悪党の才能(4)
「――とまあそんなわけだ」
家に帰ってきた初春はネクタイを外しただけでスーツのまま、今で音々に智のことを相談した。
「えげつない話だね」「こんな平和な町にもそんな輩はいるか……」
家に帰ると、どうやら町で出ていた瘴気を嗅ぎ付け紫龍が様子を見に行ったことを知り、事情を知りたい山で暮らす中級神達が早い時間からここに来ていた。
「別に依頼を請ける請けないは関係なく、そいつらは俺に金を要求してきてるんで衝突は不可避なんだが、どうせやるなら俺はその人も助けてやりたいと思うんだけど」
「よく言う――金を懐に入れられた時点でお前は闘るつもりでわざと乗ってやったんだろうが」
紫龍が顔をしかめた。
「そ、そうなんですか?」
「狩る気満々じゃよこいつは」
「まあ俺が中卒の無職って言ったら、あのチビ、明らかに俺を見下す表情に変わったからな。あいつらは俺の口を封じるよりも罪をかぶせた方がいいって考えたことが分かった――ついでに俺からも金を取ってやろうって考えるはずだと思ったし。俺に恨みが向いた方がいいかなと思って。わざと金を触って乗ってやったんだけどな」
人間の悪意に対しては非常に鼻がいい初春は、あの時点でわざと相手の思うとおりに行動し、自分に攻撃を仕掛けてくる口実を引き出し、智から依頼を引き出すことを考えていた。
「依頼料は?」
「さすがに金盗られている相手に具体的な話はしてないよ――金のない奴から金取るのは音々の本意じゃないだろ」
「……」
さっきから涼しい顔で語る初春を見て、音々は思う。
「あの――ハル様」
「ん?」
「私もその人を助けなきゃ、っていうのは分かります――でも――何とかハル様が手を汚さずに、何とかできる方法はないんでしょうか……」
「……」
「そのためなら私、何でもします――私はハル様に手を汚してほしくない……」
「……」
座っていた初春は困ったように頭を掻いた。予想通りの反応だった。
こいつはそういうことに敏感だ。他人の痛みに対して感情移入をする。
こいつには『悪党の才能』がまるでない。
「――でも音々、お前が本当に人間を救い続けるのだとしたら、こういうやり方でしか救えない場面なんていくらでもあるぞ。遅かれ早かれ俺の手は汚れる――俺はそのつもりでいたんだけど」
「そう――でしょうか」
「人間の世の中が、正論だけで出来てないからな」
「……」
「やらない善よりやる偽善――でもそのどちらも目の前で困っている奴を救えないなら、救うために手を汚す『悪』を選ぶ――それが『人を救う』ってことなんじゃねぇの。それが出来ないなら救う人間と救わない人間を線引きするって残酷なことをやるしかなくなる――見捨てる決断と手を汚す決断のどちらも選ばずに、全ての困っている人を見たら無条件で救う方法なんてないと思うけど。神様だってノアの方舟でみんなは救わなかったんだろ」
初春はもう前から分かっていた。
自分と音々の考える『人を救う』ということの方法が違うということを。
いつかこいつに、汚い人間がいるって事を見せなくてはいけない。
それは分かっていたのだ。
「……」
初春の言っていることは、非情で冷たくて――激しい。
そして常に最善手だ。初春を信頼している音々だから分かる。
だが……音々はしばし考えた。
「私は――見捨てることはできません。だからそのどちらかを選ぶしかないのなら――手を汚すことを選びます」
考え抜いた結果、やはり音々も智のような人間を見捨てることはできないと結論を出した。
「でも――それで手を汚すことを真っ先に考えるべきではないと思うんです」
「じゃあ具体的にどうする? お前の姿は加害者に見えない――説得が出来ないんだぞ。いいも悪いも手段の是非なんて選べないんだ」
「それを最後の手段にする方法だけは、全力で考えませんか?」
「それはいいけど――駄目だった場合に覚悟を決めるって事は先に承諾してもらいたいけど」
「それは……」
結局初春と音々は30分くらい平行線のまま譲らず、議論は膠着した。
初春と音々がここまで長く意見をぶつけ合うのは初めてだったため、周りの妖怪達もびっくりしながらそれを見ていた。
思想が薄い分自己主張が薄い初春と、落ちこぼれと呼ばれたコンプレックスから気弱なところのある音々は、どちらも本来相手の主張に早々に折れるタイプである。
