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ムカつくのは変わりないんだよね

「あっははははははは!」

 紅葉のその真剣な問いに、夏帆は大笑いした。

「さすがに教え子と男を取り合うのはなぁ……私も教職を続けて奨学金を免除してもらわなくちゃいけない身だし、学校をクビになりたくないしね。ほら、私お抱えだから」

 不安そうな視線を向ける紅葉達に自嘲するように微笑みかける。

 それを聞いて、音々、紅葉、雪菜はそれぞれ縁側の比翼を見る。

「嘘は言ってないねぇ、私の鼻も、先生は坊やに恋をしているようには思えない」

「そ、そうなの?」

「まあ、人間として気に入っている――好奇心に近いような香気は感じるけどね」

「あはは――そんなことも匂うんですか。怖いなぁ……」

 夏帆は笑みを浮かべながら困ったように首を小さく横に振った。

「私が協力するのは、半分は面白そうだからよ。あなた達の初恋の行方も、こんな神様や妖怪なんて他の人には見えないような世界も。こんな面白そうなことが起こりそうなことを知っててスルー出来るほど私、いい大人じゃないのよ」

 そう言って子供っぽい悪戯な笑顔を見せる。その小悪魔のような笑顔が無意識にできてしまうのが、美術オタクの葉月夏帆なのだ。

「じゃあ、もう半分は?」

 比翼が訊いた。

「それは――とりあえず言ったらみんなに変な負担をかけそうだから、もう少し落ち着いたら話すよ」

「えぇ? そこまで言ったなら話してよ、夏帆ちゃん」

「ごめん――まあちょっと、私もハルくんと話してみてからだから、まだ何とも言えないんだ。どうなるかも分からないし」

「……」

「疑い深い目だなぁ。私もそんな年頃の乙女のような恋はしないって。もう私、お金に苦労する薄汚れた大人だからね」

 夏帆はいまいち納得されていないような紅葉達の反応に、困った顔をした。

「むしろあなた達、初恋の相手にハルくんを選んだのは応援したいくらいだけどな」

「え?」

「ハルくんは初恋の相手としたら面白そうだなって――真面目そうだし、浮気とかもしなさそうだし――何より真っ白なキャンバスみたいに周りの手が加わってないから、これからどんな風にも変わっていきそうな可能性があるもの。ハルくんはこれからいい男になりそうな気がする――そういう男の子、自分の手で自分好みの方向に誘導しちゃう初恋って、きっと楽しいわよ」

