無法を以て有法と為し、無限を以て有限と為す
翌日の早朝、初春と紫龍はまだ日も昇りきらぬうちから、初めて火車と会った裏山の中腹に来ていた。比翼と音々もついてくる。
初春の右手には、昨日紫龍から継承した大降りの太刀がある。
「最初にその刀の使い方を説明するか。まず鞘から抜いてみろ」
初春はそう言われて、一度ベルトに鞘を巻き、そこからすらりと太刀を抜いた。刀身が長いため、手をかなり伸ばさなければ抜けないし、反りも強いために抜くのも大変だ。
「その刀は形状を自在に変えられるという特性があるが、雑念が入るとすぐに思いもよらぬ変化をすることがあるというのは前に話したが、もうひとつ――小僧。鉄砲でも弓でもいいが、何か飛び道具にそいつを変化させてみろ」
初春は脳内に弓をイメージする。
太刀は光を纏って小弓の姿に変化した。
だが。
その小弓はまずとても小さく所々が不恰好であり、弦を引いてもいないのにかなり弓が反っていた。このまま弦を引き絞っても強くは引けず、大した飛距離は出ないのが見ただけで分かった。
「あれ? もうちょっと大きな弓をイメージしたつもりなんだが」
「お前は飛び道具を使ったことがないじゃろう。見ての通り武器のイメージが明確になっていないものはこの通りいびつなものになってしまう。咄嗟に思ったものに頼るのは危険じゃぞ。この刀を使うにはまずその武器のイメージを定着させる修行をせんとな」
「……」
「そしてもうひとつ――その弓の問題点は何か分かるか?」
紫龍は初春の持つ小弓を指差した。
「弓は出来るが――矢はないんだな。矢のイメージもしたんだが」
「そう。その剣は結局決まった質量以上のものにはなれないし、その武器で何かを打ち出すようなこともできない――その太刀の重さ以上のものにはどうあっても変化できないのだ」
「……」
初春は一度弓を太刀の形に戻し、柄を握る自分の手首を小さく動かして重さを確認する。
その大きな刀身と合わさって、重さとしては2キロほどだろうか。鞘も金属でできているため、なかなかの重さを感じる。片手でこれを自由に振るのもそうだが、鞘を挿したまま素早く動き回るだけでもある程度の鍛錬を要しそうだった。
「そこでだ。朱雀」
紫龍はそう言って、先程の小弓とは比較にならないほど大きな和弓を召還した。
「これは儂の愛用の弓じゃが、この弓にも元々矢はない。この弓で矢を撃ち出すには『神力』で矢を召還する必要がある」
そう言うと紫龍は弓を持つとは逆の右手を開くと、掌に光を帯びて、そこに一筋の白木で出来た矢が召喚された。
「神力で作られた矢の威力は、普通の矢とは比べ物にならんほど大きい」
紫龍は矢を愛用の弓、朱雀に番えて弦を引きしぼり、離すと弓は一直線に目の前にある大きな岩に向かって飛んでいく。
鏃の当たった岩は爆薬で破壊したかのように粉々に砕かれ、岩の破片がそこかしこに散らばった。
「すげ……」
「勿論矢を召還するだけではなく、刀の強度や体の強度も上げることも可能」
そう言った紫龍は少し目を離した隙に初春の視界から消え、一瞬のうちに初春の背後に回っていた。
「は?」
初春が驚くと、紫龍は鏃の軽くひしゃげた矢を右手に持っていた。
「それ――さっきあんたが撃った矢……」
「ふん――伊達に戦神を名乗っておるわけじゃない」
「……」
初春はこの瞬間、全てを理解した。
このおっさん――別に俺を殺ろうと思えばいつでも殺れるんだ
この前の手合わせの時も、全然本気じゃないどころか思いっきり手加減されてた。
最後自分の背後に回り込んだ時に、この力――神力を使っただけだ。
「俺も――それ、使えるようになるのかな」
「無理じゃ」
「……」
あっさりと否定されて、初春の期待はあっさり打ち砕かれる。
「神力とは神が己の徳により与えられ、修行によって生み出される力じゃ。人間のお前じゃ使えん」
「――そうか」
初春はがっかりするが、それから音々の顔を見る。
「――てことは、音々なら修行すれば今みたいな神力が使えるってことか?」
「その修行で使えなかったから、こやつは今でも神になれてないんじゃよ」
「……」
「すみませんハル様。その通りなんです……」
「まあ、神力も神によって向き不向きがある。私は縁結びや縁切りなんかが本業だから、神力があっても紫龍殿みたいに戦いはからきしでね――同じ神力って名前してても、使うには向き不向きがあるけどね」