だがここだけはどちらも譲らないのであった。
「二人とも、少し頭を冷やしたらどうだい?」
二人を見かねて比翼が助け舟を出した。
「そうだな……」
元々この説得は骨が折れると分かっていた初春は先に席を立つ。
「また後で話そう。とりあえず少し休むよ」
初春はスーツを着替えるために一度自分の部屋に戻るため、階段を登っていった。
「……」
初春が去って、音々も天井を見上げた。
「坊やがあんたに一応断りを入れたのは、坊やなりの誠意ではあると思うよ。あんたに内緒で勝手にやることもできただろうしね」
比翼が音々にフォローを入れた。
「坊やは坊やなりに、あんたに迷惑がかからないことは模索しているんだろうね。最近鍛錬続きで疲れているのに、あんたの説得に全力だった。口下手の坊やがね」
「分かっています――私がハル様に甘えてるってことは。本当はハル様の言うととりだって、私も思うんです」
「ふぅん……」
比翼は頷いた。
「紫龍殿はどうするんだい?」
それまでずっと二人を静観していた紫龍に比翼が問うた。
「儂は戦神じゃ。戦うことしかできんしそれしか知らん。お前達とは性質が違う」
そう前置きした上で。
「じゃが今回は儂も小僧に力を貸そう――思うところもあるでな」
「え?」
周りの妖怪達もぎょっとした。
「し、紫龍殿が人間の餓鬼の喧嘩に出張れば洒落になりませんぞ!」
「死人が出る!」
紫龍の出鱈目な強さを知っている来客達は恐れおののいて紫龍を止めた。
「何、人斬りはせん――今の儂の武器はもう彼岸のものしか斬れんようになっておるからな。あの小僧の見張りじゃよ、恐らくあいつ、今鍛錬している能力を人間に使う気じゃ。やりすぎんようにな」
「……」
「少し外に出てくる。すぐに戻るよ」
紫龍は錫杖を鳴らし、雷牙を呼ぶと神庭町の星空に飛んでいってしまった。
「おやおや。で、あんたはどうするんだい?」
「私は……」
初春は服を部屋着に着替えると、部屋のバルコニーから手を伸ばして屋根によじ登る。
瓦の屋根に寝転がって、初春は神庭町のすっかり夏の星座に切り替わった空を見上げ、右手を空にかざす。
「四海」
初春の右手に大きな水の球体がぼん、と現れる。大きさは大体初春の右腕の筋力で持ち上げられるギリギリの重量――約30リットル。
初春の手に触れている間、水は落下せずに球体の形を保つ……
「へぇ、一瞬でそれだけの水を出せるようになったんだねぇ」
白蛇に乗って比翼が屋根に登ってきたのだった。
「言葉に出すことですぐにイメージを固められるってのは、おっさんにヒントもらってからいくつか試したからな。大した量は操れないけど」
「そうかい……」
比翼は白蛇に乗ったまま、初春の横をぷかぷかと浮いている。
「紫龍殿は坊やに協力する気、あるみたいよ」
「そうか――まあおっさんはな……」
「元々紫龍殿は、賽の河原で苦行を与え続けられた末に、鬼になった子供を斬っていた。それに耐え切れなくてそこを逃げ出してきた身だからね――このまま金まで盗られた挙句、先立ったら間違いなくその被害者の子は賽の河原行きだ」
「……」
実際にアヤカシ退治の経験もあり、何度か自分の手でアヤカシを斬ったこともある初春だったが。
苦行を与えられた末に、苦痛に喚く罪もない子供を斬る――
それは考えるだけでもおぞましいと思った。
「しかし――坊やもあの娘のお守りには苦労するねぇ」
「――音々のことか?」
「あの娘は世間知らずだからね――それでいて頑固だ。説得に手を焼いて苛立ってるんじゃないかと思ってね」
「いや――あいつはあれでいいんだ。あのままでいいと思うよ。あいつが今までしてきたことだって、ちゃんと人を救っているんだ。今回があいつの適性に合ってないだけさ。反対されることも想定してたし」
「おや」
「俺もあいつの言っていることの方が正しいと思うよ。手を汚さず済むならそれが一番いい――ただあいつは優しいけどちょっと頭の弱い子だからな。世の中の奴全てが根は優しいと思ってやがる――だからあいつの足りないところは、俺みたいなひねくれた奴が補ってやる――それで丁度いいんじゃないのかって思うよ」
「……」
「つーか、あいつが俺みたいに歪んじまうのはあまり見たくないし……好きでやってるんじゃないんだぜ。あいつに屑みたいな人間を突きつけるようなことするの。あいつの夢を踏みにじるようで――でも結局いつかはあいつにもそれを見せなきゃいけないし……」
