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何故人に優しくすることができないんだ

「ひ……」

「あんた達、俺のことを負け犬とでも思っているんだろうが――あんた、俺みたいな社会の底辺にこんなところで殺されたら死んでも死にきれないだろ。そして、俺みたいな負け犬に手荒な真似をして法に処されたら、それでも人生は台無し――だけど俺はいけ好かねぇ野郎を殺したってだけで元々終わっている人生が意味あるものに変わる……法の裁きだってもう終わった人生だ。関係ないさ。それで死刑にでもしてもらえるならこんな意味のない人生がショートカットされて、もう大勝利さ」

「……」

「だからね――俺とあんた達が喧嘩したら俺の方が圧倒的に有利――いつでも、どこでもあんた達に勝てるんだぜ……俺達、負け犬はさ」

「や、やめろ……お、俺が悪かった」

 包丁をあてがわれた男が震えた声で少年に哀願した。

「――あんた俺をいたぶる気だったんだろ? 俺がやめろって言ったら、それやめてくれたの?」

「う……」

「さっき障害持っている人が謝っているの聞いても許してなかったけど?

 抑え込まれた男を見る他の2人も、逃げたら後ろから刺されることに怯えて、金縛りにあっていた。

「……」

 しかし少年は殺気を保ったまま男の手にあてがっていた包丁を下して調理台のまな板の上に置き、拘束も解いた。

「――しかし、俺もまだこの街に引っ越して間もない。今から殺すターゲットを絞っても、あんたら以上に殺したくなるような奴が出るかもしれないし――折角の人生、殺す相手はもう少し吟味したいんでね」

