春の終わりに(3)
ぎぃんという激しい音、金属が擦れて軋む音が、大きな負担のかかる手首の骨が立てているようである。
初春は前蹴りを入れて一度距離を開けて、仕切り直しを入れた。
「よし、段々と分かってきたようだな。受け方や距離をとる判断がよくなってきた」
紫龍は自身の獲物のひとつ、白虎を鞘に納める。
この1週間紫龍が行っているのは初春の戦闘スタイルの矯正であった。
初春は一対多数の喧嘩に慣れ過ぎている。自分が倒れるまでに勝負を決めるという攻め一辺倒のスタイルと、自分が傷つかずに相手を傷つける醜い人間と同じでありたくないという思想故、初春はつい無意識のうちに、肉を切らせて骨を断つ――そんな戦法を多用する癖がついていたので、最低限の防戦技術を叩き込んでいる。
「アヤカシと戦う場合、怖いのはその力よりも『穢れ』じゃ。お前は人間でそれなりの瘴気も持っておるから穢れの効果が高い――なるべく些細な攻撃も貰わんようにしろ」
まず紫龍は初春にそのことを口酸っぱく指導した。そして紫龍も、初春の戦闘の本質が自身の生存確率の計算に基づくものであることを理解していたため、初春になら出来ると考えていた。
それと同時にいつもは竹刀での鍛錬だったがこの1週間は本当に『行雲』を太刀のまま使い、真剣の太刀筋に慣れていない初春の太刀筋の修正も行っている。竹刀では左手一本で持ち竹刀を繰り出しながら右手や足で格闘を行う初春だったが、『行雲』を使う際は両手持ちで正眼に構え、通常の剣道の型での鍛錬を行った。
「竹刀の癖は強いがそれなりに剣というものを勉強しているようじゃな。刃が素人にしてははじめから立っておった。じゃがそれだけでは駄目じゃ、真剣を使うのは当てただけでは斬れん。しっかり引くこと、押し斬ることじゃ」
「――やってみてはいるんだが、自分の弱みってのが分かってくるな」
「どうやら自分の思い通りに扱えていないことが分かっているようじゃな」
紫龍だけでなく初春も感じていた。
初春は体力や身のこなしだけはなかなか優秀だが身体能力はさほど高いわけではない。50メートル走は7秒を切るか切らないかで、一般の高校1年生の平均はかなり上回ってはいるがスポーツの全国大会に出るような人間としては平凡である。筋力も素早い状況の対応のために柔軟性、敏捷性を重視しているために強さに関してはやや見劣りしている。
これでも5年間の研鑽でかつては平均以下だった(小学3年生で50メートル走は10秒台だった)身体能力を引き上げた結果なのだが、中1で50メートル走6秒台に到達していた直哉とは比べるべくもなかった。
刀身だけで初春の身長並みにある長さと2キロ近くある重量の行雲はまだ初春の筋力では使いこなすのに苦戦していた。
「お前、格闘の方が得意なようにも見えたが剣もなかなかじゃ。お前が筋力でその太刀を片手で小枝のように振れるようになれば格闘ももっと生かせるんじゃが、折角じゃから生かさねば勿体無い――お前の腕力に合うようにもっと小さく変化させてみてはどうじゃ」
「それは出来ない――『行雲』は今のこの姿が一番安定するし一番威力が高いんだ。だとしたらそれを俺が使いこなせるようにならなきゃ、俺がこれを持つ意味はない――俺は『行雲』に頼りきりにならない強さが欲しいんだ。こいつを振りかざすだけでいい気になるようなことはしたくないんでな」
「……」
紅葉と雪菜の記憶を消して以来の初春は瘴気を出すことが減った。本当に強い薬になっているようだ。
「ブルルル……」
初春の横で唸り声が聞こえる。
すぐ横では火車の息子が、鬣に青白い炎の粉を纏わせていた。
火車の息子の目の前には、頭陀袋に土を入れたものが木に括りつけてやる。
「むむ……」
火車の息子は額に脂汗を浮かべていた。
何でもあの頭陀袋の中の土には瘴気が仕込んであるらしい。
鬣に集めた火の粉を集めて炎が大きくなるが、近くにいる初春の肌に熱は感じない。
起こった火を火球にして火車の息子は頭陀袋に投げつける。
泥人形の中の瘴気が紫色に光り、じゅわっという音と共に炎が天を突くように立ち上がると、そのまま袋を括りつけた幹を焼き、枝に引火する。
