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初めてだ、こんなこと

 音々は赤くなった顔を火照らせながら山道を登っていくが、身のこなしが軽くてもすぐに息が切れてくる。

「はあ、はあ……」

 何やっているんだろう、私……

 ハル様と一緒にいたいって気持ちが、どんどん強くなる……

 自分でも抑えられないくらい、胸が痛くなる……

 ハル様の言うことは分かる。私が神様として名を上げる為に色々考えていてくれることも。

 でも――今はまだ。

 ハル様とだけの『ねんねこ神社』がいい……

 音々は体力が切れるとすぐに体の透明化の速度が上がる。だから体自体は軽くてもあまり体を動かすことを昔から抑えている。

 ただ今は初春から離れたいと何も考えずに、息が切れて足が止まるまで走ると、山の中腹辺りまで上り、普段初春が紫龍達と一緒に鍛錬をしている平坦な草原地帯ではなく、もっと山の奥の山林地帯に来ていることに気づく。

「はあ、はあ……」

 私――ハル様を救ってあげたいって思っていたはずなのに。

 人間の世界で生きられないハル様に、ちゃんと笑って暮らせるようにしてあげたかったのに。

 でも――

 ハル様が人間の世界に行ってしまったら――私はまた……

 沢山の人に信仰されても、ハル様は私の側にいなくなってしまう……

 それを考えると――寂しくて――怖くて……

 空は夕暮れが西の空の向こうに消えつつあり、夜の山はまだそれなりに明るい。元々月や星が明るく、木々の隙間から光が差し込むので夜の山もそれほどの暗さはなかった。

 だが、それでも草原地帯に比べれば差し込む光は少なく、暗い森は夏の生ぬるい風が吹き、梢が不安定に揺れ、葉の擦れる音が響く。

 夏場の泥地は蛙が沸き、蛙の鳴き声が終わらぬ山彦のように無数に響き渡っていた。

 日の遮られる山林の空気はじめじめしていて腐葉土の匂いがする。

 不意にがさっという大きな物音がした。

 音々はびくりと反応する。

 音々の耳は感度が良過ぎる。蛙の鳴き声、葉擦れの音、虫や小動物の蠢く音や、今もこの近くで何かが捕食されている音……

 そんな音が生々しく聞こえることは、音々にとっては何かに引きずり込まれるような恐ろしさを運んでくる。

「は、早くここから出なくちゃ……」

 音々は不意に怖くなり、山林を出ようと踵を返す。

 だが。

「ウー……」

 見ると音々の彼岸の者の気配を感じ取り、野犬が数匹、じりじりと暗闇に赤く目を光らせて音々の方ににじり寄ってきていた。

 元々動物は昔から人間以上に彼岸の気配に敏感である。特にこの山には中級神や妖怪が住み着いているため、山の動物達も霊感が強くなっていたのである。

「う……」

 怖さのあまり、音々は踵を返して森の奥へ逃げ出した。

「ガァウッ!」

 野犬達は吼えながら音々を本能的に追ってくる。

「はあ、はあ……」

 音々も初春に並ぶほどのスピードで走るが、犬のスピードはそれよりもわずかに上回っている。

 音々は木々を障害物にしながら、山林の終わる開けた場所が眼前に迫る。

 だが。

 森の切れ目の先は断崖絶壁で、音々は気付きもしないまま、そちらに飛び出してしまった。落下した先にも山林が広がっている。

「きゃああああああっ!」

 足を踏み外し、崖から落ちながら音々は叫び、目を閉じた。

 数秒後に地面に叩きつけられることを覚悟した。と言っても自分は軽量(3歳児程度の体重しかない)だから何とか着地は出来るかもしれないけど。

 だが、しばらくしても自分が地面に叩きつけられる感覚はなく、ぐいっと何かに引き寄せられたような感触があった。

 音々は目を開ける。

「ったく……あんまり心配させるなよ」

 見ると息もかかりそうな距離に初春がいた。

「は、ハル様!」

「わ! 動くな!」

 右の腕で音々の体を抱き寄せるようにして支え、左腕を空に伸ばすようにして左手首につけたワイヤー射出の腕輪から、ワイヤーのアンカーを崖の上の山林の一本の木の枝に食い込ませ、ワイヤー一本で二人の体をぶらんぶらんと支えていたのである。

