キミ、バイトに興味あるかな
「次は治癒術の要領じゃ。お前がこいつの周りのアヤカシの声を聞いてみろ」
「むむむ……」
音々は難しい顔をしながら目を閉じ、初春の方に向け耳を傾ける。
「ふっ!」
初春は左腕一本で『行雲』を振る。
「やっぱり何も感じないぞ」
「す、すみません」
音々は根を詰め過ぎて、草むらに座り込む。
初春達がやっているのは、小鬼を倒した時に神力が解放された初春の力の検証である。この一週間、音々を早朝鍛錬に連れ出して色々な条件を検証しているが、まだあの力は発動していない。
音々が初春を守りたいと念じ、初春が力を得たいと念じる――その思いをアヤカシを通じて力の譲渡が行われると感じていた紫龍だったが、あの時と同じケースを試したがいまだに糸口が見つかっていない。
初春が自分から言い出し、紫龍に徒手空拳で初春を殴ってもらった(行雲や紫龍の武器は人間を斬れないため)りもしたが、それでも効果は発動しなかった。
「発動にいくつかの条件が重なる必要があるようじゃの。傷ついても発動しないということは、痛みや死の恐怖ではないようじゃ」
「――要するにあてにして戦わない方がいいってことだな」
初春は『行雲』を握り締める。
「いいさ、どっちにしても『あれ』は制御が効かないし、使えば音々が危険だ。元々使う気はない――元々『行雲』を使いこなせていない人間があんな力を手にしちゃ駄目だ――『あれ』を使うには俺はまだ弱すぎる――弱い奴が弱い者いじめが出来る力を持っちゃいけないんだ」
初春はそう言って離れて一人で、『行雲』の片手ジャンプ素振りをはじめた。
以前より剣の振りに力強さが増してきている。初春の剣の特徴はスピードだったが、本当に殺るか殺されるかになれば、人間のように人体急所を的確につけば相手は沈むというものではない――先の依頼でそれを実感していた。
「……」
あの手を握ってもらい『お前の側にいる』と言われた日以来、音々の心は初春への恋心を認識し、初春の行動につい心がついていかなくなってしまう毎日を送っている。
『ねんねこ神社』に依頼がないので初春はあれ以来、鍛錬に没頭していて音々と仕事をする機会はないのだが、初春の鍛錬にも、力の関係性を調べるという名目で同行することが増え。
その度に初春の熱心に鍛錬を行う姿――ひたむきさに改めて好意を確認させられてしまい、見とれてしまう毎日であった。
だが。
「――ハル様って、暇があるといつも鍛錬ばかりしてますね。家にいる時も『行雲』の『いめえじとれえにんぐ』ばかりですし」
『ねんねこ神社』を発足させて以降、初春はバイトの他にも勉強もしており、『行雲』の変化を色々試し、使えそうなもののイメージを固めるためにずっと『行雲』とじゃれていたりしている。要は鍛錬に時間を割くことが増え、以前のように毎日のように音々と話す機会が減っており、音々はちょっと寂しかった。
「まあ儂も前々から思っていたが、確かにお前は長年の日課だったんだろうが鍛錬が好き過ぎるな。普通は地味で嫌がるものなのに……」
「俺は鈍才だったんでな、鍛錬を重ねてできないことができるようになるなんて、こんな面白いことが他にあるか?」
初春は『行雲』を振りながら言った。
「元々はジークンドーも、気に入らねぇ奴をぶん殴る時によりでかい痛みを与えてやりたいと思ってはじめたことだった。でもそのために鍛錬をして、俺は最低だった運動の記録が随分ましになってきて――できなかった懸垂やハンドスプリングもできるようになって、俺のできることってのはどんどん増えていった。そういうのが面白いから俺は5年も鍛錬を続けられたんだろうな」
幼年時代から出来損ないと言われていた初春にとって、自分のできることを増やしていくのは何よりも楽しかった。玩具もろくに買い与えられない初春にとって鍛錬でできることを増やすことは、自分に許された唯一の娯楽だったのである。
「しかしその割には――お前はその磨いた『強さ』というものにもそれほど頓着はないのか? お前は『強すぎる力』にはあまり興味がないようだな」
紫龍の質問が飛んだ。
「『最低限』でいいんだよ、俺は」
「何?」
「人間の社会じゃ俺はどんなに頑張っても『最低限』のスタートラインにも立てない社会のクズだ――だが。これは頑張れば『最低限』にはなれるかもしれないんだ……だったら自分で頑張ってそこに立ちたいんだよ。それが俺に残された、『楽しい』って思える娯楽の範囲だからな」
「……」
その言葉を聞いて、音々の耳には初春の衣服達から声が聞こえてくる。
初春が今もなお、過去の思いを振り払おうと苦しんでいることに。
