影法師のラーメン(6)
「この町に帰ってたの? へぇ……」
『ヒノさん』は大きく頷きながら店を見渡した。
「この店も随分改装したんだね」
「来たことがあるんですか?」
雪菜が訊いた。
「そりゃ小学生からの同級生だもん。高校に入ってからは何度かここでツカサくんの試作のラーメンを食べたっけね。それが酷い味でね……特に腸を抜かなかった煮干で濃厚に取った出汁のスープは強烈だったわね」
「ああ、ありゃ笑えるほどまずかったな。生臭いやら苦いわで……」
思い出しても笑える味だったらしい。話しながら腹を抱えて笑う。
「影山さんは高校を出てから外で修行をして、ようやく自分の店を持てるようになったそうです。そのラーメンをまた食べていただけませんか?」
初春はそう言って『ヒノさん』をカウンターへ促した。
「本日は貸切で作ってくれるそうですよ」
ホール経験のある紅葉がカウンターの椅子を引いてあげる。
「……」
しばらく彼女は逡巡していたが、やがてにこりと笑って席に着く。
「へぇぇ、懐かしいなぁ」
「御代は結構だから、是非食べていってくれ。ちょっと待っていてくれよ」
やや緊張で体が硬くなっている影山が麺を茹で麺機に投入する。
「……」
影山がカウンター越しにラーメンを作り続ける姿を『ヒノさん』は小さな笑みを浮かべながら見ていた。
「――どうなさったんです?」
初春はやや浮かない表情に見えたので訊いた。
「ううん、なんか昔の同級生に会うと、色々思うことがあってね……」
「……」
「この町って高校を出たらほとんどの子供は仕事を探しに町を出て行っちゃうの。この町には大学も専門学校も仕事もあんまりないからね。ツカサくんみたいに夢を追って町を出る人がいる中で、私はこの町に残ることを選んだ――そうなると、自分がまるでどこにも行けないような気がして、すごく不安になったんだ。もう町を出て行った同級生も、きっともう帰ってこないような気がして――だからこうして同級生が帰ってきて、私のことを覚えてくれていたってことが、何かちょっと嬉しくてね」
「……」
「――分かる気がします、それ……」
雪菜がおずおずと口を開いた。
「私も――秋葉さんに声をかけてもらえた時はすごく嬉しかったですから。秋葉さんは私よりずっと学校では人気者だったから、私のことを覚えていないんじゃないかと思っていましたから」
「そうだったの?」
紅葉は驚いた。
麺を茹でるタイマーが鳴って、影山は麺の水を大きなモーションで切り始める。
「――どうしてこの町に残ることを選んだんですか?」
初春は訊いた。
「――まあそれは、若気の至りってやつね……」
『ヒノさん』は自嘲を浮かべる。
初春はそれが小説家という仕事を目指していたからだということを、もう音々の報告で知っていたのだが、黙っていた。本人にとって触れられたくない過去なのだろうから。
「お待ちどうさま」
そう言って影山がカウンターから体を乗り出して『ヒノさん』の前に丼を置く。
初めて来た時に紅葉と雪菜に出したのと同じ、干し貝柱と煮干、削り節でじっくり丁寧に出汁を取った、黄金色に輝く澄んだスープだった。
「うわぁ、綺麗……」
「こ、これも煮干で出汁をとったんだ。女性でも食べやすくて満足感があるっていうコンセプトで作ったんだ」
「すごいよツカサくん。この町にいる頃に作ってた試作品とは比べ物にならないくらいじゃない。頑張ったのね」
「はは、さあどうぞ。麺が伸びないうちに」
「いただきます」
そう言って『ヒノさん』はレンゲを取ってスープを一口飲んだ。
「おいしい――」
そう静かに呟くと、本当に笑って顔を上げる。
「あの時作っていた試作品とは全然違うわ。こんな美味しいラーメンを作れるようになったのね」
『ヒノさん』の顔がぱっと明るくなったのを見て、紅葉と雪菜は心の中で、やった、と呟いた。
「……」
しかししばらくすると『ヒノさん』は丼の縁に割り箸を置いた。まだラーメンは半分くらい残っている。
「ど、どうしたんだい?」
「ううん――何か、あんまり美味しいラーメンをツカサくんが作るものだから、自分が情けなくなっちゃって……」
「……」
「私はもう、とっくに作家になる夢を諦めちゃったっていうのに――よく学校帰りに二人でそんな夢なんか語って、馬鹿みたいにはしゃいで、自惚れて……こんなちっぽけな町から出ることもできなかった。井の中の蛙なのよ、私は……」
