最低でも『歩』になることじゃ
トレーニングを兼ねて走って図書館に向かう初春は、酷く荒れた思いに苛まれていた。
初春は自分の想いを制御できずにいた。
あの夏帆といる空間で、自分より大人びて、夢に目を輝かせていた夏帆の自分に向けられた優しさに。
つい自分の心が揺れてしまったことを。
「……」
だがそれは、ただ単に優しくされたから自分の心が揺れたんじゃない。
生まれて初めて近くで見た女性の体の艶かしさと温度に惑わされてしまったことがはっきりと分かった。
夏帆が無防備だったこともあるが、自分の本能に訴えるものを女は持っている。
夏帆と二人きりの空間に放り込まれて、初春はそれを感じた。
そしてその認識を自覚した後に初春が感じたことは――
結衣への想いであった。
俺はできることなら結衣をこの手で幸せにしてやりたいって――そう思っていたのに。
それが叶わなくなったと分かれば、その想いを簡単に捨てられるのか?
俺の本気なんて、こんなものか?
夏帆の笑顔に心が和んだ時、穏やかな反面自分の結衣への想いが軽薄に思えてしまったことを恥じた。
確かに綺麗な女だったよ。笑顔が素敵で、ありゃ高校にいたら男子生徒のファンがいてもおかしくない。
それに……
初春は不意に夏帆の白い肌や胸元を思い出して、思わずかぶりを振る。
「はあ、はあ……」
立ち止まって息を整えると、初春の思考は思い出したくない記憶を呼び起こす。
あの日――秋葉紅葉と柳雪菜の記憶を消す直前に二人に言われた言葉を。
俺はあの時、自分は人間が嫌いだからという思いだけで二人の言葉を聞かなかったが。
実際俺を『友達』と呼んだあの二人の記憶を消したことを、酷く後悔して。
もうその痛みにもすぐに慣れてしまったが。
今俺は、また同じ場所にいる。
葉月先生を『結衣への想い』という言葉で誤魔化して見まいとした。
「……」
何のことはない。
要するに俺は葉月先生に欲情したんだよ。
つい葉月先生の優しさに甘えが出そうになった。
俺の知らない女性のことを、知りたいと思ってしまった。
それだけのこと。
初春は、まだ人間として、男としてのその感情を上手く心で整理できずにいた。
夏帆と待ち合わせた公園に自転車を取りに行き、図書館に向かう。
これは飛ばしても閉館ギリギリだった。
「……」
初春は自分の首にかけた『行雲』を見る。
――練習中の『あれ』を使えれば自転車の倍近く早いが……残念ながら神庭町は街灯もまばらで夜道は暗い。事故ったら洒落にならないし、人に見られると面倒だとその思考から離れた。
柳雪菜は今日も閉館ギリギリに町立図書館の貸出カウンターで本を借りに降りる。
とは言え雪菜も今は6月初旬――来月初めの期末テストに向けて少しずつ勉強を始めているので普段よりも読書の時間を削っている。
雪菜の行っている神庭高校は地元の人間がほぼ一択で入学するような高校で、公示している偏差値52もあってないようなものだが、雪菜は中間テストでは学年150人中4位の成績を取っている(ちなみに紅葉は83位だった)。文系科目では学年トップの科目もある雪菜は国立大学の推薦枠を勝ち取ることも夢ではなかった。
「……」
とは言え雪菜の場合成績優秀なのは友達がいない故に学校で勉強に徹するしかなかったというものの副産物でしかないことを自身も自覚していたのだけれど。
「雪菜ちゃん、もうこの図書館で読む本も段々なくなってきたんじゃないの?」
受付にいるお姉さんは雪菜の数少ない顔馴染みで、いつも声をかけてくれる。
「い、いえ、さすがにこの図書館もまだまだ大きいし」
そう言いつつ雪菜はコナン・ドイルの『踊る人形』を差し出す。この本ももう何度か読んだ本だった。
「そういえば最近、あの彼と一緒に帰ってないみたいね」
バーコードをスキャンしながらお姉さんが言う。
「え?」
「ほら、あの彼よ。細身で無口だけど、あまり文学少年って感じじゃない子」
「?」
雪菜はその特徴で誰の事を指しているのか思い浮かばない。そもそも初春自身の顔がそれほど特徴的というほどではない。
