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ああっ! 『何でも屋の君』!

 葉月夏帆はキャンバスに向かうとすぐに『ゾーン』に入ってしまうタイプの人間であった。

 初春のポーズの詳細を定めたら『そのまましばらく動かないでね』という言葉を最後に一言も言葉をかけることなくひたすらデッサンを描き込んでいく。

 初春も一切言葉をかけずに、1時間近く作り物の林檎を持って腕を上げていた。

「……」

 上着を脱いで、初春は自分の左肩から胸にかけて刻まれた音々の神使の刻印に目をやるが、夏帆が何も言わないところを見ると本当にこれは他の人間には見えないみたいだった。

 そうしている間、初春はキャンパスに向かう夏帆の横顔をずっと見ていた。

すごい集中力だな。さっきまでとまるで別人だ。目を見ればもう『入り込んでいる』のが大体分かる。

それでいて初春はこの夏帆の澄んだ目に、妙な懐かしさを感じていた。

そこに感じる懐かしさの正体を、初春はしばらく思い出せなかったが。

 これは――そうだ。剣道部で俺と面越しに対峙する直哉と同じ目だ。

いつも飄々としていたあいつがその時だけは俺の全ての挙動を余さず解剖して観察するような――そんな微に入り細を穿つような冷たさの中に、確かな情熱を携えて俺に重い剣を放ってくる目。

 表情があるとかそういうのとは別に、実に楽しそうな目。初春が幼少の頃に飽きるほど見た弱者を弄って愉しんでいた人間の濁った目とはまったく種類の違う目だ。

「――少し休憩しようか」

 夏帆がほぼ1時間ぶりに初春に声をかけた。

「――別に調子がいいなら続けてもらってもいいですけど」

「私が疲れたの。私って体力がなくてね」

 にこりと笑う夏帆の目はさっきの鋭さがすっかり消えていた。

「ちょっと蒸し暑いね――少し冷房を点けるね」

 初春のクールダウンのために夏帆は弱く冷房を入れる。梅雨入り前だが確かに湿度が高く、部屋の中はじめじめと蒸し暑い。

「ふーっ……」

 そうするとおもむろに夏帆も羽織っていたカーディガンを脱いだ。カーディガンの下は黒のキャミソール型のワンピースでインナーを着ていない。

 手近に置いていたタオルでうなじ辺りの汗を拭う夏帆。初春もじっとしていたが少し汗ばんでいる。

「何か飲む? 麦茶か野菜ジュースか林檎ジュースならあるけど」

 どうやら紅茶はもう諦めたらしい。初春も紅茶なんて洒落たものを飲んだ経験が乏しいので期待はしていないが。

「じゃあ麦茶で」

「オッケー」

 そう言って汗を拭きながら夏帆はキッチンの冷蔵庫に向かう。

「ふーっ」

 さすがに1時間肘を上げっぱなしだったのでそれなりに初春も腕が凝り固まって疲れていた。この町に来てから散髪しておらず、3ヶ月伸ばしっぱなしだった髪がバサバサして鬱陶しいし暑い。

 夏帆のキャミソールのスカートは長いけれど肩口がはだけてデコルテラインが見える。

 冷蔵庫の中を覗き込む夏帆の背中は白くて美しかった。普段運動をしていることもあって健康的で、あまり余分な肉がついていない。あまり背は高くないが腰がくびれており、身体のラインが綺麗に見える。

