追憶~私達は高校に行ったら、どんな大人になるんだろう
結衣が生徒会室に来る頃には、少年は一人、自分のデスクの上に置いた資料を一つ一つ検閲していた。
「――おかえり」
静かな声で少年は結衣に言った。
「ナオは?」
「多分帰ったんだと思う。生徒会じゃないのに、掃除に付き合っていただけだからね」
「――そうか」
「ごめんね、待たせて仕事させちゃって」
「いつものことだ」
少年は何食わぬ顔で言った。
「ああして話を聞くのは人気者のお前の務めだ。俺はこういう仕事をやるさ」
「……」
結衣は逡巡した。
「――ねえ、ハル」
「ん?」
「この生徒会、結構みんなからは評価されてるみたいなの。私達が引退するのは惜しいって」
「――そいつはよかったな」
「え?」
「そいつはお前の手柄だ。私達、じゃなく、その言葉はお前だけに向けられたものだろうよ」
「――ハルはそれでいいの?」
「ん?」
「ハルがそうして裏での実務を全部やってくれた――時間ができた分、生徒会は生徒の言葉をより聞けるような仕事を速いレスポンスですることができた。今年の生徒会でやって好評だった、放課後に生徒の相談を受け入れる仕事もハルがいなかったら成立しなかった。今年の生徒会の称賛される功績の半分――ううん、それ以上が本当はハルの……」
「――またその話か」
少年は頬杖をついて結衣を見た。
「何だ、さっきの女子達に何か言われたのか?」
「え?」
「わかるさ、大体会話の内容も想像がついている――人間ってのは、本当に人を貶めないと自己の安定性を保てない生き物らしいからな」
「……」
「まあ、だからこそ俺はこういう仕事で何もせずにいる、お前は表の仕事で精力的に働くっていう構図に見せたわけだが」
「……」
結衣は少年の言った『人間ってのは』という言葉に、酷く陰鬱な思いにさせられた。
「ハル」
「ん?」
「私――ハルにはもっと色んなことを知ってほしかったの。だから私は自分が生徒会長に推薦された時に、それを受ける条件として、ハルを副会長にしてくれたらって条件を出した――ハルは最初困ってたけど、仕方ない、って受け入れてくれて――それはすごく感謝してるの」
「……」
「ハルにとって、この1年ってどうだったかな」
「……」
少年は天を仰いで、言葉を咀嚼した。
「――ま、剣道部の主将なんてのもナオのごり押しでやらされたが――それも合わせて、自分にはこういう仕事の適性がないってのを改めて確認したよ」
少年は自嘲を浮かべた。
「俺とお前が組んだ時点で、俺が汚れ仕事、お前が神輿になるってのが一番いいと当時判断したし――仕事を終えて、それが正しかったとも今も思っている。だが――分かってはいたが、人の陰口を集めるってのはかったるい仕事だ――俺は褒められなくてもいいから、静かな暮らしができりゃそれでいいしな」
「『人間嫌いのハル』にとって、不本意な一年だった?」
「――まあいいさ。そうそう気持ちよく生きることがいつでもできるもんじゃないってことは知ってる――多分生徒会の仕事を受けなくてもそれはそれで別の問題が起きてただろうし、こんなもんだろ」
「……」
直哉と結衣は、少年が『人間嫌い』ということを知っていた。
「『人間嫌いのハル』か……」
結衣は少年の目を強く見つめた。
「いつかハルは私やナオのことも、嫌いになっちゃうかな……」
「……」
その問いに、少年は暫し沈黙した。
「――ユイ。先に言っておく」
「え?」
「俺は人間が嫌いだ。だが――お前を裏切らない。ナオのことも絶対に裏切ったりしない」
はっきりとした声でそう言った。
「――残念だが、俺の才能はお前達に遠く及ばん――仮にお前と俺の立場が逆だったとしたら、俺にはみんなの信頼を集めるようなことはできん。お前は俺を生徒会に指名したことに責任を感じているようだが――お前は俺の背負えないものを背負っていた。だから俺も俺の仕事ができたんだ。そのくらいのことは分かっているさ。それが分かっているから俺もお前のために体を張るんだ。お前が俺の仕事を見てくれていたから、俺も中途半端な仕事はしなかったんだ」
