一番綺麗な星は(4)
初春はファミレスのバイトを終えると久々に図書館へ来ていた。本棚の前で本を開いて内容をざっと閲覧する。
『星を見る時は先に暗闇に目を馴らしておき、懐中電灯やLED電球などはセロハンなどで光を覆い、目に優しい光を最低限に用意して待ちましょう。キャンドルの灯を明かりにするのも良いでしょう。お気に入りの香りを炊き、静かな場所で見上げる夜空は、あなたを夢の世界へ誘うことでしょう』
初春が最初に手をしたのは天体観測に関する本である。この町に来て初春も星空を見るようになったが、星を綺麗に観測する方法に関しては完全に素人であった。蒼太に星空を見せる時のために出来る限りの知識を集める。
そしてそれを終えるともうひとつ。
『腎臓障害の症状として見られるのが体のむくみです。不摂生などで腎臓機能が低下している場合は顔や手がむくみ物を持ちづらいなどの症状が出るので、疑問に思った場合はすぐに検査を受けましょう。重度の障害が出ている人はそのむくみが身体を圧迫し、呼吸困難などを引き起こしてしまう場合もあります。肝臓の機能がほとんどなくなると、体内の老廃物をろ過して尿で排出することができなくなり、尿毒症状が起こります。頭痛や嘔吐などの体調不良に悩まされ、解決する方法は人工透析で自身の腎臓を諦めるしかありません』
「……」
初春はある程度知識を持って、蒼太のことを分かろうと思ったが……
実際に調べてみるとその思い自体がおこがましいと思う。
腎臓の疾患はほぼ例外なく一生付き合う病気――恐らく手術を受けても蒼太は長くは生きられない身体なのだろう。
初春は蒼太の依頼を叶えてやろうと思ったのは、単純に蒼太に尊敬の念を抱いたからである。
あんな状況で人生に何も残されてはいなくても、母親に迷惑をかけることを申し訳ないと思っていた。
それは――俺にはとても真似できないだろう。
俺がもし同じ立場なら、この世界のすべてを呪うだろうな。目に映る全ての人間を殺そうと思うだろう。実際俺は先日そう思って、そうしようともした。
それは俺の人生が両親によってとどめを刺されたということもあるかも知れんが。
――出来ることなら、代わってやりたいと思う。
俺にはもう待っている人も、生きる意味もない。保健所で毒殺されるところを逃げ出したってだけの俺の命――本当に生きたいと思っているあいつにやれたらいいのに。
でも、そんなことは出来ないし――せめて何としても火車を捕まえて、最高の星空を見せてやらなきゃな……
初春は医学書を本棚に戻して、今日一番メインの資料を探しに行く。
ネットでもいいのだが、やっぱり写真付きとか図解が載っているものがいい……
初春は目当ての本を探して何冊か借りようと、貸出カウンターに向かった。
「あ……」
読書室のある2階の階段を下りながら、初春とほとんど同じタイミングで階段を下りようとする一人の少女と目が合った。
柳雪菜だった。
「……」
しどろもどろと目線を泳がせる雪菜を見て、初春は思う。
――最後の方、結構柳も俺と話せていたのに。
秋葉の時はほとんど様子が変わらなかったから分からなかったけど――こういう柳の反応を見ていると、本当に今までのことがなかったことになったんだなと思い知る。
――立ち止まってしまったのは――あの時二人の前にいた俺に礼も言わずに去ってしまったことを後ろめたく思っていたから――そんなところか?
「やれやれ――」
「え?」
「思うことがあるならいつでも聞くよ。言葉がまとまるまで待ってやる」
「……」
雪菜はその言葉に、しばし沈黙した。
「あ、あの――すごい怪我――をしているので……」
「ん?」
初春は雪菜の言葉に、自分の身体を見回す。
初春の身体は最近の火車との鬼ごっこと、行雲の制御の失敗により擦り傷だらけであった。
「……」
あぁ、もしかして柳って、さっきから俺のこれを見て心配していたのか?
