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恋はあせらず

 牛達が暑さで呻くような声を上げる。

 日が昇るのが早くなったことで早朝でも温度が高く、農場のバイト先で初春の世話をする牛達も汗を掻いており、牛舎内は常に何かが発酵したような臭いに包まれていた。

 それでも初春が直した屋根のおかげで直射日光も入らず、川の水を引いての冷却装置もあるので外に比べて多少は涼しいのだが、どうやらそれでも牛達にとっては暑いらしかった。

「ふーっ」

 掃除を終えて、飼料の準備を始める初春は、持ってきていたペットボトルの水を飲みながら、額を汗を拭った。

「神子柴くん」

 不意に牛舎の外から自分を呼ぶ声がした。

 外には紅葉、雪菜、夏帆がそれぞれ私服で外に立っていた。

「――何でここまで来たんだよ」

「職場見学だよ。本当にハルくん、畑仕事もしてるんだ」

「――折角綺麗な服を着てるんだから、中にいない方がいいですよ。臭いが付く……」

「ウー……」

 干し草を餌箱に入れる初春が通ると、牛達はしきりに物欲しそうな顔をして初春を見るばかりで草に口もつけない。

「――分かったよ。順番な」

「……」

 長いことこの家に遊びに来ている紅葉だから分かる。初春はもう牛の気持ちが何となく分かるくらいになっているのだと。

 初春はそう言って牛舎の端の牛の柵の中に入り、右手でホースを持って水を流しながら、牛の背中に左手を当てた。

「波濤」

 ホースで流す水が初春の左の掌に纏わり付き、水流が回転する。

「わぁ、本当に水が手にくっついてる……」

 地味だが、あの謎の力を使っていない初春が水を操る様を見るのは3人も初めてだった。

 牛の体が水によって冷やされると同時に、毛並みが整い、体の奥に巣食っていた蝿やノミなどを強い水流が掻き出し、牛の掻けない背中の痒いところも水流で掻いてくれる。

 仕事をしながら術の鍛錬をしていた初春は、牛達の体を洗う作業で試していたのだが、それを牛達が気持ちよいと気に入ってしまい、2日に一度来る初春に毎回これを物欲しそうにねだりだすようになってしまった。

「あはは、喜んでる」

 夏帆達が分かるほど初春にこうして体を洗われる牛達は気持ちよさそうに声を上げ、それを聞く他の牛達も早く早くと騒ぎ出した。

「水は調達できるけど、風は長時間使うからそれなりにしんどいんだぞ……」

 隣の柵の牛が鳴き出す。

「はいはいただいま」

 端の牛を洗い終えると、初春はしかめ面しながら隣の牛舎へ行く。

「……」

 紅葉はその愚痴を――雪菜は綺麗に掃除された牛舎の中を見て、不意に懐かしさを感じる。

 いつもこうして愚痴をこぼしているけど面倒見がよくて。

 仕事は真面目で、手を抜いたりズルができない。

 そして、他の人間が誰もいない時の柔らかな目。

 こういう妙にマメで優しいところを見ると、改めて自分が恋をしていることを感じて。

 顔がにやけてしまいそうになる……

 そういう気持ちの起伏が、抑えられなくなりそうになる……



「別にここまで来なくてよかったのに――俺、一度家に戻りますし」

「いいじゃない、ハルくんの仕事に興味があったのよ」

 牛舎の仕事を終え、搾乳を終えるまでが初春の仕事時間になる。

 紅葉達がここに来たのは、初春がここの仕事を終えた後、『ねんねこ神社』の仕事にはじめてついていくので、待ち合わせをしていたのである。一応動きやすい格好を指示していたので、3人ともパンツルックに運動用の靴を履いている。

