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一番綺麗な星は(2)

 初春と女性は一度病院の外に出て、病院の庭先にひとつだけある白いベンチに座った。

 依頼主の名前は和泉千穂。失礼だと思って年齢は聞かなかったが、おそらく30歳前後だろう。一人息子である蒼太は今年小学1年生に上がるが、まだ一度も学校に登校できていないらしい。

 小学1年生ということは、ココロと同い年か――もしかしたら同級生だったのかもしれないな。

「息子は先天的に腎臓が悪くて糖尿や高血圧に悩まされていまして。すぐに喘息を起こしてしまい走ることもろくに出来ません――その症例だと30歳まで生きられるかと言われていて……」

「……」

 千穂の話を聞いて、直情的な音々は早くももらい泣きしそうになっている。

「依頼だと息子さんは流星雨を見たがっていると仰っておりましたが」

「はい――息子は外に出て遊んだことがないせいか、本が好きで――先生が言うには特に星に関する本が好きで夜中によく空を見上げているそうです」

「確かに――神庭町の星空はすごく綺麗ですよね」

「でもあの子は病室の窓の星空しか知らないので――たまに退院できると大きな街にあるプラネタリウムによく行きたがるんです。体調がよかったら天文台に行ってみたいと」

「……」

 初春は気が重かった。

「手術日は10日後とうかがいました。ですが残念ながら私達も流星群の来る予定などを調べましたが、夏までに流星群は日本にはやってこないので、その願いをかなえるのは難しいと思うのですが……」

「そうですよね。勿論私も依頼をする前に調べたんです。10日以内にこの街に流星雨が降らないことくらい」

「……」

「でも、流星雨が見せられなくてもいいんです。私は――あの子に手術を受けてもらえれば、それで……」

 そう言いかけると、千穂は声を殺して泣き崩れた。

「……」

 初春はここに来るまで、どうせ自分達が何かできるなんてことは依頼主に期待されていないのだと思ってここに来ていたが。

 この母親は、もう藁にもすがるような思いで『ねんねこ神社』に依頼を出したのだと知った。

 そして――自分も15年しかまだ生きていないが、その半分しか生きていない子供が今、長くは生きられないという現実と戦っているという事実が、酷く重くのしかかった。

「何故息子さんは手術を受けたがらないのですか?」

「それが――答えてくれないのです。病院やカウンセリングの先生も、あの子と何度も話をしたのですが、そうすると酷く不機嫌になって……」

「難しい手術なんですか?」

「確かに事故のリスクは0ではないとお医者様も言っていて、手術が成功しても完治するかは五分五分の手術とおっしゃっていました。でも――それでも私は蒼太に手術を受けて、本当の親子のように過ごしたいんです……」

「……」

 初春は頷く。

「折角なので、息子さんと少しお話させていただいてもいいですか?」

「は、はい、あの子も話す友達もいませんので、是非……」

 そう言って二人はベンチから立ち上がり、再び病院に入る。初春は受付で面会希望の用紙に名前を書いて、千穂の後をついていく。

 病院の2階に上がると一番隅の病室に通される。

 そこには4台のベッドがあり、そのひとつに一人の少年が上半身だけを起こして本を読んでいた。残りのみっつのベッドは全てシーツにシワのひとつもないから、おそらくこの病室には彼だけが入院しているのだろう。

 彼のベッドの横には本棚があり、びっしりと本がすし詰めになっており、そのどれもが何度も読み返したのがよく分かるほど表面に折れが目立っていた。ベッドの上でも食事を摂れるように設置されたテーブルには一通の封筒が置いてあり、それが真っ二つに引き裂かれていた。その横には手を少しだけ付けた病院食が乗ったお盆が置いてある。ほとんど具の入ってない淡い色合いのスープに煮魚とキノコの炒め物――腎臓を患い蛋白質摂取に制限をかけられた人の食事であると、初春はすぐに察した。