「……」

 それでも紅葉を始め、皆は少し不安そうだ。

 それだけ3人から見ても、夏帆は他人に対して警戒心の強い初春の警戒を弱めてしまいそうな雰囲気がある。さっき3人が肩に力が入っていたのをほぐしてくれたように。

 それでいて年上なのに可愛くて隙がある――学校の男子の評判を見ても、明らかに男性を惹きつけてしまう空気を無意識に持っているのだ。

「でもどうやら嘘じゃないみたいだね。この先生はあんた達を応援しているよ」

 比翼が香気から夏帆の心情を読み取る。

 それを訊いてあからさまに紅葉はほっとした顔をする。

「ふふ――でも、ハルくんは私の生徒じゃないから、一応恋愛に障害はないんだけどね」

 夏帆は悪戯な笑顔でほっとした紅葉にどや顔を見せる。

「まあ5年くらい経って、私が独身だったら候補に入るかなぁ」

「か、夏帆ちゃん!」

 困って顔を赤くする紅葉と、おかしそうに笑う夏帆。

 それを見ていたら、何だか雪菜と音々もおかしくなって、つい笑ってしまう……

 皆の笑い声が居間を包んだその折、風呂場から出てきた初春が頭をバスタオルで拭きながら居間に出てきた。

「わ!」

 下はスラックスを穿いているが、上は裸でまだ髪も濡れている。完全に風呂上りだった。

「ちょ、ちょっとハルくん、その格好で女の子の前はさすがに……」

「別に下は穿いてるし、3人とも俺の上の裸は見てるでしょ――依頼主との待ち合わせまで時間がないし」

 体に纏わりつく水滴を一通り拭き取ると、初春はワイシャツを羽織ってネクタイを締め始める。

「……」

 絵のモデルを依頼した夏帆はともかく、まだ初春の裸は紅葉と雪菜は直視できない――

 人間が嫌いと言いつつ、人間を警戒しないと言うか……

 こんなに恥ずかしい思いに耐えているのに、気付いていないんだろうな……

「そうか、これからお客さんのところに行くからスーツなんだね」

「えぇ、最初は音々の得意な失せ物探しを見てもらうのがいいと思って。一番簡単そうな仕事を選びました」

 初春は髪を拭いたバスタオルをキッチンの椅子の背もたれにかける。

「風呂場まで賑やかな声が聞こえていたが、みんなって結構打ち解けたの?」

「ふふふ、ハルくんの話でね」

「は?」

「ハルくんの色んな話をしたんだよ。聞きたい?」

「――別にいいです。二言目には『キモイ』って言われる女の噂話には首を突っ込まないようにするのは東京で学びました」

「ちょっとは興味持ってよ……」

「それより申し訳ないが、出掛ける準備をしてくれ。音々も準備してくれ」

 ふくれる夏帆の横で音々は顧問の袖から、アクアマリンやタンザナイトのような、青色や水色に光を反射する石でできた数珠を取り出す。

「わ、何それ綺麗」

 紅葉が近くに寄って音々の腕を見る。

「おっさんがくれたやつか。そいつにお前の気を注ぎ込めば、雷牙が来てくれるんだったな」

 元々初春達は体に刻まれた刻印である程度の場所や、多少の意志を共有できる。初春や音々が火車の息子を呼べるのもそのためだ。この数珠は音々の刻印を刻んでいない雷牙との刻印の代わりをする。石に紫龍の術が込められているのだ。

 音々は縁側に出て、数珠をつけた右腕を太陽にかざして自分の神力を集中した。

 すぐに風を切るようにして、隣の山の向こうから雷牙が一足飛びにやって来た。その横には火車の息子もおり、二頭は揃って初春の家の庭に下り立った。

「……」

 紅葉達は改めて雷牙と火車の息子を見上げる。

 火車の息子自体が競馬の競走馬よりも更に一回り大きいが、雷牙に至ってはその火車の息子の5倍くらいある。象どころかまるで鯨のようだ。

「当面はみんなが来た時は、お前がみんなの護衛をしてやってくれ。山に入ることもあるかもしれないし」

「ねえねえ、もしかしてこの子に乗って、空を飛んだりするの?」

 夏帆がきらきらした顔で、ネクタイを締め終えた初春に寄る。

「あぁ――そう言えばまだ乗ってもらってなかったか」

 初春は雷牙を見上げる。

「ちょっと試しに、乗せてやってくれないか」

「ほ、本当に空を飛ぶの?」

「と言っても雷牙は反重力を使うから、多分振り落とされることはないですよ」

「……」

 雪菜もそのまだ見ぬ体験に心が躍った。

 だが。

「ふっ……く……」

 紅葉達は鯨のように大きな雷牙の背はよじ登ることもできなかった。雷牙はうつ伏せに寝転がり、腕を地につけてそこから背中によじ登らせるが、雷牙の背中までの道のりは、まるでアスレチックやボルダリングのようであった。

「人間とは難儀だな。背に乗ることも一苦労とは……」

 雷牙もさっきから自分の白い毛並みをつかまれ必死に体重を支えられていたので、散々毛を引っ張られていた。

「仕方ない」

 初春は雷牙の背にひょいひょいと登っていく。そして背中にたどり着くと『行雲』でワイヤーを出し、それを下に垂らして紅葉達につかませ、それをゆっくり巻き上げて一人ずつ背に上げた。