「む!」
紫龍はそれを見て下段から剣を振り上げ衝撃波を飛ばし、木に燃え移る前に炎をかき消した。神力を速度に変えて凄まじい剣圧のみで炎は真っ二つに断ち切られて雲散霧消した。
初春は衝撃波で起こった旋風に目を閉じる。
「まだ炎を制御できとらんの。あの頭陀袋だけを焼いて木に少しも燃え移らせない――それにはお前の彼岸の線引きが必要じゃ、なるべくこの世のものはむやみやたらに傷つけるものではない」
「はい……」
火車の息子も初春と同じく修行中だ。
悪人を裁く『浄化の炎』を操る火車だが、本来それは瘴気のあるものを焼くもので、悪意のない者が触っても熱すら感じないような代物らしい。
だが火車の息子はまだ子供ゆえに血気が盛んで多少の瘴気でも強い力でつい反応し、加減が効いていないらしい。小さな範囲のみに絞り傷つけないものをむやみに傷つけない特訓をしている。
「しかし――お前達も災難だな。本来ならその刻印が出てきたものというのは神の力を少しは得られるものだが――今のところ何の変化もないか?」
「私は特に」
「――よく分からんな」
火車の息子も初春も同じ答えだった。
「まあ、主がまだ神力を使いこなせておらんのだから当然か……そのうちお前達も何か変化があるかも知れんが、今は自分の身を守ることだけ考えればよい――今回は実戦を感じるだけで十分じゃろう」
紫龍はそう言いながら二人――特に初春の方を見た。
初の実戦が近付いているというのに、手柄を立てようと息巻きもせず、恐れもせず、相変わらず水のように静かな表情を浮かべていた。
鍛錬を終えた後、初春達は土筆を連れて裏山に登り、土筆の張った結界のある山間に向かった。
そこはもう山の頂上に程近い岬状に崖が突き出た場所で、その先端部に一本だけ樹齢150年は経っているかのような見事な山桜があり、その後ろには緩やかな斜面の崖があり、裏山の手付かずの山林の緑の向こうに田植えを終えたばかりの神庭町の町並みから海の向こうまで一望できる見事な景観が広がっていた。
桜の木は本来季節柄、今は花を落として葉を茂らせているはずだったがここにある山桜はまだ裸木であった。
「ん……」
初春は目を細める。
「何かあの周りだけ、景色が変じゃないか?」
初春の目には、その岬状に突起した崖の前に映える桜の木の周辺の色が少しセピアがかって見えた。自然の色ではない、不自然なくすみ方をしていた。
「成程、本当に時を止めて仮死状態にしておるのじゃな。少し調べてみよう」
紫龍がそう言ったので、皆は桜の木に近付いた。
「うっ……」
その場に入った瞬間、初春は鼻を覆った。
「この結界、人間のお前には堪えるじゃろうな。火車の息子はここには入らん方がいい。また正気を失いかねん」
「……」
桜の木の周辺は血生臭い空気が漂い、またそこに何かが腐ったような臭いが混ざり、空気が酷く淀んでいるのが感じた。中に入った瞬間に呼吸が酷く不自由になるような空気だった。
「そうか――時が止まっているから空気が循環してねぇのか。酷い空気だな」
それまで山風が穏やかに吹いていたのに、結界の中に入った瞬間にぴたりと風が止み、淀んだ空気がそのまま長い間ここに留まっているのがわかった。
「人間だと多少霊感が働く者でもない限りは何も感じないはずなんじゃが、それなりに五感は鋭いようじゃな。神力がなくてもそれだけのことが感じられるならとりあえず瘴気を肌で感じることができるようになっておるようじゃな」
「……」
「こいつが濃い瘴気じゃよ。アヤカシがもたらし、好む陰鬱な空気――人間がこれを浴びると心が穢れに犯されて魔が差す――お前の心にもあるものじゃ」
「……」
こんなものを自分も出していると言われると、あまりいい気分ではない。初春は改めて自身の心の弱さを噛み締めた。
確かにあの神や妖怪だらけの家に住み出して早1ヶ月が過ぎ、初春の感覚というのは以前よりも特殊なものを感じやすくなっているようである。心臓の近くに音々の刻印が刻まれてから、それが顕著になった。
「あまり長く中にいない方がいいでし。体が次第に眠って仮死状態になってしまうでし」
