俺は人間じゃなくなったのかな
「おもちゃのチャチャチャ、おもちゃのチャチャチャ」
初春に肩車されたココロはこの前小学校で皆で歌った曲を歌いながら、ご機嫌だった。
商店街の肉屋に行くと、ココロが買い物に来たのを見て肉屋の主人がおまけにコロッケを3つ心にくれた。
――確かにこれは子供のココロにしかできないな。そして東京じゃあまり見られない光景かも。俺もタイムセールのコロッケを狙う生活していたが、おまけされたことはないからな。
――あ、それは俺がココロみたいに可愛くないからか。
もうおつかいにも随分慣れたようだったけれど、初春は心を家まで送っていくことにした。頼みごとをする代わりと言っては何だが、心には代わりにチョコレートを報酬として与えた。
「ハルくん、コロッケひとつあげるね」
「え? いいのか、もらっちゃって」
「うん、ココロとクレハちゃんと、ハルくんでひとつずつ」
「……」
紅葉の名前が出ると、初春の胸に少し動揺が走る。
「――ありがとうな、ココロ」
初春は白い紙袋からコロッケを一つ手づかみで取って、食べながら歩いた。まだ温かいコロッケは美味かった。
秋葉家に行くのは心と初めて会った時以来だった。勿論中に入ったことはないけれど、外観は知っている。秋葉の祖父母の家もかなり大きな地主といった感じで、所有している畑もかなり大きかったが、この家もかなり大きい。
初春は心を肩車から降ろして心の買い物袋を渡し、その中に自分の買い物袋に入っていた板チョコを入れた。
「じゃあ一週間したら、お願いな」
「あれ? 神子柴くん?」
不意に玄関から秋葉紅葉が出てくる。
「あ、クレハちゃん、ハルくんにチョコレートもらったの。お肉屋さんでコロッケももらったんだよ」
心は買い物袋から板チョコとコロッケの入った紙袋を出してみせる。
「ハルくん――ココロ、神子柴くんのことを知ってるの?」
「――え?」
その紅葉の反応を見て、心は首を傾げるが、やがて意味が分からないといったように今度は初春の方を見た。
「ハルくん――クレハちゃんとけんかしたの?」
「え?」
「ちょっとココロ! 何でそんな変なこと言うの?」
紅葉も訳が分からないといった顔だ。
「クレハちゃん、ハルくんのこといつもはなしてた。なんでハルくんのこと、しらないふりするの?」
「え?」
「そういうのよくない! けんかしないで、なかなおりしなさい!」
「……」
そうか――ココロの記憶は消してないわけだから、こういうややこしいことになるわけか。
だが、これでココロを変に篭絡したとか思われて、妙なことになって紅葉にあらぬストーカー疑惑でもかけられたらたまったものではない。実際俺は街中でクラスメイトにすれ違っただけでもストーカーと言われたこともあるしな。紅葉にとって俺は今となっては得体のしれないよそ者で、学校にも行かないろくでなしなのだから。
こういう時は、三十六計逃げるに如かずってね。
「まあ、それはともかく――お前を送る目的は果たしたし、俺はこれで帰るよ」
初春はすぐに踵を返すと、そのまま元来た道を歩いていってしまった。
「あ、ハルくん! ――ハルくんって本当、風みたいだなぁ」
「風……」
「クレハちゃん――何だかハルくんのこと、わすれちゃったみたい……」
「……」
怪訝そうな心の顔を見て、紅葉は頭の中にもやがかかったようなすっきりしない思いに囚われる。
確かに――神子柴くんと会ったのはこの前——バイト先の駐車場で何故か眠っていた時が初めてのはずで。
でも――その前に確かにこんなことがあったような気がする。こんな風に、ココロを送ってくれた人がいて……
それに、確かに私も感じている。
神子柴くん――何故かつい最近会ったばかりのような気がしないのは、何故なの?
