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春の終わりに(7)

 牛車がまた老夫婦の家の庭に降り立ったのは、夕方の4時を少し過ぎたところだった。

 後ろの簾が開くと、初春が簾を上げて桟を用意した。

「お帰り。楽しかったか」

「ハルくん」

 また一番乗りに初春の手を借りて桟を降りる心を見ながら、紅葉は唖然とした。

 さっきと違って神子柴くんが側にいたわけじゃないのに、私達が牛車に乗り込んだら簾が自然に閉まっていた。中からは簾も障子も開かなかったが10分位すると自然に開いて家の前に着いていた。

 桜の花の先には明らかに神庭町の町並みが見えた。山の上から10分でここまで来るなんて一体どうやったの?

「ハルくん、ウシさんたちのめんどうを見てたの」

「依頼なんでね。搾乳場に牛を運んであとは搾乳するだけ。時間が来たら搾乳をお願いします」

 初春は後ろの老夫婦に言った。

「花見はいかがでしたか?」

「いやぁ、もう言うことなしでしたよ。あんな見事な桜と花畑が貸切で、お料理も用意されてたなんて」

「しかし、狐につままれたと言うのか――いまだに何かに化かされたような気分だよ。色々なことがありすぎて……」

「……」

 まあそうだろうな。この人達はこの世界に生きる善良な人間だ。

 本当は紫龍に記憶の改ざんを少し頼もうかと思ったのだが……

「……」

今俺の肩の上には、ずっと花見の一部始終を見守りお婆さん達と一緒に牛車で帰ってきた土筆が乗っている。こいつの依頼——いつも自分の祠にお参りに来ていたお婆さんへの感謝の想いを都合よく捻じ曲げる気がして。

それに……また秋葉の記憶を操作することになる。

「うむむ――さすがにやりすぎでしたかね……」

反応がやや微妙なことに土筆は苦笑いを浮かべた。

「――まあ色々と無茶なやり方であの席は設けました。でも俺にあの依頼をした奴に悪意はありません。あなた方にいつも世話になっている、だからせめてお礼をしたいと依頼をしてきた――その思いだけ、分かっていただけないでしょうか」