だからここの仕事が終われば初春も彼女達に会うつもりでいた。ここまで来ることが意外だっただけだ。

 最近は牛達も初春に懐いてくれているために、初春一人で搾乳までを任せてもらえるまでになった。

 牛舎から紅葉達と秋葉の祖父母の家に戻ると、一足先に暑い畑仕事を中断したおじいさんおばあさんが縁側で麦茶を飲んでおり。

 その縁側の横に一人のスーツの男が立っていた。

「こんにちは」

 農協の御伽士狼であった。

 世間はクールビズの理解も高まっていると言うのに、7月後半の炎天下で黒スーツのジャケットを羽織っている。

「あ、この前のラーメン屋にいた……」

「――暑くないんですか?」

「いえいえ、皆さんの仕事場にお邪魔する身なので、服装は正そうと思いまして」

 実に柔和な笑みを浮かべて言った。

「しかし神子柴さん、隅に置けませんね。こんな綺麗な女の子を3人もいっぺんに待たせるなんて」

「こんな汗だくで、女とこの後どこか行くように見えます?」

 初春は御伽の冗談をかわすが、その隣にいるおじいさんはしかめ面だ。

「どうしたんですか?」

「いや――由々しき自体なんじゃ」

「以前に見せましたよね? 農協主催の野球大会のチラシ」

「あぁ……」

「実はあの野球大会に、神庭町の隣町の鬼灯町(ほおずきちょう)がかなり気合が入ってまして。かなり若い人や高校の野球部員を動員してくるとかで」

「そりゃいかーん! 鬼灯に負けるのだけは絶対にいかんのじゃ!」

「は……」

「私もこの町に来たばかりなので又聞きですが、神庭町と鬼灯町は過去に農地を争ったり、川の水害で国の補助金に差がついたとかで色々と因縁があるそうで……」

「――本当にあるんだそんな話」

 その折。

(いわ)さーん」

 見ると明らかに朝の畑仕事を終えたばかりの屈強な中年男達が秋葉家の門扉をくぐってくる。

「聞いたか、野球大会の話を」

「ああ、これはまずいぞ。うちも何とか戦力を整えなければいかん!」

「……」

 初春はてっきりみんな嫌々参加するイベントなのかと思っていたが、想定外の本気(ガチ)っぷりに目を丸くした。

「しかし神庭町は近年は地区別運動会などのイベントは最下位続き……」

「言うな! 人口が足りないんだ! 若い力が!」

「――神庭町って、そんなに」

 過疎地だったのか、という言葉を初春は止めた。

「ここの連中も見た目は若いが腰を痛めておったり、体はボロボロの奴が多くてな」

「しかし今回はその町が推薦すれば助っ人を認める方針でして」

「――それ、地域対抗の意味あるんですか?」

「折角の地域交流の場を人口減少で失わないようにという配慮でして」

「……」

 こういうおおらかなルールは東京出身の初春には逆に新鮮だって。

「おぉ! 君か! 巌さんが言っていた若者ってのは! なるほど確かに!」

 不意に農夫達が初春の方に目を向ける。初春も細身だが薄着だとそれなりに絞られた体が露になっており、真夏の仕事で多少日に焼けた肌は逞しく見えた。

「うおお! うちも負けておれん! 何としても鬼灯に勝つために若い力を結集させねば!」

「は……」

「神子柴くん、御伽くん! 後生じゃ! 神庭町代表として野球大会に出てくれ!」

 おじいさんが初春と御伽に深々と頭を下げた。

「――私は中立の農協なので、出場自体は上司の許可がいりますので持ち帰っての検討になりますが」

 そう言って御伽は初春の方を見た。

「あなたの何でも屋なら、神庭町を勝たせることは造作もないでしょう?」

「は?」

 御伽のハードルを上げる言動に、初春は思わず怪訝な声が出た。

「そうじゃな。何か神子柴くんにはやってくれそうな気配がある」

 ここの老夫婦もあの花見の一件以来、初春には一目置いていた。仕事ぶりといい、初春がファミレスを辞めてここ一本で働いてくれることを願っているほどであった。

「ハルくんなら絶対戦力になれるよ。体鍛えているんでしょ」

「――俺、走ったりはできますけど球技は苦手なんですよ。サッカーとか全然駄目です」

「どうして?」

「ぼっちあるあるですよ。一緒にやってくれる友達がいなかったからやったことがほとんどない――ぼっちは基本球技下手ですから」

「……」

 こういうことをさらりと言えるところが、同じくぼっち体質の雪菜が初春に気後れしない要因であった。

 いつも図書館を一緒に帰っていた時もこんな感じだったのを思い出す。

「でも野球か――そんな気合が入っているなら、出場して『ねんねこ神社』を宣伝するのもいいか……」

「おぉ!」

 周りの農夫達は言質を取ったような顔をした。

「でも俺だけじゃ現役選手を相手にして勝つのは力不足ですよ。野球は9人でやるんですから」

「当日参加でも大丈夫ですので人は探しましょう。10日後までなら大丈夫ですよ」