「あの――私ってここで誰かと一緒に帰ったりなんて……」
「え? ほとんど毎日のように一緒に帰ってたのに! ついに雪菜ちゃんにも友達ができたのかと思ってたんだよ?」
「え……」
雪菜の記憶が錯綜する中、図書館の入り口のドアが開いて少し息を切らせた初春が入ってきた。
「あ……」
その初春の顔を見て、雪菜の体が固まる。その横を通り過ぎて初春はカウンターに本を出す。貸出は係を介すが返却は受付横のポストに本を入れればよい。
お姉さんは雪菜の貸出手続きが終わったので、すぐにポストを開けて返却手続きをした。
「あら、今日が返却期限だからってわざわざ急いで本を返しに来たの。少しくらい遅延してもペナルティはないのに」
「ルールを破るのは嫌いなんで」
「……」
ぶっきらぼうな物言いだけど、筋が通っていて不器用なくらい真面目。
さっきまで初春の姿を見て硬直した雪菜の体と心が、ゆっくりと弛緩する。
――どうしてなんだろう。この人を見ると自分の心が妙に安らぐ。
何か、安心する――けど。
「なるほど、真面目なんだね君は」
お姉さんはそう言って、初春と雪菜の顔を交互に窺った。
「そうだ! 丁度いいわ、この図書館の常連の二人ならもってこいだもの。二人に仕事を頼んでもいい?」
そう言ってお姉さんは一枚のチラシを二人の前に見せた。
「本の寄贈受付アルバイト募集?」
「この図書館は利用者が少ないので自治体もあまり本を入れ替える予算を落としてくれなくてね。その分民間の寄贈で不足分を埋めているんだけど、みんなわざわざは来てくれないからこちらから出向いて受け取りにいくというわけで、そのアルバイトを募集していたんだ」
この町には古本屋もない。都内ではまずありえないが、図書館に寄贈するのが最も簡単でWin-Winな本の処分方法なのである。
「君達なら若いし町を歩く体力もあるだろう! なかなかやってくれる人もいなくて困っているの! 勿論バイト代も出るから1日か2日だけバイトしてくれないかな?」
「……」
雪菜は戸惑う。
確かにこの図書館にはお世話になっていて、昔から本の寄贈に取り組んでいるのも知っている。
でも――それをこの人と一緒に。
「……」
初春は少しだけ悩んだが、隣にいる雪菜の方を一度だけ見た。
「やる日時を俺が指定していいならやりますよ。他のバイトと時間調整したいし」
「本当? スケジュールはいつでもいいの、短期の単発だからね」
初春は頷く。
「じゃ、やる日が決まったら知らせに来ます」
そう言って初春は踵を返して図書館を一人出て行く。
「……」
「ふふ、結構いいところあるわね、彼」
お姉さんが雪菜を見た。
「え?」
「きっと雪菜ちゃん一人じゃ人に声をかけられないからと思って、心配で引き受けてくれたんだと思うよ。一度雪菜ちゃんの顔を見たしね」
お姉さんの推測は当たっていた。勿論初春がやっても無愛想な男一人では門前払いの連続だろうが、そういうメンタルトレーニングはハブられたり無視されたりした東京での生活で十分積んでいるのでそれでもまあいいやと考えた。
初春は『ねんねこ神社』発足のために雪菜に知恵を出してもらい、夏帆に絵を描いてもらう承諾を得てもらった借りを記憶を消したことで有耶無耶にしてしまった。初春の中でそれは明確に言語化できるような確かな感情ではなかったが、引っ掛かっていたのだ。
――ついでに『ねんねこ神社』のチラシでもポスティングするか? ――いや、今でも無名の何でも屋のチラシなんて捨てられるのがオチか。経費の無駄だとも考えていたのだが。
「……」
ボサボサに伸びた髪に細身の丸顔で切れ長の目、小さく隆起した腕の筋肉が薄着から覗き、学校にいる男子と比べても体つきが攻撃的で、一見怖い印象を受けるけど。
何故あの人を見ると、何かを話したい気持ちになるのだろう……
「たっだいまぁ……」
初春は疲れた声を出しながら玄関に入るが、いつも出迎える音々がやってこない。
鞄を持ったまま居間に入ると、既に比翼をはじめ多くの中級神や妖怪が集まって初春の顔をにやついて見ていた。