初春はそう言った。

「――ふふ」

お婆さんは笑った。

「まあ、化かされるというよりは、神様の贈り物、って感じでしたよぉ。素敵な時間をありがとうって、その依頼主さんにお伝えいただけますか?」

「……」

「は、はい、必ず伝えます」

初春が頭を下げると同時に、土筆も頭を深々と下げた。土筆の耳についているリボンの鈴がちりんと鳴ったが、それは初春にしか聞こえていない。

「でも食事にお酒まで用意してあって――私達お金を払わないと……」

「いいです。あれは俺じゃなくて依頼人がやったことなんで」

「……」

 だがどうやら一方的にものを受け取るだけではどうも気が引けるらしい。

「あ、そうだ。ちょっと待ってて下さい」

 そう言って初春は念のために持ってきた割り箸製の音々の社を、牛舎の影から持ってきた。

「こいつに賽銭箱がついてるんで、こいつに仕事の満足に応じた金を入れて、紐を引いて鈴を鳴らしてくれませんか?」

「ほおぉ、上手いなぁこれ、神子柴くんが作ったのかい?」

「ええ――何でも屋と言っても一応『神社』ってことで」

「ネコさんがついてる!」

 心は鳥居の上で昼寝する、初春が作った猫の粘土人形を指差した。

「!」

 紅葉はそれを見て不意に携帯電話を取り出し、携帯の画像フォルダを開いた。

 フォルダの中には、『ねんねこ神社』のチラシに書いてあるパンダのような丸いフォルムの猫のイラストが何枚も入っていた。

「これ――いつ保存したんだっけ……」

 不意にそれを見て思い出す。

「俺が見てると入れにくいと思いますんで、しばらく席をはずします」

 そう言って初春は社を置いたまま一度庭を出た。

「はぁーっ」

 初春は門扉の外の石壁に寄りかかって溜め息をついた。

「神子柴殿、ありがとうでし」

 肩に乗っている土筆が嬉しそうに言った。庭の外の牛車にはこれを引いて山から帰ってきた火車の息子が立っており、初春達の用件が終わるまで待機していた。

「別にいい。あんだけ仕事して反応が微妙じゃ俺もただ働きした甲斐がないからな」

「しかし上手くお賽銭させる誘導をなさいましたね。神子柴殿は商才もおありのようだ」

火車の息子が言った。

「俺に商才があったら今回みたいなただ働きは請けてない――貰えるものは貰わなきゃな。それでも割に合ってないが」

「ですがまた音々殿の神力が上がるかもしれません」

「まあな――あいつの神力が上がれば俺達にも何か恩恵があるみたいだし、先行投資だと思うことにする。だがもうただ働きは勘弁だ。冗談じゃない」

「ふ」

 火車の息子はその言い分に笑った。

 鈴の音が聞こえたので、初春は庭に戻る。

「はい、ハルくん。ちゃんとおまいりしたよ」

 心が割り箸の社を抱えて差し出した。

「しかし――神社ですか」

お婆さんは首を傾げた。

「変な名前ですよね」

「いいえ、そうじゃなくてね。もしかしたら神子柴くんの依頼主っていうのは、この町の土地神様なんじゃないかな、って」

「え?」

初春はぎょっとする。

「私、いつもお参りしていたんでねぇ――もしかしたら土地神様があの桜を咲かせて、私に見せてくれたんじゃないかと思いましてね」

「……」

 すぐ近くに土筆はいるのに、見えていないだけでその思いは直接伝わらなくて。

 きっとこのお婆さんは何年も、何十年も土筆の祠にお参りして。

 それだけの思いを――感謝を、それで伝えきれるものだろうか。

 それだけ長い年月をかけて積み上げた思いを、余さず伝えられない辛さとは、どんなものだろう……

 ――そんなことを思いながら、初春の脳裏に結衣の笑顔が思い浮かんだ。



 紅葉達が帰った後、山に住む妖怪や中級神達が自分達の宴のために席の準備を始め、夜もふけると昼の時以上のぼんぼりに灯が燈され、夜桜と花畑を幻想的に彩った。

 紅葉達と別れた後に着替えて泥を落としてきた初春と土筆、火車の息子が一番最後の参加者である。

「ハル様。良かった、来てくれたんですね」

 既に他の参加者に酒を注いで回っている音々が初春に駆け寄った。火車の背中に乗ってきた初春は背から降りて桜を見上げる。

「ああ、依頼主もいるしな。とりあえず今回の仕事は完了だ」

「良かった――」

「実際あまりよくないがな。今回の仕事で俺達の実入りはほとんどないぞ」

「でも――私はすごく楽しかったです。こうして町に住む皆さんと一緒に一つの仕事ができて――何だか初めて見なさんと仲間になれたような気がして。誰かと同じ目標を持てるって、嬉しいことなんですね」

「――そうか」

 初春はその音々のポジティブさに感心したが、初春自身もただ働きの割には気分はさほど悪くはない。

 元々初春は1日500円の食費の生活が、ファミレスの賄いが食える程度の生活になるだけで殺気が薄らぐ程で、そんなささやかな生活で十分なのだ、金に執着があるわけではない。なくては困るがあるのであれば後味の悪い仕事まではしたくない――そちらの方が優先順位が高い。

「神子柴殿、音々殿、本当にありがとうございますでし」

「俺はほとんど何もしてない。戦闘でも足を引っ張ったしな。礼ならこの桜を復活させるきっかけになった音々に言うんだな」

「土筆殿」

 比翼がこちらに駆け寄ってくる。

「じゃあ――そろそろ」

「はは――そうでしね……」

 困ったような笑みを浮かべた。

「二人とも、こっちにおいで」

 比翼は初春達を促して宴席の中央へと向かわせる。そこには紫龍が神妙な面持ちでこちらを見て立っており、初春達を囲むように中級神や妖怪達が周りに集まった。

「紫龍殿、比翼殿、皆さんも――僕の我が儘に付き合ってくれて、ありがとうございまし」

 しんと鎮まった中で、初春の肩の横にいる土筆が周りを見回し頭を下げた。

 紫龍は煙管を手に取り、ふうと煙を吐いた。

「――もう、いけそうか?」

「――はい、これでもう思い残すことはないでし」

「――思い残す?」

 音々は首を傾げた。

「神子柴殿、音々殿、黙っていて申し訳ないでし――実は僕は、もう神力がほとんど残っていなかったんでし……」

「え……」

 そう言うと土筆の身体が柔らかな光に包まれていく。肩に乗せていた初春はその土筆の毛むくじゃらの身体を抱き上げた。

「おい、どうしたんだ?」

「神子柴殿――もう僕の祠にもミチコさん以外はほとんどお参りに来る者がいなくなってしまって――僕もこの通り力を失いこんな小さな姿になってしまっていたんでし――もう何年も、近頃は土地を清めるのにも事欠くようになってしまって……」