「……」

 中学でも同世代の女子とこんなに薄着で近くにいたという経験がないため、こんなに近くで女性のことを見るという体験は初春にとっては初めてのことで。

 それが年上の、しかも笑顔の印象的な女性となると自分とはまるで別の生き物みたいだ。

 あの雨宿りのトンネルの中で会った時から、初春の脳裏の奥底に夏帆の白い肌の残像が焼きついていた。

 絵を描く前は子供っぽい人という印象を受けたけれど――絵を描いている時は本当に澄んだ目で、水を打ったように静かになる。

 少し息を抜いている時の柔和な笑顔が、絵を描いている時の静かな表情とは違い過ぎて。

「疲れたでしょう」

 つい夏帆の姿を目で追ってしまっている時に声をかけられる。麦茶の入ったグラスが初春の前に置かれた。

「――どうも」

 初春は麦茶を飲み干す。冷えていて美味い。

 しかも年上の女性と二人でいるということが母親も含めてほとんど経験がなく、そんな女性が自分に気を遣うという経験は皆無と言っていい。

 神や妖怪と一緒にいる初春だが、人間嫌いの初春にとってはそれ以上に戸惑う『非日常』が夏帆との空間にあった。

「いやぁすごく助かっちゃった。筋肉の線とか陰影が分かりやすいから凄く描きやすいの」

 キャンパスの前の椅子に座り、夏帆が林檎ジュースを飲みながら初春の目を覗き込んだ。

「それは褒め言葉なのかよくわかんないんですけど」

「ふふ――そうだね」

「……」

 新任の先生ってことは、23歳――学年で言えば、俺よりも8歳も年上。

人との接し方に余裕があるんだな、という印象を受ける。

 こういうのを『大人っぽい』って言うのか? 見た目はどっちかというと子供っぽいけど。

 ――いや、俺がガキなだけか。

こういうあけすけな人を見ていると自分が妙に狭量な見識しか持っていないような気分になる。

 自分を縛っているものが自分自身であるように思わされて、妙に焦る……

「えいっ」

 ふいに夏帆が焦燥した初春の口に向かって指先を伸ばして、口の中に何かを突っ込んだ。

「は……」

 完全に油断していたが、口に入れたものはキューブ型で甘い。

「ん――チョコレート……」

「おいしい?」

 にこりと夏帆が笑顔を見せる。

「――いや、意味分かんないんですけど」

 自分の唇に夏帆の柔らかな指先の感触が残っている。意味が分からないまま初春はキャラメル型の一口チョコを口で転がした。

「ふふ、ちょっとだけ驚いたみたいだね」

「はぁ」

「モデルの仕事って結構辛いでしょう。腕をずっと上げていて、普通はモデルさんの方が疲れて休ませて欲しいっていうものなの。でもハルくんはちっともきつそうな顔をしないし、一言も私に声をかけなかったね」

「……」

 まあ確かにそうだろう。実際初春もきつくなかったわけではない。

 だが初春は元々そういう辛い時に表情に出さない訓練を積んでいる。

そうして自分が弱っていることを見て喜んで追い討ちをかけてくる人間を腐るほど見てきたし、それを言ったところで状況が変わらないことを知っている。

「色々我慢する癖つけちゃってるんだね……ハルくん、ちっとも笑わないし」

「……」

「でもさ、私も折角絵を描くなら楽しい気持ちをキャンバスにぶつけたいんだ。だから――そういう無理していたりとか、遠慮したりとか――そういうのはして欲しくないんだ」

「――すいません」

 自分の底の浅さを見透かされたようで――でも反論することも出来なくて、初春は生返事をした。

「そんな謝るのも禁止。我慢ばかりしていたら損ばかりしちゃうし、そんな顔ばかりしていると、幸せを逃しちゃうよ。折角そんな鍛えた身体してるんだし、女の子も放っておかないでしょう」

「……」

 このやんわりした説教が、何だか本当に結衣の説教を聞いているみたいで調子が狂う――

初春は夏帆に結衣の面影を重ねて、妙に照れくさくなる。

「うーん――どうしたらハルくんは笑ってくれるかなぁ」

 夏帆は絵筆を持って側頭部に柄を当てながら考え込む。

 初春はただ座ってポーズを取っていればいいだけだと思っていたのに、そうして真剣に考え込む夏帆の姿が変に訝しく思えた。

「でも、葉月先生は俺の顔は描かないんでしょう? なら俺が笑う必要はないんじゃ……」

 そう言いかけた時。

 夏帆は初春の両頬に手を当てて、初春の顔を軽く上げさせた。

「そうかなぁ、笑ったらもっと絵がぱっと明るくなる気がするけど」

「――描かなきゃ分かんないですよ」

 初春は溜め息をついた。

「しかし――それって教師の職業病ですか? ガキの世話を焼くってのは」

「ん? あぁ――これは生徒じゃないハルくんだから言うけど、実は私新任だけど教師という職業にプロフェッショナルな意識はあまりないんだ」

「え?」

「この神庭町って山林がすごいでしょ。だから一時は林業が盛んでね。今はもう林業は衰退しているんだけどいまだに木工芸に関しては伝統が守られてて、工芸品や家具造りに興味がある人が移住してくる場所なんだ。私も休みの日はそういう工房で修行させてもらってるの。将来は北欧とかにも行って木工芸をもっと勉強して、いつか自分でも家具を作るのが夢なんだ」

