井の中の蛙、大海を知らず
梅雨明け前のこの時期になると、神庭町の畑は彩りを増していく。
この時期になると秋葉家はハウスで栽培しているピーマンの出荷が秒読みである。初春もハウス内のピーマンに支柱を立てて毎日水を撒いている。
重量のある大根やキャベツと違い、ピーマンは重量が少なく軽作業の部類に入るので年配の作業者に任せ、初春が手伝いに来た日は専ら重労働の牛舎の掃除と餌やり、ブラッシング、搾乳場の移動から朝の搾乳までを受け持っている。
はじめはおじいちゃんおばあちゃんじゃないと嫌がった牛達も、段々と初春の誘導を嫌がらなくなっている。
仕事が終わって二人と食べる朝食は、この町に来て一番の御馳走だ。いつも数種類の野菜を中心にしたおかずが複数並んで飽きることがない。
お婆ちゃんは初春によくお土産をくれた。自分が作った煮物とか、近所からおすそ分けされた果物だとか。この町の農家は金銭よりも自分の生産した物どうしのおすそ分けで成立していると言うことを、東京生まれの初春もようやく少し分かってきた。
今日は大振りの梨をふたつと素麺を貰った。
9時に家に帰宅すると音々が出迎えてくれた。
「お帰りなさい、ハル様」
「ただいま。おっさんは?」
「山にいる土地神様達と一緒に町の視察です。土筆様がいなくなって町の土地神様がいなくなったので、高天原が新しい神を派遣するまではって」
「そうか――おっさんも忙しいんだな」
初春はとりあえず貰った梨を冷蔵庫にしまうと、キッチンの椅子に座り、携帯電話に入れているシフト票を確認した。
「――そうか、今日はもう仕事がないんだっけ……」
一日置きに出勤する農場の仕事も明日はない。ファミレスのバイトは明日は12時から。
――24時間以上仕事しないでいいって、この町来て初めてかも。
「そ、そうなんですか?」
音々の目が輝く。
「じゃ、じゃあゆっくりするといいですよ。私、お昼ごはん作りますよ」
両拳を握り締めて、鼻息を荒げる仕草を見せる音々。
「……」
初春も気が抜けたように居間の畳の上に寝転がる。
井草の匂いがするが、それとは別に牛舎で貰った牛の臭いが染み付いているし、服も汗が染み付いていて自分が臭いのが分かった。
「――そうだ」
5分後、初春はまだ擦りガラスの窓から日の差し込む風呂場で湯船に体を沈めていた。
「あー、水道代気にせず風呂に浸かれるってのはいいなぁ……」
普段は光熱費を節約して風呂もシャワーだけの初春が、ゆっくり湯船に浸かるのはもう半年以上振りで、この家では初めてである。元々ファミリー向けの一軒家なので風呂もバランス釜ではない、ボタンでの追い炊き機能などがついているのだが、助けてくれる人のいない初春は出費を抑えるために使っていなかった。
自分の能力で温水を出して浴槽に水を溜めて入る――100リットルも出せば十分だが、現在は水の出す量にも制限がある。このくらいの量を出すだけで5キロくらい走った後のように疲れる。
だが久々の風呂は、初春の疲れた体をほぐすように心地よかった。
「便利な能力だ……」
初春は泥のついた顔を洗う。
そうして自分の手で、自分の出した水を掬ってみた。
「……」
昨日音々が言った言葉を思い出したのだ。
この水を出す能力だって、使い方次第では人を――世界を救えるかもしれない。
だが……
久々の風呂を時間をかけて堪能して垢を落とした初春は、頭にタオルをかぶったまま上半身は裸、下に七分丈の短パンをはいて縁側に出る。梅雨時だがからりと晴れた山間の心地よい暖かさの風が居間に入り込み、縁側はぽかぽかと暖かい日が差し込んでいる。
そんな外から、ぶつっ、ぶつっ、という音がしていたので初春は縁側に出る。
「ハル様、お風呂は気持ちよかったですか?」
