誰にも知られないで
「……」
初春は神庭高校の校門前に来ている。
神庭高校は築50年以上経っている多少古びた校舎に、敷地だけが無駄にだだっ広い校庭があり、校門から校舎の前が広大な庭のようになっている。ベンチや自販機もいくつかあり、憩いの場になっているようだ。
生徒数はおよそ300人で、1学年が100人。偏差値は公表では53だったが実際はこの神庭町内の子供は電車が1時間に1本の神庭駅からでは選択肢がないため大体成績に関わらずにここに通うらしい。
初春は一応自分を呼んだ夏帆の面目を潰さないように仕事で着るスーツを着て来たが。
「あーもうすぐテストだよー」
「ちょっと今日隣町に遊びに行こうよ」
丁度下校時間――楽しそうに友達と下校する女子のグループ。
「あ、ちょっと回復して!」
「やべぇ、○ィスフィロア並みなんじゃねぇのこいつ!」
「うおお、こいつマジ強っ!」
ポータブルゲームを額を突き合わせてやっている男子高校生達とすれ違う。
元々東京にいた時と変わらない風景が学校にはあった。
「……」
初春は元々ああいう空気の中には東京にいた頃も混じっていない。
だが――あの頃以上の場違いさをここに立ってみて感じていた。
それは――俺の立場が違うからだろう。
俺は今、全ての自分の行動に主導権がない。
少なくとも中学の時はぼっちではあっても、行動の選択は自由で主導権は平等だった。相手に合わせて嘘臭く笑い、スクールカーストの中で自分がどんなポジションを取って、優越感に浸ろうとする連中を哄笑するくらいの自己満足はできた。
今の俺はこいつらに混ざれないどころか、こいつらを批判したり、路傍の石のように見ることも出来ない。
その行動自体が僻みや嫉妬、羨望といった負の感情から来るものと歪曲されてしまう。
俺は――俺の行動、言動のすべての意味が他人によって決定される立場。
それが今の俺――『持たざる者』
綺麗な言い方をすれば『社会的弱者』――包み隠さず言えば『人間以下』だ。
スーツを着ている見知らぬ男が校門前に立ち尽くしているのを見て、下校する生徒は皆一様に初春の方をちらちらと見る。
「ねえ、あの人何?」
「他校の人のわけないよね――遠いし。スーツ着てるし、社会人の彼氏がいる娘を待ってるとか?」
「もしくは単純に誰かを張ってるんじゃ」
「でも、ちょっとカワイイ顔してるかも……」
話している内容は初春の耳には届かないが、明らかに自分のことを何か言っている事は初春にも分かる。
「……」
俺はここに立って、酷い惨めさを感じているが……
それも人間からしたら『負け犬の僻み』なんだろう。
俺にできることは、余計惨めにならないように吼えることをしないだけ――ただ黙るだけか。
初春は事前の指示を守り、到着したことを夏帆に知らせるメッセージを送った。
「やあいらっしゃいハルくん。じゃあここにサインをしてね」
夏帆が校門前まで初春を迎えに来てくれた。初春は夏帆が持ってきた来客用のタグを首にかける。
普段は髪はショートボブのストレートだが、学校にいる時の夏帆はムースで髪に軽くウェーブをかけている。こちらの方がややボーイッシュでこの人の笑顔の無邪気さが際立つ。
「じゃあ行こうか」
初春は夏帆についていく形で職員玄関の方へと向かった。
「あれ? 夏帆ちゃんがオトコ連れてる!」
校舎に入ると、美術室へと向かう途中ですれ違った女子のグループが夏帆をからかった。
「しかも珍しい! この町にスーツ男子! サワヤカ系だ!」
「これは男子達が血の涙を流すねぇ。夏帆ちゃん大人気だから」
「バカなことを言ってないで、テストに集中しなさい。この人は絵のモデルなの!」
「あはは、夏帆ちゃんがオトコ連れてきたー」
茶化す声を上げながら去っていく女子達。
「まったく……」
「葉月先生、人気あるんですね」
「まあ生徒と歳も近いしね。この町は公務員の給与も低いし新規募集も少ないから公務員も高齢化しててね」
