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悪党の才能(15)

初春は動けず、音々もまだ体の透明化が収まらないので、比翼の案内で3人は二階への階段を上がる。

「……」

 紅葉と雪菜は階段を上がりながら心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。

「で、でも――いいんでしょうか。み、神子柴くんの部屋に入るなんて……」

 生まれて初めて男性の部屋に入る雪菜は好奇心は沸くものの気後れしていた。

「ふ、不可抗力、じゃないかな……」

 紅葉は自然に顔がにこにこしてしまうのをこらえながら言った。

「平気だからあんた達に勝手に上がれって言ったのさ。坊やは音々に他人の弱みを探らせてる――それは自分のことを探ってくれても構わないってこと――坊やはそういう筋は通す子なんだよ」

「……」

 その言葉に夏帆は以前初春のことを探ってしまったことを言った時の初春のことを思い出した。

「――よくご存知なんですね。ハルくんのこと」

「坊やはこの家に越して初日で私達が見えたからね。あんた達みたいに結界を強めなくてもだ。しかも私達を見ても驚きもしなかった。何故だか分かるかい?」

「いえ……」

「坊やが人間嫌いだからさ。まあ、見ても面白くもない殺風景な部屋だが、見ればその意味も少しは分かるんじゃないのかい?」

 比翼がそう言って、初春の部屋のドアを開けた。

 とは言え初春の部屋はちゃぶ台と本棚とパイプベッドがあるだけだ。インテリア用品はひとかけらもない。机の上には高卒認定用の参考書が置いてあり、ベッドもシーツが整えられていて、酷くさっぱりした部屋だった。ベッドに古びた竹刀袋が立てかけられている。

「……」

 本当に何もない部屋だったけれど、紅葉と雪菜は初春の匂いを感じた気になって、少しぼうっとなった。

「これは――本当にハルくんは御家族がいないんですね……」

 しかし一人暮らしの経験がある夏帆はこの部屋を見て分かった。

「御両親とかの仕送りとか、親御さんの送ってくれたものって感じのものとか――思い出の品らしきものが全然ない……」

 そう、この空の部屋は、音々のようにもののアヤカシの声が聞こえなくても分かる。

 初春を支える人の声や気配――優しさや人の情を全く感じない。

「こんな生活だから別世界の私達が見えちまったってわけさ。結界を強めて意図的に見せなきゃ私達が見えないあんた達とは、全く別の視点で生きてるのさ、坊やは。それは本来、とても可哀想なことだよ。私達が見えるなんて自分の世界を見失っている証拠だから」