 まだ断崖絶壁の途中を宙吊りという状態。

「あ……」

 下を見て思わず体がすくんだ音々は、初春の体にしがみついて硬直した。

 だが音々は、初春に体を抱き寄せられているという状況に、胸が痛いほど高鳴り、体が熱くなる。

 そして何より、初春が自分を助けに来てくれたことが、体を騒がせる程の歓喜を連れてきた。

 崖の上ではバウバウと、さっきの野犬達が吼え騒ぐ声が聞こえる。

「さて――ワイヤー巻き取っても、あいつ等が待ち構えているんじゃなぁ……下に伸ばしてもそこには届かないし――どうしよう」

「は、ハル様ぁ~……」

 音々は歓喜と心配をかけた申し訳なさで、顔をくしゃくしゃにしながら次の手を考えていた初春に強く抱きつき、胸に顔をうずめて泣き出した。

「こら! 揺れるから落ち着け!」

 初春は音々が熱烈にしがみついてきたので、細いワイヤーが揺れ、足元のない場で振り子のように二人は揺れ出す。

 不意に崖の上で、めきっという音がした。

「あ……」

 音々もその音に状況の理解が追いつく。

「音々。俺の右手を空けてくれ。しっかり俺に掴まってろよ」

 初春はそう音々に指示を出す。

「行雲流水」

 初春がそう唱えたのと同時に、ワイヤーのアンカーを食い込ませていた木の枝が、ぼきっと完全に折れた。

「きゃあああああっ!」

 再び二人は絶壁の底の森にまっさかさまに落ちる。

 だが初春は音々の体を離して空いた右手で水の(みち)を作り出す。左腕のワイヤーを消すと同時に足元を固定し、スケボーに変化させ、緩やかな坂道を下るように降りていく。

「は、ハル様、路が!」

 しかし『あの力』を発揮していない初春の操れる水の量は非常に少なく、水流も浮力も力がない。安定してこの路を走れるのはせいぜい10mが限界である。

 通常はまだ空中を数秒飛べるだけでしかない眼前の『行雲流水』の路がなくなっているのである。

脱線した後、また宙に放り出される!