「ねんねこ神社、初仕事完了、おめでとう」
比翼の音頭で初春の家で、祝いの宴が始まる。
満月の夜が近くもう酒も残り少ない中で、この家によく来る常連の中級神や妖怪は酒やつまみを集めて持ってきた。
草むしりを終えた庭で火を炊き、串を打った岩魚や山女を炙ったり、その横では春の山で取れた林檎や枇杷などの果物が沢山庭に届けられ、小さな妖怪達が挙って食べていた。
「んーっ!」
音々も買ったばかりのプリンを食べてご満悦だ。結局音々は、『まだ仕事が一つできただけ、しかもほとんど役に立てていないから』と、前と同じ100円の安いプリンを今日のお祝いに選んだ。
初春も祝われることに慣れていないこともあるが、まだまだこれからが重要と思い、祝いの席の隅で何となくゆったりとした時間を過ごしているだけだった。
宴の途中に初春は庭に出て、辺りを見回す。そして自分の部屋のバルコニーから屋根の軒先に懸垂で登った。
そこには紫龍が神獣に寄りかかり、一人静かに月見酒をたしなんでいた。
「何じゃ、お前か」
「あんたにいくつか言いたいことがあるんだ。こういう誰もいないところにいるのは丁度いい」
初春は屋根の棟に紫龍と並んで腰かけた。今夜の神庭町は上弦の月――それなりに空が明るいので天体観測には不向きだが、相変わらず遠くの星がよく見え、海の向こうの灯台の光が小さくチカチカと点滅して見えた。
「あんた、ソウタの身体に術をかけたんだな。あの子が異常な回復をしているって医者が言ってたよ」
「……」
紫龍は徳利をあおった。
「――ありがとう」
「お前に礼を言われる筋合いはない。子供が泣くのは見たくないからな」
「……」
「まあお前らに関わって自体が好転続きになれば、あの母親もお前達を宣伝するじゃろう」
「そうだな――音々はあんたがやったことに気づいてなかった。本当に医者の力だと思っていたようだが」
「あの火車を十日足らずで捕まえた褒美として受け取っておけ。今回の祝儀代わりじゃ」
ぶっきらぼうに答えた紫龍だが、本心では感心していた。
「――もう一つ頼みがある」
「あの小僧の我々の記憶を消せ、だろう?」
「え?」
図星を突かれて初春は驚く。
「あの小僧にはこれから人間としての生き方がある――我々の見せた神や妖怪の見せた世界の思い出にすがるよりも、これから広がる世界の楽しさに夢中になるべきじゃ。特にあれくらいの小さな子供はな」
「あぁ――これから学校で友達なんかができて、年相応の子供のように生きさせてやるのに、今回の思い出ってのは邪魔だと思ってな」
「安心しろ。この前あの小僧に術をかけた時、もうお前以外の記憶に関しては消してある。10日もすればお前のことも、お前と見た星空のことも忘れる――だが、お前達に感謝した母親の記憶は残るから、それで十分じゃろう」
「――すまない、助かる」
「――ふん」
「だが――贅沢を言うつもりはないんだが、そこまでして何でソウタを完治させなかったんだ? どうやらまだ完治というわけにはいってないようだった。それだけあんたに訊きたかったんだ」
「儂は戦神じゃ。人を癒すような術は専門外――酒池の術にしろ恵比寿の真似事に過ぎん。儂は術が苦手なんじゃよ。効果は完全には発現しない。しなかったのではなく、出来ないのじゃ」
紫龍は煙管を取り出した。
「そうなのか――あんたでもできないことってのがあるんだな」
「ああ、神って言っても本来の適性ってものもある。儂は脳のない神じゃからな、色々と不完全な術しか使えんのじゃよ」
「……」
「例えば――人の記憶を消す術、とかもな」
「は?」
初春が首を傾げた時、空に小さく風が吹いて山の向こうから火車の親子が揃ってやってきて、地響きを立てて庭に着地した。紫龍と初春もそれを見て、屋根から庭へと降りた。
「初仕事を終えたようで、お祝いを述べに参った」
火車の母親が言う。
「……」
初春は居間に戻ると、音々がちゃぶ台に乗っている割り箸の社を見つめながら幸せを噛み締めるように嬉しそうに微笑んでいた。
「そうだ音々。ひとつお前に差し入れがあるぜ」
そう言って初春は一度二階の自分の部屋に行き、すぐに戻ってくる。
「ハル様、それは?」
戻ってきた初春が持っていたのは、少し小ぶりの梅酒などを漬ける時に使われる瓶であった。
「その社の賽銭箱は蓋がついているからな。そこで客に入れてもらった賽銭を、この瓶に入れていくってのはどうかなと思ってさ。貯金箱より、中身が見えるこっちの方がたまった時、仕事したって感じがしていいだろ?」