「……」

 それを聞いて、3人がショックを受けたことは比翼にも分かった。

 だが。

「――て言うか、さっきからあんた達、ものすごい匂いだねぇ」

 比翼が扇子で辺りを軽く扇いだ。

「私は縁結びの神でね。人間の他人への好意を香気として感じ取ることが出来るんだが――さっきから二人はすごい匂いだよ」

 そう言って、比翼は夏帆の後ろにいる紅葉と雪菜を見る。

 比翼は多少牽制をしたつもりだったが、二人の香気はそんなことで少しも弱まらない。

「え……」

 雪菜の顔は真っ赤だった。

「坊やが助けに来てくれて、嬉しかったのかい?」

「――わ、分かるんですか……」

「まあ二人とも匂いがなくても分かりそうなもんだけどね。怖い思いもしたけど、その思いも吹っ飛ぶくらい坊やがいたことが心強かったようだね」

「だ、だって――あんなのずるいよ――あんなところを助けてもらって――そんなの絶対好きになっちゃうよ……」

 紅葉も先程――初春の家に来て、横で初春が眠っているという状況から、もう胸がぎゅうっと掴まれているように鼓動が早くなっていた。

自分達を助ける為に、無駄と分かっていても自分の手を貫いて解放を要求してくれた初春の姿に雪菜は胸がいっぱいになり。

 白の羽織袴に変身し、水を操って空を踊るように飛び回って悪い奴等をやっつけた姿は、紅葉の心を熱くしていた。

「まあ――騎士(ナイト)に助けられるお姫様の気持ちが分かったって感じかな……」

「……」

 紫龍殿――こりゃ望み薄だよ。

 私もこの娘達の心を折れるかと思って少し牽制したが。

 この娘達――こんな香りをさせてるんじゃ、もうどんなに辛くても坊やを忘れることなんてできっこないさ。

 そのつもりでこの娘達をここに連れてきたんだろうが……



 初春のシャツは細身だが、3人にとってはサイズが大きくちょっとぶかぶかだった。

 3人が居間に降りると、初春はさっきと全く変わらない体勢で目を閉じていた。

 もう一度間違えて見ないように目を閉じている――夏帆はそんな初春の律義さに笑った。

「み、神子柴くん、ありがとうね――服、貸してくれて」

「――いいよ別に。駄目になったワイシャツ代も出すよ。今回の依頼でまとまった金も入ってるし……」

 初春は目を閉じたまま言った。その声は弱々しく、酷く疲れているようだった。

「――て言うか、今日のことだけじゃなく――色々とお詫びすることが増え過ぎているみたいだな――今おっさんから聞いたけど――3人とも今、こいつらが見えてて――秋葉と柳は、俺のことを思い出していたのか……」

「――うん」

「――いつから思い出していたんだ? おっさんの話じゃきっかけが必要みたいだけど」

「そ、それは……」

 言えない――夏帆ちゃんとイチャイチャしていた神子柴くんにヤキモチを焼いたからなんて言えない……

 紅葉は顔が赤くなるが、初春は目を閉じているので見えていない。

「――悪い、色んな事があって頭が回ってないや……お前達に謝らなきゃいかんことが沢山あるんだが……」

 疲労に激痛――初春は意識はあるがその意識は千々に乱れていた。

「じゃあその前に少し坊主の真似事で、お前に説法をしてやろう」

 紫龍が言った。

「大失敗じゃな、今回の仕事は。加害者はお前への恐怖でアヤカシに憑かれるまで瘴気に毒されたし、被害者はすっかり調子に乗ってしまって、お前等への感謝もしなかった」

「そうだな……金は入ったけど、割に合ったものでもないしな」

「挙句の果てにこの女子(おなご)共を人質に取られて勝算もなく飛び出しおって――『あの力』がなければお前は女子共を助けられもせずに死んでおったぞ。むしろお前が行ったことであいつらが逆に刺激されて、囮に過ぎんその女子共の危険も増した。取り返しのつかんことになっていたじゃろう」

「で、でもハルくんは助けてくれたわけですし……」

「いいですよ葉月先生。その通りですから……」

 初春を庇おうとした夏帆の言葉を初春が遮った。

「可哀想じゃが、見捨てておけばよかったんじゃ」

「……」

「むしろ見捨てなきゃならん。お前のやってきたやり方はそういう相手のやり方で流されないことで成立する。何が起こっても予定外の事で動いてはいかん。そもそもこの3人がどうなろうとお前に被害はなかろう」

「そうだな……俺もそう思うよ。俺が3人を助けるメリットなんてなかった……」

 初春は淡々とそう返事した。

「だが――俺のことで罪もない奴が理不尽な理屈で傷つけられるのを見殺しに出来なかった。それ見て見ぬ振りをするなら、駄目でも精一杯やって死んだ方がいい……そう思っちまったんだ……」

「……」

 3人は、ただそれだけの理由で自分の手まで貫いた初春の心を計りかねていた。

 この前会った時の初春は、間違いなく沢山の人を容赦なく傷つけた人で……

紛れもない『悪い人』に思えたのに。

「はぁ……」

 しかし紫龍は溜息をついた。

「お前に思惑があるのかないのか知らんが、お前に一つ忠告をしておいてやろう」

 そう言って紫龍は一度煙管の灰を落とした。

「確かにお前の言う通り、人を殴り、壊し、殺すまでやるには相手を傷つける制御を外すことが絶対に必要じゃ。強力な武器や力があってもその制御がかかる奴に人は殺せん。そしてお前は人間の顔面に鉄棒を全力で振りきれる男じゃ。そこまで出来れば人を殺すこともできるじゃろう。相手に暴力を振るわれても目を閉じることもないし――大したものじゃよ。武士の時代でも、お前と同年代でそこまで出来た奴はそういなかったぞ」

