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俺には決定的に欠けているものがある

「まあゆっくりしてってください。食い終わる頃にデザート持ってきますから」

 そう言って初春は伝票をテーブルに置き、パントリーの方へ踵を返した。

「デザートもハルくんが作ってね」

「――へいへい」

「心を込めてね!」

「――俺に過度の期待をしないでください」

 雑な返事をしながら初春はパントリーに向けて去っていった。

「……」

 向かいの席にいた雪菜はぽかーんと口を開けて夏帆の方を見ていた。

 だが、その横にいた紅葉はすぐに脱兎の如くパントリーに走っていってしまった。

 初春はパントリーに戻って在庫チェックの再会のために、冷蔵庫の前でしゃがみこんでバインダーを持っていたが。

「神子柴くんっ!」

 紅葉に呼び止められ、初春が首をそちらに向けた瞬間。

 紅葉に両肩を掴まれて前後に激しく揺らされた。

「ぬお」

「どどど、どういうことっ! どうしてみみ神子柴くんが、かかか夏帆ちゃんと!」

「お、おい、外の客に声が漏れるって……」

 突然脳がシェイクされて、初春の世界が回った。

「はあ、はあ……」

 一通り暴れると紅葉も息を切らして落ち着いた。

「……」

 初春は少し目が回っていた。遊園地で絶叫マシーンにも乗ったことがないので初春は自分の三半規管の弱さを自覚した。

「――別にどうってわけじゃないよ。葉月先生は俺の依頼主だ」

「え? 依頼主って、何でも屋さん?」

「そうだよ。絵を描きたいからっていうんでモデルを依頼されて」

「モデルって――神子柴くんを?」

「あぁ――服を脱いで林檎とか持たされたりしてるだけだけどな」

「ふ、服を脱ぐっ?」

 紅葉の顔が紅葉でもしたように真っ赤になる。再び真っ赤な顔で初春の肩を掴んだ。

「や、やらしいよそんなの! 女の人の前で、ふ、服を脱ぐなんてさあ!」

「……」

 初春は顔を手で覆った。

「秋葉――その声じゃ多分ホールに丸聞こえだぜ……」

「えっ?」

 その初春の言葉で我に返り、紅葉はパントリーから顔を出してホールを見る。

 この時間は常連のお客がまばらにいるだけで閑散としているが、客は皆空気を読んで笑いをこらえたり、紅葉から目を背けたり……

 そして目の前にいる夏帆が、向かいの雪菜の席に移ってこちらを見てくすくすと笑い、その向かいにいる雪菜も痴話喧嘩のような紅葉の声に自分まで恥ずかしそうに俯くのだった。

