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影法師のラーメン(5)

「それで、私を探しているって何で?」

 目の前の『ヒノさん』は初春に首を傾げた。

 参った、ここには図書館に通っていたかもしれない『ヒノさん』の情報を聞き出すために来たのだが、その図書館の関係者が探し人だったとは。

 まずい仕事をしてしまった。俺も記憶を消す術があれば楽なのだが。

「――あなたに世話になった人がいて、礼が出来たらって考えている人がいたんです。それ以上は守秘義務ってことで」

 とりあえずもっともらしいことを言ってお茶を濁す。

「私に世話になった? んーそんな人いたかなぁ」

「……」

 初春は思う。5年も連絡をしていなければ、どんな間柄でもこうなってしまうのだろう。

「――さて」

 初春は暫し考え込むと踵を返して、図書館の中を探る音々を迎えるために図書館を歩いた。

「ハル様」

 まだ時間も浅いので、音々は二階の本棚の並ぶ列ですぐに見つかる。

「『ヒノさん』はやはりこの図書館に出入りしているみたいですよ」

「――ああ、俺はもう本人に会えたよ」

「えぇ?」

「受付のお姉さんがそうだったんだ」

「も、もう依頼解決しちゃったんですか?」

「探すのはな――けど客自体はもういいって言ってるんだ。これだけじゃ自己満足に過ぎん」

「あとは、お客さんが何を望んでいるか、ですね」

「そのためにもお前の力がいる――お前が昔言ってた『心の処方箋』を作らなきゃな」



 初春は音々に『ヒノさん』の周りの『声』を聞いてくれと依頼し、それを待つことにした。

 初春はその間に適当な本でも読みながら待っていようと思ったのだが。

「ふあ……」

「――あ」

 大欠伸が出た時、不意に本棚で同じく本を探しに来た雪菜と鉢合わせる。

「こ、こんにちは……」

 図書館で静かに喋る雪菜の声は元の声の弱々しさと合わせてとても小さかった。

「押忍」

「……」

 不意に初春の顔を見て雪菜の脳裏に昨日の記憶が去来する。

 暗号を解いてその後にラーメンを食べに行く――言葉にすると陳腐だけれど、その一日は雪菜の心を不思議の国に迷い込ませたような感覚があった。

 その不思議な世界の中心にいたこの人――初春の姿に自分の心が小さく反応する。

「きょ、今日はお仕事ですか……」

「ああ」

「そ、そうですか……」

「……」

 会話が終了してしまい雪菜はしどろもどろになる。

「――あぁ、そういえば約束だったな、『ヒノさん』が見つかったら教えるって」

 初春は言った。

「もう見つかったぞ」

「え? 本当ですか?」

「あぁ、受付のお姉さんが『ヒノさん』だ。ていうか柳、常連なのに知らなかったのか」

「す、すみません――名前聞くの失礼だと思って、ずっと『お姉さん』って呼んでたので……」

 そうか、柳の性格考えたら自分から名前なんか聞かないか。

「そ、それでこれからどうなさるんですか」

「ん? 今考え中だ。ある程度は考えてるけど取りあえずこの後あのラーメン屋にまた行く予定だが……ふぁ」

 また話しながら欠伸をかみ殺す初春。

「ね、眠そうですね」

「あぁ――仕事のことでちょっと考え事をしてしまってな」

「……」

 まさかあのラーメン屋さんの待っていた人が私がいつも世話になっているこの図書館のお姉さんだったなんて。

 でも――色々と分からないこともある。

 その中でも、何故この人が会えなければそれでいいと店主さんが言っていたのに仕事をすると決めたこの人の狙いが。

 それは――昨日の暗号のように気になって頭から離れなかった。

「あ、あの、私もついていってもいいですか?」

「え?」

「あ……」

 気付いたら思わず大胆なことを言ってしまっていたことに気づいた。

「――別にいいけど――今回の仕事、上手く行くかは分からんぞ」

「だ、大丈夫です。邪魔はしませんので……」

「そうか。ついて来ても面白いものが見れるかは分からんがな。好きにするといい」

「は、はい」

 雪菜は返事しながら想いに捉われる。

 ここが閉館した後に、誰かと――

 そんなことがずっと前にあったような気がする……

「あぁ――そう言えば秋葉にも約束したからな。『ヒノさん』が見つかったら教えるって」

 初春は反射的に携帯電話を取り出したが。

「……」

 ――そう言えば俺、記憶を消してからは連絡先を知らないことになってるんだっけ。

「――柳、秋葉の連絡先を知ってたら、『ヒノさん』が見つかったことを伝えてやってくれないか?」

「え?」

 柳は少し驚いた。

「――ちょっと意外です。そういうことを面倒臭がると思っていたので……」

「仲間はずれにされるのは慣れているが、する立場ってのは慣れてないんでな。後で秋葉に仲間はずれにしたって言われて、もっともらしい嘘を考える方が面倒臭そうだ」

「ふふ……」

 初春と同じくぼっち体質の雪菜は、仲間はずれにされるよりする側の方が気持ち悪いという感覚に笑いながら、また隣にいる初春の存在に安心した。



 図書館が閉館する前に、初春は外に出て音々の聞きえた情報を確認した。

「ご結婚やお付き合いをなさっている方などは今はいらっしゃらないようです。ただこの町は結婚を早めに行うため、ご両親からお見合いの話が来ていてそれに悩んでいるようですが」