キッチンでは紫龍が徳利の酒を煽っているが、音々がいない。普段言わなくても用意している夕食も出来ていない。
「珍しいな、音々がいないなんて。仕事の依頼が来たとは思えんから火車と散歩か?」
初春はそれを見て、米を研いで夕食の米を炊き始める。
「坊や、新しい仕事はどうだった?」
炊飯ボタンを押すのを見て比翼から質問が飛んだ。
「どうって比翼――あんたは見てたじゃないか」
「え?」
比翼はぎょっとする。つけていたとは言え100メートル弱離れていたというのに。
「気付いてたのかい?」
「――やっぱりつけてたのか。何となくそんな気がしたからカマかけたんだが」
「あ……」
「さっきからお前らの視線が悪意に満ちていたから臭ったんだよ」
「こいつは悪意に関しては鼻が効く、お前達の負けじゃ」
「ふぅ、坊やは目聡いねぇ」
「まったく……」
初春は苛立ちを払うように、鬱陶しい伸びた前髪を払った。
冷蔵庫を開けて麦茶を一杯コップに注ぎ飲み干す。汗が噴出すのが分かったが蒸し暑い夜に体が冷却された感じが心地いい。
「綺麗な娘だったじゃないか、あの先生は。ちょっと生活が残念だったがあの隙だらけな感じは坊やが放っておけない種類の娘と見るが」
比翼が煙管を持った。
「坊やも年上の女性の魅力に憧れる年頃だからねぇ、もしかしたらくらりと行ってしまったんじゃないかと思って……」
「ああ。そうだな」
比翼の茶化し気味の言葉が終わらないうちに初春がそれを肯定した。
中級神や妖怪がぎょっとする。
「うん――ずっと何となくしか見てこなかったが、葉月先生を見て『女』ってものが何か少し分かった気がする……」
珍しく顔を赤くする初春。恥ずかしいというよりは、少し悔しそうな顔。
初春が子供の作り方をはっきり知ったのは14歳と遅い。中学にいた頃は思春期の早い者はそれに対し色めき立つことも多かったのだが、初春は思春期が遅い上に恋愛すらろくに思想を持たなかった。そんな話をする友人もいないため、自分から大して深く考えたことがなかった。
「おぉ?」
「事件だねこれは。あの人間嫌いの神子柴殿が女子に興味を持つなんて」
「赤飯でも炊くか」
神や妖怪に茶化されるが、初春にとってそれは屈辱である。
「茶化すなって、坊やの顔、どう見たって恋がはじまった人間の顔じゃないじゃないか」
比翼が煙管をカンと叩いて沸き立つ皆を静めた。
「どうやら思うところがあるようだね。話してごらんよ」
比翼が優しい声で言いながら初春の前に座った。
「――俺の両親は互いに自分の不倫相手との子供を作ってたんだ。互いに当てつけのつもりだったのかも知れんが、その子供が出来たからもう俺にはびた一文も払いたくないってことだったんだろう。互いに子供が産まれる事で養育費も親権も貰えないって俺を押し付けあってたよ」
静かな口調だが、初春の語勢には隠しきれない怒りが含まれていた。
「愛だか恋だか知らないが俺はその両親の好き勝手な愛とやらで虫けら同然に扱われたわけだからな。もう両親は俺のことを忘れているだろう。最後に会った母親の腹はでかくなっていた。あの腹の中にいた赤ん坊を産んで今その子供と不倫した男と3人で『温かな家庭』『ようやく手に入れた幸せ』みたいな生活しているかと思うと、胸糞悪くて反吐が出そうになる。勿論親父もな」
「……」
「今日一日、葉月先生と一緒にいてそのことを考えていた。俺はユイのことが好きだったはずなのに――つい葉月先生の方に目が行きそうになっちまった。結局俺もあの両親と同じなのかって――ユイへの想いはそんなもんなのかって何かさっきから妙に腹が立っていた……」
「阿呆」
紫龍が怒り交じりに静かに話す初春にあっさり言い放つ。
「生き物である以上、煩悩からは逃れられん。お前は思想に乏しいだけで木石ではない。煩悩を追い払うのに釈迦がどれだけ厳しい修行をしておったか――まだ十五の餓鬼が女に目移りしたことを恥じるな。そもそも修行が足りんわ修行が」
「……」
その紫龍のあっさりした叱咤は、初春の悩みに大きく波紋を投じる。