「そ、そうですね! これからどんどんお賽銭が貯まっていくといいなぁ」
「あぁ、俺もこういうのは実際に見える方がやる気が出る――じゃあ、初の賽銭投入は、お前にやってもらおうか」
初春に促され、音々は賽銭箱の蓋を外して中に入っていた百円玉を取り出した。
「――えっ?」
その時、音々の体が真っ白な光に包まれ、閃光が居間中を覆った。
すぐ隣にいた初春は目も眩みそうな光に思わず目を瞑り、障子の外にも漏れるような光は、表にいた妖怪達も一瞬ぎょっとさせるものであった。
そうしてゆっくりとその光が弱まっていくと。
初春の目の前には、長い髪の一部を桜の花束の装飾の施された簪でポニーテールにまとめ、今までの古めかしかった小紋が艶やかな赤い色のものに変わった音々がいた。
「こ、これって……」
「……」
一体何が起きたのか――初春も音々にも分からなかった。
「――瞬間早着替え――じゃないよな」
「何とねぇ……まさか本当にあんたがねぇ……」
縁側に出ていた比翼が首を傾げた。
「おめでとう音々。これは、音々に人間の『徳』が集まった証拠さ」
「え?」
「どうやらこの社に人間が供えた賽銭って実体物が、あんたに『徳』を運ぶ仕組みとして認められていたようだね。元々神の着る装束は、神力によって自ら召還してその都度自分で浄化していくものさ。その神力の元になるものが、人から集めた『徳』になる。『徳』を積んだ神が浄化を行うと、身に纏う装束も段々と力を帯びて来る――その小紋は今までよりも結界が強くなっているだろうから、前より少しは外で動けるはずさ」
「――ってことは、音々に信仰する人が出来たって、認められたってことか……」
「――うーん、どうやらそれだけじゃないみたいだねぇ……」
そう言って、比翼は初春と表にいる火車の息子に視線をやった。
「坊やもちょっと表に出て、上着を脱いでごらん」
初春は首を傾げて上着を脱いでいると、比翼と家の中からの光を見た紫龍が庭に下りて、火車の息子の毛並みを撫でながら、しげしげとその体躯を見つめた。
「こちらにはあるな」
「うん、それは予想の範疇だけど――まさか坊やにもねぇ」
「は?」
自分のことなのですぐには気付かなかったが。
上半身裸になった初春は自分の身体を見てみると。
自分の左胸――肩から心臓のあるあたりにかけて、黒い毛筆で書かれたような模様――崩した漢字のようにも見えるものが浮き出ていた。
「な――なんだこりゃ?」
「それは神使の証だねぇ……『音』の字から取った紋様のようだし」
「は?」
「神に忠誠を誓う使いとなる者――その契約を神と結んだもの。妖怪がそれになると神獣、天界のものがそれになれば神使と呼ばれる」
「どうやらおぬしとその娘の関係は、既に主従として成立しておったと何らかの因果が認めていたらしい。それがその娘は今回の件で多少神力に目覚め、一応『神』と名乗れる程度の器に昇格したことで、同時に神使の契約が成立したんじゃろう」
「――何だそりゃ?」
「きっと――音々が坊やと一緒にいたいって気持ちの現れかもしれないねぇ……」
「ふえっ!」
比翼にからかわれて顔を真っ赤にして初春から目を背けてもじもじする音々に、比翼が背中を叩いた。
「音々、あんた神として認められた日に、神獣と神使まで出来ちまうなんて――色々目標が叶ったんじゃないかい?」
「……」
周りの神や妖怪達も意外そうに初春を見つめていた。
人間が神使になるなんて、古来でも滅多にないこと――そもそも神が望んでも二心なき忠誠を誓わなければなれないのが神使。
これまで幾度となく瘴気を垂れ流した初春を、皆は心のどこかで邪悪な存在だと思っていたが。
――不思議な小僧だ。それなのに何となく憎めない気がする。何となくふらっとこちら彼岸の者と関わってまだひと月余りだというのにもうこんなに我々と打ち解けてしまった。
もうこの小僧も、立派に我々の一員だな……
「――何か入れ墨みたいだな」
「大丈夫、その刻印は人間――現実に生きる者には見えないからね」
「……」
複雑そうな表情を浮かべる初春。
「……」
紫龍は訝し気にそんな初春を見ていた。
確かに今までの初春の行動は、音々の神使としては申し分ない働きといえるだろう。だが明確な契約をしているわけでもないのに神使になるということは極めて稀なこと。
――あいつも音々同様、何かを望んでこうなったということか?