「――私達は消える者に対しては全力で最後の願いを聞き届けるために協力する――それが紫龍殿が定めたこの町の彼岸の者の掟さ。数年前まで土筆殿の身体はそれこそ人よりも大きな体をしていたが、これだけ縮んで力を失っていたのを見て、私達は土筆殿の最後が近いことを知っていたってわけさ」

「そんな……」

「――おっさん、比翼。知らなかったのは俺達だけか……何で教えてくれなかった?」

 初春の土筆を抱き上げる手が小さく震えた。抱き上げた土筆の身体は、『行雲』が形を変化させるように光が徐々に粒となって土筆の身体から剥がれ落ちていくのが分かった。

「――お前達に『死ぬ』ということを予備知識なしで見てもらいたかった」

 静かな声で紫龍は言った。

「……」

「はは――怒ることはないでし、神子柴殿。神にとってはいつか消えるのは覚悟せねばならないことでし……」

「……」

「でも――そんなに悪い気分じゃないんでし――長年僕を信仰してくれたミチコさんの笑顔を最後見れたから……」

「――それでいいのかよ? お前の思いはちゃんとお婆ちゃんには伝わっていない。お前の姿が見えないんだから――知っていれば、もっと上手くお前の思いを伝えることも……」

「いいんでしよ神子柴殿――誰かに褒められるためにやるんではない――ただ僕が嬉しかった思いを返すだけ――」

「……」

「それに――人に忘れられても僕には、こうして僕を看取ってくれる仲間がいた――それだけで消えゆく者には十分でし……」

「――本当に――それで」

「神子柴殿――あなたにもきっとそれが分かる時が来るでし。何を捨てても伝えたい想いが」

「……」

「神子柴殿。『死ぬ』とは命が尽きることではないでしよ。その『想い』が誰にも知られないままに消えてしまう――なかったことになってしまうことでし。それができないことが失うよりも辛いこと――神子柴殿はまだそれを知らない――それがわかるまで、どうか立ち止まらずに生きてほしいでし……」

 もう声も失いかけた土筆の体は、初春の中でどんどん小さくなっていき、光の中で表情すら分からなくなる。

「――おい、土筆!」

「皆さんのおかげで――最後にようやく、少しだけ神らしい仕事ができた気がするでし――ありがとう……」

 光に包まれて表情はほとんど見えなかったが、一番近くにいる初春には土筆が満足そうに静かに微笑んでいるのが見えた気がした。

 粒になった光は空に舞い上がると、そこにある桜の花も花畑の花も、術をかけていた土筆の力が切れるのに呼応するようにそれらも少しずつ光を放ち始め、まるでキャンプファイヤーの火の粉のように空へ昇っていく。

 土筆の体だった粒は花弁と混ざってもうどれがどれだか分からなくなりながら、舞い上がる光の花弁と一緒に別れを惜しむ舞を踊るように風に乗り、やがてその光は星になって空に張り付いたかと思うように小さくなり、やがて消えていく……

 自分の立つ花畑がどんどん光に包まれ花弁を消していくのを見上げながら、初春はまだ土筆の体を抱き上げていた手を降ろすことができなかった。

 初春の手には、土筆が耳にしていた、お婆さんが土筆の祠に納めた鈴付きのリボンだけが残されていた。



 ――それから正直何となく消え行く桜を見上げていた。比翼が三線を出して別れを惜しむ葬送曲代わりに一曲披露し、まるで通夜のように光に帰る花を眺め、土筆が空に帰るのを皆で見送っていた。

