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キミの身体に興味があるの

 秋葉紅葉は最近心を乱している。

 その原因になるのは、神子柴初春の存在――

 学校にいても最近は初春のことばかり考えている。

 どうしても初春の近くにいると、不思議なことばかり――ココロもお婆ちゃん達も私は前から神子柴くんを知っていると言うし。

 何より神子柴くんをお婆ちゃん達に紹介したのは私だという。

 それなのに――私はそのことを何も覚えていない。

 でも――確かに今は少し分かる気がする。神子柴くんと私は、本当はずっと前に会ったことがあるはずだったんだ。

 何故だか分からないけれど、神子柴くんに連れられてあの見事な桜を見上げた時――何故だかすごく心が優しくなった。

 その感覚だけは、覚えがある……つい最近あったはずで、私はそれを思い出せない。

「むむむ……」

 今は美術の授業中――それぞれがイーゼルに立てかけられた自分のキャンバスの前で目の前のモチーフのデッサンを行っている。

 モチーフは卵と人参、玉葱、ジャガイモ――簡単なモチーフだけど、立体感を出すのが難しい。

 紅葉は元々手先があまり器用ではなく、成績も真ん中だ。学校生活で目立っているのは、やはりその持ち前の人当たりの良さと美貌にあると言える。

「駄目だぁ、全然上手く描けないよ……」

 デッサンの鉛筆を一度置いて大きく伸びをする。

 周りを見ると他のクラスメイト達はどんどんデッサンを終えて、もうアクリル絵の具での塗りに入った人もいる。

「――そうだ」

 紅葉は思い立ち、席を立つ。

「柳さん」

 紅葉が言ったのは、クラスメイトの柳雪菜のキャンバスの前だった。

「秋葉さん……」

「やっぱり上手いなぁ」

 優等生の雪菜は美術の成績もいい。もうデッサンの仕上げに入っており、上手く立体感の出ていて野菜の素の素朴さが出ていた。

「ど、どうしたんですか?」

 雪菜は首を傾げる。

「んーなんか柳さんって私のこと苦手かな?」

「そ、そんなことはないんですが……」

 これも疑問のひとつ――

「――そう言えば私と柳さんが話すようになったきっかけって何だったっけ……」

「あ――秋葉さんも覚えてないんですか?」

 雪菜はびっくりしたような顔をした。

「え――てことは柳さんも?」

 その雪菜の反応に、紅葉は首を傾げる。

「はい――中学時代はほとんど話せなかったことは覚えているんですが……こうして話せるようになったのがいつのことだったか、全然……」

「じゃあ――あの日私と柳さんがレストランの前で倒れていた時――あの時のことは覚えてる?」

「……」

 雪菜は鉛筆を置く。

「私――倒れる前のことを、よく覚えていなくて……」

「じゃあさ、あの起きた時にいた男の子のことで、何か知っていることってないかな?」

「え……」

「あの人、神子柴初春くんって言って私のバイト先で働いてて――私は前に会ったことがあるらしいんだけど、私はそれを全然覚えてなくて――柳さんももしかしたら神子柴くんのことで何か知っているのかなって思ったんだけど……」

「……」

 雪菜の脳にはまだ靄がかかっている。

 でも――何故だろう。

 少し前に図書館であの人に会った時――「待っていてやる」とあの人は言って。

 その時何故だか、とても安心感があったことを覚えている。人見知りで話すのが苦手な私なのに、どうしてかあの人の言葉がふっと自分の心のポケットに収まったように落ち着いた。

 その気持ちが何なのかわからないけれど――このどうも記憶に靄のかかった感じ――気になる。

 秋葉さんの言うように、あの人を見ると不意に何か違和感を感じるんだ。

「デッサンに苦しんでいるようだねぇ」

 ふと授業中に立ち話をしてしまっていた二人の前に教師がやってくる。

「夏帆ちゃん」

「柳さんのデッサンはいい感じだね。でも、ちょっと最後に雑念が入ったかな」

 教師の女性は雪菜のキャンバスを見て、最後に描いた線の乱れを指摘した。

「ふふ――『何でも屋の君』の事でも考えてたの?」

「え?」「え?」

 雪菜と紅葉が揃ってその言葉に食いつく。

「か、夏帆ちゃん、その何でも屋って」

「あれ? 柳さんがこの前相談に来たじゃない。『何でも屋』のお手伝いをしたいって」

「え……」

 当然雪菜にその時の記憶はない。

「やっぱり柳さんもあの人と接点があったんだ……『何でも屋』をやってるって……」

「……」

 雪菜は不意に片頭痛に襲われる。

『何でも屋』——そのフレーズに、頭の奥で重い蓋が外に出たがっている記憶を邪魔しているみたいな不全感が、頭をずきずきと痛ませる。

 何か大切なことを忘れている気がするのに――何故思い出せないのだろう……



 夕方5時。

初春はファミレスで仕事を終えて控室で着替え、一杯の水を飲む。

「脂臭ぇ……」

 休みが少ないため洗濯があまりできていないコック服を着て、キッチンに8時間もいたのではさすがにハンバーグなどを焼く時の煙を浴びて肌が脂でギトギトしていた。

 消臭スプレーなんてもの、まだ一人暮らしをはじめて間もない初春にとってはまだ必需品とも言えない。まあ仕方ないかと思う。気になるようなら断ればいいし、気分を害されれば席を俺が立てばいい。

