お試しってところか
「う」
部屋に差し込む朝日を瞼の裏に感じて、初春は目を開ける。
「ん……」
「な!」
思わず初春は飛び起きた。
目の前――自分の部屋のベッドの横で音々がベッドに突っ伏して眠っていた。その寝顔が起き抜けに眼前にあったのである。
「……」
そうか、あれから秋葉達を帰して俺はこの部屋に運ばれて、そのまま寝てたんだっけ――
しかし昨日はほぼ指も動かせないほどの体が、思った以上に調子がいい。左手を貫いた傷もまだ痛みはするが、傷口も塞がっており、痛みも肌を刺すような感じはなくなっていた。
「ずっと治癒術をかけてくれてたのか……」
そう口にして。
昨日紅葉達から体に密着された時のことを思い出す。
恥ずかしいような、気持ち悪いような……
だが――妙な心地よさを感じたような……
「ん……」
初春の飛び起きたベッドの揺れで、音々も目を覚ました。
「おはよう」
「は、ハル様、まだ寝ていた方が――手の傷はまだ痛むでしょう?」
「十分だって。これなら仕事でも何とか支障なく行けそうだ。ありがとな」
初春は音々の頭をぽんと叩いた。
「えっへへ……」
音々は初春に褒められてご機嫌だった。
昨日ハル様は人間の女の子とああしていたけれど……
それでも私のことを最優先にしてくれるって言ってくれましたもんね……
もう7月の部屋は蒸し暑く、初春もじっとりと寝汗をかいていた。
時計を見ると、朝の7時半だった。
「今日は10時から仕事か……」
「そ、そうだハル様! ちょっと見ていただきたいものがあるんですが」
「うお」
初春は思わず声を上げた。
いつも更新のない『ねんねこ神社』のメールボックスに仕事の依頼が舞い込んでいるのである。
それもひとつではなく、10に届くような数である。
「迷子の猫探し――蔵の片付けあたりはいいんだが――夏休みの宿題代行とか……」
中には初恋の人の個人情報を調べて、というドン引きな依頼もある。
「みんな学生の方の依頼ですね」
初春は先の依頼で神庭高校の全校放送を使っての示威行為を行った。悪名のあるクラスを丸ごと病院送りにしたという噂から、神庭高校限定で『ねんねこ神社』の名が知れ渡ったのである。
「依頼料はどれも最低だな……まあお試しってところか」
「……」
依頼の山を見る音々の顔は初春の予想に反して薄笑みを浮かべているだけだった。
「お前、依頼が来てもっと喜ぶと思ったけどな」
「え? あ、いや、嬉しいんですけど」
「いや、お前が喜ばない理由は分かる――俺も今同じ気持ちだしな」
初春も溜め息をついた。
「今までみたいな人畜無害の依頼がまるで俺達の次に繋がらなかったのに。この前みたいないいことは何もなかった仕事が結果的に俺達の名を売った形になって――喜んでいいのやら、ってところだな……」
「……」
音々は沈黙した。
「音々――やっぱり前回の依頼は、俺の主張の方が間違っていたみたいだよ。お前にも悪党の片棒担がせちまってあの様じゃな」
初春は音々にも申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
こいつの信念を曲げさせてまで俺の主張を通すからには、俺はこいつに『徳』で還元できなければ意味がなかったのに。
前回の仕事、依頼者の智もその家族も、俺達のやり方が手ぬるいと満足されず、『ねんねこ神社』は一番大事な音々の『徳』も貯まらなかった。
「俺はお前の理想は、それだけじゃ足りないと思ったけど――俺にも足りないものがまだある……」
「それに気付いただけでもまだいい」
初春の呟きに、キッチンにいた紫龍が顔を出した。朝っぱらから珍しく比翼もいる。
「でも――私もよく分からないんです――いまだに」
音々は言った。
「今回の仕事も、ハル様のやり方で結果的にいじめはなくなったし――見過ごすこともできなくて――でもハル様がそのために手を汚すことも正しいとは思えなくて――でも私に何が出来るかって言ったら何もなかった……私のやりかたじゃ、いじめすら止められなかったとも思うし」
「……」