「――なんか浮気調査をしているみたいだな。まあ依頼人からしたらそれは重要な情報かも知れんが」

 図書館の駐輪場付近に腰を下ろして音々の報告を聞く。正直他人の色恋にあまり興味のない初春は出歯亀行為に軽く罪悪感を抱くだけだったが。

「俺が気になるのは、あの『ヒノさん』が小説家志望ってことらしいが今も小説を書いているかってことだな」

「それが――今はもう書いてはいないようです」

「そうなのか?」

「はい――自分には才能がないって。ただ読むだけしか自分には才能がなかったから、図書館で働くことを決めたみたいで。もう2年程書くのはやめているみたいですね」

「そうか……ふぁ」

 また欠伸。

「ハル様――お疲れなんですか?」

「この町に来てから俺はいつもそれなりに疲れてるよ。ほぼ毎日掛け持ちで何か仕事してるからな」

「……」

「だが――昨日一晩中考えていたんだ。あのラーメン屋がどうして相手の気持ちを慮りながらも、暗号なんか使って自分の気持ちを吐き出したのか」

「あ、それはですね、多分なんですけど……」

 そう言って音々は、昨日ラーメン屋の外で聞いた店の中に住み着いたアヤカシの声から、聞いた情報を話した。

「……」

「私も――全部じゃないんですけどね。あのラーメン屋さんは建て替えたばかりであまりアヤカシの声がしませんでしたから。全て正しいかは分かりません」

「そうか……だがそれなら俺が考えていた答えと7割方一致している。俺はそれが全てではないと思うが……」

「ハル様は、どう考えていらっしゃるんですか?」

「俺は……」

 初春は自分が昨日一晩で考えた答えを言う。

「それは……」

「――お前の徳に還元しなきゃいけないから、俺の答えを前提に動くかはお前が決めていいぜ」

「……」

 音々は黙り込んだ。

「――大丈夫です。今回はハル様の考えで行きましょう」

「――そうか。それじゃあまあどうなるかお慰みってところだな」

 初春は腹を決める。

「神子柴くん」

 不意に声をかけられ顔を上げる。

 そこには学校の夏服の制服を着た秋葉紅葉が立っていた。学校帰りに急いでここに来た感じで、息が少し切れている。

「秋葉」

「柳さんから連絡もらって、私もお仕事を見に来たんだ」

「――その感じだと、学校終わって急いで来たのか」

 夏服になると紅葉のスタイルのよさ――特に胸の発育のよさがより強調されて、初春は目のやり場に困った。

「別に面白いことなんてしないってのに……」

 初春は目を背けるついでに後ろを向いた。



 午後7時に閉館する図書館から雪菜も合流して、駅前の商店街まで移動し、新しいラーメン屋『影法師』に着く。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると客はカウンターに一人、この町では珍しいスーツを着た男性がラーメンをすすっていた。店主の影山が手でカウンターを促す。

 客の男が引き戸の開く音に顔を上げる。ムースか何かで整えられた黒く美しい髪に、小さめのレンズの眼鏡、色白の肌に喪服と見まがうような真っ黒なスーツを着た、美しい若い男であった。