「とりあえず町を走ってくる」
そう言って初春は手を軽く振って、山道を下って行った。
「ハル様……」
初春がいなくなってしょんぼりする音々の横で、紫龍は空を見上げる。
「これは――もうすぐ一雨きそうじゃの」
「はあ、はあ……」
この町に来て以来、初春は毎日のように神庭町をジョギングしているが、そのルートは毎日微妙に変わっている。
神庭町に引っ越して、『ねんねこ神社』のためにも自分に土地勘があった方が有利だと考えたからである。なるべく自分の通ったことのない道を通って少しでも町の情報を得ようと考えていたからである。
この町はランナーも少ないが、初春が毎日ルートを変えるためニアミスする人もほとんどいなかった。
とは言っても神庭町は農道と市街地がはっきり分かれているので、小さな小道にでも入らない限りはそれほど選択できる道などほとんどないのだが。
大体駅前を目指して家に戻る道のり。おかげで街にある個人商店の場所も大体暗記できたし、どこに何があるか、言われれば即座に地図も書ける程度の土地勘は頭の中に全部入った。
だから今はその中でもそれなりに景色のいい場所を選んで走っている。神庭町の海側の防波堤に沿って走り、左手に海を臨みながら心と初めて会った公園を通って山道を抜け帰るルートだ。
潮風を浴びながら初春は防波堤の上を走り続ける。天気は曇天でまだ朝早いとはいえ、それを抜きにしても薄暗かった。
初春の家から見える灯台がここでは更に近くなって、今は火が灯っていない。晴天では一際目立つ白い屋根が灰色の雲に覆われていつもより存在感がなかったように思う。空の色を反射する海もどこかくすんで見えた。
そういえばもう梅雨か……まだ天気予報で梅雨入り宣言はしていなかったはずだが。
そんな空模様を心配した時。
ふいにぽつぽつと水が落ち始めると、その雨は次第に強さを増し、一分も経たないうちに激しい豪雨となる。
「うは」
まるで肌にパチンコ玉でも撃ち込まれて、痛いとすら感じるような大粒の雨がすごい勢いで降り続く。
幸い公園はもう少し――初春はそこに辿り着くためペースを上げる。
公園の敷地内に入ると、初春は一目散に設置遊具の一つである大きな山型の滑り台に駆け込む。滑り台はコンクリートが打ちっぱなしで階段を昇れば滑り台になるが、その打ちっぱなしの山の下には土管を通したようなトンネルになっている。立つことはできないが、大人が座っても十分なくらいの広さがある。
初春はそこに駆け込むと、息を切らせながらずぶ濡れになった自分の体の、動くたびにぐちゃぐちゃと音を立てる有様に困った顔をした。
初春は上に着ていたジャージと靴、靴下を脱いで、ずぶ濡れのそれらを自分の脇に置いた。
「……」
トンネルの中から外をうかがうと雨は勢いを落とさずに振り続け、横殴りの雨のためにもうトンネルの中にも入り口付近には水が入ってくるような有様だった。
初春は自分の脱いだ服や靴とともにトンネルの奥の方へ行く。
水が入らない場所まで来ると、打ちっぱなしのコンクリートに打ち付けられる激しい雨粒の音を聞きながら、初春は濡れそぼった顔を手で拭った。
参ったな――だがこの勢いの雨がそう長く持続はしないだろう。じきに止めばいい。
今日はファミレスのバイトは早番だからな。7時になって止まないなら濡れて帰るか。
そう思い目を閉じかけたが。
「わあああ」
ややコミカルに寄った声に、初春の好む静寂が打ち破られる。
そのトンネルに小さな人影が入ってきた。
初春もその声にそちらを振り向き、その人影――女性も初春を確認する。
「あ――あなたも雨宿りですか?」
にこりと人懐っこい笑顔を浮かべる女性。髪はショートカットで丸顔、どちらかと言うと小柄な部類で子供のような印象だけど、多分自分より年上――大学生くらいの感じだ。
「私もここで雨宿りしても、大丈夫かな」
「――ええ」
初春はそれだけ返事した。
「ありがとう」
女性はしゃがみ込んでトンネルの中に入る。
「うわ、雨で貼りついて気持ち悪ぅ」
女性も恐らくジョギング中に通り雨に出くわしたのだろう。有名なスポーツメーカーのジャージを上下で着ている。まだ6時を回ったばかりで通勤ラッシュもない町で表に出ているなんて、新聞配達や牛乳屋くらいだ。
「……」
だが初春はその女性がいることをあまり気に留めていなかった。彼女に興味があまりないからだ。そして向こうもそうだろう。