比翼は思わず笑った。
――なんだい。どっちもお互い、相手の方が正しいと思って言い合ってたのかい。
「――坊やって、何だかんだ言ってあの娘に甘いね」
「は?」
「坊やとあの娘は成り行きで主従の関係を結んじまって――坊やからしたら聞いていないと思っていてもおかしくないが、随分とあの娘を立てるなと思ってね」
「――あいつが俺の主って言うならそれは別に嫌じゃないさ。あいつは最初に会った時、自分が消えるかもしれないってのに俺に詫びるために来てくれたような奴だからな」
初春は今日の出来事があって改めてその認識を強めていた。
今日、友が白目剥いて落とされていても、鳴沢の初春に罪を擦り付ける大騒ぎに、一番酷い目にあっている奴を見失って、保身のために初春の罰を優先する――紅葉達も恐らく初春を少しは疑っていたはず。
そんな人間を見ただけに、あの時の音々の行動は誰でもできることじゃない――
「あいつは阿呆だが、俺と違って優しくてまっすぐな奴だ。だからそんな奴の想いを踏みにじって終わりなんてさせたくねぇ。俺があいつを神様にしてやるなんて偉そうなことは言えないけどね、あの優しい奴に少しでも人並みの幸せくらいは味合わせてやりたいんだ」
「……」
「でも――今回の相手は俺をこの町に住めなくする予定みたいだからな――俺がいなくなれば『ねんねこ神社』は終わり、あいつの居場所もなくなる――人間様から見たらちっぽけな居場所かも知れんが、それをわけの分からん理由で踏み潰されてたまるか。それを守るためなら、どんな手だって使うぜ」
先日音々は庭の草むしりをしながら、今の暮らしが好きだと言っていた。
これまで何年も結界の外にも出られず、神としての仕事も出来なかったあいつが、ようやく居場所を見つけようとしている。
そして、俺自身も……
口には出さないが、俺にとってもこの家は紫龍や火車との鍛錬や、音々との『ねんねこ神社』の仕事を通じて、人間の世界じゃひとりぼっちだった俺を許容してくれる居場所になり始めた気がする。
中学で教師の白崎が言っていた、自分の居心地のいい場所――それがこの家になりはじめているのかもしれない。
そんなことをたまに考えるようになった。
紫龍との鍛錬は、覚悟のない人間をぶちのめすよりもはるかに学ぶことが多いし、音々の世話を焼くことだって、自発的にやっていることだ。今まで自分の思想や判断で行動することの許されなかった初春にとって、この家で、彼岸の者達と関わることも十分な学びの場なのであった。
「だそうだよ、音々」
比翼は言う。
「え?」
「坊やは油断し過ぎだって――あの娘はアヤカシの声が聞こえるだけじゃなくて普通に耳がいいんだ。坊やの言っていること、この家にいたらどこにいたって聞こえちまうよ」
「……」
初春はそれを聞いて屋根の端まで行くと。
音々が夏草を草むしりした庭に出てきて、こちらを見上げていた。
「ハル様――ハル様は大事なことを私に話してくれないんですね」
「……」
「でも――それでハル様が笑えなくなったら意味がありません! そうやってひとりで抱え込むのはやめてください! 私を信じてくれるなら――私を主と呼んでくれるなら――ハル様が笑わない人助けなんて、意味がありません!」
「……」
初春は頭を抱えながら屋根から降りて庭に出る。
「私だってハル様と同じです――ハル様が今の居場所を奪われるのであれば、私は全力で戦います」
「……」
「私はまだ神様なんて偉い身分じゃないんです。だから他の人間より、ハル様を最優先で守りたいんです!」
その声に、まだ居間にいる妖怪達はにやりと笑う。
「二人とも――どうやら最初からどちらも同じところに向かっていたのではないか?」
客の一人の一つ目の大きな頭の妖怪が言った。
「神子柴殿は音々殿の言うとおり、交渉でことを治め、音々殿は神子柴殿の手を汚さないように、交渉に全力を尽くす――それでとりあえずいいのではないかね」
「……」
「似た者同士の痴話喧嘩だったぞ、さっきから」
わははは、と、中級神も妖怪も大笑いする。
「み、皆さん! ち、痴話喧嘩なんて!」
音々は顔を真っ赤にする。
「はぁ……」
初春は頭を抱えた。