次第に疲れた初春は家に戻ると服を着替え、電気も点けずにベッドに倒れ込んだ。

「……」

 掌から土筆が消えていく感覚がまだ残っていた。

 あいつはもうこの世界にいなくて――もう二度と会うことはない。

 それが『死ぬ』ということ。

 自分の掌を天井にかざしながら、初春は思う。

 いるか、いないか、生き物の状態は結局はこの二種類でしかない。

 いないことを死というのであれば、俺は家族から死を賜ったのだろう。

 そして――直哉と結衣にとっても、俺は死んだことになる。

「……」

 でも――『死ぬ』っていうことはそういうことではない。

 伝えたい想い――土筆の思いがどんなもので、それをどれだけ抱え、どれだけ満足できたのか。

 それをもう確かめる術はない。

 あぁ――当たり前のことだが、これが『死ぬ』っていうことか。

 もうその想いを確かめようもない――それすら感じ取れなくなること。

 ――多分東京にいた頃の、今以上に思想に乏しかった俺にはその辛さが分からなかった。

 でも、今は……

 とんとん、とノックの音が部屋に響く。

「――誰だ?」

「――私です。音々です……」

 力ない音々の声がした。

「あぁ――入れよ」

 初春がそう言うとドアが開いて、小紋の上着を脱ぎ、襦袢姿になった音々が枕を両手に抱えて立っていた。

「――何か用か?」

「あ、あの……」

 もじもじして音々は口ごもる。

「……」

「あ、あの、ハル様――今夜は少し、一緒にいてもよいでしょうか……」

「……」

「眠ってしまっていいんです。それでいいので……」

「……」

 枕を持っているということは、その答えは容易に想像していた。

 そして――それを言う理由も大体わかっている。

「あぁ――だが布団はないぞ」

「大丈夫です――いつも座布団を敷いて少し横になるだけですから」

 どうやら神という生き物は睡眠にあまり頓着がないらしく、睡眠時間も非常に短くて済むらしい。睡眠とは浄化であり、瘴気に毒されでもしない限りは2時間も眠れば体の浄化は済むらしかった。

「――電気は点けておいた方がいいか?」

「え?」

「お前――怖くなったんだろ。あれを見て」

 音々は押し黙る。

 無理もない――こいつは消えることに長年怯えていたのだ。役立たずと言われ天界を追放され、そのまま消えれば音々はそれなりに力のあった土筆のようにはいかない。人間はおろかこちらの住人にも記憶されずに忘れ去られてしまうだろう。

 それをあんな風に見たら、怖くなるのも当然だ。一人になりたくなくて、初春の部屋に来たのだろうことは初春にも分かった。

「大丈夫です――ハル様もお疲れでしょうから」

「――そうか、じゃあ自由にすればいい」

 初春は再び電気を消すとベッドに倒れ込み、音々はその横に座布団を敷いて横になった。

「……」

 初春は目を閉じても、土筆のことを考えていた。

「――ハル様、まだ起きていらっしゃいますか?」

 伏したまま音々の声が聞こえたのは、電気を消して20分ほどたってからだった。

「――あぁ。何だ?」

「あの……」

 また言い渋る音々。

「あの――手を、繋いでいただけますか……」

「……」

「手――繋いでほしいです……」

「……」

 その声が酷く不安に怯えているのが分かった。

 初春はベッドの下に自分の左手をだらりと降ろし、音々の手を探した。音々の手がそれを見つけ、初春の手を握る。

「ハル様の手――豆だらけです」

「おっさんとの鍛錬で『行雲』を振りまくったからな」

「……」

 沈黙。

「ハル様――今日の土筆様はハル様に最後、何を伝えたかったんでしょうか」

「分からん。それがあいつの言う『死ぬ』ってことなんだって、今考えていた」

 もう確かめようもない想い――その中には土筆がどうしても伝えたかったものがあるはずで。

 死ぬのは肉体でも命でもなく、遺志なのだ。あいつはそれを最期、俺に教えてくれた。

「だがあいつは立派な神様だったと思う。最期の力で自分の思いを伝えるべき相手に伝えた――それが自分の寿命を削ると知りながらな」

「……」

「あいつの思いが、おっさんや比翼、そして周りの連中も動かした。それは元々決まっていた事だったのかも知れないが、理由はどうあれ神の生き方とはこうあるべきだと俺は思った……俺は今回の仕事を通じて、神ってやつの神髄を見せてもらった気がした……あいつはそれをしっかりこの町の連中に見せて消えていった」

「そうですね――最後まで土筆殿は土地神だったと思います。最後まで人間のために力を尽くした――たとえ人間が自分のことを知らなくても」

「……」

 土筆は誰かの笑顔のために、自分の力を――命を差し出せる奴だった。神としての矜持を持っていた。

 直哉と結衣の期待に背き、紅葉と雪菜の記憶も消した俺とはまるで――次元が違う強さや優しさを持っていた。

 だが初春は思っていた。

 その考えが単なるロマンチシズムに過ぎないということを。

 特に人間が聞けば無駄死にだと笑うだろう。電車の優先席で老人に席を譲ったところで自分に何の見返りもないのと同じだ。その死は人によっては踏みにじられるものであることを初春は知っていた。