「はあ、はあ……」

 みんな背に登るだけで息も絶え絶えだった。結局音々も付き合って、5人で雷牙の背の上に乗った。

 4本足で直立した雷牙の背は、もう地上から5メートル近くも離れたちょっとした飛び込み台のようだった。

「高所恐怖症の奴はいるか?」

 初春の質問に、紅葉達は首を振った。

「よし――雷牙、依頼時間まで適当にこの町の上空を飛んでくれ。お前の乗り心地を試せるように」

 初春は先頭で雷牙の首筋を撫でた。

「では行くぞ。念のため、しっかり掴まっていろ!」

 雷牙はそう言うと、力強く庭の土を蹴り、空に向かって飛翔した。

 一瞬だけ大きく揺れたと思うと、雷牙が展開した反重力てすぐに揺れも上下に飛び上がる際の浮遊感も消え、まるで空気の上を滑っているような感覚になる。

 神庭町の町が、山の向こうも、海の水平線まで見えるほどの上空に来る。真夏の太陽も照りつけるが、全然暑くない。涼しい風が反重力のある初春達の横を抜けていく。

「す、すごい! 飛んでる!」

「綺麗……太陽に海が照りつけられて、きらきら光って……」

 神庭町の小さな砂浜から、沖合までの浅瀬は太陽の光の反射でエメラルドグリーンに光っていた。紅葉達は見慣れた町のはずの景色に、思わず言葉を失うほど感激した。

「夜の星空に飛ぶとまた一味違うぞ。神庭町の星空は近くで見ると本当にすごい」

 先頭で胡坐をかいている初春は、後ろにいる3人の方を見て言った。

「うわぁ、私そんな星空を見ながらここで絵を描いていたいなぁ」

「今日はやめた方がいい。どうやら日が暮れる頃に一雨来そうだからな。雷の臭いがする」

 雷牙がその声を聞きながら言った。

「……」

 皆が声を上げて絶景にはしゃぐ中、雪菜はその景色を見ながら、ずっと抱えていた胸の鼓動がまた早くなるのを感じる。

 また神子柴くんについてきて、私の世界は大きく変わってしまった。

 私の人生の中で、最も楽しく、最も不思議な夏の予感……

 そんな夏に、私と神子柴くんはどんなものを見て、どれだけの想いを重ねて、分かち合えるのだろう……

 そんなものが、少しでも重みを増していけるような、そんな毎日が来ることを強く祈った。



「すご……」

 紅葉は思わず唸った。

 初春と音々、紅葉、雪菜、夏帆の5人は神庭町の公園で失せ者探しの依頼主と待ち合わせした。

 神庭高校の生徒だった依頼主の男子生徒は、友人を数人連れてそこにやってきていた。やはり鳴沢達を病院送りにしたという好奇心で依頼をしてきたらしい。

 依頼主は自転車で走行中にポケットに入れていたスマートフォンを落としてしまい、警察にも届けられておらずに途方に暮れていたらしかった。

 初春はその依頼主からスマートフォンの特徴を改めて聞き、メールで伝えていた、他に大事にしている私物を見せてもらった。その人の持つアヤカシの『声』の傾向を探るためである。

 それを覚えた音々は、依頼主と別れてものの20分もしないうちに農道のあぜ道に落ちているスマートフォンを発見したのであった。

 夏のこの時期の農道のあぜには、かなり背の高い草が生え茂っている上に、水路には農地用水が引かれているから清流が流れている。スマートフォンはその水流の中に落ちていて、雑草の残骸で流れが多少せき止められていなかったらそのまま下水に流れて海まで行ってしまったかもしれない。

 音々は水路の中に入れないので、初春が『行雲』を玉網に変えて、水路からスマートフォンを引き上げ救出した。

「特徴は合致してるが――これ、もう電源入んないんじゃねぇの」

 充電が切れている可能性もあるが、水に落ちていたスマートフォンの電源を入れてみようとしても液晶画面は何も反応しない。

「ほ、本当にあなた、失せ物探しが得意なのね」

 音々が耳を澄ましながら辿る先を、初春達は警察犬を追うブリーダーのようについていっただけで、3人は想像よりも地味な仕事だと思っていたが。

音々が本当に落とし場所まで一直線に無駄なく歩いたのを目の当たりにして、その認識は変わった。

「でも、あの公園から3キロくらい離れていたのに、そのスマホから――『声』が聞こえたの?」

「この子の声だけじゃありません――この町にある、木々も無数の石も、草も、それぞれに本当に小さな声で囁きながら、この町を見ているんですよ。そんな町の記憶をいつまでもとどめたまま、囁きあっていて、それを掘り起こして、蘇らせてくれる出来事をじっと待っているんです。そんな子達が、こんなことがあったとか――そうやって噂している声を聞いて、場所を近付けていくんです」

「町の記憶――素敵な言葉ですね」

 雪菜は先日から初春のことも気になっていたが、音々や紫龍、そして初春自身の術など、まるでおとぎ話のような出来事の連続に、まるで本の世界に迷いこんだようだと思い、内心昂ぶっていた。