「頼む神子柴くん、紅葉も友達で出てくれる人がいたら是非誘ってくれ」

「う、うん、おじいちゃん」

「やれやれ――急に千客万来だな」



 初春は自転車で、紅葉達は夏帆の軽自動車で一度初春の家に戻る。時間は朝の9時になるところだった。

「お帰りなさい、ハル様」

「ただいま。音々、今日これから約束している客は、10時に公園だっけ?」

「そうです。依頼は失せ物探しですね。今日は皆さんもついてくるので、私の一番得意な依頼を見てもらうって事で……」

「そうか、じゃあ少しだけ仕事の説明を頼むよ。俺は一度シャワーを浴びてくるよ」

「えっ! シャ、シャワーって……」

 紅葉が後ろで後ずさった。

「さすがに汗と牛舎の臭いが染み付いた今の状態で客に会うわけにも行かないだろ――秋葉達も申し訳ないが少し待っていてくれないか」

「あ、ああ……うん、そうだよね……」

「秋葉さん、随分ませているわね」

「か、夏帆ちゃん!」

 夏帆はシャワーを浴びる初春を想像した紅葉を茶化したが、その意味が初春には分かっていなかったようだ。

 初春はそのまま風呂場に行き、居間には音々、紅葉、雪菜、夏帆が重苦しい空気の中対峙した。

初春がいなくなると音々、紅葉、雪菜は途端に黙ってしまうのだった。

 紫龍は今日も初春の例の力の検証のため外に出かけている(雷牙を貸しているので一人で)。その代わりに比翼が紫龍から目付けを頼まれており、朝から音々達のことを見物に来ていた。

「あ、あの、冷たいお茶ですが……」

 慣れたもので客人にお茶を出す音々だが、その仕草にはぎこちなさがありありと出ていた。

「音々ちゃん――だっけ。もしかしてハルくんに近付く私達を警戒してる?」

「へっ? ちっ、違います!」

 その様子を夏帆に指摘された音々は思わず頭を振った。

「す、すみません私――ハル様以外の人間とちゃんと話すの初めてで……緊張してて。感じが悪く見えたのなら、謝ります……」

 昨日の初春との一件で、音々は紅葉達に協力を仰ぐことに関しては自分なりに切り替えは済んでいた。今日の緊張は昨日の拒絶とはまた違うものだ。

「いいのよ、どうやら固くなっているのはあなただけじゃないみたいだから」

 そう言って夏帆は自分の横にいる紅葉、雪菜の方を見た。

 特に紅葉は酷く表情が固い。雪菜の場合は生来の人見知りによるもので口数が少ないのはいつも通りだが、人当たりのいいはずの紅葉が雪菜以上に強張っている。

「ど、どうぞ」

 音々は恐る恐る夏帆にお茶を出した。

「うん、ありがとう」

 一人柔和な笑顔でお茶を受け取る夏帆に、音々も少しほっとする。

「しかしみんな緊張感出過ぎね」

 冷たいお茶で喉を潤しながら、夏帆は笑った。

「そりゃみんな同じ男を好きだってことは分かるけど――このままじゃ一緒に仕事どころか、女の戦いが始まっちゃいそうだよ?」

「な! か、夏帆ちゃん!」

 紅葉は赤面した。

「秋葉さんは牽制と言うか、不安になっているのが丸分かりだもの。ハルくんを他の誰かに取られるんじゃないかって」

「う……」

 図星を突かれて二人は赤面する。

「それに比べると、柳さんは随分大人しいわね」

「え?」

「別にハルくんを好きな気持ちは、二人に負けていないと思うけど?」

「そ、そうでしょうか……」

 雪菜も赤面した顔を隠すように膝を抱えた。

「――私、こういうことに参加できるって経験――い、今まであまりなかったので。神子柴くんがいなかったら、こうして秋葉さんや葉月先生と話もできなかったと思うし――そういう、何かに参加しているってことが嬉しいんです。だ、だから今はできることをやりたいな、って思って……」

「うーん、柳さんはちょっと臆病過ぎか……多分思うところがあるんだろうけど」

「……」

 雪菜は膝を抱えたまま、言葉を咀嚼した。

「わ、私――まだ混乱しているんです。確かに神子柴くんのことを思い出せて――嬉しかったけれど――あ、秋葉さんも神子柴くんを好きで――それが分かっていて――どうしたらいいんだろう、って……」

「なるほど、秋葉さんに遠慮してたんだ」

「柳さん……」

「でもそれで、ハルくんが他の人に取られちゃったら後悔しないの?」

「……」

 雪菜は言葉を咀嚼する。

「上手く、想像できないんです――神子柴くんと私――どうなりたいのか。で、でも、考えるとすごく、胸が苦しくなるんです……」

「……」

「本当に記憶が戻ったのが分かってから、自分の気持ちがどんどん強くなっていって――で、でも抑えていないと自分が自分でなくなってしまいそうなくらい――落ち込んだり、嬉しかったり、感情の起伏がどんどん激しくなって、振り落とされてしまいそうになるんです……それが怖くて……抑えようとするしかなくって……」