「あの――ハル様、すみません。何だかとんでもないことに勝手に巻き込んでしまったみたいで……」
音々は戸惑う初春に近付き、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいって、それより折角めかしこんで綺麗になってんだから、笑ってろよ」
「え……」
音々の胸が、どきりと高鳴る。
「……」
その様子を見ていた比翼に、初春は顔を向けた。
「でも、この変な模様が浮かぶことで何かあるのか?」
「言っただろう? 神獣は神の得た『徳』――その『徳』で運用される神力に影響されて力を増す。音々がこれから仕事や修行で『徳』を積めば、坊やにも何か影響があるかもしれない。けどそうなった以上神と神使は一心同体だからね――お互いが悪い行動をすれば、もう一方にも瘴気が身を傷つけることにもなる。いずれにしても人間が神使になった記録なんて私も見た事ないから、人間の坊やがどうなるかはわからない」
「ふぅん……でも現状、音々の神力は弱いから何も変わらない、か……」
初春は体を動かしてみるが、別に何も変わったことはない。
「あ、あの――迷惑、でしたか?」
「は?」
「私は――これからもハル様と一緒にいられるのは、とても嬉しいんですが……」
「別にいいって。俺は人間の世界じゃ特に必要とされてない。必要とされてるなら、そこにいるさ。お前が俺を当てにするなら、それなりには働くさ」
「ハル様……」
「ただ――これが浮かぶってことは、俺は人間じゃなくなったのかな、って思ってさ」
「え?」
「俺は別に人間であることに未練はないしな。実際これまでも人間扱いされてなかったし、自分が人間だなんて自覚もあんまりない。これで別の生き物にでもなれるんなら俺は悪魔にでもなりたいって思うくらいだから――だからむしろそうなれたらありがたいって言うか」
「ハル様、それは……」
――それから一週間後、蒼太は病院の退院と共に真新しいランドセルを背負って、初めての学校の登校に臨もうとしていた。
「……」
蒼太も緊張していないと言えば嘘になる。元々蒼太は手術よりも、手術後の自分を受け入れてくれるかわからない人間との生活の方が不安だったのである。初めから出遅れて、後から集団の中に溶け込む自分を、みんなは受け入れてくれるのだろうか……
初日ということで、千穂が手を繋いで蒼太と共に学校へと歩いていく。蒼太の病状はまだ完全とは言えないがもうかなり安定していて、体育の授業などを除けばもう日常生活に支障はなく、足取りもしっかりしていた。
そんな二人の先に、3人の人影があった。
「あ……」
千穂がびっくりした顔をする。
「何でも屋さん――どうして?」
「いえ、今日が初登校ということで、おせっかいを焼かせていただきたいと思いまして」
そう言って、初春は自分の横にいる少女――秋葉心の頭を撫でた。
「この子もソウタくんと同じ学年の、同じ学校の子なんです。これから色々分からないことを教えてあげてくれって言ったら、OKしてくれましてね」
「……」
その心の表情を見て、隣にいた音々は蒼太の心情の変化がアヤカシを通じて伝わってくる。
「『かわいい』って思ったみたいですね」
音々は初春に耳打ちする。
「……」
このマセガキ。
「ココロっていうの、よろしくね」
「そ、ソウタです……」
まるでひとめぼれの相手に接するように照れ出す蒼太である。
「学校はたのしいよ。だからいっしょにいこ!」
「う、うん……」
「――そんなわけで、この子も一緒に学校に行ってあげてください」
「あ、ありがとうございます――ソウちゃん、よかったね、同じ学校の友達ができたね」
「う、うん……」
そんなぎこちない蒼太と、一緒に学校に向かう心の背中を初春はしばらく見送っていた。
「――こういうこと、やってるんだね」