紫龍は自分の袈裟の袖から何かを取り出して、初春にそれを投げた。
初春はその小さなものをキャッチする。そのいびつな五角形のものは木彫りの将棋の駒である。だが表にも裏にも何も書いていない。玩具屋で買う将棋盤で駒を失くした時に自分で駒の名を書いて代用する白地の駒だ。
「月並みだが僧の真似事でひとつ説法をしてやろう。お前、将棋は分かるか?」
「――あぁ、友達がいないんで指した事はないがルールなら知ってる」
「将棋には成りがある。飛車と角は違うが、他の駒の成りは金になる。だが成りは闇雲にやれるものではない。香車や桂馬が突出しても囲まれ、一歩しか進めん歩や銀も敵陣まで切り込むのは厳しい。成ることばかり考え今の駒の役割を忘れる者はいつまでも駒を金に成らすことはできん――今のお前がその何も書いていない駒じゃ。その小さな駒は成れば金になる。だがまだお前は成る前の役割の決まっておらん駒に過ぎん。成るために自分がどんな役割をするのか知らんから取り残されるんじゃよ」
「……」
「――お前はまず最低でも『歩』になることじゃ。成った後よりも如何に成るかを考えておけ。そこから香車や桂馬になってもよい。まずは自分という駒の役割を知ることじゃ。人間の世界でも役割のなくなったお前が女のことに限らず、自分の理想とするものにすぐに成ろうなんて十年早いわ。糞餓鬼が」
「……」
初春は右手に受け取った、白地の将棋駒を見つめる。
「そうか――俺は『歩』にもなれてないか。思わず納得しちまったよ」
初春は感心した。
「おっさん、その袈裟も伊達じゃないようだな」
「ふん」
「この駒、貰ってもいいか?」
初春はそう言うと『行雲』を小さな錐に変化させ、駒の頭頂部に小さな穴を開けた。
部屋に行って穴に紐を通して固い結び目を作り、首にかける。
「身の程を弁えるように身に着けて覚えておくよ。俺は忘れっぽいんでな」
そう言って初春は玄関を出て行く。ご飯が炊けるまで日課の鍛錬に出かけたのである。
玄関の引き戸の閉まる音を聞いて、比翼は縁側に首を出して空を見上げた。
「――だってさ」
比翼がそう言うと、屋根の上にいた音々がひょこりと顔を出す。
「坊やも年頃の男の子だから、そりゃ人間嫌いでも本能的に女の子に目移りはするだろうさ。だが――根が真面目なんだろうね。一時の感情に流されるようなまがい物は最終的にはいらないんだ。じっくり見定めて、心の底から惚れたと思えるものだけを欲しているんだ。自分が両親にまがい物しか与えられなかっただけにね」
屋根から降りてきた音々は沈黙する。
「そう言えば――ハル様言ってましたね。これからは水や風のような曇りのない心で世界を見てみたいって」
「その中に『恋』が含まれているのだとしたら、それはきっといかがわしい感情でするものではないさ。あんたの心配するようなことはないだろうよ。問題は坊やの場合、初恋に何らかの決着がつかなきゃいつまでも恋はしないかもしれないねぇ」
「ハル様……」
恋を自覚できるようになった音々は安心したと同時に、今になって初春の想いの辛さが少し分かるような気がした。
結衣には直哉がいて、直哉も大事な親友で、結衣を間違いなく自分よりも幸せにしてやれる男であることを誰よりも知っていて、祝福しなきゃいけないことも分かっている。
だが――それで納得できるほど、結衣への想いが眉唾でないことは今までの道を歩んでいた初春の私物の声を聞いている音々は十分よく分かっていた。
「しかし紫龍殿、珍しく説教なんてかましていたじゃないか」
「あいつに迷いが生じればすぐに死ぬ。『行雲』を使いこなす力もそうだが、あいつは思想が限定的なのが今の強さの土台じゃ。何も考えないのも良くはないが、悩むなら一本道で悩めということさ。死なれては折角授けた鍛錬が無駄になる」
「ふふ――最近の坊やと紫龍殿、まるで互いに不器用な父親と息子のようじゃないか」
「よせ、気色悪い! あんな糞生意気な餓鬼が息子などぞっとする!」
紫龍はむず痒そうに首筋に立った鳥肌を掻いた。