「そう、それ分かるよ」

 紅葉も頷いた。

「だからあの時、この娘が私達を仲間にするのを不安に思った気持ちも分かった――自分も同じ立場だったら、多分そういう気持ちが抑えられなくなって暴走しちゃいそうになって――そんな自分が今、少し怖い……」

「それだけハルくんのことをしっかり考え始めているってことでしょ?」

「……」

「私からアドバイスだけど、ハルくんはしばらく誰とも恋愛はしないんじゃないかな。抜け駆けを誰かがしても今すぐどうこうなる雰囲気は感じないし――それに元々ハルくん、そんなに女になびくタイプじゃないもの」

「……」

「そういう時は長期戦だから。ハルくんの心の定まっていない今にゴリ押ししたって駄目だよ。まずは警戒しているハルくんの心を開かせないと。その間にあなた達も自分の心が不安定な理由と向き合った方がいいわ。恋はあせらず――ってやつね」

「心を……」

「別に私達はただハルくんのお仕事のお手伝いをすればいいってわけじゃないしね。一番重要なのは、ハルくんにもうあんなことをさせないようにすること――でしょ?」

 夏帆の問いかけに、3人とも同じ光景がフラッシュバックする。

 紅葉達の学校の1クラスを潰したあの初春の悪鬼羅刹の所業。

 夏帆だけは紫龍の言葉を理解していたのだ。

「ハルくんは例えるなら、真っ白なキャンバスだからね――最初に入れる絵の具を一番強く反映しちゃうような、まっさらな白――これから入る絵の具次第でそのキャンバスが地獄絵図になるか、もっと別の絵になるかって場所にいる――これからみんなは、ハルくんに明るい色で絵を描いていくのよ。そういう作業をしてあげないと。そういうことをあのお坊さんも、ハルくんの周りにいた神様達も求めていたんでしょ」

「そ、そうだね……もうあんなことして欲しくない」

「まずはそれを止めることを考える――それからですよね」

「よろしい」

 夏帆は頷いた。そう言って立ち上がり、音々に歩み寄る。

「とりあえずお試しだけど、音々ちゃんも私達を信じてみてくれないかな。別に私達もあなた達の仕事の邪魔をする気なんてないもの。ハルくんにあんなことをさせたくないっていうのは、あなたと一緒だよ」

「そ、そうですよね。わ、私こそごめんなさい。変な緊張で皆さんを邪険にするように見えてしまって……」

「……」

 お互い一度先入観を抜きにして見てみると分かる。

 曲がりなりにもあの卑怯な人間の嫌いな初春が協力し、嫌がらないというだけでも。

 多分この娘、ものすっごいいい子なんだろうなぁ、と思えてしまう。初春の人当たりの悪さがそこに妙な説得力を生み出した。

 そう思ったら、紅葉も雪菜も、ふっと気持ちが楽になった。

 そんないい娘なら、きっといい友達になれそうな――そんな気がした。

「よろしくね」

 紅葉はいつもの笑顔を取り戻し、音々に手を差し伸べた。

「は、はい、よろしくお願いします。皆さん」

「ふ――その先生がいてくれてよかったじゃないか」

 さっきから女の牽制しあう空気を楽しんでいた比翼が縁側で笑った。

「やっぱり小娘だけじゃまとまりを欠くと思って様子を見ていたんだが、先生が冷静で助かるよ……どうも私の鼻は、音々は分からないが、その娘二人はどうにも匂いが強過ぎて、若い乙女特有の制御不能の危うさを秘めていたからね」

「まあ、学校で恋愛相談もよく受けてますしね」

「……」

 だが、音々達3人の目は夏帆に向く。その目はやや疑いを秘めたような、不安そうな目だった。

「何?」

「あ、あの――葉月先生は、ど、どうして神子柴くんに協力するんですか?」

 雪菜がその疑問を口にした。

「それは私も訊きたいね」

 比翼も体を乗り出した。

「先生、あんただけは他の二人とはやや境遇が異なるだろう? 元の記憶を消されたわけでもないし。坊やに入れ込む理由はそれほどないはずだ」

「あぁ……」

「もしかして――夏帆ちゃんも好きなの? 神子柴くんのこと……」


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