「……」
「――実はさ、俺、ノリコちゃんにラーメンを食べてほしくてこんな暗号なんか作っちゃったんだよ。彼らがこれを解いて、それで一緒にノリコちゃんを探してくれたんだ」
俯く『ヒノさん』の前に影山はあのチラシを差し出す。
「ノリコちゃん、こんな暗号とかミステリーが好きだったろ? だからこれ、自分で考えてみたんだけど――すごい難しいんだな。たった3行の暗号を考えるのに、俺は何日も何時間も無い知恵絞っちゃったよ」
「……」
『ヒノさん』はチラシの暗号に目を走らせる。
「これを雪菜ちゃん達が解いたのか……『一』が『H』?」
「――暗号は後回しにして、話を聞いてあげましょうよ」
明らかに暗号の解読にかかりだしてしまった『ヒノさん』に初春は釘を刺した。
「ラーメンなんてどんなに時間かけても二日もあれば大体結果が出るけど、作家なんてその結果が出るのに何か月、あるいは何年もかかる――その間足を止めないで書き続けるって、すごいことだよな。きっとノリコちゃんの中にも、そうして長い間このラーメンのスープみたいに溶けだした想いが沢山あって――俺はそうして自分の中に溶けだした想いを沢山持っていたノリコちゃんがいたから、あの頃が楽しかったんだと思うよ。作家になれるなれないじゃなく――沢山自分の気持ちと向き合って、言葉にして――そんな作業をずっと続けていたノリコちゃんの言葉がいつも面白かった。俺のラーメンを飾ってほしかったんだ」
「……」
「きっと――それが俺の、君にラーメンを食べてほしかった理由なんだと思う……」
「……」
沈黙。
「――難しいね」
「え?」
「そう言われて考えた言葉って、何を言っても作り事みたいになってしまって」
『ヒノさん』は自分の鈍才を自重するように眉間に皺を寄せ、額を手で抑えた。
「まさか、こんな作家崩れの言葉を待っている人がいて――会いに来てくれるなんてね」
「……」
「もうちょっと、もう一杯、ラーメンを食べてからでもいいかしら……」
そう言って俯いたまま、『ヒノさん』は残ったラーメンを食べ始めた。
「……」
俯いて、泣きそうなのを必死に隠しているのを、初春達は誰も何も言わなかった。
「じゃあ、俺達はこれで帰ります」
初春は席を立ち、影山に会釈する。
「え?」
「あとは積もる話もあるでしょうし――俺がされた依頼はもう終わったでしょうから。ならラーメンを頼んでない俺がここにいる理由はないんでね」
店内では影山と『ヒノさん』の思い出話に花が咲いていた。
「のぞくな」
店の外に出た初春は、店の窓から中をのぞく紅葉に釘を刺した。
もう外は真っ暗で、夏の星空が見えている。商店街の明かりも少ないので、初春の家の周りほどではないが、十分星がよく見えていた。
「いやぁ、ロマンチックだなぁ。店長さんの言葉――あれは絶対にまだ『ヒノさん』を好きだね」
色恋話の好きな紅葉がニコニコしながら言う。
「でも大丈夫かな――店長さん、イケメンで優しそうだけど、ちょっと押しが弱そうだったし……まだ二人きりじゃ緊張して話せないんじゃないかな」
「大丈夫だよ、あの人は『ヒノさん』を大切にしている分、まだ距離感がつかめていないだけさ。すぐにあのぎこちなさも取れてくる」
「……」
その言葉を聞いて雪菜は立ち止まる。
「どうした? 柳」
「あ、あの――神子柴くん――ひ、ひとつ訊いてもいいですか」
「何?」
「ど、どうして神子柴くんは、影山さんが『ヒノさん』を探すのはもういいと言っていたのに『ヒノさん』を探したんですか? それに――神子柴くんははじめから影山さんが本当は背中を押してほしいって想いを知っていたようですし――どうやってそれが分かったんですか?」
「あ、それは私も気になってたの。まるで神子柴くん、影山さんの事を何でもお見通しみたいだったから。それが聞きたくてここまでついてきちゃったんだから」
「あぁ……」
初春はしばし黙った。それには音々から聞いた情報もかなり大きかったが、それを極力排除した簡単な説明の仕方を少し考えた。
「――店の名前だよ」
「店の名前って、『影法師』?」
「そうだよ」
「え? でも店主の名前が影山師さんでしょう? その名前からもじった名前じゃないの?」
「それもある。でもこの店の名前はもうひとつあったんだよ。これも一種の暗号だな」
「暗号……あ」
雪菜がぴんと閃く。