「うぅ……」

 紅葉は顔を真っ赤にしてパントリーに隠れてうずくまる。

「……」

 初春は手近にある客用のピッチャーで氷水をコップに注いで紅葉に渡した。

「――少し頭冷やして落ち着け。しばらく俺がホールに出るよ」

「……」

 初春からしゃがみこんだままコップを受け取る。

「――ごめん。神子柴くんの仕事の邪魔しちゃって……」

「別に構わない」

「……」

 初春はホールに出て、夏帆のテーブルの前に行く。どうやら夏帆は雪菜を気遣って、隣のテーブルにオムライスを持って移動していた。

「すいませんが見ての通りで秋葉が今頭を冷やしてるんで、俺がしばらくホールに出なきゃいけなくなりました。デザートは別の奴が作ることになるんで」

「残念だけど、仕方ないね」

 元々夏帆も初春をからかい半分だったので、すぐに納得した。

「でもちゃんと女の子を気遣ってそういうことするんだ、やるねぇハルくん」

「は?」

「秋葉さんのフォローもちゃんとやってるんだなって」

「悪意はないんだから、特に俺から言うことはないですよ」

 初春は基本人の悪意がないのであれば他人の行動に頓着がなかった。それを下手に怒ったり、皮肉ったりして嫌いな人間と関わる時間を作ることが煩わしいからだ。

「なるほど――意識しなくても気遣えちゃうわけね」

「は?」

「ふふふ――柳さんにも説明しておいたからね。私とハルくんのこと」

「――俺はその方が話が歪曲されそうで不安なんですが」

「あれれ? ハルくんは若い女の子じゃないと優しくしてくれないの?」

「……」

 こんなに会話の受け答えをしたのは久し振りで、そろそろ初春も疲れてきた。

「悪いな柳、さっきから読書か勉強の邪魔だろう」

 初春はさっきから困った表情をしている雪菜を気遣った。

「だ、大丈夫です……」

「葉月先生――そろそろ静かにしてやってください。秋葉はともかく柳は客ですから」

「ともかくなんだ」

 ピンポン、と、他の卓からのベルが鳴る。

「只今お伺いします」

 初春はそう言って客の方へ行ってしまう。

「何だ、結構ちゃんとやってるんじゃない。ウェイター姿も似合ってるし」

「……」

 雪菜は記憶を消されて以降、このレストランに来るのは初めてである。

 細身の体に白い肌に白いシャツ――身長は並だが黒のパンツは細身の体もあって足が長く見え、スタイルがよかった。

 一つ一つの所作が軽やかで、つい見入ってしまった。

「ふふふ……」

 そんな雪菜を見て、夏帆は笑った。

「柳さん――ハルくんのどこが好きなの?」

「へっ……」

 雪菜はその一言に気色ばむ。

「す、好きって――その、あの……」

「ふふふ……」

「……」

 胸の鼓動で、耳とか瞼まで揺れているみたい……

 その言葉を聞いただけで、こんなに自分の体がおかしくなりそうになるくらい、胸が苦しい……

「――そ、そんなに簡単にわかっちゃうんですか……」

「見たらすぐわかったわよ。秋葉さんもそうね。まあ、ハルくんは気付いてないみたいだけど」

「……」

 これは――やっぱり恋なんだ。

 ずっと気になっていた想い――夏帆先生と仲良くする神子柴くんを見て。

 私――すごく嫌だった。辛かった。

 今まで学校で、みんな仲良くしている人を見るのとは明らかに違う感情。

 きっとこれは……

「はっ!」

 その時、雪菜の脊椎に稲妻が走ったような痺れが起こると。

 雪菜は目を見開き、顔を覆った。

「ど、どうしたの? 柳さん?」

「あ……あ……」

 お、思い出した……

 神子柴くんと私――もうずっと前から私は彼を……

 何でも屋を作る彼を知っていた。

 仲間のためと言い、いつも一生懸命で。

 そして――

 私はここで、秋葉さんと一緒に見たんだ。

 神子柴くんが、血まみれになるまで人を殴っていた。

 そして――その後に泣いていた。

 あの人が見せた狂気を――私は知っている……

 ――同じ時。

 パントリーにいた紅葉も同時に、嫉妬をした自分の心が、初春への想いを意識させ。

 それが、記憶の蓋を開けさせた……

「……」

 真夏だというのに紅葉の体がぶるぶると震える。

 あの時の神子柴くん――

 すごく――すごく怖かった。

 人を殺すことを何とも思っていないような残酷さだった。

 なのに……

 紅葉は自分の持っている、初春がくれたコップを見つめる。

 ――いつもこうして私を気遣ってくれて。

 ぶっきらぼうだけど、いつも優しくて……

 どちらが本当の彼なのだろう……

「……」

 そして、二人は同時に思っていた。

 あの頃から私は、神子柴くんに惹かれていたはずなのに。

 何故そんなことを、今の今まで私は忘れていたの?

 こんなこと――忘れるはずがないのに。

 神子柴くんって――いったい何者なの?



 初春は家に帰ると、夕食後に一人ちゃぶ台に座って水の入ったコップを前にしていた。

 右手の人差し指をコップの水につけて、ゆっくり指を上げる。

 コップの水はゆっくりそこを離れて引き上げられていく――コップの外に出ると、水はコップの形そのままで固まり、表面が空気の振動でふるふる震え、まるでプリンのようになっていた。

 初春はその水を崩さないように右手の人差し指から、薄く掌を覆うように覆う形に変えるようにイメージする。

 水はゆっくりと手の表面をコーティングしていき、五秒ほどで初春の右手は完全に水に覆われる。

 初春はその水を再び人差し指に集めてプリン状にし、人差し指でコップに戻す。

「ふーっ」

 水をコップに入れ直すと、初春は横に置いてある携帯電話のストップウォッチを押した。

「この一連の所作で13秒51か……遅過ぎるな」

「水の形を変える速さと精密性の特訓だな」

 それを周りで見物していた中級神が言う。

「ああ、特に水をコップに戻す時、初めからコップの形に合わせて戻すのが難しいな……かなり水の形を正確にイメージしないとはみ出す」

「そんな細かな所作が必要なのかい?」

「少なくともこれだけじゃただの水芸だからな。自分の手から離れると操れない以上、この水をもっと細かく扱えないと……」

 初春はバイト中も実は紅葉も雪菜も夏帆のことは正直視野の外。

 ずっとこの能力のことを考えていたのである。

「特に今日店長に、俺の能力で出した水を飲ませて、この水は『行雲』の使えない場面で使えそうだってことも分かったからな」

 実際に初春は水を出す量に関しては、この家の風呂場で実践した。

 水をただ出すだけなら家の風呂桶をいっぱいにする――それだけなら十分出しっぱなしで風呂桶約150リットルをいっぱいにするくらいの水を出せることが分かった。

 だが水を出す量は自分の疲労度に大きく左右される。50リットルも出すと息も切れてくるし、集中力も欠けてくる。150リットルを出すと、しばらく立てないほどの疲労に侵された。

 体の一部に出した水は、自分の能力以外で出した水でもある程度の操作ができる。中でも右手にその能力が集中していて、右手にある水は渦を巻くとか、霧状にするなどのギミックを加えることが可能だった。