 コップを片付けてすぐに自転車に乗り、駅前の方に出る。

「喫茶アマデオ――確かこの辺りにそんなのが」

 初春はジョギングの土地勘に任せて自転車を走らせると、それはすぐに見つかった。レトロと言えば聞こえはいいが、これは東京にあるような元からレトロな雰囲気を演出するために作った造りではない。築何年も経った昭和の香りを残す風情で佇む、東京では場末でも見られないような古びた喫茶店だ。カレーやナポリタンが出てきそうな雰囲気である。

 中に入るとマスターのいるカウンター席とテーブル席が6卓ほど。コーヒーの香りはあまりせず、中に入るとかすかにカレーの匂いがした。その匂いに店内にかけられている一人掛けの椅子が木の椅子ではなく一人掛けのソファーになっている。

「あ、来てくれたんだ。ここだよ」

 中に入ると朝に会った女性がにこやかに初春に手を振った。

「……」

 朝に会った時はジョギング中だからすっぴんだったけど、今も化粧をしているとは言え非常に薄い。朝に会った時はショートヘアがストレートだったが今は軽くウェーブがかかっている。多分整髪をする時にムースを揉みこんでウェーブを作っている。ソファーの背もたれにオリーブ色の晴れの日も着れるお洒落なレインコートがかけられていて、服装は黒のニットセーター、下はジーンズにレインブーツ。朝に雨が降ったから足場が悪い時に出かけた格好だ。

 会釈をしながら初春は女性のいる席へ行く。それを見た一人いるおばさんが水を初春の席に出した。

「アイスコーヒーでいいかな」

「水でいいです。金あまり持ってないんで」

「いいよ、呼び出したのは私だから、支払いは持つよ」

 そう言われ何も注文しないのも悪いと思い、一番安いアイスコーヒーを注文した。

「……」

 腕に小さな文字盤の時計。首元に細いネックレスをしていて、見た目は童顔だがもうこの人は社会人なのだろう。はじめはまだ大学生かとも思ったが、そもそもこの町の近くに大学はないし、この人は朝に『仕事に行く』と言っていた。それはアルバイトの類ではなく本業なのだろう。

「そういえば自己紹介をしていなかったね」

 そう言って女性は自分の鞄の前ポケットから100均で買う名刺入れを取り出して初春の前に置いた。

 その名刺は紫陽花の絵の描かれた油絵が添えられた自作のもので、絵葉書のように美しい出来であった。

「私の名前は葉月夏帆(はづきかほ)、神庭高校の新任美術教師だよ」

 確かに名刺にはそう書かれている。

「先生……」

「らしくないかな? まあ新任なんでまだ威厳とかはないけど、これからに期待してよ」

 そう言って子供っぽい笑顔を浮かべた。

「――俺は神子柴です。神子柴初春」

「あ、名前に季節が入ってるんだ。いい名前だね」

「……」

 そのいい名前を付けてくれた親が両親ともに不倫をした末に俺を捨てましたなんて言ったら、この人は俺に何てフォローするだろう。そんなことを考えた。

 アイスコーヒーと、夏帆の頼んだカプチーノが運ばれる。

「それで俺に何の用ですか? バイトに興味あるかって言ってましたけど」

 初春は単刀直入に訊いた。

「ははは、しっかりしてるなぁ」

 淡々とした初春に夏帆は驚きながら苦笑いする。

「君にちょっと、モデルになってほしいんだ」

「モデル?」

「そう、私のモデルをする。それが私の紹介するバイトだよ」

「美術教師のいうモデルってのは、要は俺をモチーフに作品を作るってことですか?」

「そうだね」

「……」

 バイトというから何かもっと商売系か肉体労働を想像していたので、こういうバイトを紹介されるとは思っていなかった。

「――何で俺なんですか? 別に俺、イケメンってわけでもないですけど」

「ううん、顔は描かないから大丈夫」

 そう言って夏帆は初春の右肩あたりに視線を向ける。

「私、キミの身体に興味があるの」

「……」

 ――何かこの人、さらっとすごいこと言ったな。

「結構鍛えてるでしょう。それでいて線が太過ぎなくて肌もあまり焼けてなくて。太さと言い色の白さと言い、キミの体つきって私のイメージぴったりなの。あなたの身体を見て創作意欲がめきめき来ちゃって」