「ハル……」
「だから――責任なんて感じるな」
「うん――ありがとね、ハル」
結衣は学校中の男を虜にするような真心のこもった笑顔で少年に応えた。
「……」
柄にもないことを言って、少年は照れも手伝い、小さく息を吐いた。
「――まあいずれにしても中学生活ももうすぐ終わりだ。あとは受験だな……」
「受験か……」
結衣は天井を仰いだ。
「そうだね、これから私達もお互い自分の生きる道を決めて――それぞれの道を決めなきゃいけないんだね」
「……」
「私達、ずっと今まで一緒にいたけれど――これから高校に行って――」
「……」
「ねぇハル、私達高校に行ったら、この先どんな大人になっていくんだろう――どんな大人になっているんだろう……」
「……」
沈黙。
「――少なくともナオは間違いなく高校に行ったら彼女ができてるだろうな」
少年は答えた。
「えぇ!? もっとロマンチックな答えを期待したのに!」
「――あいつは中学で誰とも付き合わなかったのが不思議なくらいだからな。一番確かそうな未来ってのを考えたら、それしか思い浮かばなかった……」
「ふふっ……」
「――きっとおまえにも十中八九、彼氏ができてるんじゃねぇの」
「そうかな……」
「渋谷や原宿どころか、池袋でも芸能人やモデルのスカウトをされるお前だ。これからも沢山の男に言い寄られるだろうよ」
「……」
直哉も結衣も、芸能人のスカウトをされたことは数知れない。
互いに高校生になるまではそんなことを考えられないという理由ですべて断っていたが、高校に上がれば一端の大人として、自分の運命を選べる選択肢が増えるだろう。
少年は二人にはそんな無数の選択肢を選べる権利があることを、本人達以上によく知っていた。
「――ハルは?」
結衣は尋ねた。
「私達に恋人ができてるんだとしたら――ハルはその時、どんな大人になってるの?」
「変わらないさ。お前達の間抜けな幼馴染Aだ」
「またまた」
「水は方円の器に随う――俺はその場その場で形を変える水のように生きるさ。自分の人生がどうなるかは、状況に応じて動くってだけだ」
「――その言葉、ハルは昔から好きだったよね。水は方円の器に随う、か……」
「……」
「そんな風にハルも生きられたらいいね。そんな風に、穏やかに……」
「……」
「でも、きっとハルにもハルの良さを分かってくれる女の子が、きっと現れると思うよ」
「――それ、優しい女の子が冴えない男に言う典型的なお世辞だぞ」
少年は笑みをこぼした。
「悪気はないんだろうが――中二病のキモイ奴っていう風評を現に受けてる俺に言っても説得力ねぇぞ」
「そんなつもりはないんだけどな……」
結衣は苦笑いを浮かべる。
「私――ハルのことを優しいなってちゃんと知っている女の子――ひとり、知ってるよ」
「――誰?」
「それは秘密。女の子にとって、そういう気持ちは大事なことだから」
「――何だ、架空の人物か。そこまでして慰めようとしてくれるなんて、気を遣わせて悪かったな」
「……」
――架空なんかじゃないのに。
結衣は少年に聞こえないように、口だけ動かすような小さな声で呟いた。
「ユイ、俺が言うことじゃないとは思うが――お前はそのまま、優しいみんなのアイドルのユイでいろよ。幼馴染の勝手な要望だが――お前のそういうところは、これからお前が大人になっても、変わらないでほしい……」
「……」
その言葉を聞いて、結衣は少し安心した。
「じゃあハルも、高校に行って大人になっても、あまり変わらないでね。人から何を言われても――私達がお互い恋人ができても、困った時はいつでも手を貸してくれる、今のハルでいてね」