何でそんなことをするんだろう――柳はもう、俺を覚えていないはずなのに。
初春は雪菜の顔を見ずに、小さく溜め息をついた。
全く――
「気にしなくていい。あの時君と一緒にいたもう一人にぶたれてこうなったわけじゃないから」
それだけ言うと、初春はくるりと踵を返した。
「……」
俺が近づいたのでは記憶を消した意味がないが、柳を無視して気に病ませるのも気が引ける。
――それにもう柳は覚えていないが、ひとつ請けてしまった依頼があるからな……
『私を待っていてくれませんか?』という依頼を。
もうそんなことを覚えていないってのに、律儀に守ろうとしている辺りが、俺が小市民たる所以だな……
「はあ、はあ……」
小紋の裾をまくり、長くて美しい髪をポニーテールにまとめた音々は初春の想像以上に動きが軽く、火車のスピードにもある程度ついていっていた。
元々天界の住人は見た目は人間とさほど変わらないが、体重が小さな子供程度しかないため 動きが軽い。神様見習いの中で最低の力の持ち主である音々でも、足の速さは初春と遜色なく、ジャンプに関しては地面から一番低いところを伸びている樫の枝に飛び乗れるほど高く飛ぶことができていた。
「ハル様! 未の方向です!」
走りながら音々は叫ぶ。
その声と同時に南の方向から初春が広葉樹に隠れた木の上から飛び出して、両手に持つものを二つ、火車の進路方向へ投擲した。
紐で吊られたそれを見て、火車は何とかそれをかわそうとスピードを落とし、間をすり抜けにかかる。二つの物体は不規則にシュート回転しながら内側に食い込むような軌道を取ったがかわされてしまう。
しかしここは樹海の中――避けるために狭い範囲で小さな動きをした火車は、必然的に加速をほとんど止めるしかない。その間に音々はそのわずかな時間で距離を徐々に詰めていた。もう音々と火車の距離は5メートル程度にまで近付いていた。
初春も着地と同時に投擲したものを消し、もう一度ワイヤー射出の腕輪に変えて、音々の向かう方向とは逆方向を狙って右腕のワイヤーを射出。アンカーが突き刺さったと同時に巻取りを開始した。
完全に火車を前後から挟み撃ちの形にした。初春も音々も、やった、と思った。
だが、火車はそのまま垂直に大きく跳び、初春と音々の視界から消えた。
初春は足を前に出してアンカーの刺さった木の幹に膝のクッションを使って着地すると、そのままワイヤーを『行雲』に戻して尻餅をついた。
「はあ、はあ――そういえばあいつ、空飛べるんだっけ――しかしそんなのありかよ」
初春は木の幹に背中を預けて荒れた息を整えながら、火車のいる上空と月を見上げて苦笑いした。
火車はもう初春に追う意志がないことを知ると、開けた場所に着地する。
「ふーむ」
上空から初春達を窺っていた紫龍も山犬と共に開けた場所に着地し、初春の元に歩み寄った。
「まあ確かにお前は空を飛べんからな。空に逃げるのは反則と言えなくもないが」
「――仕方ない。俺も音々と二人がかりなわけだしな。それに実戦じゃ反則なんてないわけだし」
元々自分の境遇に抗議することを許されていなかった初春は、理不尽なことも受け入れる努力をする癖がついていた。人間との喧嘩でも、不意打ちとかどんな卑怯な手を使ってでも相手を戦闘不能にすることは、今まで自分もやってきたことである。
「だが永久に空を飛んではお前達に救いがない。火車、これからは空を飛んでの離脱は1回3秒までじゃ。それ以上空に逃げたらお前の負けじゃ」
「は……」
火車の息子は紫龍の言いつけに頭を下げながら、戦慄していた。
「しかし、音々が木に登った俺の目になってくれるのは助かる。意外とお前、足も速いし――隠れるアドバンテージはないが、方向が分かるだけで手が増える」
「はぁ、はぁ――で、でも、お役に立ててよかった……」
今まで全力で火車を追っていた音々は、息も絶え絶えだったが笑顔を見せた。もう小一時間ほど走りっぱなしで、音々の身体は少し透明になりかけていた。
「だが――これ以上はお前が危険だ。今日はここまでだな……」
「え? まだ大丈夫ですよ、もう少し……」
「駄目だよ、あんたはまだこれからやらなきゃいけないことがあるんだ。こんなところで消えるわけにはいかないよ」
比翼がぴしゃりと音々を諌めた。
「うぅ、残念だなぁ……私がもっと外で動ければ、もっとやれたのに……」
残念そうに言う音々の顔が、いつも鬼ごっこの続きをねだる初春の悔しそうな顔に重なり、火車の息子は小さく笑った。
