あれは相当残念な美人だねぇ
「ただいま」
珍しく初春が家に着いたのは6時を少し過ぎたくらいの事だった。大体ファミレスのバイトが早番の時は図書館が閉館するまでいるのだが、今日は夏帆に会ったため中途半端な時間になってしまったからだ。
中級神や妖怪は基本完全に日が落ちるまでここには来ない。夏至が近づき日の入りの時間が遅くなった神庭町は7時でもまだうっすらと明るく、日に日に連中の集まる時間が遅くなり始めていた。
「ハル様――お帰りなさい」
居間に入ると音々がコップに入れた芍薬の蕾で治癒術の修業を繰り返していた。
ものに宿るアヤカシの声を聞いて相手の生命の流れを感じ取る――音々独特の感覚での治癒術だがこの方法にはばらつきがあり、そもそもアヤカシが宿っていないもの――生まれたばかりのものや既に退廃したもの、人間に粗末に扱われてしまったものに関しては音々のやり方で治癒術がかからない。そのため音々はこの感覚だけに頼らない治癒術の上達を目指している。
「お前も暇だな」
「だって! 依頼が来ないんですもん」
初春はそう言われたので今のパソコンで『ねんねこ神社』のメールをチェックした。
相変わらずいたずらやスパムのメールが来ているが、一時に比べてそれも随分減った。
いたずらメールが減ったということは、要するにそいつらは『飽きた』のだ。自分より社会的弱者をからかって自分の優位性を保っていると思い込む遊びに飽きた。
少なくとも認知はされているからそういう連中は『見込み客』になるという考えをする奴はいるが、初春はあまりその説を信用していない。
「ま、いずれにしてもこのままじゃ依頼は来ないだろうな。かといってもっとでかい宣伝をするような金もねぇし――」
「むむむ――あ、そうだ!」
音々は少し焦っていたが、これは好機だと思いぱっと笑顔になる。
「また何か宣伝方法を考えましょうよ。私も少しですけど外で動ける時間も長くなりましたし、チラシを作る勉強もしたんですよ」
やった、これでまた初春と一緒に仕事ができる、と音々は大勝利を確信した。
初春への恋心を自覚して以来、バイトと鍛錬ばかりになってしまった初春と一緒に過ごせる時間が減って少し寂しい音々は、自分の心を制御できずにいた。
「あぁ、そのことなんだが、依頼とはちょっと違うんだが結構人を紹介してくれそうな人がいたんで今日俺個人でその人の仕事を請けてきたんだ。上手くいけばその人からお前の力を借りる依頼を紹介してもらえるかもしれない」
「――そうなんですか?」
「あぁ、そんなわけで俺、これからたまに帰りが遅くなる日があると思うから」
「――え?」
音々は目論見が外れたどころか初春と更に一緒にいられる時間が減ってしまう宣告に、少しショックを受けた。
「まああんまり変わんないんじゃないのか? 俺も夜は鍛錬で家出ることもあるし」
「まあそうですけど――で、でもハル様、その請けた仕事って」
「ん? それが変な話で、絵のモデルだって。上半身を脱いでじっとしてればいいとさ」
「は、裸で!?」
「依頼したのは女の美術の先生で……」
「お、女の人っ!?」
音々は卒倒しそうなほど絶叫した。
「ど、どうした?」
初春はその音々の驚きぶりに首を傾げた。
「だ、だってハル様、お、女の人の前で――は、はだっ、はだっ!」
「ああ大丈夫。脱ぐのは上だけでいいらしいんで」
「――い、いや、そっちよりも問題は……」
「ん?」
初春はまた首を傾げる。
「でも学校の教師だからな。学校ってコミュニティとコネがあるってだけでも依頼の紹介があるかもしれないし、暇を持て余していてもしょうがないしな」
「……」
「どうした? さっきから変だぞ、お前」
「――本当に、それだけですか?」
「は?」
「――いえ、何でもないです……」
「――それでどんより落ち込んでるってわけだ」
初春がもう部屋に戻ってしまった後、音々は一人居間のちゃぶ台に突っ伏していた。
寂しさというよりも、初春に対しての自分の態度が悪かったという反省と自己嫌悪によるものが大きいが、やはり寂しいことも否めない。その思いを比翼達に吐露していた。
「あの小僧も隅に置けんなぁ」
「しかし小僧は『女の人』としか言っていなかったんだろう? もしかしたら婆さんかも知れんぞ」
妖怪達は音々を励ます者、茶化す者――反応が様々に別れた。
「大丈夫だって。あの坊やが年上の女性を口説くなんてこと、やると思うかい?」
「――そうなんですけど……」
「基本的にあの小僧には思想がない。前に記憶を消した女子二人に対しても特別な感情は持っておらんかったようじゃしな。そっちの方面は全く意識がないと思うぞ」
紫龍も言った。
「……」