にこやかな笑顔で小紋の袖をまくって夏草の草むしりをしていた音々がいた。
「お前、折角綺麗な服を着ているのに泥だらけになるぞ」
「大丈夫です。この服は法衣ですから、汚れても神力で浄化されます」
音々は神力が使えるようになってから艶やかな小紋と簪を纏うようになっていた。
「手伝うよ」
「え? い、いいですよ。ハル様は休んでいてくださいよ。仕事帰りですし、泥を落としたばかりなんですから」
「そうか……」
「……」
「……」
「――でも――このあたりにいていただけますか? 私、ハル様とお話したいし……」
「あぁ――て言うかもう今日はあまり動きたくないしな……」
初春は縁側に座り込んで、青空の下の庭を見る。
「いい天気だなぁ――素麺貰ったし、昼飯にこんな縁側で素麺食いたいな」
夏草が風に揺れている。東京ではあまり感じない、爽やかな風が吹く。
「こうして見ると、この庭も広いな――日当たりもいいし、何かこの庭で育ててみようか」
「あ、いいですね。私もお留守番の慰みになります」
「何か俺でも育てられる野菜とかないかな――今度おばあちゃん達に聞いてみようかな」
初春は庭いっぱいに色々な野菜が実る家庭菜園を想像する。
「しかし――また夏草が伸びてきたな。お前も言ってくれれば俺も手伝ったのに」
「いいんです。私――この家の草むしりが好きなんです」
「え?」
「ハル様がこの家に来た頃はまだこの家も草が茫々で――私も、多分お師匠様達も――力を失い朽ちていく運命を嘆きながら、希望もなくただ生きていましたから。でもハル様がこの家に来てから、色々なことが変わりはじめたんです」
「……」
「この庭の景色もそのひとつです。ハル様と一緒に草をむしっていけば、原型を知らないほど荒れていた庭が綺麗になる――もう何年もこの家の外に出ていなくて、自分ひとりで何も出来なくて――自分の持っているものの『声』を聞く能力も、高天原を追放された役に立たない力としか思えなかった私でもちゃんと役に立てるんだって、ハル様との庭の草むしりで自信を持てたんです。その時の嬉しい気持ちを思い出すから――好きなんです」
「そんな大袈裟なことじゃ……」
「いいんです。私にとっては大切な思い出なんです」
「……」
「私『ねんねこ神社』とか――ハル様が作ってくれた今の空気が好きなんです」
「……」
「好き――なんです」
音々は少し照れ臭そうに頬を赤らめる。
初春は嘆息する。
「――お前はすごいな」
初春は空を見上げる。
「どうしたんですか?」
「さっき風呂に入っている時に、昨日お前が言っていたことを思い出していたんだよ」
「え?」
「俺のこの力――もしかしたら人を救えるかもしれないってさ」
「あぁ……」
「正直俺はそういうことを考えもしなかった。こんな能力が出来ても『便利な能力』とか言って、金の心配をせずに風呂沸かすとか、しょぼい使い方しか考え付かなくてな」
「……」
初春は東京にいた最後の方、直哉達の金魚のフンと見なして自分に因縁を付けてくる連中をジークンドーでぶちのめしていた頃のことを思い出す。
あの頃も連中をぶちのめして弱みを握って、奴隷や下僕、ましてや連中から金を奪うことも簡単に出来たのだが、初春はその先をどうするかという思想がなかった。
「どうも俺は夢を見るって事が下手らしい――こんな他の人間にできないことが出来るようになったっていうのに、この能力で誰かを救おうなんてこと、全然考えもしなかった」
「……」
「たまの休日に一番風呂に入って、こんな晴れた日に縁側できりっと冷えた素麺でも食う程度の生活――その程度で十分なんでな。幸せになるための思想が貧困なんだよ」
そう。この神庭町の生活だって、あの東京で両親から満足に飯も食わせてもらえない生活に比べれば、金は常になくても初春にとっては十分過ぎた。