「……」

「じゃがお前には『悪党の才能』などない」

「え……」

 紅葉が予想外の言葉を聞く反応を示した。

「お前の暴力には思想がない――ただ相手を壊すことの罪悪感や恐怖を訓練で別のところに置いておけるようになっただけに過ぎん。『悪党の才能』のなさを、別のやり方でねじ変えたんじゃ」

 紫龍は今回初春の行動を監視しているうちにその認識を強めたのだった。

 確かに初春の今回の仕事振りは悪鬼羅刹の所業と言ってよいものだった。

だがあれだけの物的証拠に戦闘力の差、証拠の残らない拷問法まで揃えていれば、やろうと思えばもっと酷いことはいくらでも出来た。

例えば初春に犯されたと吹聴すると言った女達――初春は別の方法で連中を辱めた。

それもかなり酷い方法だったが、あの場面で女達に一番の屈辱を与える方法はやはり犯すことだっただろう。そこまでしなくても裸にして写真を撮って弱みを握ることもできた。

取立てをしている時、事を早期穏便に済ませようとこちらの言い値よりも多額の金を払おうとした連中にわざわざ釣りを返してしまうような行動などはもはや悪党らしさは欠片もない、『論外』であった。

何より初春の今回の仕事は、全てにおいて相手に選択肢を与えて行ったものだ。確かにあれで互いの疑心暗鬼を煽り、主犯の無能を晒し、精神的な絆を断ち切る初春の狙いは分かる。

だがあれは『悪党の戦』ではない。

初春の暴力には、嬉々として相手を潰す悪党特有の殺気がまるでなかった。

「お前の行動は結果だけ見れば悪鬼羅刹の所業じゃが、その過程の所々で襤褸(ぼろ)が出ておったぞ。今回この女子共を人質に取られ、見捨てなかったことだけではなくな」

「……」

「この際はっきり言っておく――お前はただ戦闘で思想を捨てるのが上手いだけじゃ。だからお前の暴力も言葉も淡々として殺気がない。殺気がないから相手が恐怖をしない――『悪党の才能』に関して言えば、弱者から金をむしることを笑って行い、自分の生存の為にこんな女子供を人質にしたお前のぶちのめした連中や、自分が手を汚さなければ憎い相手をとことん痛めつけろと命じるお前の依頼主共の方がよっぽど持っておった。理由がなければ嫌いな人間でも傷つけようとせず、殺気も乗らんお前の『悪党の才能』なんて、むしろ並の人間以下の才しかない――お前は相手に恐怖を植え付けるような『巨悪』になる才能はない――致命的な程にな」

「……」

 その紫龍の評価は、紅葉達だけでなく音々や他の中級神達にとっても意外なものであった。

 だが、その紫龍の評価はここにいる誰もがすぐに納得するものであった。

「――そんなこと、初めから分かっていたさ……」

 目を閉じたまま、初春は言った。

「俺は剣道を始めて――人を竹刀で打つ恐怖が消えるだけでも3年もかかった愚図だ。俺に本来『悪党の才能』が備わっていなかったことくらい、その時に学んでる――」

「分かっておったのか」

「分かっていて、何でハル様はあんなこと……」

「――俺のやることを見極めたかったんだよ」

「え?」

「前におっさんに言われたからな――俺はまだ将棋の『歩』にもなれていないって。だから知りたかった――俺が前に進むために、出来ることが何なのか……」

 そう言った初春の首には、短剣型のシルバーアクセサリーになった『行雲』に並んで何も書かれていない将棋の駒があった。

「それ考えたら――俺はとりあえず、音々を見捨てない、ってことしか頭に浮かばなくてさ。今の俺なんかを一番必要としてくれるのはとりあえず音々みたいだし……」

「ハル様……」

 音々にとって一番嬉しい言葉が来て自然と顔がにやける。

「音々――お前の言う『人の役に立ちたい』って願い自体は、俺は優しいお前らしくていいと思う――でも――やっぱり理想論だと思うんだ。人を救うって、ただいいことをしていれば救えるほど簡単なものじゃない――やらない善よりやる偽善――でも善でも偽善でも人を救えないなら、悪を犯すことも厭わないってのが人を救うことだと俺は思うんだ」