初春の肩に乗っている土筆が可愛い外見の割に恐ろしいことをさらっと言った。
「まあ、いずれにせよここを解放するつもりなんじゃ。土筆よ、この結界を解いてよいぞ」
「はいでし」
返事をした比翼はひょこりと二本の脚でその毛むくじゃらの身体を立たせて、短い腕を桜の木に向かって伸ばした。
「解錠」
土筆がそう唱えると、何かぴぃん、と空気が弾けるような音がして、その周りの空気をガラスでも割るように弾き飛ばしたように感じた。初春の肌にも今までの淀んだ空気がぴりぴりと発散され空に昇っていくのが分かる。
その衝撃が収まると今まで初春に見えていたセピア色の空間のくすみが消え、通常の景色に戻ったが、その次の瞬間に初春の前方の足元に生えていた背の低い雑草がみるみる枯れ始め、地面の土に乾燥した時に起こるようなヒビが入り始めた。緩やかにだが、草の萎れと土の旱魃は目に見える速さで広がっていく。
「――何だこれ、○シ神様でも通ったのか?」
「仮死状態の解除をして、この地にアヤカシが落としていった瘴気が地を腐らせ始めていたのが進行し始めたんでし」
「さっきの血生臭い臭いはアヤカシ達の血じゃ。どうやら手傷を負った者もいたようじゃな。その血が土に染みこんで、土地を枯らしているのじゃ」
紫龍は結界が解けた桜の木に改めて近付き、その手を桜の幹に当てた。
「ふむ――幸いこいつはまだ生きておる。蕾も残っておるな。じゃがこれ以上瘴気の侵食が進むと治癒術では花を付けることはできんぞ、これは急いだ方がいいかも知れん」
「ていうか――これ、かなりすごい結界だったんじゃないの?」
初春もこの連中といることで自分の理解の追いつかないことに関しては別に驚きはしないが、自分の足許の命が弱まっていく感覚をはっきりと感じた。それを長い年月止め、人を仮死状態にしてしまう結界である。
「そうだな。これだけ中の瘴気を逃がさない結界で、中のものを仮死状態にする結界なんて、風穴を塞ぐくらい強固な結界が必要じゃ」
「……」
初春は自分の肩に乗っている土筆を見た。
「お前――ちんちくりんだけど、実はすごい神様?」
「少なくとも土地神としてはそいつは一流じゃ。この神庭町を見れば分かるじゃろう」
紫龍は山の上から見下ろせる、緑に溢れる神庭町の景色を指差した。
「でも、昔の話でしよ。最近は人間も土地神を祀ることもなくなったので、僕の神力も落ちてきていますから。今はもうあの出力の結界を僕ひとりじゃ……」
「――ふぅん、じゃあ昔はお前、もっとすごい力があったんだな」
「それはこの町に住んでいるほとんどの神達がそうでしよ。最も僕はその当時も戦闘は全くできませんでしたが……」
「いずれにしても結界を解いてしまったからな。今夜アヤカシは必ずここへやってくる。今夜ここで迎え撃つぞ」
「――ああ」
初春は生返事をしながら思った。
同時に、紫龍も初春と同じことを思っていた。
これは、初陣にしては相当まずい相手が来るであろうということを。
初春は自分でもまだ『行雲』を使っての戦闘ができるレベルまで『行雲』を使いこなせていないことを自覚していた。
「――なあ火車、ぶっつけ本番なんだが、この後鍛錬に付き合ってもらってもいいか?」
その夜、日付も変わりそうな時刻に初春、音々、紫龍、土筆、火車の息子は裏山に登って桜の木のある崖が見える物陰に姿を隠して妖怪を待った。
紫龍は結界を張って初春達の気配を消し、隠密で動けるように息を潜めた。
「――なあ、何で音々を連れてきたんだ? まだ音々は少しはましになったとは言え、まだ2時間も外にいれば危険だぞ」
「こいつが近くにいることで、お前達も何か力に目覚めやすくなるかもしれん――それに神使や神獣の初陣を見届けるのは主の務めじゃ」
「……」
「だ、大丈夫ですよハル様。足手まといにはなりませんので」
「……」
「でも――ハル様も火車様も、無理だけはなさらないでください」
音々は自分が消えることよりも、初春達の身を案じた。
「まあいい――ところでここに来る妖怪ってのはどんな奴等なんだ?」
相手の情報が欲しい初春は肩に乗る土筆に訊いた。