「とりあえず失せ物探しはほとんど音々頼みなんだ。秋葉達は暇な時にこいつが見えない人間との仲立ちをやってくれれば助かる。後のことはこいつについていっているうちに分かるよ」

「これであとは、報酬を受け取れば仕事終了だね」

「報酬を払ってくれればな……」

 初春は電源の入らないスマートフォンを見ながら、自分の携帯でさっきの依頼主に探し物が見つかった旨を報告する電話を入れた。



「何だよ、動かないじゃんかこれ!」

 さっきの公園に依頼主を呼び出し、友人と一緒に戻ってきた依頼主達は、初春の差し出した起動しない携帯電話を見て、すぐに不機嫌になった。

「農道の水路に落ちていましたので」

「いやいや、でも動かないんじゃ見つけてきてもらっても意味ないじゃん! こんなんじゃ依頼料なんて払えないよ!」

「ちょっと! さすがにそれは酷いんじゃないの?」

 初春の後ろに紅葉達も控えていた。紅葉は依頼主の男子生徒に反論した。

「水路に落としたのはそっちの責任でしょ? 依頼は『スマホを探してくれ』なんだから、あなたのスマホが壊れているかどうかまで責任持てないでしょ?」

「秋葉……」

「秋葉さんの言う通りね。落としたのはあなたなんだから、それで見つけた人に文句を言うのは違うと思うな」

 夏帆も教師としてやんわりと依頼主を諭した。

「く……」

 さすがに分が悪いと思ったのか、一瞬依頼主が黙り込んだ。

「――じゃあ、失せ物探しの依頼の料金は一律2000円ですので」

 初春は自分の鞄から領収書を出し、ポケットからペンを取り出した。

「……」

 黙って領収書を作る初春を前に、依頼主たちは皆歯噛みした。

「だ、だけど不自然だぜ」

 取巻きの一人が言った。

「不自然?」

「だ、だってよ、さっきこいつのスマホを探し始めたって言うのに、いくら何でも見つけるのが早過ぎるでしょ? こんなに早く見つけるなんてはじめから落とした場所を知っていたとしか思えない!」

「……」

「そ、そうだそうだ! あんたら元々道でスマホを拾ってたんだろ? あんた等はそれを知っていて、警察に届けなかったんだ! 壊れているのも知っていた。それを知っていて、金を取るために警察に届けなかったんだ。これははじめから知っていて壊れたものを届けて金を盗ろうとした手口なんだ!」

「そ、そんな……そんなのひどいです」

 思わず大人しい雪菜も口を出した。

「だってあれだけの情報でこんなに早く見つけるなんて、不自然だろ! これははじめからどこかで拾った携帯を持っていたに違いないんだ! 警察に届けなかったのは、俺達から金を取れなくなるからだろ!」

「え……」

「とにかく不自然だ! こんなに早く見つかるなんて何か不正があったに違いないんだ! あんた達は俺のスマホが壊れていることを知っていたんだ。知った上で依頼を受けて金を取るつもりだったんだ! 警察に届けたら金が取れないからな」