 ベッドに座っている少年は酷く顔や体がむくんでおり、太っては見えたがその目はらんらんと怒りに満ちたような顔をしていた。

「ソウちゃん、今日は少しご飯を食べたのね」

 千穂が遠慮がちにそう言い、子供に駆け寄った。初春は盆を見てこれでむしろ食べた方と言えるのか? と思ったけれど。

「あらら……この前の先生が折角手紙を書いてくれたのに……」

 千穂はテーブルに乗った引き裂かれた手紙を手に取り、悲しそうな顔をした。

「――誰だよそいつ」

 子供はぎらついた目を初春に向けて、千穂にそう吐き捨てた。

「このおにいちゃんが、ソウちゃんのお話を聞いてみたいんだって」

「そんなのいいよ!」

 子供は激した声を上げる。

「もう誰にも会いたくない!」

 そう言って子供は布団にもぐりこんでしまった。

「……」

 千穂は途方に暮れたように、初春に申し訳なさそうな顔を向ける。

「お母さん、その手紙をいただいてもいいですか?」

 初春は手を伸ばすと、千穂は首をかしげながら初春に二つになった封筒を渡した。

 初春はそれを受け取ると、中で二つになった便箋をそれぞれ取り出して切れ目を繋ぎ合わせ、それから便箋に書かれた文字を読んだ。


『そうたくん。からだのちょうしはいかがですか?

 しゅじゅつをすればそうたくんはがっこうにいって、たくさんのおともだちができます。

 がっこうにいるおともだちも、そうたくんのことをきっとまっているはずです。

 これからそうたくんにはたくさんのたのしいことがまっています

 まずはしゅじゅつをうけるゆうきをもってみませんか?

 まずはそうたくんがこれからたのしくすごすことをかんがえてみましょう』


 便箋の端に子供向けヒーローの絵なんか添えられて、非常に可愛らしい手紙だったが。

「――ふぅん、世の中にはこういう反吐が出るようなことを平気で書く奴がいるんだな」

 初春は手紙を本棚の脇のゴミ箱に投げ捨てた。

「こういう反吐が出るような偽善吐いて、いいことしたって自己満足する上に金まで取ってる奴がいるのか。こういう類の悪党ってのは、人間にしかいないな。楽しく過ごす――ってのをしたくてもできないような笑えない状況の奴もいるってのに」

 別に子供の気を引こうと思っていったわけではない。初春自身がそう思ったのだ。

 そう言いながら初春はベッドの横にある本棚に目をやり、中を覗き込んだ。

「銀河鉄道の夜に、注文の多い料理店――十五少年漂流記に、海底二万里、八十日間世界一周――こんな本が読める子供にひらがなだらけの頭悪い餓鬼を扱うような手紙よこしやがるとは……この偽善者野郎はこの子の事を何も見てなかったんだな」

 初春はそれを見ながら、自分が幼少期に周りの大人達にやられたことを思い出していた。

 直哉と結衣に比べて成績も運動神経も悪かった自分はいつの間にか馬鹿認定を受けていて、大人達も初春は馬鹿だから分からないだろうと遠慮のない暴言を容赦なく浴びせられたものだ。公正な立場の教師ですら、初春を『でき損ない』と称した。

 初春がそう言うと、布団をかぶった子供はおずおずと布団をめくって初春の顔を覗き込む。

「俺もこのあたりの本は小学校の時によく読んだぜ。俺は馬鹿だったから君よりもうちょい高学年になってからだけどな」

 初春は昔から親の愛情がなく、満足な小遣いも玩具も与えられなかったので、昔から暇潰しといえばテレビを見るか図書館の本を借りるか古本屋の漫画の立ち読みだった。そんな幼少期ゆえにある程度の文学の知識があった。

「……」

 それを聞いて子供は初春の顔をしげしげとうかがっていたが、やがて布団から這い出て最初の体勢に戻った。どうやら少し初春に興味を持ったらしい。

「でもとりあえず安心したぜ。病気を治して元気に外に行きたいって気力がないわけじゃないんだろ」

「え?」

「宮沢賢治とジュール=ヴェルヌ――こんな本を好んで読むって事は、外に出て冒険とか、色んなものを見てみたいって気持ちがあるってことだろ。諦めてたらこんな本、まず読まない」

「――うん」

 恥ずかしそうに頷く少年。

「……」

 後ろにいた千穂が、酷く驚いたような顔をしていた。

 今までカウンセリングや学校の教師が来ても取り付く島もなく反発し続け、激するとすぐに体調を崩して苦しんだ蒼太が初めて来客に興味を持ったようだった。

 初春はベッドの傍らにあるパイプ椅子に座った。

「俺はカウンセラーやガッコの先生なんて大層なもんじゃない。ただの何でも屋だ。お母さんの依頼で、そのクソみたいな手紙で言う、君に手術を受ける勇気とやらをやる手助けをしようと思ってきたんだ。それに成功しないとお金がもらえない」