元々初春は人と二人きりになって気まずいというのがあまりない。必要と思えばその場所にいるし、相手が嫌なら出ていけばいい。相手もそこを出られないなら、仕方ないこととしてお前も我慢しろ――人間を空気として認識できるから、無駄に空気を作ろうと自分から話しかけることをしない。
だが。
「……」
さっきから妙に視線を感じるのにじれて、初春は女性の方を向く。
そこには、濡れそぼった神から滴を滴らせて前屈みにしゃがみ込み、初春の目をじっとのぞき込む女性がいた。
「ふふ、やっとこっち向いた」
いたずらっぽく笑う女性の顔。
「……」
何なんだ――と思いながら訝しんで女性を見たが。
初春はぱっと目をそむけた。
「ん? どしたの?」
「いえ、すいません」
照れ臭そうに謝る初春を見て首を傾げる女性だったが。
すぐにその理由が、自分が濡れて水を吸った上着のジャージを脱いだので、下のシャツだけになって体のラインがくっきり浮き出てしまっているからだと分かった。
「ふふ――そっか、キミは紳士なんだね」
自分より一回り年下の少年の行動に、女性は可愛いと思って笑った。
「……」
「ねえ、キミって結構ジョギングコース変えてるでしょ」
女性が親しみやすい声で初春に話しかけてくる。
「え?」
「こっち向いても大丈夫だよ。まったく見られないのも女として傷つくし」
「――そういうものですか」
「そういうものだよ」
「……」
初春はそう言われて、ゆっくりと体を女性の方に向ける。
「なんてね、エッチだなぁ」
初春がこっちを向いたのを見ると、女性は首を傾げて笑った。
「……」
やられた、と思った。そんな初春の顔を見て女性は可笑しそうに笑った。
「ふふ、ごめんね。キミ優しそうだから、ついからかいたくなっちゃって」
「別に訴えない限りいいですけど――何で俺がジョギングコースを変えてるって分かるんですか?」
「私がそうだからだよ」
「……」
「私走りながら景色の観察してるの。その時に君とも結構ニアミスしてるんだ。毎日違うコースを走るのにたまに出会うってことはそうでしょう? この町は早朝に走る人も少ないからね」
「……」
勿論初春は覚えていない。土地勘をつけるために周りの風景を見ていて人間は見ていない。
「君はどうしてコースを変えてたの?」
「引っ越したばかりなんで、土地勘をつけるためですよ」
「ふぅん……」
改めて女性は初春の方を見る。
薄いTシャツ1枚になった初春の体のラインは、雨で貼りついてくっきり明確に浮き出ている。半袖の袖口から小さく隆起した筋肉が浮き出て、筋張った腕が見えている。
「ねえ、キミってもしかして神庭高校の生徒?」
「――違いますよ」
初春は答えた。
これが日本の現実だ。義務教育じゃないけど初春の年齢では学校に行っていることが普通なのだ。それが学校に行けない人間にとって、自分達を少数派に追い込むということを、それが当然と思っている人間は知らないし永久に分からないだろう。
「ふぅん――生徒じゃないならセーフかな……」
そう呟くと女性は初春の方にすり寄り、すぐ隣まで来て初春のことをじっと観察した。
「う」
初春はその女性の吐息もかかりそうなほどの近さと、すぐ隣に来て薄暗い中でも見える小柄な女性のシャツの首元の隙間から見える胸の谷間に思わず目が泳いだ。
「ねえ、キミ、バイトに興味ないかな」
だがそんなことを全く気にも留めずに女性はキラキラした目を向けて初春に言った。
「は?」
「もし興味があるなら今日の夕方――そうだな、5時過ぎとか空いてる?」
「10分くらい遅れるかもしれませんけど、それでいいなら」
「よかった。じゃあ駅前のアマデオっていう喫茶店分かるかな? そこに来てくれないかな」
「……」
「あ、雨が弱くなったね」
不意にその声に、初春の耳にさっきから聞こえていた雨の打ち付ける音が弱くなっているのに気が付く。
「よかった、仕事に遅れるわけにはいかないからね。これなら濡れても大丈夫そう」
そう言って女性は初春の体から離れて、濡れた自分の上着を着こんだ。
「ちょっと気持ち悪いけど――キミみたいな優しい子を戸惑わせないようにしないとね」
そう言って初春に舌を出してみせる。
「じゃあ5時過ぎに待ってるから、来てくれると嬉しいな。それじゃあね」
そう言って女性は最後にバイバイと手を振って、トンネルを抜けて小降りになった泥道を走っていく。
「……」
初春は自分の体の反応に、少し立ち上がりにくさを感じていながら。
不覚にも、自分がさっきの女性にドキッとしてしまったことに戸惑っていた。
俺――もっと女の警戒の仕方を研究した方がいいかもな。
「俺も早く帰るか」
初春は少し空が明るくなり、雲間から光が漏れ出す空を見上げた。