「まあとは言っても坊やも男の子だし人間だ。それもとびきり濃い瘴気を心に封じ込めた――ね。もし坊やが魔が差してその女の人を襲ったりしたら、その悪行で生まれた瘴気はあんたの身に返っちまう――今のあんたの神力じゃあの坊やの本気の瘴気なんか受け止めたらひとたまりもないからね」
「……」
「まあ念のために、ちょっと様子を窺った方がいいかも知れないね」
「比翼――お前は面白がっておるだけじゃろう」
その翌日、初春はファミレスの仕事を終えると夏帆との待ち合わせ場所に指定された公園に来ていた。
その上空から比翼の白蛇が音々と比翼を乗せて少し遠くに降り立つ。さすがに白蛇で近付けば勘のいい初春のことだ。すぐにばれてしまうので少し距離を置いて公園に植えてある木の枝に降り立ち二人で隠れた。
「あんたのいい耳ならこれくらい離れていても余裕で声が聞こえるだろう?」
比翼は言った。音々達と初春との距離は70メートル近く離れている。
「しかし――坊やも別にめかしこんでいるわけじゃないね。『行雲』を装飾品にしてはいるが、あれはいつものことだ。あれはどう見ても女性に誘われて舞い上がっている服装じゃないね」
初春は元々手持ちの服が少ないのだが、比翼の言う通り初春は今日もいつもとほとんど変わらない。最近少し暑くなり始めているのもあって、Tシャツ1一枚にジーンズとスニーカーだ。
「……」
――初春はベンチに座って図書館で借りた『項羽と劉邦』を読んでいた。
「ハルくん」
10分ほどそうして夕暮れ前の公園で本を読んでいたが、声をかけられ初春は本を閉じる。
葉月夏帆がベンチの前でにこりと笑顔を見せていた。学校帰りなので手には女性用のビジネスバッグを持っているが、やはり絵の具などが飛ぶからかスーツではなく私服である。スカートに薄手のカーディガンを羽織っている。
「ごめんね、待った?」
「いえ」
「そう? じゃあ行こうか。近くに車停めてあるから乗って」
そういって初春は夏帆についていき、公園の敷地外に止めてあった白いミニバンの助手席に乗り込む。
音々と比翼はミニバンが走り去っていくのを見送る。
「あららぁ――ちょっと子供っぽいがありゃ美人だねぇ――愛嬌もあるし、坊やみたいな人間と距離置くタイプを引っ張っていくタイプのお姉さんか……これはまた」
「……」
その本音半分冗談半分の比翼の言葉を聞いて、音々の心は千々に乱れる。
夏帆のその屈託のない美しさに、初春がころりと転んでしまわないか――二人きりになって何が起こるのか気が気ではない。
「比翼様、ハル様を追いかけましょう!」
音々の言葉を聞いて、比翼も勿論そのつもりだったが、面白くなってきた、と思った。
「狭いけど入って」
「お邪魔し……」
夏帆に連れられてきた築30年は立っている4階建てのマンションの一室の玄関に入った途端、初春は言葉を失った。
まず玄関を入ってすぐの右側の壁が群青色に塗られて、天井まで群青なのだが点いている照明がまるで満月のようになってそこから中心に無数の星が天の川のようになってさながらプラネタリウムのように絵が施されていた。左色の壁は白を基調にイチョウの葉や紅葉の落葉が細部まで奇麗に描きこまれており、下の方は凝った落葉の絵で赤や黄色に彩られ、裸木になった木にくすんだ太陽の光が微妙な陰影をつけて描かれており、天井の照明の反射でその気が少し浮き出て見えるような不思議な光景が広がっていた。
玄関をはいると風呂とトイレがあるだろうドアの横に引き戸がついていて、そこを開けるとキッチンになっていて、この部屋にも片方の壁から天井にかけて腹を空に向けて海から姿を現す巨大な鯨の絵がすごい迫力で描かれており、もう一方の壁には深海のサンゴ礁に身を隠しながらクマノミやハリセンボン、ハコフグなどの小さな魚がのんびりを暮らしを営んでおり、まるで海の底を歩いているような感覚にさせられる。
「この絵……」
「あぁ、大家さんがもう古い家だから思う存分やっていいっていうから私が描いちゃったの。天井に何か絵を描くのって初めてでね、あの鯨の絵なんか結構大変だったんだよ?」
「……」
もうここまで筆を入れると魔改造と言っていい。初春は呆気に取られた。生まれて初めて入った女性の部屋に幻想を抱く暇すら与えられなかった。
「奥が私の作業部屋なの、どうぞ」
初春がその中に入ると、引き戸を開けた瞬間に油絵と絵の具の匂いがまず鼻につんと来る。
その部屋は壁中に今まで夏帆が描いたであろうデッサンや絵が立てかけられており、もう壁の壁紙がほとんど見えない程で、本棚にも沢山の色彩辞典や写真集が入っており、床にまで絵が散らばっており足の踏み場さえない。部屋の真ん中にキャンパスが置かれている以外はベッドがあるだけで、あとはクローゼットがあるが、そこの前にも絵が立てかけられていて頻繁に服を出し入れしている様子はない。部屋の奥には机があり、そこに筆やパレット、その他の初春も知らないような美術道具がある。整頓されているのはこの道具置き場だけという有様だ。