「しっかり掴まっていろ!」

 恐怖に目を閉じた音々の耳に、初春の声がした。

 その次の瞬間、バサッという音がして、すぐに静かになった。

 自分の体が落下している感覚がないので、初春の体にしがみつく力を緩めないまま、音々は目を開けた。

「わぁ……」

 そこには360度見渡す限りの森があり、その向こうに神庭町の町並みの見える絶景があり。

 初春は三角形のハンググライダーを使って空を飛んでいた。

 初春は水の路が切れる瞬間にスケボーに固定した足を踏ん張り、慣性の法則で加速のついた体を足の踏み切りで大きく前に向けて飛んだ。

 そして自分の足が水を踏み抜いたと感じた瞬間、足元のスケボーをグライダーに変えたのである。

「――あ、危ねぇ。何とか『行雲流水』で助走距離取れたか……足場がなかったから出来るかどうか自信なかったけど……」

 初春もほっと息をついた。

 空を飛ぶ爽やかな風。

 反重力を働かせる神獣の背中と比べると、このグライダーの滑空は風も強く感じるし、少しのバランスの変化で簡単に風に煽られ、快適感はない。

 そんな初春にしがみついている音々は、ドキドキが止まらなかった。

 初春の体は細身だがしなやかな筋肉に覆われていて、自分が味わったことのない感触がして。

 そして、

 体が冷たい汗をかいていて――小刻みに震えていた。

「はぁーっ……」

 初春が溜め息をついた。

「……」

 冷や汗をかいて冷たい体が、酷く緊張していたのが分かった。

 この時音々はようやく悟った。

「ハル様――やっぱりハル様は好きで人を傷つけられる人じゃないと思います」

「は?」

「だって、震えてるじゃないですか――それって――思想を捨てなかったら、まだハル様はこういうこと、怖いんですよね……」

「何だって? 風の音で聞こえないよ!」

 初春はグライダーのバーを握って耳を近づけようとする。

「でも――助けに来てくれた……」

「……」

 風を切るグライダーの音。

「――まあいい。家の方に向かうぞ。『行雲』の変化時間は5分しかないから、それまでに着地しないと」

 初春は音々の声を聞くことを諦めてバーを握って下に見える自分の家の方に向けてグライダーの方向を変えた。

「……」

 お互い沈黙する。

 夏の夜の風が二人の間を包み込む。小鳥や蝉も飛ばない夜の空は、本当に二人きりの場所で、建物のない山と森の上空は、月や星だけが空を宝石のように彩っていた。

「……」

 私は自分のわがままだけでハル様のことを考えられていなかった。

 ハル様はやっぱり、こんなことをしていちゃいけない――

 ハル様は優しくて、繊細で、とても臆病な方で――

そんな人の手を、人斬りの血で染めてほしくない……

 きっと――今のハル様に必要なのは……



 初春のグライダーが家に近づく頃には縁側にいた火車達が肉眼で気付き、紅葉達も縁側に出てグライダーの着地を見守った。

 効果時間ギリギリだった『行雲』は初春の首にアクセサリーとして戻る。二人は足をついたらそのまま座り込む形で着地した。

「ただいま」

「――なんて言うか、随分ダイナミックな帰宅だね」

 夏帆が呆れたような顔をした。

「……」

 しかし紅葉は初春をじとっとした目で見つめていた。

「――秋葉?」

「いつまでくっついてるの?」

「え?」

 言われて初春は、改めて自分が音々にしがみつかれていたことを知る。

「わ、わあああ」

 慌てて音々も顔を真っ赤にして初春から離れる。

「す、すみません、私――崖から落ちて。そこをハル様に……」

「落ちてそのままここに飛んできたんだ……」

 初春がまた大きなため息をついた。

「じゃあ――音々はやることがあるだろ」

 比翼が訊いた。

「……」

「は、ハル様、ごめんなさい! 私――あの、私……」

「いいって――お前が無事でよかった……」

 初春は震えたような声で言う。

「――初めてだ、こんなこと……東京にいた時には誰かの心配なんかしなかった。俺は俺のことだけやっていればよかったのに……」

「……」

「この町に来て、誰かの心配をすることが増えた――何なんだろう――これ」

「……」

 心底ほっとして、体が動けなくなるほど震えている初春を見て、3人は思う。

 この人は自分の優しさにも気づいていない。

 そしてこの人はそれに気付こうとする途中にいて……

 きっと今少しずつ変わり始めているのだと。

 それに戸惑って、今はこうして困ってしまうこともあるけれど……

 ちゃんと目の前のこと、目の前の人のことをちゃんと考えてくれる人だから。

「……」

 まだまだ焦ることはないんだ。

 この人がちゃんとそういうことが分かってから、私のことを考えてくれれば。

 私達は、まだこれからなんだから。

 だから――いつか、きっと……

「――それより音々、お前家を出て行った時、何で泣いてたんだ?」

「あ――それはもう、大丈夫なんです……さっき、解決しました」

「は? どういうことだ?」

「ふふふ……」

 初春は首を傾げた。



「ふぅむ……」

 誰もいない、『関係者以外立入禁止』の表札の貼られた農協の倉庫。

「やっぱり変じゃ。妖怪の憑鬼がいたというのにこの倉庫にはもう瘴気が残り香さえない……」

 紫龍はその倉庫の中を一通り結界をかけて浄化をしておこうとしたが、ここで起きたことの気配が全く消えていくことに違和感を感じていた。

「瘴気がないだけじゃなく、紫龍殿と小僧の斬った憑鬼の返り血もない」

 雷牙も首を傾げた。

「いや、あの小僧の斬った切れ味はあの時あまりにもよすぎた。あまりに滑らかに斬れたことで細胞が傷つかず、血の一滴も流していなかった。それはいいんじゃが、あまりにも気配がなさすぎる」

 紫龍はここ数日、初春の『あの力』についての検証を、先日の事後処理と合わせて行っていた。

「記憶を消した憑鬼に操られていた人間共を傷つけた小僧の術は、どうやら超圧縮した水の弾丸じゃったようじゃが……あれは妖怪なら大人の火車なみの威力じゃった。それを人間に奴は使った……」

 それだけではない、初春はあの力で鳴沢を本気で殴りに行った。音々の主が神使の刻印に干渉して命令を順守させる術――『主従の術』で動きを止めていなければ、鳴沢の首と胴は弾け飛んで離れていただろう。

 それを見て、紫龍は確信したことがある。

「どうやら『あれ』を使った時の小僧は、殲滅する相手の見境が付いておらんようじゃな……もしかしたら人間だろうと妖怪だろうと手当たり次第に攻撃を仕掛け、力尽きるまで止まらないのかもしれん」

 あの必要以上の暴力を振るわない初春が、わざわざ追撃して逃げる相手にとどめを刺すのは、理性が残っていれば考えにくい行動だ。

「そして、儂はあの能力の発動条件が、小僧の痛みや死の恐怖や音々の願いによるものと考えていたが、そのどれも違ったようじゃ。その発動条件は何なのか……」

「共通していることと言えば――何かを守りたい気持ち、ではないでしょうか。最初の時は音々を――今回はあの女子たちを守りたいという気持ちが、小僧を目覚めさせた」

「ふむ……」

「私はあの能力自体はいいものであると感じましたが、少なくとも小僧の瘴気が爆発したような禍々しさは感じませんでした」

「……」

 雷牙の言うことも一理ある。白い羽織袴に白色の光を帯びた初春はまるで天上人のようで――

 音々も、紅葉達も『あれ』を見た者は皆、そんな初春の優美ささえ漂わす戦ぶりに、印象だけで『あれ』をよいものとして考えていた。

「……」

 しかし、紫龍だけはまだ腑に落ちずにいた。

 本当に『あれ』は、小僧の何かを守りたい気持ちによるものなのか。

『あれ』を発動させた初春からは、確かに瘴気を感じなかったが。

 あの時の小僧からは、普段の小僧とは違う気配を感じた気がした。

 思想を捨て、恐怖をかなぐり捨てた不完全な強さの初春とはまた別の何かを……


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