初春は幸せの沸点が低いのである。
満ち足りる水準が低いから、自分の発想も当然小さくまとまり、夢を見ない。
そして、元々自分は劣等生の烙印を押されており、今までも自分の出来ないことを自覚しながらそれを補ってきた初春は、はじめから大きな可能性や夢を見るという思想がなく、そのようなものを真っ先に削ぎ落とす癖がついている。
初春は夢や大志というものがまったくないのである。
「改めて自分に思想が乏しいことを思い知らされたよ――井の中の蛙、大海を知らずってやつだな――つまらん男だ、俺は」
初春はまたしても自分の小市民ぶりに呆れていた。
それがあったところで人間を救うなんてことはごめんだが、こんな力を持っても夢を見れない自分の染み付いた敗者、小民の視点に気付かされ、つくづく自分のつまらなさを思い知ったのである。
「――ハル様……」
そう音々が言いかけた時、今のちゃぶ台に置きっぱなしの初春の携帯が鳴る。
その音を聞いて初春が携帯を取ると、夏帆からメッセージが入っていた。今日時間が空いていたら、自分のところに来ないかというメッセージが入っていた。
「あの女の方ですか?」
「――あぁ。まあ貧乏人にはのんびりする暇もないし――夕方になったら行くかな」
「……」
音々は心配になる。
浅学の自分には、初春の漠然とした悩みの正体に対して上手い答えを言ってあげられなくてもどかしかった。
ハル様が私を救ってくれたように――ハル様を救うことは、私がしてあげたい。
それを――その役目を誰にも渡したくないのに……
初春がひとっ風呂浴びて音々と暫しの休息をしている頃。
「というわけで、ハルくんは私の仕事を手伝ってもらってるだけなんだよ」
葉月夏帆は秋葉紅葉、柳雪菜を自分が鍵を持っている美術準備室での昼食に誘い、二人の疑念を解こうとしていた。描いたスケッチブックの絵まで見せている。
「……」「……」
しかし、必死に弁明した夏帆の前にいる二人の表情はやや浮かない。
「あ、あれ? どうしちゃったの? 二人とも。昨日はあんなにハルくんのことでもやもやしてたのに」
夏帆は首を傾げた。
「すみません。何だかちょっと、神子柴くんのことで記憶がごちゃごちゃになっちゃって」
「――あ、秋葉さんもですか?」
「え? もしかして柳さんも……」
紅葉と雪菜は驚いたように顔を見合わせる。
二人が言っているのは、勿論初春と中のよさそうに話している夏帆への嫉妬がトリガーとなって昂ぶった想いが、紫龍の『忘却の術』で施した記憶の蓋を開けてしまったことである。
だがまだ記憶を消す前のことと、その後のことがぴんとズレのようになってひとつの記憶として線に繋がるまでになっておらず、自分が今思い出している記憶は、何かの夢や思い違いのようにぼんやりとした違和感を二人に与えているのである。
だが、二人に共通しているのは。
記憶を消される前の初春との思い出を思い出して、それまでの初春への想いが恋愛感情であったことをより強く認識していること。
そして、二人の最後の記憶――人間に対して強い憎しみと怒りを抱いた初春の残酷さと、それに苦しむ初春の痛々しい姿であった。
それがまるで太陽の黒点のように小さな綻びを、その恋愛感情に落としている。
「……」
もしかしたらあれは私の思い違いかもしれないと思っていたけれど――そのことをもうひとりも同じ記憶があるのだとしたら、あれは……
「まあ誤解が解けたのならいいわ。ここに二人を呼んだのは、私の興味の方が強いしね」
夏帆はにこりと笑って、体を前に乗り出す。
「二人から見て、ハルくんってどんな人なの?」
「え?」
「ハルくんって、何だかミステリアスというか――あまり喋らないけど不思議な雰囲気があるのよね。この町に来た理由とかもよく分からないし」