「けど、分からないからってそれを考えることをやめちゃいけないって思ったんです。その答えを考え続けることが、今は正しいのかな、って、思います。元々『ねんねこ神社』って、私達がどうやって生きるってことを探すって事も、仕事のひとつですから」
「立ち止まってるわけにもいかない、ってことね……あ」
初春はその音々の言葉に、不意にむず痒い気持ちになった。
「――ハル様? どうかなさいましたか?」
「いや、ちょっと変なことを思い出した……」
『ねんねこ神社』を通じて自分の生き方を考える。
それを言ったのは、音々が報酬を『体でお支払い』しそうになった時だった。
「あ、うぅ……」
それを思い出して、音々の顔も真っ赤になる。
まだあの時は初春に対して感謝の意を持っていただけだったけれど。
今思えば、何とはしたないことを言ったのかと思う……
「あ、あの時のことは忘れてください……恥ずかしい、です……」
「あ、あぁ……」
「なーんかあやしー」
不意に縁側の方で声がした。
振り向くと、家の庭に私服姿の紅葉、雪菜、夏帆が立っているのだった。
「あの時のこと――気になるなぁ」
夏帆はニコニコし、雪菜は顔を上げられないといった具合に俯いている。紅葉はぽかんと口を開けていた。
「な、何でここに」
「儂が呼んだんじゃ。昨日はもう時間も遅かったのでな、その女子共も儂らに聞きたいことがあるようじゃったし。結界を強めたままにしておいたのじゃ」
「……」
初春は時計を見る。
「俺はいない方がいいってわけね……」
これからバイトがある初春をよそに、昼間に呼び出す時点で、その紫龍の意図を察した。
「不満か?」
「いや、俺の失策でこいつらを巻き込んだんだ。この件に関しては俺はどうこう言える立場じゃない――現にあんたに記憶を消してもらわなくちゃ俺にはどうしようもない状況だしな」
「相変わらず諦めが早いな」
無駄なことをしない判断が早いのも初春の長所である。
「とりあえず上がれよ。虫が出るし、暑いだろう」
3人を家に上げると、初春は自転車に乗ってファミレスに向かっていった。
「どうせ盗られる物もないし」
そう言って戸締りもそこそこに家を出る初春であった。
「……」
戦神ということは昨日聞いたが、紫龍は見た目は人間に近いとは言え無精髭も残った古い袈裟を着た破戒僧のような姿である。年頃の娘3人は、初春もいなくなったこの家でそんな男と対峙するのだから、多少身構えるような固さが心に残った。
紫龍もそれは分かっているから、一応女性の姿をした比翼を同席させたのだが。
「あ、あの、冷たいお茶をどうぞ」
音々が冷たいお茶を3人の前に出す。
3人は紫龍から視線が外れ、音々の姿をしげしげと見ていた。
「な、何か粗相があったでしょうか?」
「いや――すっごく可愛いなぁ、と思って」
紅葉が少し訝しげに言った。
「え?」
「……」
さっきの二人の反応を見ればわかる。
二人の間に何らかの色っぽい事件があったのは確かだけど、初春とこの娘はプラトニックな関係だ。
でも、この娘は……
「さて――呼び出してすまなかったな。手短に話をしようか」
前置きも省いて紫龍は煙管を取り出す。
「単刀直入に言う。あの小僧や儂等のことを忘れろ」
「……」
「あの小僧も言っておったが――儂は小僧と同じ意見じゃ。小僧のことも、今回の出来事のことも――おぬしらには忘れて方がよいと思っておる。儂等は彼岸の存在――おぬしらにはおぬしらの世界の営みがある。交わらずに済むならそうした方がよい」
「……」
その言葉を言った瞬間、紅葉と雪菜はまだ身構えているが、それだけは嫌だと頑迷な抵抗の意志を目に宿したのが分かった。
「あの――ひとつ質問いいですか? それを私達に言うなら、何でハルくんとの関わりをあなた達は絶たないんですか?」
夏帆は訊いた。
「しかも、ハルくんに戦い方の鍛錬までさせて――おかしな能力も使えるって――そこまでハルくんを引き込んでいる一端はあなた達にもあるのでは?」
「あの小僧は例外じゃ。人間の世界に居場所がない――自分で見えてしまった」
「でも……」