「はあ……はあ……」

 抑え込まれていた男は拘束を解かれると、まるでヤモリのように床を這って他の2人にしがみつくように少年の前から離れた。

 少年はそんな3人を冷酷な目で見降ろしながらもう一度手元の包丁を手に取り、自分の左手の人差し指に刃を当てた。

「だが、いつでも殺せるようにはしておきますよ。この包丁、いつでも使えるように毎日ピカピカに研いで帰ってるんでね……」

 少年は包丁を少し後ろに引いて3人に指を見せた。ちょっと引いただけなのに少年の指には切り傷ができて血が流れ始めている。見事な切れ味だった。

 包丁を流しに放り込んで、少年は指の血をぺろりと舐めた。

「仲良くしましょうよ、先輩。社会の底辺かも知れませんけど仕事は真面目にやりますんで、ね」

 少年はにこやかに言うと、しりもちをついている障害者クルーに手を差し伸べた。

「上がり時間同じだし、もう上がりましょう」

 そう言って障害者クルーを起こすと、少年はコック帽を取り厨房を出て行った。

「……」

 厨房を出た少年は、自分の両手に残る包丁の感覚を確かめていた。

 ――あれで手を打ってもよかったか……

 法廷で訴えれば、少なくともこの障害者へのいじめは確実になくなるだろうし、それはそれで意味があることだったかもしれん……

 そんなことを考えていた。

 無益な人生がそれで終わるなら、それでもよかったかな……

 そう思いながらコック服を脱いで、誰もいない控室に入った。

 椅子に腰かけ、少年は俯いて目を閉じた。

「……」

 その時、控室の扉の開く音がした。

「あ、あの」

 少年はうつろな顔を上げると、そこには休憩中に会ったホールの女の子がいた。

「……」

 どうやらホールからも厨房の中が見えていたらしい。さっきの様子を見ていたのか。

 少年は立ち上がり、何も言わずに控室を出て行った。レストランの駐輪場に止めてあった自分の自転車に乗り、家路へと向かう。

 自転車を走らせながら少年は、実に不快な思いを抱えていた。

 あんなのよりも下にいるような俺の人生、何の価値があるんだよ……



 家に戻ると、少年は居間に向かった。

 居間には既に酒の入った男と少女がちゃぶ台に座っていた。

「……」

 少年は二人をしばらく見つめていたが。

 やがてついと目を切り、二階の部屋に戻ろうとした。

「荒んでおるのぉ、小僧の身空で」

 男はキセルを燻らせながら、そんな少年の背に声をかける。

「いつでも殺せるように、包丁を研いでいた――か」

「――見ていたのか」

 少年は振り返ってそう口にした。少年がこの男と会話をするのは、初めてこの家に来た時以来であった。

「よし、じゃあお前のことを、儂が一肌脱いで助けてやろうか」

 男は笑って、キセルを燻らせながら着ている袈裟の袖を捲り上げた。

「お、お師匠様……」

 不安そうに体を緊張させる少女。

「……」

「儂は神じゃからな。その気になればお前を助けるくらいのことは、ちょちょいっとやれるんじゃ。ありがたく思うがよいぞ。儂がこんな気まぐれを起こすことは珍しい」

「……!」

「ほれ、助けてほしいならお願いしてみろ。お前はどんな人生を送りたいのじゃ。言ってくれれば……」

 そう男が言いかけた次の瞬間、男の体はもんどりうって倒れていた。

 一足飛びに飛んだ少年の蹴りが男の顔面を蹴り飛ばし、そのまま男の体を後ろへと吹っ飛ばしたのである。

 男の体は襖に叩きつけられ、襖が枠から外れ、縁側に向かって倒れ庭に落ちた。

「……」

 男は上半身だけを起こしたが――顔面の酷い痛みよりも。

 少年の蹴りがいつ飛んできたのかが全く分からなかった。痛みという結果で蹴られたという原因をやっと認識した、と言う感じ。

 そんな蹴りが少年から飛んできたことに驚いていた。

「お師匠様!」

 少女が男に駆け寄る。

 その声がより痛みを鮮明に感じさせ、それでようやく怒りを連れてきたという感じだった。

「何をする!」

「その薄汚ぇ口を今すぐ止めろ」

 少年は切れ長の目を刃のように鋭くして、冷たく言った。

「……」

 その時、少女には見えた。

 少年の、体中を震わせるほどの怒りを。

「――あんた、自分を神とか言ってたな」

 少年は激しい舌鋒で男を見下ろした。

「もしあんたが人の人生や運命をそんなに簡単に左右できるほどの力があるのなら――それだけの力があって、何故それを多くの人に分け与えることができない? 何故それだけの力があって、人に優しくすることができないんだ!」

「……」

 少年のその問いは、男の胸にずしりと堪えた。

 自分が蹴りを食らったことも、こんなことを言われることも、男は全く想定していなかったのである。

 話に耳を傾け飛びついてくるか、虚勢を張るか――その二択。

 少年の行動は後者に近いものではあったが――それが強がりとか虚栄と言った、腹に何かを隠し持ったものではない、馬鹿正直な怒りを向けられたことが意外であった。

「おっさん、あんたの袈裟を見る限りあんたは外国の神ではなさそうだが――キリストってのは、羊と山羊を分けて、羊に祝福を、山羊に地獄の業火を与えたらしいな。そして神を信じた人間はノアの方舟に乗ることを許され、乗れなかった人間は地上で洪水に洗い流された……」

「……」

聖書(バイブル)なんて詳しく読んだことはないがよ――小さ過ぎるぜ。世界を救えるような力がある奴が救う奴と救わない奴を分けるなんてよ。救う奴と救わない奴――つまり、傷つけていい人間と傷つけてはいけない人間を選ぶこと――それは人間が人間を傷つける全ての事象の根幹にある考え方だ。戦争もいじめも全てそうさ」

「……」

「今あんたが俺に言った事実がそれだぜ! 恩着せがましいように言ってるがな、傷つけてもいい奴と、傷つけなくていい奴を選ぶことを、そんな簡単にやる野郎は吐き気がするぜ。人間を救う? 世界を救う? そんなの誰も反対しねぇよ。だがな、それを気まぐれなんかでやられてたまるか。お前にとっては気まぐれでも、無力な人間にとってはそれが全部なんだ……」

「……」

 男はこれでも数百年の時を生きている。

 その中でこの少年の述べた理屈は、男にとって初めて触れるものであった。

 そして――

 数百年の時を生きた知識の中でも、その理屈にすぐに反論を用意できないことをすぐに悟り。

 そして――今まで寡黙で淡々とした内向的な大人しい少年だと思っていた、目の前の人間の本質を垣間見て驚いていた。

 沈黙。

「ふぅぅ……」

 少年は汗ばんだ額に手をやって、震えた息を漏らした。

「――何でこんなに胸糞の悪いことばかりありやがる……」

 少年はこの場にいるのが耐えられなくなったように、踵を返して脱兎の如く玄関口に向かって走り去っていった。

 ぴしゃり、と玄関の引き戸が閉まる音。

「……」

 居間に残された男と少女はしばし沈黙する。

「――ふぅ」

 やがて息をついて男は自分の口元を拭った。

「――お師匠様」

 落ち着きを取り戻そうとする男に、今までその様子を黙って見ていた少女が口を開いた。

「あの方は――悪い人間ではないんです。だからもう……」

「……」

 男は少女の前に立つ。

「お前、どうやらあの小僧のことを知っておるようじゃな――ついて来い」

 そう言って男は少女を連れて、階段を上った。

 少年のきちんと整頓された部屋を訪れる。

 少女はその部屋の隅に立てかけてあった使い古しの竹刀を袋から取り出した。男はそんな少女の額を覆うように手を当てた。

「お前はそこで『声』を聞け。儂がそれを聞いたお前の思念と合わせて、この部屋に映像として具現化してやる」

「――はい」

 少女は目を閉じて、耳を傾け始めた。

 小さな部屋の情景は薄れ、二人の周りの映像が変化していく……


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