「――いいの? そんなことママの前で……」

「何でも屋って怪しいだろ? だから名が売れるまではお金よりまずとりあえず安心、信頼されるのが先っていう社長の方針なんだ」

 これで俺のすぐ後ろにその社長がいるって言ったら、ホラーだな。だが音々ってどうも幽霊と言っても怖がってもらえなさそうだが。

「それに――必死で戦ってる君に綺麗事なんて堪えるだろ。健康な俺が君の気持ちが分かるなんて、言えば君は虫唾が走るだろ」

「……」

 目の前の子供は思った。

 この人――病院の先生やボランティアなんて人とは全然違うんだ。そういう連中の、僕のことを見て、分かってくれているようで、実は話なんて全然聞いていないような奴らとは全然違う。

 この人は『分かっている人』なんだと思った。

「君は流星雨を見たがっているって聞いた。それが出来ないなら手術は受けないと――はっきり言って手術前までに日本に流星群の予定がない以上、流星雨を君に見せるのは難しいんで、何か他にできそうなことはないかと思って君に話を聞きたいんだ」

「……」

 子供は逡巡していたが、初春がはじめから「流星雨は無理」と言ったあたりで、初春に興味を持ち出した。

「名前は神子柴初春だ。君の名前は」

「――蒼太」

「そうか、ソウタか」

 初春は頷いた。

「だけどソウタはどうして手術を受けないんだ?」

 いきなり初春は訊く。

「さっきの手紙、俺も虫唾が走ったがあの手紙に書いてあることでひとつだけ正しいことがあるぜ。手術を受ければそれこそジュール=ヴェルヌの小説みたいにどこかに旅に出ることもできるかもしれない。受けなきゃ何も変わらない」

「……」

 沈黙。

「――ハル様」

 初春の後ろで千穂と待機していた音々が本棚の前に立ち、ひとつの本を指し示した。

「それと――お母様に外していただいてください」

 音々がそう指示を出した。

「――すみません。和泉様は少しはずしていただけないでしょうか。蒼太くんもお母さんが聞いていたら話しにくいこともあるでしょうし」

 初春はそう言いくるめて、千穂を病室の外に出してしまった。

 千穂がいなくなってから、初春は音々の指差した本を手に取る。

 それは『よだかの星』であった。

「もしかして――理由はこれか?」

 初春は装丁を蒼太に見せた。

「……」

 蒼太は初春から目を逸らしてしまう。

 どうやら当たりのようだ。おそらく音々はこの本から蒼太の苦しみや悲しみの声を伝え聞いたのだろう。

 初春はページを開くと、物に宿る声を聞くまでもなくその本は涙を落とした跡やページの折れ曲がりが顕著で、何度も読み返した本であることが分かった。

「お兄さん――僕は醜いでしょう?」

 蒼太が言った。

「腎臓が悪いと体がむくむらしいんだ――僕は幼稚園に行った時に、周りから『不細工』だって言われたんだ。それが嫌で、病院の先生や看護師さんに怒られてもご飯を抜いて痩せようとした――」

「……」

 そうか――この目の前のお盆も、ほとんどが低カロリーで占められているが、それでもこの子は。

「でも、いつもママが僕を見て悲しそうな顔をするんだ。こんな――ぶくぶくになって醜い僕を見て」

「……」

「僕も――よだかみたいに空を飛んで星になれたらいいのに――自分が死ぬとしたら、星になれるって言うし……だから死ぬ前にどうしても、息を飲むような綺麗な星が見たかったんだ……自分がよだかみたいに星になれそうな気がしたら、手術をするのも怖くないと思って……だから、手術が失敗したり、もう自分の病気が二度と治らなくなって動けなくなる前にどうしてもそんな、二度と忘れないような綺麗な星を見たかったんだ」

「――ハル様」

 音々が質問をしてくれと初春に頼んだ。

「――怖いってのは、手術よりも、手術を終えた後の生活のことじゃないか?」

 初春は音々の言うとおりの質問をした。蒼太はぎょっと顔を上げる。

「今まで同じ年の友達も知らない、走ったりしたこともない――何より今まで自分を馬鹿にした奴のいる世界に入っていけるか自信がない――お母さんをまた悲しませるのが怖いんだな」