「じゃああの小僧に何と言って人間の世界に引き戻してやれと言うのじゃ」
「……」
「両親にも捨てられ、自分のことで大切なものも踏みにじられ続けた――人間に虐げられ続けたあいつに、人間ば素晴らしい、お前も人間として生きろ、とでも言えばあいつは納得するのか?」
「そ、それは……」
その紫龍の問いに、3人は今回の一件の初春の問いを思い出す。
初春の言うことは非情だけど――あまりに正しくて。
そしてそれに抗う覚悟も持っていた。
それに気圧されて、何も言えなくなるような初春の凄絶な空気を思い出していた。
「生憎じゃが、あの小僧が人を斬るのはもう時間の問題じゃろう。あの小僧は今の仕事を通じて人間を見定めると言っていたが――どうやら改めて人間が下らん生き物だという認識を深めておるだけのようじゃしな。まあ、小僧がそうなった時は儂が斬る約束じゃが……」
「え……」
「おぬしらは、小僧が人を斬るか、逆に斬られるか――それを見る覚悟はあるのか?」
やや鋭い舌鋒で紫龍は3人の顔を見た。
「おぬしらは昨日の様子を見る限り、あの小僧のことを他の人間よりは知っておるようじゃが――それでも見誤っているものがある」
そう言って紫龍は、袈裟の懐から無地の将棋の駒を取り出した。
「それ、昨日神子柴くんが首に下げていた」
「少し借りたんじゃ。こいつには小僧のしたことが記憶として残っておる」
そう言って、紫龍は音々を見た。
「音々、その記憶をお前はアヤカシの声を聞いて、自分の記憶に移せ。それが出来たら、儂が映像化してやる」
紫龍は言った。初春の東京での生活を、愛用の竹刀をはじめとした初春の私物から覗き見たやり方と同じである。
「は、はい……」
音々はそう言って、将棋の駒に手に持ち、握り締めて目を閉じる。
「う……うう……」
すぐに音々の顔が苦悶に歪む。
「く……つあ……」
目を閉じてもアヤカシの声が聞こえる音々は、思わず将棋の駒を離して目を開け、耳を塞いだ。
「はあ、はあ……」
「ど、どうしたの? 顔色が真っ青だよ……」
「お、お師匠様。ハル様はここまでなさって……」
「ああ、言ったじゃろう。『悪鬼羅刹の所業』と」
「……」
音々はまだ今回の一件で初春がどんな拷問をし、どんな経緯で鳴沢達を病院送りにしたのか、詳細を聞かされてはいなかった。
それを今回、それを見ていた将棋の駒――初春と共にいたアヤカシから直接それを見てしまった。
それは平和的な音々にとってはショッキングな映像だった。
「こいつはあの小僧が今回やったことを今、確かに『見た』んじゃ。小僧の私物を通じてな。まあそんなことを言ってもおぬしらには理解できんじゃろうが……それを見て、これだけ目を背けようとしおった」
「……」
「おぬしらはあの小僧に『悪党の才能』がないことを知った。だからあの小僧を『実はいい人』のように見えてしまったようじゃが――それも違う。少なくともこれだけのことを小僧はやったのじゃ。そしてこれから、小僧のことを忘れろという儂や小僧の忠告を無視するということは、おぬしらはこの現実に目を背けないと誓うことを意味する。分かるな」
「……」
「次はおぬしらにこの映像を見せる。儂はその間『忘却の術』をおぬしらにかけ続ける。次の映像に少しでも目を背け、心が折れた瞬間に、おぬしらは記憶を失うぞ。その覚悟がないなら、今すぐに忘れた方がよい。考える時間を一分やろう」
そう言って紫龍は煙管に火を点けた。
「……」
「考える必要、ないです……」
そう言ったのは、雪菜だった。
「何も知らないことの方が――怖い、です……」
人見知りでおどおどしているが、目はしっかりと見開いている。
いや、この先何があっても目を背けない、という、無理をしてでも見開くといった感じの目だった。
「わ、私も! もう見て見ぬ振りはしたくないの!」
紅葉も目をらんらんと見開いている。
「ふむ、おぬしはどうじゃ」
紫龍は夏帆に訊いた。
「私も――大丈夫です」
「……」
事前に比翼に聞いている。この先生は二人とは違って、流石に初春には『恋』はしていない。