「おや」

 客の男は初春の顔を見るとそう声に出したが、すぐに視線を戻してラーメンをすすり始めた。

「……」

 初春と紅葉、雪菜は客の男から椅子をひとつ空けてカウンターに座った。

「昨日来たばかりなのに、もう来てくれるとは思いませんでしたよ」

「今度は自腹で食いに来ました。ラーメンをひとつ」

「わ、私も、今日は普段のラーメンを食べたいです」

 3人でカウンターに座る。

 どん、という音がして、隣にいる男がスープを飲み干し、丼をカウンターに置く音がした。見事な食べ振りで丼の中は麺の欠片やスープの一滴も残っていない。

「いやはや、お見事。まさかこんな田舎町でこんなに美味しいラーメンを食べられるなんて」

 男は立ち上がってポケットから財布を取り出す。ピン札の千円札をカウンターの上に置く。

「はい、お会計ですね」

 影山はそれを見て、入り口の横に設置したレジに向かう。

「しかし――この町はいい町ですね」

「え?」

「皆とても優しく――暖かな心をお持ちだ。この一杯にもあなたの暖かい真心を感じます」

「は、はぁ」

「ふふ」

 呆気に取られる影山を横目に、男は初春の方を見た。

「私もこの町に越してまだ日も浅い――これからちょくちょくお邪魔させていただきますよ」

 そう言って男は店を出て行った。

「か、変わった人でしたね」

「それよりもこの町であんな黒スーツ着ているのが珍しいよ」

 紅葉と雪菜はその男の不気味な雰囲気にやや気圧されていた。

「申し訳ありません。ラーメンみっつ、お待ちどうさま」

 初春達の前にそれぞれ濃厚そうなスープのラーメンが置かれる。

「それにしてもいいのか? 二人とも昨日はにんにくとかを気にして食わなかったのに」

「初めから分かっていれば心の準備もしてくるよ。大丈夫」

 紅葉は断ってしまったが、昨日の時点からこの濃厚なラーメンもとても食べたかったのである。

「美味しい!」

 スープを一口飲んだ紅葉も、すぐに麺に箸を伸ばした。雪菜も遅れて麺に箸を伸ばす。

 初春も勢いよく麺をすする。

「しかし、失礼ですがお客はあまり来ていませんね。こんなに美味いのに」

 初春はラーメンをすすりながら言った。

「はは、老朽化した親父の定食屋の改装で結構お金を使ってしまってね。宣伝に回す金があまり残らなくてね」

「いや、そうじゃないです」

 初春は言った。

「俺も引っ越して間もないよそ者ですがファミレスでバイトしているから分かります。この町は基本夜に外食をするっていう家族がほとんどいない。農業やっている人が多いからみんな朝が早い。家族で飯を食って早めに消灯するって家族が多いから、ファミレスもディナーはすごい暇ですから」

「――確かにそうだね。たまにランチに入るとすごく忙しいって感じるもん」

「俺はこのラーメンはすごく美味いと思います。きっと修行を重ねてこれだけのものを作れるようになって――けどこの町にいる限りあなたがラーメン屋で金銭的な成功をすることは難しいと思います。あなたはこの町の人間で、父君も定食屋をやっていたのであればそれを知っていたはず。それでもこの町に帰ってきた理由は――やっぱり『ヒノさん』にあなたのラーメンを食べて欲しいからじゃないかな、って」

「……」

 沈黙。

「俺達の何でも屋も無名なんで、一度だけおせっかいをさせてください。迷惑だったらもう二度と口にしませんから。一度だけ」

 初春はそう前置きした。ほとんどラーメンのなくなった丼に一度箸を置く。

「『ヒノさん』は見つかりましたよ。結婚もしていないし、彼氏もいません」

「――はは、昨日の今日でもう見つけたというのかい? 本当に失せ物探しが得意なようだね。しかもそんなことまで」

 影山は初春の報告を笑い飛ばした。

「でもそうか、彼女が……」

「俺は昨日一晩、あなたの不可解な行動の意味を考えていました。諦めるつもりのことに、何であんな暗号なんかをわざわざ作るような面倒くさいことをしたんだろうって」

 初春は構わず続ける。

「あなたは『ヒノさん』への想いにとどめを刺したかったんだ。『ヒノさん』の負担や迷惑にならないように」

「……」

「あなたは大人だ。自己満足で自分の気持ちをぶつけて相手に負担をかけたくない――俺はあなたのその行動は正しいと思います。このまま『ヒノさん』のことを諦めるのであれば、それはそれでいいと思います」

「……」

「だけど――諦めるのにもきっかけがいるんでしょ? 何もしないまま諦められるような中途半端な想いじゃないことは俺にも分かります。あなたにとってそれがあの暗号だった。あれは聞き分けのいい大人であるあなたの最後のわがままだった。これでやれるだけのことはやったって――あとは縁がなかったとか、踏ん切りがついたとか言えるように」

「……」

 その初春の声は酷く静かで、でも他人事ではないような真に迫る張りを持っていて。

 そして、とても虚ろな印象を与える声だった。

「そして――あなたは心のどこかであの暗号を作りながら、こう思っていたはずだ」

 その声のまま初春は続けた。

「諦めるきっかけとは別のきっかけ――何か俺の背中を押してくれるものが舞い込んでくれないかな、って」

「……」

「俺は『ヒノさん』の居場所を知っています。それを断ることで諦めるきっかけにするか、それを聞いた後に背中を押すのがいいか――昨日のタダでご馳走になったラーメンの礼に、どちらのきっかけにもなるものをぶら下げる――そんなおせっかいを焼きに来ました」