「――坊やは音々の理想を支えるためなら手を汚すことも厭わないと思った。それがどこまで自分に出来るか今回の件で試したんだね」

 比翼は今回の依頼の前に、初春と音々の考えが衝突した後の初春のその覚悟も聞いていた。

「まあそれだけじゃないけどな――俺自身も人間みたいな見て見ぬ振りなんてしたくねぇんだよ……それに、暴力なんて振るった時点で少なからず『悪』だ。俺は暴力を振るっておいて自己正当化するような野郎が死ぬほど嫌いだしな」

「『人間嫌い』の実益も兼ねてるのかい……」

「……」

「あれから随分人を殴るのにも慣れたから、今の俺がびーびー泣いてたあの頃と変わっているか、どれだけ非情になれるか試したかったんだが……駄目だな。俺のやっている『悪党の真似事』は、全部俺が人間にやられた真似事に過ぎないし……」

「え……」

「失神して落とされるのも、小便や糞漏らすのも、証拠のない暴力に弱みを握る行為も……俺もやられた経験をコピーしたに過ぎん……俺は悪いことを考える発想も貧困みたいだ。あの程度、普通だ。あれじゃ本当の悪党には通用しない……」

「ハル様……」

 周りにいる皆、声を失った。

 音々は初春の私物から話を聞いて知っていた。初春は皆の前で全裸に辱められることも、小便をかけられることも、窒息死寸前まで締められることも経験済みなのだ。

 しかし、それを『普通』と言ってしまう初春の感覚に、一部の者は戦慄した。

「――あの連中に殺されかけている時でさえ『お前等なんか嫌いだ』なんて罵りの言葉しか浮かばなかったもんな……本当に『悪党の才能』がねぇな、俺には……」

「じゃ、じゃあそんなことをハル様が無理してやらなくたって……」

 音々はこれを機に、無茶ばかりする初春を諌めようとした。

「そうしたいのは山々だが――だからって俺が今更善人としてこの世を生きていける気がしないし……」

「え?」

「一言で言えば――俺が一体何をした、ってところだな……今回の一件も、連中の瘴気を感じてたまたまそこに居合わせただけで、わけの分からんうちに俺は金を盗ったことになり、周りの教師に弁解なしの有罪にされて、わけの分からん慰謝料まで請求されてたんだぜ――どんなにこっちが筋通して善良に真面目に生きたって、学校に行ってないだけで話も聞いてもらえないし、人間が弱い者いじめの的にして来やがる――」

「……」

 あの時初春に助け舟ひとつ出せなかった紅葉達にとっては耳の痛い話だった。

「あの時思ったよ。本当に俺が生きることは、もう綺麗事じゃ無理だって……これからこんなことはいくらでも起こる。だが――俺が死ねば音々の命運も尽きるし、音々がようやく手にした生活も壊れちまう――正しいだけで、それを守れる気がしなかった……だから試したんだ。俺の『悪党の才能』を」

「……」

「まあ、今の俺は半端者だが、これも訓練すれば俺でも本物の悪党になれるかも知れん……『悪党の才能』がない俺でも、一応人を殴れるようになったしな……」

「……」

 紅葉、雪菜、夏帆はそれぞれ、初春の思いを慮っていた。

 初春にとっては、この世界は『地獄』で……

 人間は強大な『悪』そのもの――

 そんな風に、この世界が見えているんだ。

 そんなものを、この人はどれだけ見てきたのだろう……

 だけど……

「――そっか、そうだったんだ。やっと分かった……」

 その沈黙を破ったのは、紅葉だった。

「秋葉?」

「ずっと考えてたの。この頃の神子柴くんは、確かに血も涙もなくて――私なんて及びもつかないような『悪い人』なんだって思ってた。でも――それが分かってからも神子柴くんと会って――最後に話した時なんか、本当に神子柴くんが先輩達をシャレにならないくらいに傷つけたって知って――私達のことも思いっきり拒絶したけど――でも、不思議と私、神子柴くんのことが怖くなかったの」

「は?」

「その理由が分かったよ――神子柴くんは何があっても私を傷つけない――八つ当たりもしない――障害のある人や、困っているココロを助けるような神子柴くんは、理由がない人に酷いことはしないってこと――神子柴くんに『悪党の才能』がないってことを知っていたからだ」

「な、何……」

 初春は弱りきった体が崩れ落ちるような感覚を味わった。

 あの時初春は、もう紅葉たちとの腐れ縁を辞めなければならないと思い、自分の悪の部分を前面に強調したつもりだったのだが、それが紅葉を怯えさせなかったというのは、地味にショックだった。