「……」
「モデルをやってもらってるんだけど、ハルくんってすごくまっすぐな目をしてるし――何か学校が嫌で学校に行ってないって感じでもなさそうだし、色々不思議なのよね」
「そ、そうなの夏帆ちゃん」
紅葉がその言葉に食いついた。
「神子柴くん――上手く言えないけど……神子柴くんの周りで色々と不思議なことが起こっていて……」
それから紅葉は記憶の混乱がありながらも、今まで自分が初春の周りで体験したこと――それらを話した。
初春の暴力などのことは話さなかった。紅葉があの時の初春のことを、怯えながらもまだ信じられないということが、話題から遠ざけたのだ。
「なるほど。ハルくんが何でも屋をやっているっていうのは聞いているけど――そんなことをやったんだ」
夏帆はそんな紅葉の話を疑いもせずに聞いていた。
「柳さんもそうなんだ」
「はい……」
脇で聞いていた雪菜は、自分も信じられない記憶――初春の残酷な一面を話さなかった心情を慮っていた。
「それでそういうものを見ているうちに、二人ともハルくんのこと、好きになっちゃったんだ」
夏帆は元々この準備室で放課後、女子生徒の相談にも乗っている。自分の色恋沙汰には疎いが、そういう話をするのは割と好きだった。
「……」「……」
「あれ?」
「――まだ、自分の気持ちに戸惑っているんです……」
先に口を開いたのは雪菜だった。
「怖かったり、よく分からなかったり――勝手に一喜一憂したり、疑ったり――時々そうして浮き沈む自分のことを嫌だなと思うことも、あって……」
「ふむ」
「で、でも――あの人が本当は優しい人だっていうことを疑いたくはない――そうしたいんです。私は……」
雪菜は記憶が戻った時に、痛みも思い出した。
ぶっきらぼうだけど自分を励ましてくれた初春に、私はちゃんと手を差し伸べられていたのか。
あの時の記憶は確かに私の中から消えた。
それをもし、彼が行ったのだとしたら……それは少し酷いとは思うけれど。
それは怖い思いをさせてしまったと、彼が心を痛めていたからかもしれない。
今はそれは自分の勝手な妄想に過ぎないけれど……
あの時初春が苦しみ、悲しんでいることは本当で。
自分はそんな初春を、大切な人だと認識し始めていたのに、何も出来なかった。
だから、せめて……
「――柳さん、やっぱり言葉が上手だなぁ。言っていること、すごくよく分かるよ」
まだ肝心なことを夏帆に話していない同士、雪菜の目に感じるもののあった紅葉はうんうんと頷いた。
「不思議なことはあるけど――やっぱり神子柴くんのこと、ちゃんと見たい。どんなことがあっても、神子柴くんにこんなに素敵な気持ちにさせられちゃったから。怖いとか、そんな気持ちよりも強いの、この気持ち……」
たどたどしい想いだが、その声は力強かった。
二人とも初春の狂気の一面を知りながらも、そこから逃げたいという気持ちはなかった。
記憶を消される直前の、苦しんでいた初春に手を差し伸べなくちゃという想い。
それが今は恋愛感情をプラスして、より強い想いになっていることで、二人は自分でも戸惑うほどに初春への想いが昂ぶっているのであった。
「へぇ――ハルくんもなかなかやるなぁ。あの朴念仁め。こんな可愛い娘達をたぶらかしちゃって」
「か、夏帆ちゃん、でも神子柴くんにちょっかいは出さないでね! 神子柴くん――見た感じ年上のお姉さんにはすっごい弱そうだったもん。昨日本当に心配しちゃったもん」
紅葉の言葉に雪菜もそわそわする。
「ふふ――二人ともようやく昨日の恋する乙女の顔になったね」
「な!」「う……」
二人は真っ赤になった顔を見合わせて、恥ずかしそうに俯いた。
「でも――『ねんねこ神社』か――ハルくんのお仕事、興味あるなぁ」