初春は家での夏帆の残念振りを知っているだけに、この人が美人だということをたまに失念しそうになる。
「でも――ちゃんと髪を切ったらハルくんも女子から『爽やか』って認識されてたね。私のカットもなかなかかな。でもスーツを着てきたのは私も驚いたよ。ちゃんと身だしなみも整えたらもてるって、言ったでしょ?」
「俺は別に……」
「秋葉さん達も美術室で待ってるからね。ハルくん髪切ってからまだ会ってないんでしょ? きっとびっくりするよ」
「……」「……」
美術室で待っていた制服姿の紅葉と雪菜は、初春の姿に惚けた。
「こういう短髪にスーツって、柳さんは結構好みじゃない?」
夏帆がしてやったりといった顔をした。
「え、あ、その……」
雪菜は既に照れくさそうになって、読んでいた参考書の装丁で目線を誤魔化した。
「……」
本当に細身だからスーツの着こなしが綺麗――小説に出てくる伯爵様みたいな佇まいだ。
「この年頃の娘ってスーツの男性ってお父さんくらいしか見ないだろうし、新鮮よね」
どうやら夏帆もスーツを着た男性は嫌いではないらしい。横にいる紅葉もしばらく初春の姿を見ていた。
「二人ともテスト期間なんじゃ……」
「だから特別にここを二人の勉強に開放したのよ。二人ともハルくんのイメチェン姿を見たいみたいだったし」
「か、夏帆ちゃん!」
紅葉と雪菜はそれぞれ美術室の机を陣取ってテスト勉強をしていた。夏帆がここを勉強場所として解放してあげたらしい。
「……」
だが紅葉は気が気ではなかった。
「いつも通り葉月先生は絵を描くんでしょ。じゃあいつも通りやりますよ。とりあえずいつもみたいに脱げばいいですよね」
初春はそう言ってジャケットを脇に置いてネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外して上半身を脱いだ。
「わっ……」
雪菜は初春が服を脱ぎ始めた時に、思わず目を両手で逸らしてしまう。
紅葉も雪菜ほど男性に免疫がないわけじゃないが、思わず目を細めてしまった。
水泳の授業なんかで男子の裸を見たことはあるけれど、初春の体を見ただけで、自分の体と心が特別な反応を示したことがわかった。
着やせした細身の体は、脱ぐと分厚くはないか力強くしなやかな筋肉が全身を覆っており、無駄な脂肪がない分筋肉の陰影がくっきりと見えていた。
それは紅葉の中で、自分とまったく違う生き物の体で、男と女という違いを強烈に叩きつける力があった。
二人とも、夏帆が何故初春にモデルに頼んだか、初春の体を見てすぐに納得した。
「ほら、柳さんも大丈夫だから、目を隠さないで」
夏帆が雪菜の前に来て、雪菜の目を隠す手をゆっくりどけさせる。
「うぅ……」
ち、違うんです……恥ずかしいのは神子柴くんの裸を見ることじゃなくて……
それを見て、顔が真っ赤になった自分を見られることが恥ずかしいんです……
雪菜はもうどうしていいかわからず、沸騰するような脳の制御も出来なくなっていた。
二人とも初春の裸を前に、ドキドキが止まらなくなっていた。
「まあ私としては下も脱いでくれてもいいけど――流石に二人の前じゃね」
「し、下もっ!」
紅葉が大声を上げる。
「そ、そんなのダメだよっ!」
紅葉の顔はもう首まで真っ赤だ。雪菜は顔を両手で隠すほど動揺している。
「――秋葉、落ち着けって。この前の時もそうだったけど」
「はぁ……」
落ち着いている初春の横で夏帆がため息をついた。
これだけ二人とも分かりやすく自分のことをまともに見られないっていうのに、全然気付いてないのね。
ハルくんらしいと言えばらしいけど……
初春が林檎を手に持つ姿で固定しながら、夏帆がキャンバスに書き込んでいく様を、紅葉と雪菜は後ろからじっと見ていた。
後姿の初春は肩甲骨から肩口に小さく隆起した筋肉があって、実にしなやかそうな体をしていた。