「神子柴殿、さっき私に向かって何かを投げましたね。あれは何だったのですか?」
火車の息子は首を初春の方へ向けた。
「あぁ、これだよ」
初春はそう言って、太刀になった『行雲』を光の粒子に変えて両手に2つの円盤型の物体を作り出した。
「それ――確か南蛮の玩具ですよね」
「音々、これはヨーヨーって言うんだよ。俺も使ったのは初めてだけど」
初春は右手のヨーヨーを離して落下させたが、紐が初春の身長よりも長いため、ヨーヨーは戻らず地面に落下してしまう。
「足を止めるためにどうしても遠距離から牽制できるものが欲しいが『行雲』は飛び道具にはならないからな――ワイヤーみたいに戻せるなら飛び道具の代わりになるかなって。ブーメランなんか俺が投げて戻ってくるとは思えないし、一番いいと思ったのがこれだった」
玩具も買ってもらえなかった初春なので、図書館の図鑑で仕組みを見てのぶっつけでの変化だったが、糸が巻き戻るベアリングの仕組みが不十分だったようで紐の戻りが不完全だった。初春もそれは承知で、戻ってこなければ消してまた出せばいいと考えていたのだが。
「それならワイヤーの方が電動力を使えるからよかったろうに」
「そうもいかないよ。火車を捕まえることがゴールじゃない。火車を捕まえて、ソウタに星空を近くで見せてやるのが目的だ。木の幹に食い込むようなアンカーがもし当たって火車に怪我させたら、計画が台無しだからな」
「ほう、以前の怒りに任せた愚行と同じ轍は踏んでおらんようじゃな」
紫龍は皮肉混じりに言った。
「だが――傷つけないっていうことを徹底するってのは難しいんだな。俺は今まで相手を叩きのめせば自分は負けることはないと考えていたが――逆に叩きのめさないってことを常にできて勝つことの方がずっと難しい。そういうのも『強さ』と言うのか――色々と発見も多いから退屈しない」
「……」
火車の息子も、何が何でも自分を捕まえようとする割に自分の身体を労わってくれていた初春の心遣いが嬉しかった。
まだ3日ほどしか初春に付き合っていないが、火車の息子はもう初春に何度か肝を冷やされている。
だがそれにあまり焦りを覚えていないのは――
初春が自分を追ってくる様が、あまりに楽しそうだからだろう。
そして今日から初春と共に自分を追う音々も、ずっと楽しそうな表情をしているのが印象的だった。
今まで玩具の一つも買ってもらえず、何の取り得もないのに直哉と結衣とずっと一緒にいることから、周りからはかくれんぼや鬼ごっこにも入れてもらえなかった初春。
下界に降りてからあの狭い家だけが世界の全てで、自分の才能のなさに絶望し生きる意味も生き甲斐も見失っていた音々。
そんな二人にとって、目的があるものに没頭できること――そして何より、仲間と協力して何かをやり遂げるということは楽しかった。
初春は行雲をアクセサリーの姿に変えて、今日も泥だらけになった服を払った。
「また明日の夜の付き合ってくれないか」
「いいですとも」
そう返事した火車の息子であったが、心の中ではもうこの二人に捕まってもよいとさえ思えていた。
この二人――仕事とは言っているが互いの境遇から、夢中になると時を忘れるほどそれに没頭している。
現にそれにつられて、こうして野山を駆け巡ることを楽しいと思っている自分がいるのだから。
――だが、音々を加えたことで初春の行雲を使っての牽制のバリエーションが増えたのはいいが、どうしても最後の一手が詰めきれず、最後の2メートルでどう火車の息子を捉えるかのところを解決できずに、日々が過ぎていった。
初春も段々と行雲の使い方に慣れていき、今までのように転んだりすることは減ってきてはいたが、ワイヤーで近付いてからワイヤーを消し、なおかつ体の体勢を整えながら行雲を以前火車を捕まえた時のように触手に変化させ、一瞬で鉄の硬度に変えるような離れ業を一瞬ですることは出来ずにいた。音々もよく走ってはいたが、単独では火車の脚力の3分の1にも満たない。
気が付くと、蒼太の手術の日まで、あと3日となってしまっていた。
今日も捕まえきれずに、失意のまま初春と音々は山を下山していた。
「……」
初春はアクセサリーに変えずに太刀の姿のまま行雲をベルトに挿し、刀身を鞘から抜いて白刃をじっと見ながら歩いた。
確信はないが、この刀には意思がある。そんな気がする。