 音々は病室にある蒼太の私物から、蒼太の抱える苦しみを聞き取り始めていた。

 そして長い間自分が出来損ないであるが故に外界から隔離された音々には、蒼太の抱える苦悩が自分のことのように思えまた涙した。

 全く涙腺の枯れない奴め……と初春は思う。

「よだかの星もそんな話だよな。醜いと馬鹿にされる自分が今日も虫を食べて、殺して生きていることに耐え切れなくて、住んでいる場所を逃げるんだ」

「……」

 沈黙。

「こんな――生まれてからずっと入院してばかりの僕は、生きてていいのかな……生きてるって言えるのかな……」

「さあどうかな。確かにソウタに生きる意味なんてないかも知れんな」

 初春はそう言った。

「は、ハル様!」

 音々はあまりの言葉にぎょっとした。

「世の中に無意味な人間なんて一人もいない――人は誰しもこの世界に使命があって、必要とされるから生まれてくる――そんなことを言う奴がいるがね。そこまで言うなら相手の生きる意味とは何か答えてやるべき――答えられるべきなんだ。その言葉は自分の言葉に責任が取れない奴は言っちゃいけない――それは私が決めることではない、あなたが自分で見つけることなんてのは、単にその人の人生を背負えないだけ――その言葉の責任を自分が取れないからだ。俺はソウタの生きる意味が何かは答えられないから、その問いには、分からない、しか言ってやれない」

「……」

「でもなソウタ。君が今いる病院ってのは何であるんだと思う?」

「え……」

 ソウタは答えを探す。

「そりゃ――病気を治すためでしょ……」

「うん、半分正解だがそれだけじゃ足りないな」

 初春は笑った。

「もうひとつの答えはな――人間ってのはソウタと同じ病気になったら、今のソウタよりもみっともなく喚く奴がいっぱいいるから病院ってのがあるんだよ。もしソウタを馬鹿にする奴がいて、そいつらの言うとおり病院で何もできない奴に生きる価値がないのだとしたら――この世に病院なんかあったら変だろ?」

「不細工だの言ってソウタを馬鹿にしていた奴も、ソウタと同じ病気にかかったらそれこそ泣き喚いて救いを求めるぜ。ソウタがそれ見たら滑稽で仕方ないだろうよ。それなのに自分を馬鹿にした奴を恨まないソウタはずっと立派で強いじゃないか。その本質を知らない馬鹿が言うことなんて気にするな。それでも気になるようなら、うちに相談してくれたらそいつを重い病気にさせてやる上に病院にも行かせないように全力で妨害してやる」

 その初春の無茶苦茶な依頼勧誘に、蒼太は初めてふふっと笑った。

「――だからさ、生きる意味があるかどうかは分からないけど――ソウタが生きたいと思っているなら結果はどうあれその思いは誰にも踏みにじれない。ソウタが生きたいと思うなら、ソウタが死ぬことなんて誰にも命じさせられねぇ。生きる理由なんて、自分が生きたいってだけで十分なんだよ」

「……」

 その初春の言葉が、今まで孤独だった蒼太の心の閉ざされていた扉をわずかに開かせた。

 その言葉が自分をはじめて人間と認めてもらえたような気がして、とても嬉しかった。

「でも――」

「そうだよな。まだ怖いよな」

 初春は頷いた。

「だから手術の日の前に、もうひとつソウタに勇気をやるよ。流星雨は無理かもしれないけど、ソウタに綺麗な星を見せてやる。だからそれで手術を受けるか決めてくれ。今日は自分が生きるってことの考えが少し変わっただけで十分だ」

 そう言って初春は立ち上がる。

「今日のところは帰る――星を見せられるように準備もあるから。でもまた来るよ。きっとソウタに、俺の一番好きな星を見せてやるから待っていてくれ」

 

「ハル様――珍しく熱くあの子を励ましてましたね」

 帰り道、もううっすら体が透明になりかけた音々は言った。

「俺はああいう奴を前にして見て見ぬ振りするほど器用じゃないだけだ」

「知ってます――ハル様は私もそうして見殺しにしませんでしたから」

「……」

「でも――そんなだから妖怪さんにも付け入られるんですよ」

「お前が言うな」

 初春は音々を後ろに乗せ、急いで自転車を漕ぐ。

「ところでハル様――星を見せるための準備って一体……」

 音々は背中越しに訊いた。

「――10日以内に火車を捕まえるぞ。流星雨が見せられない代わりに、空の一番近いところでソウタに星を見せてやるんだ。それが今の俺に出来る精一杯だからな」


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