「……」
雪菜はさっきから目を逸らしていたけれど、時折興味が勝るのか、何度か参考書に落とす視線を上げて、初春に視線を向けているのを、紅葉は気付いていた。
お年頃の紅葉は初春のその体を見て、さっきから勉強どころではなかった。
あの細くて、だけどしなやかな体って、どんな感触がするんだろう……
触ってみたら、どんな感じだろう……
もし――あのまま神子柴くんが私を抱きしめたら――私、どうなっちゃうんだろう……
今見ているだけでも、こんなにドキドキするのに……
って――私、何考えてるのよ……勉強に集中しないと。
来週には私の一番危険な物理のテストがある。頑張らないといけないのだが……
「……」
そんな初春は二人の視線を意にも介さずに、自分のいる美術室の風景に視線を向けていた。
夏帆の部屋よりも濃い絵具の匂い、壁に飾られる卒業生や有名作家の絵、油絵を乾かすための棚……
それら全てのものがとても眩しく、懐かしく思えた。
改めてここに来て、自分にはもう手が届かないこの学校という世界……
自分の絶望が、珍しく初春にこの光景を美しいと思わせていた。
「――あー、物理、分かんない……」
そんな初春の耳に、しばらくして紅葉の声が届いた。机に突っ伏して唸っている。
「柳さん――物理って自信ある? 柳さんは学年上位だし」
「わ、私も物理はちょっと苦手です……文系志望なので」
「そうかぁ。まいったなぁ……」
「秋葉さん、物理をやってるの?」
夏帆がイーゼルの陰から顔を出す。
「じゃあハルくんに見てもらったら?」
「え?」「え?」
「ハルくんこの前物理の勉強してたじゃない。一応見てみたら?」
「って――葉月先生はこの格好崩してもいいんですか」
初春は相変わらず林檎を持って腕を挙げて30分以上経ってもびくともしない。
「いいからいいから、助けられるなら秋葉さんを助けてあげなさい。ハルくんの休憩も兼ねてね」
「はぁ」
そう言って初春は腕を下ろして、紅葉の前で行く。
「……」
しかし紅葉は、まだ上半身を脱いだままの初春が近づいたことで、顔を背けてしまう。
「あぁ、悪い――ワイシャツ着るべきだったな」
「う、ううん……全然、そのままで……」
「そうか。じゃあ分からない問題ってのを見せてくれ」
初春は紅葉の隣の席に裸のまま座って、紅葉の参考書を見た。
「……」
初春からはシャンプーに混じったワックスの匂いがして、近くに初春の肌が来たことで紅葉は一気に心拍数が上がった。
「何々――温度が摂氏27℃の時、60㎥の体積の気体に10Paの圧力をかけ、その後気体の温度を摂氏37℃に上昇させた時、気体の体積差を求めよ。この時絶対温度の小数点以下は切り捨てて考えること――ふむ。秋葉、ちょっと紙とペンを貸してくれないか」
初春は紅葉からルーズリーフ一枚とペンをもらって式を書き込んでいく。
「わかった。答えは2㎥だろ」
紅葉はその答えを聞いて、参考書の解答欄を見る。
「せ、正解――どうして分かったの?」
その声に、雪菜も顔を上げる。
「折角だから柳さんも教えてもらったら?」
明らかにそわそわしている雪菜を夏帆が見かねて助け舟を出した。
「え?」
「ふふふ……」
「ハルくんも柳さんに教えてあげたら?」
「はあ、いいですけど。じゃあこっちに来たら?」
初春は雪菜を側に呼ぶ。
「す、すみません……」
雪菜も裸の初春が近くに来て、視線も覚束ないほど緊張していた。
「圧力に関係する要素で影響があるのは、体積、質量、温度、圧力の4つだ。まずパスカルの定理――圧力をかける場合、気体内の分子は常に均一な状態に維持されている――この法則から、空気や水を圧縮する圧力は接地面に均一にかかるってことだ。次にボイルシャルルの法則――温度と質量が一定なら、気体の圧力は体積に反比例する――逆に圧力と質量が一定なら、気体の絶対温度は体積に比例……」
