういう事?」
ボルは通りに出てタクシーのオーダーボックスを探す。シンクーの言う事はボルには不可解だった。
『チェダース地区の権益は複雑だ。軍は……少なくとも我々の上役では介入が難しい』
「状況は良くないわ。アドニスはコスプレ野郎に浚われて、今どうなってるかも分からないのよ」
『解決の為に手を打っているそうだ。内容までは知らないが』
お話にならない。ボルは錆の浮いたボックスのパネルを乱暴に操作した。
『ご利用有難うございます。少々御待ちください』
ボックスから陽気な男の声がする。それすら今は腹立たしく感じられた。
「マフィアが関わってる。あたしは現場に向かうわ」
『正気か? 我々の仕事じゃない』
「……義務よ。少なくともあたしにとっては」
シンクーが盛大な溜息を吐く。
『ボル、君が時々理性的でなくなるのは良く知ってるが……』
「以上、オーバー、終わり。アンタはマスでも掻いてなさい」
ボルは通信をシャットダウンして灰色の空を見上げる。丁度黄色いエアカーが一台、空から舞い降りてくる所だった。
「本日はご利用どうも! どちらまで?!」
「一番近いスカイステージ。名前は”ハードラック”。かっ飛ばして」
「あいよ! 捕まってな!」
ノリの良いタクシードライバーは威勢よく答えた。
いないいないばぁ!