「そ、そんな……」

 音々はその言葉にショックを受けた。

 自分は今まで町でアヤカシの宿っていた、人間の大切にしていただろう落し物を拾って、その落とした依頼主にチラシを配って『ねんねこ神社』の宣伝をしていたのである。

 音々はどんな形であれ、大事にしていたものが自分の手に戻れば人間は喜んでくれる――そう信じていたのだ。

 なのに……

 目の前の依頼主はいわばミーハーな依頼主なのだ。

 自分の学校で起きた事件にかかわった『ねんねこ神社』に興味があり、丁度困っていた折に面白半分で依頼したのだ。

 だから悪戯のようなもので、満足しないうちにお金を払おうなんて気は最初から固まっていなかったのだ。

「……」

 紫龍の術がこもった翡翠を首にかけた3人も、初春の隣で音々がショックを受けている姿が見えていて、いたたまれない気持ちになった。

「ちょっと! だから携帯が壊れているのは……」

「秋葉」

 紅葉の少し激しくなった口調を、初春が体を前に出して制した。

「――そうですか。分かりました。では御代は結構です。そのスマホもお返しします」

 初春は書きかけの領収書も一枚はがして、そのまま粉々に破り捨てた。

「また何か機会があればお願いいたします。ただし次の依頼はお試し期間終了ですので、どんな依頼でも依頼料を請求いたしますので。では失礼」

 そう言って初春は慇懃に頭を下げると、踵を返して公園の出口に向かっていってしまった。

「は、ハル様」

「ちょ、ちょっと神子柴くん!」

 追いかけてくる音々達を振り返りもせず、初春は公園を出ていった。



 蝉の鳴き声、アスファルトを照りつける太陽と、湿気を含んだ熱い風、田園地帯から風に乗って運ばれた土埃。

 そんな町を初春は一人、市街地から自分の家のある山に続く道を無言で歩いた。

「み、神子柴くん!」

 初春は振り向くと。音々達4人が息を切らして初春を追ってきていた。男の初春の歩幅は大きく、紅葉達は小走りでないと追いつけなかったのだ。

「ど、どうして簡単に引き下がったんですか……」

「そ、そうだよ! ちゃんと否定しなきゃ!」

「どうせ否定したって信じないさ。はじめから金払う気がないことは何となく予想はついていたし。スマホが壊れていた時点で嫌な予感がしたんだ」

「――また人間がどう出るか、予想していたんですね……」

 もう音々も初春と何度も仕事をしている。段々初春の考え方が分かるようになって来ていた。

「多分あれ、スマホが動いたって同じこと言った可能性が高いぜ。警察に届ければ無料で返ってきたのに、って」

「……」

 静かな声で吐き捨てる初春は、さっきまでののんびりした口調ではなく酷い倦怠感を含んだものになっていた。目もさっき農場で牛達と戯れていた人と同じ人とは思えないほど、澱んだ光を宿していた。

「で、でも仕事をしてお金を貰わないなんて勿体なかったと思います……」

「金よりも時間の方が勿体無い――俺はあんな人間の駄々に付き合ってられる程暇じゃないんだよ。まして人間に言葉で認識を改めるような悠長なことをしている程気が長くねぇ」

「……」

 その溜め息交じりの言葉で紅葉達は気付いた。

 元々初春はこの『ねんねこ神社』を抜きにしても、かなりの時間を働いている。

 今日もまだ夏の日の昇らないような時間に起きて、この炎天下の中、農場で牛の世話をし、休む間もなく今の仕事をしている。

 ――疲れているのだ。

 生きるために生活をしている初春には、お金もないが時間もそれ以上にない。

 初春は、忙しいのだ。

「『ねんねこ神社』の仕事で大事なのは、金もそうだが人間の『徳』だからな。人間に音々の仕事で感謝してもらって、信仰してもらわないと音々の力に反映されん。あの連中に今更俺達の仕事を感謝してもらえそうにないなら、依頼があるならさっさと次に行った方がいい」

 初春はそう言って、音々の方を見た。

「だがすまんな音々。俺の独断であの連中との会話を切っちまって……」

「いえ――ハル様の言うとおり、あの方達が私達を認めたがらないのは私にも分かりましたから」

 いつも天真爛漫な音々の声も沈んでいた。

「でも――詐欺だなんて……折角仕事をしたのに、あんな言い方……」

「音々ちゃん……」

「……」

 泣きそうになる音々の肩を紅葉達が支える。

 その横で、初春は一人背を向けて黙り込んでいた。

「神子柴くん……」

 心配そうに雪菜が初春の背中に声をかけた。

「大丈夫だよ柳、俺は想定の範囲内だから」

 初春は雪菜が心配しているのを悟って、なるべく落ち着いた声を心掛けた。

「お前等は音々が見えるから今回の件も分かるだろうけど、音々が見えない客にとっては確かに不自然だろう――それは秋葉のおばあちゃんの花見の時もそうだったし、そういうことを言われる事はいつも想定している」

「……」

「――けど、『想定している』ってのは『心の準備をしている』ってだけでさ。『詐欺』だの何だの言われてムカつくのは変わりないんだよね。このクソ暑いせいもあるが、さすがに頭に来た……」

「……」

 沈黙。

「まあこれで分かっただろ? 俺達の仕事も実際はそんないいものじゃない。現状空振り続きでな。お前等もあんな奴等に詐欺師ペテン師扱いされたりしても、助けてやれんのが俺の現状だ。だからお前達を巻き込むのは反対したんだが……これで嫌な思いをしたのなら、やっぱり記憶を消された方がいい」