だが水の温度だけは非常に狭い範囲でしか変えられない。

 だがこれで操作できる水の操作精度は、水の量に反比例する。大量の水を操ろうとすると水の操作中に水は落下してしまう。

そして右手はある程度しっかりと水の重量を感じるので、風呂桶一杯の水を右手一本で持ち上げるようなことはできなかった。水の比重は1だが、おそらく0.5~0.6くらいでの比重は感じている。初春の右手では大体30リットルが右手で持ってある程度自由に動かせる限界であることが分かった。

「けど、何で操作はある程度できるのに、水の温度を変えられなかったんだろ――風呂の温度の40度くらいから、20度くらいの幅か。熱湯にできたり凍らせたりできたらいろいろ便利なんだが」

「一応お前のその能力は主の神から授かった能力になるからな。人間に影響がある以上、傷つけないようにその制限がかかるのは当然だ」

 紫龍が言った。

「でも、あんたの神獣の雷牙のあの雷は、食らったら人間は間違いなく死ぬぜ」

「そりゃ儂は戦神じゃからな。そういう能力を許しておる――お前の場合は主が戦向きでないからそういう制限があるんじゃよ」

「そうか……残念だなぁ」

 初春は横に座っている音々に手を合わせた。

「音々――このリミット、解除してくれない?」

「だ、駄目ですよ。ハル様はその能力を、ちゃんと役に立つことに使わないと」

「うーん……」

 珍しく初春が残念そうな顔をした。

「例えばハル様、人がこの水を飲めるんだったら水のない場所に行ったら大喜びされますよ」

「確かに――砂漠なんか行ったら救世主になれるかも知れないね」

「それじゃお前の手柄にならないから、お前の『徳』にはならないだろ」

 初春はもう一度コップの水に指を突っ込む。

「それに音々、残念だがそれをするために俺には決定的に欠けているものがある」

「――それは何です?」

「そこまでして人間を救いたいっていう熱意だな」

「あらら……」

 あまりにさらりと言うので、比翼をはじめ客人の妖怪もずっこける。

「それに――きりがないしな。この水で一時水を作っても、それがなくなれば元通り――そうなって次に駆け付けなきゃ人間はこう言うんだ。『人でなし』『人殺し』ってな。根本的な解決にはならん上に、人間は恩を忘れて救わなかった俺達が悪いと後ろ指を指す――責任のはけ口にされるんだよ」

「……」

「下手に救うことで結局罪人扱いされるってことが人間の社会ではよくあるんだよ。一時の礼なんて何の役にも立たん――金を取ればいいかもしれんが、俺は別に金持ちになりたいわけじゃないしな」

 初春は指先に集めた水を、しゅるしゅると竜巻状にして人差し指に集める。

「……」

 音々はその初春の論に反論したかった。

 だが、何も言い返せない。

 初春の言葉が自分の経験則に基づくことを知っていて、その言葉が実体験を伴っていたから、非常に説得力があったのだ。

 水のない砂漠に水を生んでも、それも初春がいなくなれば元通りだ。

 そうなればそこを去る初春を恨む……

 その姿が人間を信じる音々にも簡単に想像できる。

 だから初春が人間が救うことを馬鹿馬鹿しいと考えていることに、音々は何も言えなかった。

「そんな顔するなよ。お前がそれをしなきゃ神様になれないっていうなら協力するさ。それをしなきゃお前は消えちまう――それを見殺しにするのも寝覚めは悪いからな」

 初春は音々を見ずに、再び水をゆっくりコップに戻すために、水をコップの形に変えるように集中する。

「だから――お前の目的のためには力を貸すさ――だがそれを俺がやるのはごめんだな……」

 そう言いかけた時。

 水が急に形をとどめられなくなり、びちゃっとちゃぶ台の上に落下した。

「うーん――やっぱり喋りながらとかで集中してないとすぐに形が崩れる……これは『行雲』のイメージと並行して使えるようになるには時間がかかりそうだな」

「それなら決まり事を作って、声に出してみたらどうだ」

 紫龍がそれを見てアドバイスを送る。

「お前は敵にこちらの意図を知らせるから声を出すのは好まないようだが、脳に情報を定着させるのに声に出すのはかなり効果的だぞ」

「確かに……単純に『止まれ』とか『渦を巻け』じゃなく、暗号みたいにすれば敵に意図を知らせることもないか……その方が確実かもしれない」

 初春はそのアドバイスに興味を示した。

「何か必殺技みたいだしな」

「坊やって、本当にたまにすごい餓鬼っぽいね……」

 比翼が目を輝かせる初春に呆れた。

 同時に思った。

 こうして新しいこと、新しい知識を得ることに非常に初春はどん欲だ。

 きっと何かがきっかけで、人間にもこうして興味を持ってくれたら……

 もしかしたら初春と音々は、すごいことをしそうな予感がする……

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