そこまで説明して初春は言葉を止める。
もう目の前の紅葉がその説明でわけが分からなくなっていることを察したのだった。
「何か分からないところは?」
「その――恥ずかしいんだけど――気圧って何なのかなって」
「は?」
想像の斜め上のところであった。
「いや、天気予報とか見てても、ヘクトパスカルとか言ってるのは分かるんだけど、一体それって何なのかな、って……ずっと訊けなくて……」
「それで物理の授業受けてたのか……」
自信がないように紅葉は頷いてしまう。
「――要するにだな。人間だけじゃなく全ての物体は地球にいる限り、空気の重さに押されてるんだ。それが気圧だ。今こうしている間も秋葉は上から空気に押されてるんだよ。その押される力の強さの単位が気圧だ。ここまでいいか?」
「う、うん……」
「で、その空気が重くなればなるほど空気の体積は押されて小さくなる――だけど空気の温度が上がれば空気は大きくなるってことだよ。水が沸騰して水蒸気になれば体積が増えるのと同じだ。要するにそういうことだ」
「……」
一同沈黙。
この人――やっぱり勉強も出来たのか。
紅葉と雪菜が同時に嘆息した。
「すごいねハルくんは――勉強もちゃんとやってるなんて。教え方は下手だけど」
夏帆がくすっと笑った。
「当たり前でしょ、勉強を教えあう友達いないんだから」
自虐を飛ばす初春に、雪菜は懐かしさを覚える。
卑屈と思うかもしれないけど、神子柴くんはこうして時々自虐を言うから、人と話すと気後れする私でも圧迫感を感じないから、一緒にいて気が楽になる。
ずっと――記憶がおかしくなる前――神子柴くんと図書館から一緒に帰っていた頃もそうだった。
「これ――ハルくんがうちの期末テスト受けたら何位くらいいくのかしら」
「……」
夏帆の言葉を聞いて、雪菜は思った。
きっと――神子柴くんが今学校にいたら、すぐにみんなこの人のことを知ってしまう。
私と、秋葉さんと葉月先生だけが知っている神子柴くんを……
神子柴くんと学校で生活できたら、きっと私の高校生活も全然違う景色が広がりそうだけど。
今は私だけが知っているこの人のこと――誰にも知られないで。
今はひとりじめさせてほしい、なんて、思ってしまう……
「その体も相当体動かしてなかったらそうはならないでしょ。中学時代に何か部活やってたの?」
「一応剣道やってましたけど」
「剣道? 神子柴くん剣道やってたんだ」
「そ、そういえば言ってましたよね。剣道部で声出しやらされてたって……」
「強かったの?」
「――どうですかね」
「うーん……」
その言葉を聞いて夏帆は微笑む。
「ハルくん――袴を着てもらうのもいいか……」
「は?」
「よし! ハルくん、剣道場にも行ってみない?」
「え?」
「ハルくんが剣道やっているところ、二人も見たいでしょ。スーツもいいけど、袴もいいでしょ?」
「……」
この話の中にある初春が解いた問題の解説。
シャルルの法則、『圧力と質量が一定の時、気体の絶対温度Tは体積Vに比例する』ので公式にするとV/T=k(定数)
絶対温度とはケルビン温度(K)のことで、摂氏をケルビンに直す場合、摂氏温度に273.15をプラスすれば出ます。(-273.15℃が絶対零度なので)
今回は小数点切捨てなので273ですね。
なので摂氏27℃のケルビン温度はこの公式だと27+273=300
37℃の時は37+273=310です。
作中の問題だと気体の体積は60㎥なので、シャルルの法則に当てはめると
27℃の時は60/300=0.2
37℃の時はV/310=0.2になります。
この公式を使うと37℃の時の気体の体積は310×0.2=62(㎥)です。
気体量の差は62-60=2なので、2㎥分体積が増加したことになりますね。
作者も文系で理系はダメダメなので、間違っていたらすいません。