「まあ、お前が協力してくれるなら、交渉でことが収まる可能性もあるか……」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、だが条件がふたつある」
「条件……」
「一つはもし交渉が失敗した場合は、最終手段として強引な手の鎮圧に切り替えることを覚悟すること――そしてもうひとつ」
初春はそう言って、やや冷たい笑みを浮かべながら音々の顔に自分の顔を近づける。
「音々――俺の言うことに絶対服従を誓える?」
その頃――
自分の部屋でベッドの上に座りながら、秋葉紅葉は風呂上りの髪を乾かしながら初春のことを考えていた。
紅葉は妹の心と同じ部屋で二段ベッドで寝ており、紅葉は下のベッドを使っている。
「……」
今日の神子柴くん、ちょっと怖かった……
あの時と同じで――
「クレハちゃん、かみのけまとめて」
一緒に風呂に入った心が濡れそぼった髪のまま紅葉の前に来る。心の髪を毎日ブラッシングしてあげるのが紅葉の日課で、おかげで心の髪はすっと指が通ってほどけるのであった。
「……」
でも――神子柴くんがあのいじめられている先輩にかけていた言葉は優しかった。
「ねえココロ。神子柴くんのこと――どう思う?」
不意に紅葉はドライヤーを心の髪に当てながら心に質問する。
「ハルくんはねぇ、すごくやさしいからすき! またいっしょにあそんでほしいな!」
「……」
神子柴くんとはじめて話したのも、神子柴くんがココロを助けてくれたからだった。
「……」
そうだよね――
神子柴くんは本当に優しかったんだ。
いつも私を何も言わずに助けてくれて、だけどちょっと抜けていて。
そんな彼と初めて話した時も、最初は先輩に包丁を突きつけた彼を怖い人だと思ったけど――
やっていることは彼の方が正しかったと思ったんだ。
思えばあの時から、私は神子柴くんのことが気になっていて……
仮に神子柴くんがどんなに怖い人であっても。
信じたいよ、あの人のことを……
もうこの気持ち、止まらないよ……
柳雪菜は自室でテスト勉強を一通り終えると、最近図書館で借りてきた本に手を伸ばし、ベッドに横たわり、装丁を開いた。
雪菜の開いた本は『ジキル博士とハイド氏』であった。
初春の今日の怒った姿の豹変振りから、まるで別人のような違和感を感じて、雪菜はこの本を手に取っていた。
神子柴くんは普段、とても穏やかで優しいけれど……
あの時――私の記憶に間違いがなければ。
神子柴くんはあの時、泣いていた。
そしてあの時――私はそうして泣いている彼に、ほとんど何も言葉をかけてやれなかった。
そんな自分が悔しくて、情けなくて……
今日だってそう。目の前の状況に怯えて何も出来なくて……
神子柴くんは、私に誰かと一緒にいることの安らぎを、風のような軽やかさで私に教えてくれた。
今の心に宿る――誰かを想う気持ちも。
そんな人のために――出来ることを必死で探した。
「神子柴くん――私はあなたを信じたいです……」
家に帰ってきた葉月夏帆は絵筆を置くと作業室を出て、部屋に買い置きしてあるお菓子を出して、冷蔵庫からビールを取り出し、それをひとり煽っていた。
まったく私は駄目な教師だ――ハルくんの方がよっぽど大人で、私よりも全然機転が効いて。
そんな私は挙句の果てに、ハルくんに『邪魔』扱いされちゃった……
情けないったら――
そんな初春のことを紅葉と雪菜が妙に怯えきっていたのが気になった。
まだ二人も気持ちが定まっていないようで、その理由は定まっていないようだったけれど……
あの今日一日見せた初春の剣道の腕前や、あの妙な迫力――
二人の言うとおり、本当に大変なことになりそうな気配は夏帆も感じていた。
そして、ますます分からなくなる……
「ハルくんって、一体何者なの?」
おもむろに夏帆はビール缶を片手に家のパソコンを起動させ、検索をかける。
「あの剣道の腕――明らかに只者じゃないと思うけど……」
初春の見せた剣道の腕に興味を持ち、夏帆は検索をかけていく。
「――去年の中学、全国ベスト8……」
その全国大会のトーナメント表を見つけた夏帆は、思わず息を呑む。
トーナメント表の初春の名前の横に、初春の通った中学の名前が出ていた。
「――そっか――想像以上にハルくんの捨てたものは大きいのか……」