「――そうなんですか」

「美大に行くのに奨学金借りちゃったから、卒業後に即腰据えて修行に専念することができなかったんだけど、手っ取り早く返済するには教師になるのが一番だからね。今は絵のコンクールに出展してお金も稼いでるの。いつか自分の造る工芸品や家具に絵を入れることも考えてるし、デザインの勉強にもなるしね」

「……」

「あ――もしかして軽蔑されちゃったかな」

「いや、すごいなって思って。そんなやりたいことがあるなんて」

 初春はついさっきまで夏帆のことをふわふわした腰掛け美術教師だと思っていたが。

 夢――俺にないもの。

 自分がさっきから夏帆を前に感じていた焦りに似た焦燥が、また大きくなる。

「でも教師って仕事が嫌ってわけじゃないんだよ。若い子に教えることで見えてくるものもあるし、そういう子達の今の悩みとか、青春のエネルギーとかに触れていると色々と私も元気になるし。最初は回り道だと思ったけど、今は教師を経験できてよかったなって思ってるんだ」

「……」

 回り道か――俺の今の生活も、いつかは無駄ではなかったと思える時が来るのだろうか。

 それ以前に、俺の回り道は終わりがあるんだろうか……

「ハルくんは何かないの? やりたいこととか、情熱を傾けてるものとか」

「……」

 その問いが来ることは少し前から想定していて。

 答えになる何かを焦った頭で必死に探してみて。

 すぐに何もないことが分かってしまう。

 語るに値しない――その一言で自分の人生を説明できてしまう。

 ――だが、それは少し前なら自分の中で当たり前のことだった

 そのはずなのに……

「は、ハルくん?」

 夏帆が驚く顔を見て、初春はようやく自分の目から涙がこぼれていることに気付く。

「――すんません」

 初春は椅子の上で膝を抱えて顔を隠す。嗚咽が溢れるわけでもなく、静かに泣いていた。

 ――この町に来て、今になって分かった。

 何もできないことが、こんなに悔しいなんて。

 何もないことが、こんなに空しいなんて。

「……」

 夏帆は自分より年下とは言え、男性が目の前で泣いているのを見るのは初めてだった。

 元々夏帆が初春に絵のモデルを依頼したのは、町を走っている初春に何かしらの『心の熱さ』を感じてのものだった。

 実際話してみたら初春のあまりのクールさが意外だったが。

 夏帆は初春の沈んだ頬に手を当てて、ひょいと顔を上げさせる。

 涙で滲んだ初春の目の前に、満面の笑みで微笑む夏帆の顔があった。

「安心した、ハルくんにはちゃんと心の中に熱いものがあるんだね」

「は?」

「あんまりクールだから心配したけど――中にちゃんと力を溜めてるんだね。個人的にはハルくんがそんなに熱くなれるものが何か、すごくそれが知りたいけど――話したくないなら聞かない。でもたまにはそうやって吐き出した方がいいよ。ハルくん、何か我慢する癖がついちゃってるみたいだし、ね?」

「……」

 両頬に触れる夏帆の手の暖かさと、柔らかい感触。

 そして間近にいる夏帆の優しい顔と、夏帆から香る甘い香り。

苦手な人間の距離の近さに初春は酔っているのかと思う程頭がくらくらしたが。

だが――生まれて初めて自分のことを人間に認識されたような気がした。

心配してくれる言葉なんて生まれて一度もかけてもらえたことがなかったのに。

「……」

 不意にそれがまた初春に、結衣のことを思い出させた。

 妙に自分の今の弱さも、そのおおらかな優しさで笑ってくれるような気がして。

「――今のところ俺にそんなものないですよ」

 初春は夏帆の手が自分の頬に触れているのが恥ずかしくて、椅子から立ち上がって背を向けた。

「俺――学校に行けなくなったから東京を出てこの町に来たんで」

「え?」

「なんの当ても目標もなくこの町に来たんですよ。東京から電車を5つ終点まで乗り継いで、この電車の路線で一番家賃相場の安いところで降りようって感じでそれこそ投げやりに決めて」