「『ヒノさん』の名前は『ノリコさん』って言ってた。『ノリコ』って名前は『法子』って書くんじゃないのかな。もしくはそういう意味にしたくて影山さんがそうしたか」
「……」
「自分の名前の真ん中に法子さんを置く――あるいは自分の名前で抱きしめてる。そんな想いは簡単にすっぱり諦められるような想いなのかな、って思ってさ」
「……」
紅葉と雪菜は同時に沈黙する。
「へぇぇ――確かに、とっても大切な思いって感じだね」
「本当に『ヒノさん』に伝えたい暗号は、この店の名前にあったんですね」
「まあ確かめたわけじゃないから可能性だけどな」
「……」
「でもたったそれだけで――間違っているかもしれないのに、迷惑がられるかもしれない仕事をやったの?」
今度は紅葉が質問した。
「『ねんねこ神社』は開店休業状態なんだよ。仕事になりそうなものを見送る余裕はないんだ。仕事があったらお節介なんて焼いてないさ」
「……」
そんな気怠そうな愚痴をこぼしながら自分達の前を歩くその初春の細身の後姿を見て、紅葉と雪菜は同時に柔らかく微笑んだ。
ぶっきらぼうに見えて、誰かの願いを聞いてあげるなんて。
分かりづらくて、ひねくれているけれど。
そんな優しいところが、何だかすごく……
――二人の胸が、同時にどくんと高鳴る。
そう。何だか、すごく……
すごく――目が離せなくなる……
「ただいま」
二人と別れて家に帰ってきた初春は、先に戻ってきていた音々が用意した夕食が並ぶ食卓に座った。
「とりあえず後日また顔を出してみるよ。報酬のラーメン10杯優待券貰いにな。その時に賽銭も貰えるかもしれないから、その日は火車を貸してくれ。ついでに店にチラシ貼らせてもらえると嬉しいけど」
「でも――ハル様の言ったとおりでしたね。あの方は女性への想いを諦めようとはしているけれど、どこかで助けてほしいって願っているって」
「――お前があの店の名前の意味を教えてくれたからさ。それからは想像力の問題だな……」
そう、あの店の名前の真意に気づいたのは初春ではなく音々である。
初春はそれを聞いて今回の仕事に首を突っ込むことを思いつき、図書館でリサーチをかけてもらい、音々にその真意を語った。
用意してあった食事に手をつけ平らげると、初春は立ち上がる。
「腹が膨れたら眠くなってきたな――今日は少し早く部屋で休むよ」
そう言って、初春は階段を登って自分の部屋に帰っていった。
「ハル様……」
その初春の言葉の嘘を、音々は瞬時に見破ってしまう。
ハル様――ハル様は言わなかったけれど。
私はハル様の周りのアヤカシから聞いて知っているんですよ。
どうして今回の仕事で、ハル様があの方の想いを見破れたのか。
それは……
「はぁ……」
安いベッドの上に仰向けに倒れ、月の光と6月の蒸し暑い風が窓から流れてくる部屋。
初春は力ない溜め息をついた。
「諦める……か……」
――俺もこの町に来るまで知らなかったよ。
自分はもっと諦めのいい、聞き分けのいい奴だと思っていたから。
でも――どんなにその道が絶望的で、もう手を伸ばしても届かないものだって分かっていても。
一度想ってしまったら、もう忘れることなどできない。
結衣――生まれて初めて惚れた女のことを。
直哉――俺が生まれて初めて本気で勝ちたいと思ったお前のことを。
そして――犬猫のように捨てられ、虫けらのように人間に潰され、もう自分でも塵芥としか思えない人生を――その未来を。
それを都合のいい『奇跡』なんかが起こることを期待したりしているんだよ。
走っていれば――足を止めなければいつかはこの迷路のような日々を偶然抜けているんじゃないかとか。
答えも順序もない、そんな偶然が起こることを期待する。
「……」
――俺もいつの日か、結衣への想いを諦めることができる日が来るのだろうか……
この俺の、虫けら同然になった人生を……
それはいつだ? 何を突きつけられれば俺はこの想いを捨てられる?
いつ、俺は終わるんだ……この終わりのない死に絶えたような毎日を、何が終わらせてくれる?
「はぁ……」
俺にも――『ねんねこ神社』のような神様でも現れてくれないだろうか。
誰か――俺を助けてくれないだろうか。
人間嫌いの俺が、人間にすらそんな身勝手な祈りをしてしまいたくなるほど。
諦めるにもとどめを刺してほしい。
そんな切腹をする際の介錯のようなものを求めてしまう。
俺にはそんな気持ちがよく分かるから……