瘴気にやられた火車を捕まえるために触手に変化する前――行雲は何にも変化をしなかったが、強く光を帯びた。
あれは恐らく無傷で火車を止める自分の意思にこの剣が呼応して、自らの意思で力を貸してくれたように思える。あの時の吸い付くような柄の感触――持っていて、自分とこの剣が上手く意思疎通できているか否か――そんなことを感じる場面が、一瞬だが初春は何度か感じていた。
「ハル様、すみません。結局私――まだお役に立てなくて」
後ろを歩く音々が思いつめたような初春に謝った。今日も音々の体は透明になりかけていた。
「いや、いいんだ。お前がいなきゃ火車にあそこまで近づくことなんて到底できなかった」
初春は行雲を鞘に納めた。
「それよりも――さすがに近づいて捕まえるのは無理だな……行雲をあの時のようなクオリティで使いこなす時間がない――」
はじめはヨーヨーを無数に投げて遠距離から火車を絡め取り、絡め取ったらそのまま紐を鉄線に変える手も考えたが、火車の脚力では細い鉄線などで捉えても初春の体ごと引きずられるのが落ちだ。生半可な拘束では意味がない。一瞬で拘束しなければいけない。それも、上空に逃げることもできない方法ならベスト……
「――そうか、この手があったか!」
初春は答えに辿り着く。
「ハル様?」
「音々、お前の力を借りるぞ。あとは帰って作戦を練って――調べ物だ」
次の日――夜空には細い三日月が浮かび、新月の日が近いことを告げていた。
周りが暗い分、紫龍が篝火が多めに用意してくれ、山は人が山火事を疑わない程度に明るい。
「今日捕まえれば、新月――天体観測に一番いい日に間に合うな」
初春は空を見上げ、溜め息をついた。
「……」
音々はその横で、逸る気持ちを抑えようと必死になっていた。自分が表情に出やすい性格であることを自覚している故である。
昨日ハル様が立てた作戦は一回勝負――火車様が一度それを見切ったら、もう二度と使えない策。
火車様の機動力と、上空に逃げる手も封じることは出来るけれど――こちらも準備にかなり時間がかかる。
5分――その間にその準備を如何に整えられるか。
あと2日あるけれど、実質これが最後の勝機。
今日は新月が近いということは、酒を貰って半月程度が経ったという目安。観客も酒を持って見物に来ている者も多い。
この観客にも、怪しまれないようにしなければならない――初春も音々もあくまでいつも通りを装った。
火車の息子が山の向こうから空を駆けてこちらにやってくる。山道に音もなく着地すると、初春の方に駆け寄った。
「早速始めますか?」
「ああ、音々には時間がない。少しでも早く頼む」
少しでも長く粘るため、という意味に捉えさせることと、火車の息子に怪しむ隙を与えない二重の意味で初春は言った。もう作戦は始まっている。
「よし、じゃあいつも通り、十数えるうちに距離を取れ。それを終えたら、お前達は追い始める。いいな」
審判の紫龍が上空から言った。
「ああ」
「では、早速」
火車の息子が踵を返した瞬間に、紫龍の音頭で周りの妖怪や神々も秒読みを始めた。
「九――十!」
秒読みが終わった瞬間、初春はネックレスにしていた行雲を腕輪に変化させる。右腕一本のみの腕輪で一直線に火車の息子の一番近い木に向けて射出した。
音々はそれと同時に木の上に登り、広葉樹の陰に隠れてしまう。
「ん……」
これまでは行雲を使える初春が樹上から牽制、音々が目に映る場所でのおとり役だったが、今日は役割を変えてきたことに、火車の息子はまず訝しむ。
しかし――その狙いが実に理に適っていることを、火車の息子はすぐに察知した。
音々はもともと高天原の住人――追放されたとは言え元は神である上に、外界に触れていない故に瘴気がない。瘴気で相手の動きを探知できる火車の息子だが、音々の行動だけは肉眼で見なければ探知できない。
しかも音々には周りのアヤカシを伝って声を聞く能力がある。この山道にある樹木や岩のような、数十年ここに佇むようなものにはアヤカシが宿っており、そのアヤカシが自分の位置を見えなくても音々に教えてしまう。
なるほど――音々殿が隠れる役になると一方的に有利になるというわけか――おそらく音々殿が上空から私を捕らえられるように何かを仕込み持っているはず。
いつどこから来るかわからないから、慎重に上に注意を払わなくてはな……
「……」
―—なんてことを今火車の息子は考え始めているだろう。
いいぞ――そのまましばらく上を警戒していろ。