「……」

「あとは考えて決めてください。あなたがこれを拒んでも、俺が『ヒノさん』にあなたのことを言うつもりはありません。それは誓いますよ」

 そう言って、初春は丼に残ったラーメンに箸を伸ばす。

 茹で麺機の熱湯がぐつぐつと煮える音。

 苦虫を噛み潰すような顔で肩を震わせる影山。

 それを見て、寸分も顔色を変えずにラーメンをすする初春と、そんな初春を呆気に取られて見つめる紅葉と雪菜。

 誰かの気持ちなんて考えるのを面倒臭がると思っていた初春が、こんなに誰かの気持ちを考えて、それを理解しようとしていたことが意外だった。

「――ははは……参ったなぁ」

 やがて影山は自嘲するような笑みを浮かべた。

「確かに君の言うとおりだ――僕はあの暗号が彼女に呼んでもらえなければ諦めるつもりでいたんだが――結局は都合のいい妄想をしていたよ。それに――僕は自分の聞き分けのなさをずっと実感しているくらいだったんだ。結局諦めようとしても、ついてくるものだね。自分が何年もラーメンに心血注げた理由ってのは……」

「……」

 沈黙。

「――何でも屋さん。僕の背中を、叩いていただけますかね」

 影山はそう言って初春にカウンター越しに背を向けた。

 初春は立ち上がって、影山の背中を右の掌で強く叩いた。

 バシッ、という大きな音がして、影山は細身の初春からは想像もできないほどの威力のある平手に、思わず涙が出るほどの衝撃を受けた。

「――明日、『ヒノさん』をここに連れて来ますよ。本日貸切の札でもかけといてください」



 次の日、初春はレストランのバイトを終えると、紅葉、雪菜と『ヒノさん』を連れてラーメンや『影法師』へと向かった。

「それにしても雪菜ちゃんが私を遊びに誘うなんて珍しいこともあるわね」

『ヒノさん』を誘うことはそれほど難しくはなかった。顔なじみの雪菜がある程度話をしてくれたおかげで、変なナンパにならずに済み、初春はほっとした。

 図書館が閉館した7時でも6月の空はうっすら明るい。湿度が高くて蒸し暑く、初春もバイト上がりにシャワーも浴びていないために体がべたついていた。

「それにしても、私に会ってほしい人なんて、どんな人なんだろう? 心当たりがないんだけど」

「……」

 初春は黙って先頭を歩く。

「き、緊張するね……」

 初春の横を歩く紅葉が『ヒノさん』に聞こえないように呟いた。

「秋葉が緊張してもしょうがないだろ。こういう問題に横槍入れてもろくなことがないから大人しくしてろよ」

「で、でも何年越しの恋だよ? お互いちゃんと話せるかな……」

「さあ――どうかな。でも結果よりも影山さんがしっかり次に進める心の整理が出来る方が重要なんじゃないのか」

「それじゃダメなんだよ」

 紅葉は初春の言いかけた言葉をぴしゃりと制した。

「諦めるために人は恋をするわけじゃないんだから。結果が出るまでは上手くいくことを祈らなきゃ」

「……」

「上手くいくことを願えなくなったら――そんな結末は寂しすぎるでしょう?」

「……」

 しばし沈黙していたが、初春は笑った。

「そうだな――上手くいくならそれが一番いいな」

「でしょう?」

 珍しく初春に褒められて、紅葉はご機嫌になった。

 そんな話をしているうちに、ラーメンや『影法師』の前に到着する。

 店先には急ごしらえで作った、段ボールに紙を張り合わせて作った『本日貸切』の札が下がっている。

「あ、ここは……」

「しばらくここで待っていてください。待っている人も心の準備がありますので」

 紅葉が機転を利かせて先に店の中に入る。

「あ、い、いらっしゃい……」

 そこには引きつった笑顔を浮かべた影山がひとり待っていた。昨日一日スープの仕込を念入りに行っていたのか、妙にやつれた顔立ちをしており、昨日に比べて念の入った掃除の仕方で店にはゴミのかけらひとつ落ちていない。

 まるで彼女を初めて自分の部屋に呼んだ時のような憔悴振りである。

「『ヒノさん』は外にいますよ。心の準備は出来てますか」

「あ、あぁ。大丈夫だ」

 声が引きつりかけていた。

「とりあえず少しは場をつなぐのは、秋葉と柳がやってくれますから安心して」

「いつまでも女を待たせるのは失礼ですよ」

 そう言って紅葉は外に顔を出す。

「さあ、どうぞ」

 紅葉に手を引かれ『ヒノさん』が店の中に入り、影山の顔を見た。

「ツカサくん――ツカサくんね!」

「い、いらっしゃい! ノリコさん」

 ややぎこちないものの、互いに満面の笑みを浮かべての第一声だった。


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