「まあハルくんはそもそも見た目があまり怖くないしね――普段のんびりした喋り方してるし――普通にしていれば人を傷つける気配なんか全然しなかったよ」

 夏帆もうんうんと頷く。

「そもそもハルくんは、口調も怖くない。私達の言葉、ハルくんは論破する材料があることは分かってたけど――それがあったら、もっと私達を追い詰めてぐちゃぐちゃに言い負かすこともできたはずだもんね」

「……」

「い、今考えると神子柴くん――あの人達に散々やられた挙句『俺は人間がキライだ』って……」

「子供みたいな捨て台詞だった……口ゲンカはすごく弱いみたいだね、ふふふ……」

 二人は初春の見せた襤褸を思い出し、小さく笑った。

「あ、秋葉、葉月先生……」

 初春は起こせない体で二人の姿の見えないまま、情けなくなる。

「も、もしかして柳も、俺にビビッてないわけか……」

 初春は嫌な予感を口にした。一番気弱な雪菜さえ俺にビビッていないのだとしたら、俺の『悪党の才能』のなさは酷いレベルの話だ。さっきまでの自分が恥ずかしくなる。

「わ、私も――最初は怖いって、思いました……い、今も、神子柴くんは『悪い人』なのかなって、思います……」

 雪菜の声がした。

「で、でも――私達のことを助けに来てくれて――私達を助けようと、こんな怪我までして……それを見た時、すごく心配でしたけど……で、でも、とっても嬉しかったんです」

「……」

「私――やっぱりそんな神子柴くんをずっと知っていたから――いつも困っている人がいると、何も言わずに助けてくれる――私のことも、いつも助けてくれて……だ、だから、私は――私の知っているそんな神子柴くんを――信じたいです……」

「……」

 何てこと……

「俺、想像以上に『悪党の才能』がなかったみたいだな……」

「今頃気付いたのか」

 普段は智謀すら担当する初春の珍しく間抜けな結末に、周りは大笑いした。

 紅葉達も、久し振りに初春が困った顔をしているのを見て、何だか嬉しかった。

「はぁ……」

 初春は溜め息をついた。

「何やってんだ俺――善人にもなれなきゃ、悪人にもなれない半端者かよ……」

 本当は分かっている。

 金もない、身元保証人もいなければこの世界に働き口もないなんて、まだ分からない。

 生きたければ、無理と最初から決め付けずにもっと積極的に働き口でも探せばいい。大学に行く為に、勉強をがんばってもいい。

 その可能性を摘んでいるのは、俺自身だ。

 でも――俺は前に進めない。

 俺はこの世界を愛せない。

 俺から全てを奪い、否定したこの世界で、生きようと奮い立つ理由がない。

 俺は『歩』になるために、それが欲しかった。

「でもさ――やっぱり3人とも、おっさんに今日の記憶を――消してもらった方がいいと思うぞ……」

 初春は再び目を閉じた。

「別に俺が人間を傷つけていることは変わらないし――やっていること自体は決して褒められたものじゃない。お前達が危険に遭っても、次は助けるかどうか分からない……」

「……」

「それにお前等は、この家を出たらこいつらのことが見えなくなる――俺はこの通りな性格だから見えちまったみたいだけど――お前等はこいつらとか、今日見たようなものとは関わりなく生きた方が幸せだよ――だから……」

「ふふふ……」

 紅葉達の笑い声がした。

「やっぱりいい人だ、ハルくんは。私達の心配ばっかりしてくれるんだね」

「は?」

「だ、だからこの前も、私達の記憶を消したんですね――私達が気に病むと思って」

「……」

 駄目だ――俺に『悪党の才能』がないことがばれて、こいつら、むしろ俺にガンガン踏み込んできやがる。

 むしろ話せば話すほど俺の襤褸が露呈しているか……

「でもね、見くびらないで欲しいな」

 紅葉の声がした。

「こんなになって私達を助けてくれた神子柴くんを知って、そのまま見て見ぬ振りなんて、私達も出来ないんだよ」

「……」

「私達は自分で見て、あなたのことを思い出しちゃったから――だから忘れる時も、自分で決めるよ。だから――」

 そう言って紅葉は、初春の右手を取って両手で優しく包んだ。

「側に――いさせて欲しい……」

「は?」

「わ、私もです……」

 雪菜は左手を握りたかったが、大怪我をしているのでどうしようかと一瞬迷ったが。

 あぁ、もう、やっちゃえ!