だが不特定な強い香りはすると言っていたが。
「そうか――では始めるぞ」
紫龍はそう言って、横の音々の額に自分の手を当てた。
「……」
まるで3D映画のように、何もない空間に映像が現れた。
そこで行われたのは、実に凄惨な光景だった。
女も容赦なく失禁させ、その糞尿の上に血反吐を吐かせてのたうち回らせ、人間の顔面に鉄パイプをフルスイングする初春の姿だった。
「は、はは……」
夏帆は苦笑いを浮かべるが。
3人とも、一度も目を逸らさずにそれを見ていた。
「……」
横に座っていた比翼は、紫龍の横顔を窺っていた。
「む……」
確かに心拍数や発汗、呼吸の乱れはあった。
だがそれを、この3人は覚悟でこらえている。
「――何故そこまでする?」
紫龍は訊いた。
「怖い思いもしておるし――今だって必死でそれをこらえておるのじゃろう? 奴を想っているのは分かるが、それを忘れればいつかおぬしらもまた別の奴を好きに……」
「そりゃ――怖いよ――神子柴くんが私達を――別に特別に思ってないことも知ってる」
紅葉が言った。
「でも――そんな私達を助けるために、自分の体を傷つけてでも私達を助けることを優先してくれたの。しかもその後、本当にさっそうと私達を助けてくれて……」
「……」
「もう――あんな人に絶対会えない気がするから……私――正直ただ学校で友達といるだけで、特別なことは何もないけど――神子柴くんだけは、特別なの……」
「……」
「神子柴くんの――代わりなんていないんです……」
雪菜も脂汗の掻いた額を拭いながら前を向く。
「少なくとも私にとっては――神子柴くんに会えて、こうして――色んなことに気付かせてもらって――背中を押してもらって――本人は全く気付いてないかもしれませんけど……」
「……」
「でも――だから私も、神子柴くんに何かを返したいんです――このまま記憶を消されたら、私はあの人にとってただの足手まといで終わっちゃう――そうなっちゃうことが――一番辛い、です……」
「……」
音々の心中は穏やかではなかった。
目の前の二人が本当に初春を好きなことが伝わってきて。
その想いに、焦りを覚えた。
自分が何故こんなにじりじりと焦るのかもわからないまま。
「そうか、ならよかった」
紫龍は袈裟の襟を正した。
「これからしばらく、こいつらと仲良くやってくれんか?」
「え?」
音々はその言葉に焦りを突かれたようにどきりとした。
「い、いいんですか?」
「前々から考えとしてあったことなんじゃ。小僧に足りないのは、人間の心じゃとな」
紫龍は夏帆の顔を見た。
「おぬしはさっき言ったな。何故儂等が小僧との関わりを絶たずに、しかもこちらに引き込むようなことをしておるかと。それはあいつと音々がこの町の彼岸の者達にとっても良い影響をもたらすし、小僧の瘴気の発散にもなると思って始めたのじゃが――儂等が人間でない以上、小僧にできることは限界がある。人間でもない儂等が人間を素晴らしいと言っても奴には響かん。結果的に小僧はどんどん強くなり、人間に目を背ける形になってしまう。儂等と関わり、今の仕事だけで小僧と音々が人間を理解するのは限界があることを、儂は前々から感じておったのじゃ」
「で、でもそしたら、この人達も私達彼岸に……」
音々は慌てながら紫龍を止めた。
「確かにお前と小僧は表裏一体の良い主従じゃ。互いの見えぬものを補っている。じゃが――互いに極端すぎる。その二つの視点ではもう限界じゃ。何かを変えるものが必要じゃと思う」
「……」
「じゃあ――お試し期間、なんてどうかな」
夏帆が言った。
「気に入らなければ記憶を消されてもいい――取り敢えず短期のお試しであなた達の仕事を手伝う――これでどうかな?」
「そ、そうだよ、お試しでもいい、一緒にやらせてほしい」
紅葉の言葉に、雪菜も頷いた。
「……」
ちょ、ちょっと待ってください……
『ねんねこ神社』は、私とハル様の二人で作って――ずっと二人で頑張ってきて。
二人だけの場所で……
い、嫌です……
ハル様と、ずっと二人で頑張りたい……