「――別にもっと鍛えてある奴なんて色々いるでしょ。ネット見りゃクリスティアーノ・ロナウドとかバキバキの身体してる奴の写真はいっぱいあるでしょうし」

「駄目よ。私は成長期の少年の腕とかを描きたいの。大人のスポーツ選手じゃ参考にならないの。発展途上の瑞々しさを描きたいのよ」

「……」

 さっぱり分からない、と言うのが初春の率直な感想。

 大体瑞々しいとかいう言葉が自分の今までの人生で全く縁のない言葉なので、この人はどういうつもりで言っているのか理解できなかった。

 だが――これだけ独りよがりなことを実に生き生きと語る人だな、というのが印象的だった。

「いや待てよ――もしかして身体に興味があるってことは――俺は脱ぐってことですか?」

「そう。察しがいいね」

「その――下も?」

「え? そこまでやってくれるの?」

 夏帆の目が輝きだす。

「……」

 初春は地雷を踏んだことを悟る。

「ふふ――大丈夫よ、上だけで。下も脱いでくれるのは私としては全然ありだけど、そこまでしてもらったら承諾なしに出品は出来ないし、バイト代の割増も出来ないしね。新任美術教師の給料――結構悲しいんだよ?」

 初春が背筋が寒くなる思いをしていることを悟って安心させようとそう言っているが、悪戯っぽく笑っているところを見ると期待はしているのかも知れない。

 変にこの人のペースに乗せられているように思い、コーヒーを手に取る。

「それに私の家で裸の男と二人きりっていうのは、さすがに」

「ぶっ」

 それを聞いて初春はコーヒーを噴出しかける。

「――今、なんて?」

「絵を描くのは私の部屋ってことよ。キミは私の部屋に来てもらうの」

「……」

 だとすると尚更下を脱ぐわけにはいかない。

「つーか、初めて会った男を自分の部屋に呼ぶとか……」

「まあそうなんだけど、キミは紳士だからね。今日の朝も服が透けちゃってた私を見ないようにしてくれたでしょ? それを見て、大丈夫かなって思って」

 そう言われて初春は不意に思い出す。

 今日の朝に見た夏帆の艶かしい濡れた髪と滴る雫、貼り付いたシャツ越しに見えた胸の谷間を……

 紅葉ほど大きくはなかったが、細身の体の割には出るところは出ていて健康的な身体をしていた。

「二人きりになる以上、自制が効くのは大きな条件だからね。私が教師である以上、学校の生徒には頼めないし……そういう意味でキミは全ての条件が揃ってるの」

「……」

 夏帆の胸元を思い出して初春の顔は熱くなる。

 まあそりゃ、芸術として割り切る訓練してない俺と同世代のガキじゃ無理だろう――この人はあまり化粧っ気ないけど――普通に美人だし。

 女に疎い俺でも美人――可愛いというのが分かるのだから、こんなのと思春期の男がひとつの部屋にいりゃ、そりゃ男はとても下を脱げる状態ではないだろう。

「バイト代はそんなにはあげられないけど、もし何か賞が取れたらボーナスも出すから。だからお願い! 暇な時でいいからモデルやってくれないかな!」

 夏帆は両手を頭の上で合わせて頭を下げた。

「お願いお願い、おねがーい!」

「……」

 ――この時初春は『ねんねこ神社』のことを考えていた。

 バイトじゃなくて依頼であればいいのだが、残念ながら俺がモデルになるだけでは音々の徳には還元されないから意味がない。

 だが実際『ねんねこ神社』はまだほとんど依頼は来ていないし、この人は暇な時に手伝うだけでいいと言った。無駄な待機をしているよりは報酬が出ることをやった方がいいだろう。

 それにこの人は学校っていう人が集まるコミュニティにいる。もしかしたら『ねんねこ神社』で請けられる仕事を紹介してくれるかもしれない。

「――ダメ?」

 頭を下げた状態から顔を上げて目を覗き込まれる。

「――えぇ、いいですよ。あまり時間は取れませんけど、それでよければ」

「ホント? ありがとう!」

 ぱっと笑顔になる。

「……」

「でも――神子柴くん、か……」

 ふっと思い立ったように、夏帆は考えを巡らせはじめる。

「じゃあ、長いから『ハルくん』でいい?」

「……」

 初春は自嘲を浮かべた。

「どうしたの?」

「――いや」

 東京じゃ学校一の人気者がその呼称で呼んでも誰も俺をそう呼ばなかったんだが――殆ど知り合いのいない町で早くもその呼び方をする人の2人目が出たことが妙におかしかった。

「葉月先生――でしたっけ」

「私は学校じゃ、『夏帆ちゃん』とか『夏帆先生』って呼ばれてるんだ。苗字だと堅苦しいからそう呼んでもらって構わないよ」

「分かりました――葉月先生」

「ぬ――可愛くないなぁ」

 夏帆はやんわりと初春を睨んだ。


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