 そのまま、自分の紅潮する顔を隠すように初春の胸に自分の顔をうずめるようにして顔を隠し、初春の体を抱きしめた。

「や、柳?」

 内気な雪菜の大胆な行動に、初春も思わず少し声が上ずる。

「神子柴くんは――ずっと前に、私の依頼を聞いてくれましたよね……あれ――まだ、覚えてますか?」

「……」

 記憶を消す前に聞いた、雪菜の初の依頼。

「私を――待っていてくれませんか……」

「神子柴くんにとって――この世界は地獄で――何も信じられないかもしれません――今の私じゃ、そこに何の答えも出せないかもしれません……」

「……」

「だから、もう少し私を待って欲しいんです――神子柴くんが悪人にならなくても生きられる方法――私、一生懸命考えますから――考えたいんです……だ、だから――消さないで……」

「――先に言われちゃったなぁ」

 夏帆は苦笑いを浮かべながら初春の隣に座り、初春の頭を撫でた。

「全部忘れさせて終わりなんて、女の振り方としては都合がよすぎるんじゃないの? ハルくん」

「は?」

「これから女の本気、たっぷり堪能するだろうから覚悟しておきなさい。そんな地獄から、引っ張り上げられちゃうかもしれないからね」

「……」

 初春はまだ3人が何を言っているのかが分からなかった。

 だが、初春が状況を整理しようと頭を働かせていると。

 やがて、ぼっと顔が赤く、熱くなる。

「だ、誰か、俺に治癒術をかけろっ」

 体が弱って声量はあまり出ないが、切羽詰った声で初春は苦悶の声を上げる。

「え?」

「気にすることはない――坊やはこうして人間と触れ合ったりするのに慣れてないから、悶え苦しんでるんだよ。治癒術をかけて動けるようになったらとりあえず逃げる気さ」

「えぇ? エアガンで撃たれたりするより、抱きしめられる方が苦しむって……」

 厄介な人を好きになったなぁ、と、紅葉は思った。

「こりゃ本当、ハルくんの矯正は大変そうだ……いじめがいがあるけどね」

「ふふふ……」

 このしっかりしているようで間の抜けた感じ――この初春の感じが懐かしくて、雪菜は初春の胸の中で笑った。

「こ、こういうのは苦手なんだ……」

「助かりたいならお前が今すぐこの女子共に酷いことをして、忘れたいと強く願わせるといい。そうしたら術はかかるんだ。簡単だろう?」

 紫龍が言った。

「……」

 あぁ、そうかい、紫龍殿。

 この娘達を通じて、坊やに人との交流を学べってことかい。それで忘れさせるなら、それでよし、ってわけか。

 坊やに尻を拭わせようってわけか。

 まあ、それがいいだろうね……

 坊やは人間の悪意をよく知っているが、他人から評価されたことがない分、自分のことをまるで知らないんだ。

 今だって気付いてないんだよ。

 自分が――それこそ弱点にもなるほどに『優しい』ってことにも。

 しかし……

 比翼は横にいる音々の方を見た。

「……」

 音々は不安そうな顔で、3人に囲まれる初春をそわそわして見ている。

「やれやれ……」

 先生の方はまだ『恋』ではないようだけど……

 こりゃ坊やを中心に、嵐の予感だね……



 そうして初春が3人に囲まれて悶え苦しんでいる頃。

 神庭町の山の中。

 生き残った憑鬼達の住処が、一人の黒衣の男によって一匹残らず根絶やしにされた。

「今回こいつらを利用した価値がありました――あの少年の『力』は、紫龍もまだ気付いていないようでしたね……」



 そして、同時刻。

「し、白崎先生、それは本当ですか? ――はい、はい! ありがとうございます!」

 一人の少女がやや興奮した口調で電話を出、自室のベッドに倒れこんでいた。

「ハルが――ハルを知っている人から連絡が……」

 少女は電話をしながら取ったメモを確認する。

「神庭町――その町に、ハルがいる……」


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