 そう、初春が神庭町に来た理由は実にいい加減なものだった。東京を出るに当たり行く場所を何一つ決めていなかった初春は、とにかく安く住めそうな田舎、というだけで実に適当に神庭町に降りた。もう東京からどの電車に乗ったかも覚えていなかった。

「今はしがないフリーターなんで。親もいないし何かを始めるにも親の同意がないんで自分の意志じゃ何も始められません。夢があっても意味ないですよ」

 正直初春はこういう話をすることで馬鹿にされたり、おざなりに慰められたりすることにはもう辟易していたが、まあいいいずればれることだと思い先に話すことにした。

 ――あぁ、だけど。

「俺のことはともかく、俺は今、夢がある知り合いの手伝いをしてるんで、もしよかったらこいつの応援をしてやってくれませんか?」

 初春は夏帆の依頼を請けた理由の半分を思い出す。

 それを紹介しなかったら、この仕事を請けた意味がない。

「そいつ、何でも屋をやってるんで。依頼があれば何でもやりますよ」

「何でも屋?」

 夏帆が驚いたような顔をして首を傾げた。

「ええ。『ねんねこ神社』っていうんですが」

 初春はそう言って自分の鞄から、夏帆に宣伝するために持ってきていたチラシを出して夏帆に差し出した。

 猫のイラストが描かれた

「ああっ! 『何でも屋の君』!」

 ふいに夏帆が叫ぶ。

「は?」

「うっそぉ――もしかしてハルくんが『何でも屋の君』だったの?」

「何ですか? その『何でも屋の君』って」

「ハルくん、柳雪菜さんって知ってる?」

「……」

 その名前がいきなり出たことに、初春は戸惑った。

「ちょっと待って。私柳さんに頼まれて、このイラストを描いたんだよ」

 そう言うと夏帆は立ち上がり、部屋の中のスケッチブックを取り出してページを開いた。

 そこには初春が持っているチラシの中心に描かれている猫のイラストの原画があった。

「マジで……」

「世の中狭いって言っても、この町は本当に狭いからね。こんなこともあるかな」

 夏帆は笑う。

「でもハルくんが『何でも屋の君』かぁ――うんうん、柳さんもいいところに」

「何言ってるんですか?」

「ふふ、なんでもない」

「……」

 初春は溜め息をついたが。

 柳雪菜の名前にふと思い出して時計を見ると、もう6時半を過ぎていた。

「やっば、図書館に本を返すの今日までだった」

 初春は立ち上がる。

「あらら、それは……でもここからなら町立図書館は近いから」

「すみません、すっかり忘れてて」

「いいって、じゃあここまでだね」

「……」

 初春はシャツを着込むと、動きを一度止める。

「あの――またここに来てもいいですか……」

 自分でも意外な言葉が口をついた。

「勿論、今度はもうちょっとお喋りでもしながらモデルをやってもらおうかな」

 夏帆は親指をぐっと突き出した。

「あ、じゃあライン教えてよ。来れそうな日があれば連絡貰えれば空けておくね」

 夏帆が携帯を取り出したので、初春は連絡先を交換する。

 玄関で靴を履き替える初春を夏帆は見送った。

「柳さんに聞いたけど、それ以外にもバイトをしてるんでしょ?」

「ええ、駅前のファミレスと農家のバイトを」

「ファミレスかぁ。ハルくんの料理が食べられるのかなぁ」

 夏帆が目を輝かせた。

「……」

 そう言えばキッチンを使った気配がほとんどなかったからな。

「外食ばかりじゃ体に悪いですよ。たまには料理もしてください」

「はぁい。ふふ」

「……」

「じゃあ、また今度」

「――うす」

 軽い挨拶を交わし、部屋を出て行く初春。

 ドアの閉まる音。

「はぁーっ……」

 夏帆は初春が出て行くなり、大きな溜め息をついた。

「男の子の泣いてるところ、初めて見ちゃった……びっくりしたぁ」

 夏帆は今まで初春に気負わせないようにとお姉さんぶっていた緊張の糸が一気に切れた。

「でも、ハルくん、か――すごく綺麗な目をしてたなぁ」

 それと同時に、夏帆は初春に戦慄していた。

 初春の真っ白のキャンバスのような澄んだ目に。

 そして……

「綺麗な目だけど――どんな色にも染まってしまいそうなくらい綺麗過ぎて。何だか怖いくらいだった――ふふ、こんな気持ちになるモデルなんて初めてかも……」

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