「小鬼でし。数は20体くらいいるはずでし」
「小鬼?」
「背は人間の子供並みで知能は低いが、腕力が高く、棍棒や鉤爪を使う妖怪じゃ。頭が大きい以外は人間と見た目は大差ないが、腕力は人間の3倍はある奴じゃ」
「……」
初春はそれを訊いて、感覚的にチンパンジーやオランウータンあたりと戦うようなイメージをした。
「近接戦闘以外できん種族じゃから儂は朱雀を使いたいが、それだとお前達に前衛を任すことになるから危険じゃ。まずは儂が前線に立つので、お前達は自分の身を守ることを考えろ。儂の神獣もお前達の防衛にあたらせる」
布陣も決まり、初春達は再度息を潜めた。
「ハル様。お茶とおにぎりをお持ちしました。よろしければどうぞ」
「……」
初春も緊張はしていなかったが、さすがに喉はカラカラになっていた。
「いただこう。だが腹を膨らますと動きが鈍くなるから、お茶だけでいい」
初春がお茶に手を伸ばすと、紫龍はおにぎりに手を伸ばした。
「……」
そんな初春と音々を、土筆は嬉しそうに見つめた。
人間が神使になるというのは見たことがないが、初春と音々の間に互いを思う主従の絆をそこに見た気がするのだった。
このような人間が増えてくれば、この町も変わるのかも……
そんなことを思った時、土筆は結界の外に気配を感じた。
「来たでし!」
土筆のその声に、初春は桜の木の方を見る。
崖を上って、頭が人間の2倍は大きい不格好な姿をした者達が次々と現れる。耳が尖り、触角を生やして体毛は一本もない。2足歩行ができ短足だが、背格好は一定ではなく腕や脚の筋肉が丸太のように太い。
「土筆、お前は音々の方に」
初春はそう言って土筆を肩から降ろした。土筆は音々の座る膝の上に移る。
「ハル様――無茶はなさらないでください……」
音々は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、恐ろしいというように震えた。
「……」
「いくぞ! 儂が前衛じゃ。後衛にそれぞれ付け。側面をお前達が守れ。回り込む奴等に気を配れ!」
紫龍の声に皆飛び出し、初春は後方左翼、火車の息子が右翼、紫龍の神獣の山犬がその間に入り、劣勢のどちらかに加勢に入る布陣を取った。
「青龍!」
紫龍は獲物の中から槍を選択。4つの愛用の武器の中で弓矢の次に射程の長い武器。射程の差で有利を取る作戦のようだ。
「ガアアアアアアッ!」
紫龍が槍を手に取ったのを見て小鬼達は恐ろしい雄たけびを上げ、目をらんらんと赤く闇夜に光らせる。数に勝る小鬼達は鶴翼の形に素早く陣形を変えて初春達4人を包むように動き出した。
「……」
やべ――足、震えてら……
初春もなかなかに戦慄した。自分の腕に自信がないと思って戦闘に臨むのは初めてだ。あんな太い腕、今の自分の剣の腕だけではまっぷたつにするのは難しいだろう。
鬨の声を上げた小鬼達が一斉に前方に突進し、初春達を押しつぶしにかかる。
鶴翼の形になった小鬼の端が初春に向かって突進し、一体がまず初春の動きを止めんと圧力をかけに来る。
初春は行雲を鞘から抜いて、居合を放った。
どしっ、という音がしたかと思うと、目の前の小鬼は棍棒を持つ右手を切り落とされ、苦しそうに悲鳴を上げた。
それを見て一度左翼を攻めに来た小鬼達の動きが硬直する。
「あれは?」
紫龍や後方の音々達が初春の方に目をやった。
初春の持つ『行雲』は刀身に青の炎を帯びていた。それほど強くはないが小さく夜空を青白く照らし、小鬼の赤い肌を映し出した。
「浄化の炎の力を借りたか……頭が回るな」
初春は自分の剣の未熟さを補うために火車の息子に頼み、『浄化の炎』の種火を貰っていた。初春の筋力ではまだ『行雲』で小鬼の骨を断つような一撃は放てないが、瘴気のあるものを壊す力がある『浄化の炎』の力が加われば、種火程度でも初春の剣の威力は大きく上昇する。
「ハル様……」
「自分の弱さをすぐに認めて対応を変え、出来る限りのことをやる――それが神子柴殿の強さだと紫龍殿が仰っておりましたでし」
初春の目は青白い炎に照らされ、『行雲』の鞘をぎゅっと握りしめた。