不意に初春の隣にいたもう一つの人影――秋葉紅葉が意外そうに初春を見る。さすがに妹の心に何をさせるか心配だったので、自分も学校の登校前に心についてきたのだった。
「まあ、押し付けてなるのが友達じゃないっていうけどさ、最初の不安を取り去るにしてはいいかなって。ココロは周りや見た目で偏見持つような子じゃないいい子だし、ソウタの不安を取るにはいいと思ったんだ」
「……」
病気で学校に行けなかった子がいるから、ココロに最初に会ってやってくれないかとお願いした初春。
「――優しいんだね」
「は?」
「ちょっと意外だったの。職場じゃあんなにぶっきらぼうなのに……」
「そんなことを言っていていいのか? 秋葉も学校に遅刻するぞ」
「え――わあっ! そうだったぁ! 急がないと! み、神子柴くん、じゃあね」
挨拶もそこそこにその場を走り去っていく紅葉。
「はあ、はあ……」
走りながら、紅葉は考えていた。
まただ――何だか前にもこんなことがあったような感覚……
何か――すごく大切だったことを忘れているような、変な気持ち……
「……」
町中とは言え閑散とした路地に一人立ち尽くして、初春は蒼太、心、紅葉のそれぞれの向かう道を見送る。
「――何やってんだかな、俺は……」
そうして改めて自分のやってきたことの愚かしさを知って、酷く取り残された思いに囚われる。
あいつらは学校に行って、自分を許容する場所があって――
俺はこれから何を頑張ったって、金も学歴も、肉親も、身元の保証できるものすらなくて――人間の世界じゃ何にもなれないし。
記憶を消すことで、蒼太や紅葉の思い出にも、俺は残らない。
そんな俺が蒼太の居場所を作ってやったって……報酬は一万円。
俺にとっては大金だけど――
でも俺は報酬の一万円が欲しかったんじゃない。
俺は……俺が欲しいものは……
「……」
そうして葛藤する初春を、上空で結界を張って気配を消し、紫龍と比翼は見降ろしていた。
「坊や――やっぱり寂しいのかね。人間の世界に、自分の居場所がないこと」
「おそらくあいつは、人間以外の何かになりたがっている――今は何でもいいんだろう。恐らくあいつも何になりたいかなんてわかってない。元々思想のない奴じゃからな。ただ、人間として生きることは、あの小僧にとっては辛いのじゃろう――自分を犬猫のように捨て、蟻を潰すように踏みにじった人間と同じ目線で生きるのは、人間嫌いのあいつにとっては苦行じゃろう。ただ虫けらのように死ぬことに抗って今は生きておるがな」
「……」
「恐らく今は、そこから抜け出すために儂や火車のような強い奴になりたいという思いから、神の力を得る神使としても道を望んでいたのじゃろう。だが――あいつの心の奥底には確実に、自分が神になって人間を裁いてやろうという思いがある。それがあいつが神使に目覚めた理由じゃろう」
「――これで一歩間違えれば、危険、か……あの状態で悪しき心で神使としても力をつけちまったら、瘴気に飲み込まれたら音々もただじゃすまないね」
「……」
「紫龍殿、だからって坊やを斬るのは最後の手段――紫龍殿はそこから足を洗ったはずだよ」
幾分強い口調で比翼は釘を刺した。
「大人は子供を導いてやるのが仕事――折檻はそれが駄目だった時の最後の手段だよ」
「……」
紫龍は初春のまだ幼い顔――どこにも行けない悔しさを堪えるその顔を暫し見つめた。
こちら側――彼岸の世界ではあれだけ『行雲』を操り、火車の息子を追いかける――そのことにあれだけ楽しそうにはしゃいで目を輝かせた子供が、人間界ではまるで生気を失った目をしている。
初春のあの目を見ていると、音々と初めて会った時――そして、自分が賽の河原で切った子供の目を思い出す。
「――斬りはしないさ。まだ育ってない――あの生意気な糞餓鬼に教えなきゃいかんことはまだ山程あるんだ」