「ごめんね、ちょっと散らかってるんだけど、適当にキッチンの椅子に座ってて」
夏帆は鞄をベッドの横に置いてキッチンからポットを出してお茶を入れる準備を始める。
「……」
この酷い散らかりようが『ちょっと』とか言ってしまうあたりでこの人の生活が伺い知れる。このキッチンまではそれなりに綺麗なのだがそれは別に掃除が行き届いているというものではない。家にいる時にほとんどあの作業部屋にこもって絵ばかり描いているのだろうということがすぐに分かった。
それにこの部屋――
「あ、あれぇ、確かちょっと前に紅茶を買って……」
キッチンをほとんど使っていないのは、壁の絵が鮮明なことを見ても明らかだった。自炊をしていれば料理中の脂などが浮いてどうしてもこの絵は色褪せてしまうだろう。当然しまったはずの紅茶の在処も分からない。
この人――
「葉月先生って――美術バカですか?」
初春はキッチンの夏帆に問いかけた。
「あ、あれ――もうばれちゃったの?」
あっけらかんと夏帆は笑った。
「この感じじゃほとんど給料画材に突っ込んでるでしょ」
「う――そこまで分かる?」
「そりゃあ……俺もバイト代貰えるか心配ですし」
「だ、大丈夫だよ、借金はしてないから」
「当たり前です」
「むぅ――やっぱりもう少ししっかり準備した方がよかったか」
夏帆はもう自分のことがばれてしまったのですっぱり諦めたように紅茶探しをやめた。
「別に――俺からしたら羨ましいですけどね。そこまで打ち込めるものがあるって――さっきの『美術バカ』ってのも、どっちかと言うと誉め言葉のつもりですよ」
初春はそう言った。人生の目標のない初春にとっては、やりたいことも情熱を傾けられそうなものもまだない。
確かにいろいろ驚きはしたが、この部屋に満ちる夏帆の一つの道を突き進む姿勢に関しては素直に感心した。
「ふふふ……ハルくんが初めて優しかったね」
夏帆はもうすっぱりと紅茶探しを諦めたようで、デッサンの準備を始める。
「じゃあ、早速お願いしてもいいかな」
「いいですけど――脱げばいいんですよね」
初春はそう言ってTシャツを脱いで上半身だけ裸になる。
「わぁ――イメージぴったり――筋肉がつきすぎずなさすぎず、弱々しくなくて全ての意味で理想のイメージって感じ……」
夏帆は初春の裸を見るなり目が美術バカの目になり、被写体への興味に輝く。
初春の筋力は人間を一撃で倒す重い一撃を持っているが、背筋力が200キロある以外は怪力の持ち主と言うには程遠い。ただ体重制限をしており体脂肪率は10%前後なので確かに体の線は細いが筋が際立って見えている。
さっきまで恥ずかしいところを見られてしょんぼりしていたけれど、もうテンションが上がっている。
「うん、すごくいい! ねえハルくん、じゃあ取りあえずこれを右手に持って力こぶ作るみたいに持ってくれないかな」
そう言って初春に向かって林檎を投げる。林檎と言ってもモチーフに作る蝋細工で本物ではない。
「――こんな感じですか?」
初春は右手で林檎を持って肘を直角に曲げて見せる。
「うん、もうちょっと林檎を握っている指を寝かせてこっちに見せてくれるかな?」
夏帆は笑顔のまま、初春に細かい姿勢の注文を出した。
「……」
その様子を窓の外から隠れて見ていた比翼は毒気を抜かれた。
「ほら、やっぱり大丈夫だよ。あれは相当残念な美人だねぇ――本当に絵を描くだけのつもりで坊やを部屋に上げたんだ。坊やにしてもいつも通りなように見えるけど」
「……」
だがそれでも音々の不安は大きくなるばかりだ。
「音々――あんたもしかして坊やのことを……」
比翼は元々人の好意を匂いで感じ取る力を持っているから、わざわざ邪推で人の行為を調べるようなことをしたことはない。こんな質問をしたのも初めてのことだった。
「なんとまあ――やっぱりそうなったのかい……」
「……」
音々は窓の中にいる初春と夏帆を見て、頭では分かっていても、不安が収まってくれない。
ハル様に出会う前、私は何年も何年も、ひとりぼっちでだれからも必要とされなかった。
その時の方が寂しいはずなのに。
その時にもこんなに不安になったことはない――消えることを考えるよりも、今は何か怖くて……
私、どうしちゃったんだろう――孤独とか必要とされないとか、慣れっこのはずなのに。
どうしてハル様がいなくなると、私はこんなに駄目になるんだろう……