「……」

 空を見上げたまま初春の言った言葉は、4人の中に様々な感情を渦巻かせる。

 紫龍や比翼が自分達を初春の下に付けた理由が、何となくわかった気がしたのだ。

 人間と関わらない神子柴くんは、とても優しいけれど。

 人間と関わってしまうと、その優しさが消えてしまう。

 そしてこの人は、とても強いけれど――

 疲れた心は、今にも折れてしまいそうで……

「……」

 だけど――

 今初春が怒っているのは、音々の人を思う心を踏みにじられたから……

 自分達のことを何と言われていても黙って聞いていたが、音々が泣きそうになった時から、初春の空気が変わった。

 今思えば、初春が初めて人間に怒りをぶつけたのを見た時もそうだった。

 あの時神子柴くんがあんなに怒った時も――この『ねんねこ神社』を馬鹿にされたからだった。

「さあ、切り替えよう。失せ物探しでものが壊れているなんてこれからいくらでもありそうだしな。今後の参考にしようぜ」

 初春は落ち込む音々の頭をぽんぽんと叩いた。

「そ、そうですね――依頼を今は、こなすしかありませんから……」

「……」

 そして、そんな初春と一緒にいる音々を、紅葉と雪菜は複雑な面持ちで見ていた。

 失せ物探しで耳を澄ませ、集中して探し物をする音々は、その声が聞こえない紅葉と雪菜にも、何か音々の、暖かな心のようなものを感じた気がした。

 ただついていっただけだけど――その仕事には、困っている人の探し物を少しでも早く見つけて、喜んでもらいたいという音々の真心があったように感じた。

 初春も音々も、依頼人に対し、できる限りの礼を尽くしていた。

「……」

 紅葉の心の中に、紫龍や比翼、そしてさっきの夏帆の言葉が浮かんだ。

 このまま――この人に悲しい思いをさせたままで終わりなんて、嫌だ……

 何か――少しでも何とかしてあげたい、力になってあげたいと、強く思った。

 必死に、自分にできることを探した。

「神子柴くん」

 そして、ひとつの選択肢を思い付く。

「今日神子柴くん、夕方は仕事ないんでしょ? だったら今日はもう帰って、休んでよ」

「え?」

「またこれから、次の依頼をやるんでしょ? だったら私、音々ちゃんに付き添うよ」

「秋葉……」

「わ、私も手伝います」

 雪菜もおずおずと手を上げた。

「柳……」

「わ、分からないことは音々さんに訊いて、何とかします――神子柴くんは、せ、せっかくですから少し休んでください……」

「秋葉様、柳様……」

「大丈夫かな……」

「ハルくん、確かに少し休んだ方がいいわ」

 夏帆も同意した。

「疲れた顔しているもの。それじゃお客さんも逃がしかねないわよ」

「……」

「――ハルくんはもうちょっと人に頼ることも覚えた方がいいわよ。そんなに無理していたら、疲れて倒れちゃうわ。今日は休みなさい」

「葉月先生……」

 初春は逡巡した。

 人間に自分の体を気遣われた経験に乏しいので、こういう時に何を言っていいのか分からなかった。

「ハル様――私、秋葉様と柳様とお仕事、頑張ってみたいです」

「音々……」

「私も――いつまでもハル様に甘えられませんし――ちゃんとわかりたいんです、ハル様を介してじゃなく、私だけの目で、人間の心を。だから、ハル様は今日はお休みになってください……」

「決まりね」

「……」

 初春は言葉を探したが、さすがにまだ左手も多少痛むし、体は休息を欲しがっていた。

「まあいい――でも困ったらいつでも連絡を入れてくれ。それに雷牙が言っていたけど、今日はこれから雨になるみたいだから、無理はするんじゃないぞ」

「はい」

 音々は返事をすると、紫龍の数珠を取り出し、雷牙を呼んだ。

「となると――葉月先生はどうするんですか?」

「私達は一度家に帰って、『ぱそこん』でこなす依頼を選んでから出発します」

「うーん……」

 夏帆は首を傾げた。

「じゃあ私、その間にちょっとハルくんを借りたいんだけど」


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