 それでも。

「お前があの土筆の最期を無駄死にと笑うならそれはそれで仕方ないことだと思う――でも俺はあんな風になりたいな。大切に思える者のために、何をおいても駆けつけられる奴に――目の前で困っている奴を見殺しにしないような」

「――私もそんな風になりたいです。もしその夢が破れても――最期の最期まで、自分の命を大切なもののために使える神様に」

「……」

 沈黙。

「音々。残念だが俺はまだ弱い――お前を消さないようにするなんて約束はできるほど強くはないけど――それを誓ってくれれば、俺はお前を見捨てない。約束するよ」

「……」

 音々は初春の手を握り締めた。

「――あたたかい。」

 初春の手は豆だらけで節くれだっていた。憎い人間を殴るために沢山鍛えられてごつごつしていたけれど。

 初春に出会って、音々は初春に人間のぬくもりを教えてもらっていたことを強く感じさせられる。

 そして――今改めて胸の内に思いが溢れてくるのが分かった。

「……」

 私は――やっぱりハル様のことが好き。

 本当は――もっとハル様と一緒にいたい。このぬくもりをもっと感じていたい。

 ハル様が私を今こうしてこの家から連れ出してくれたから……

 だから私はこの命を、最後はハル様のために使いたい……死がふたりを分かつ、最期の時には……

「……」

 だが初春は、隣で寝ている音々が自分に思いを募らせていることを露知らず。

 結衣のことを考えていた。

 初春は結衣への想いを捨て去ろうと思っても、この2か月、その想いを伝えられなかったことに痛恨の未練を覚えていた。

 それが土筆の最期の言葉に、その未練が再び顔を出す。

 結衣――俺はお前が――お前をもしこの腕に抱きしめられていたら、思想のない俺の人生はきっと景色を大きく変えただろう。

 俺はそんな世界を見たかった。お前と直哉がいつも俺の一歩先の世界でみていたもの――そしてお前達と同じ景色を見ながら共に歩む未来を。

 その夢は絶たれてしまったが――せめて最期に伝えておけばよかった。

 神子柴初春は、日下部結衣を想っていたことを。

 それすら伝えられず、ただ何もしないまま、できないまま――

 それを伝えないことがこんなに辛いなんて、東京にいて思想がなかった俺には分からなかった。

 土筆――お前はこんな思いにずっと耐えていたのか。

 その想いを少しでも伝えられるなら――残り少ない命を失っても構わないと。


 翌日の早朝、初春は日課の早朝トレーニングのランニングコースを裏山に変え、昨日の桜の木の前に来ていた。桜の木はもうすっかり花が落ちて、周りの花畑もなく、葉桜がそのまま衣替えをするように、緑の葉をつけてその重さが頭を垂れさせるほどに生命力に溢れて茂っていた。

 初春はそのままその大きな桜の木に登り、枝を一つ一つ自分の手で登っていく。大木は背の高さが10メートルはありそうな大きなもので、足を踏み外すと確実に軽傷では済まないだろうものだった。

 初春は一番上まで登りきると、崖の先の神庭町の景色を見下ろした。

「いい景色だ……」

 初春はそれを確認すると、景色を見回して家屋の屋根を見る。

「ここから見えるな」

 初春は自分の服のポケットからリボンを取り出して、一番上の枝にそのリボンをしっかりと結びつけた。

 それを終えると初春は枝に腰を下ろして朝の涼しい風を浴びながら、結び目の先――お婆さんが今も働いているだろう畑と、自分のいた祠の方を見た。

「土筆――いつか祠もお参りする人がいなくなったらさびれちまうが――ここからならしばらく誰にも邪魔をされずに眠れるし、ミチコさんの畑も見えるし寂しくないだろう」

 勿論桜の木は何も答えない。

「おやすみ土筆――お疲れさん」


 初春と時同じくする頃、音々は今のちゃぶ台の前で針に糸を通し、自分の社の賽銭箱の前の紐に何かを縫い付けていた。

「ふあ……」

 弔いのために遅くまで外で皆と飲んでいた紫龍が酒臭い息をしながら台所に降りてくる。

「ん? お前は何をしておるんだ?」

 紫龍は音々を見て社を覗き込んだ。

「――あぁ、なるほどな」

 紫龍は賽銭箱の紐の上についていた鈴がひとつからふたつに増えている――古びた鈴が新しい鈴の横につけられているのを見て頷いた。


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