「……」
「ハル様?」
「――でも、もし『ねんねこ神社』で音々に徳が集まれば、音々も修行次第で神力が使えるようになるかも知れないな」
「え?」
「――どうせ何もねぇんだ。ならせめてそういうことを考えていた方が気が楽だ」
「……」
紫龍はその言葉を訊いて、初春のことが尚更よく分からなくなる。
「ちなみにその刀、残念だがこの世に生きる生き物は斬ることはできないぞ」
紫龍は初春にとって一番重要なことを言った。
「――そうか」
「ん? お前は人を斬るのに使えないなら、もう少しがっかりすると思ったが」
「こんなでかい刀みたいな強力な武器振りかざしてあんな人間斬って喜ぶようなことはもうしないよ。それよりも、この刀がずっと気になっていたんだ」
「何?」
「無法を以て有法と為し、無限を以て有限と為す――何にも心を乱されず囚われず、機に乗じて変に応ず――そんな水や風のような心で、この刀を使いこなしてみたい」
「……」
「――せめてそれくらい思わなきゃ、秋葉や柳にも申し訳が立たないしな……」
「……」
比翼は溜め息をつきながら、紫龍の横顔を窺った。
「まあ以上じゃ。その上で鍛錬を始めるが――お前は目の前に斬撃が飛んできても目を閉じるようなこともないし、自分の攻撃を繰り出しながらも次の攻撃に移る体勢作りなどのある程度の基本はできておるようじゃからな。アヤカシを斬る上で、ある程度実践的な鍛錬から始めよう」
「実践的?」
「ああ」
そう言って紫龍は空を仰いだ。
「火車! 火車はおるか?」
そう紫龍が叫ぶと、町の方の空からこちらに黒い影が徐々に近付きだし、紫龍の目の前にその巨体を降り立たせた。
降りてきたのは、以前この山で暴れた火車の母親の方であった。鬣の炎は消え、黒い毛色をした巨大な馬の姿であった。
「紫龍殿。こんな夜も明けきらぬうちから何用ですかな?」
「すまんな。こいつの鍛錬のために息子を貸してくれんか?」
「息子を――いいでしょう。あの子はこの人の子に借りがあります。しばしお待ちを」
そう言って、火車の母親は自分の鬣から小さな炎を起こして、空の彼方へと種火を飛ばした。
「この前は、鬣が燃えていたのに……」
「我らが抱くは裁きの炎。現世の罪深き魂は地獄の業火によって焼かれて浄めるもの。それは瘴気によって起こるもので、それがなければ炎は起こるものではない」
「裁く……そうか。あんたも誰彼構わずその炎で焼き殺すようなことはしないってことか」
「何?」
「俺の求める強さってのは――無差別に人を斬り殺すようなものじゃないんだろうな。そういうことができる奴ってのが、本当の意味で強いんじゃないかって今は思うよ。そう思って、本当に強い奴であるおっさんに稽古を申し込んだんだが」
そこまで火車と話すと、初春と火車の間の空間が黒く割けて、現世と黄泉の狭間にいた火車の子供が姿を現した。前は瘴気にやられて青紫色の炎を発していた鬣は、こちらも炎が消えていた。
「母上、お呼びでしょうか」
「神子柴殿の稽古に、お前も付き合ってやれ」
そう言って火車の母親は大きく飛び上がり、空を舞うと空気を蹴るように町の空の彼方へと走り去ってしまった。
「紫龍殿、私が神子柴殿と稽古というのは」
「なに、簡単なことじゃ。まずはお前がこの山の中を逃げ回ってくれればよい。それでこいつがお前を捕まえる」
「は?」
「後で剣の稽古はつけてやる。まずはその刀を使ってアヤカシの速さに慣れる訓練じゃ。子供とは言え火車であるこいつの速さについていければ、神力を使えなくても遅れは取らん」
「……」
要するに、鬼ごっこというわけだ。
だが――以前対峙した時もこいつは瘴気にやられていたとは言え、普通の馬並み――初春の3倍以上の脚力で走り、その上大木を薙ぎ倒すパワーもある。
あの時は向かってくる方向が一直線になっていたし、この刀の力で捕獲できたけれど……
「しかし、いきなり難易度の高い課題だね、紫龍殿」
比翼が煙管から灰を落とした。
「この課題をクリアできるなら、ご褒美があってもいいじゃないか」
「褒美か……」
紫龍は首を傾げる。
「それではこういうのは如何でしょうか」
火車の子供が口を開く。
「私が神子柴殿に捕まれば、私は神子柴殿と主従の盟約を結びましょう」
「何?」
「要するに、坊やの神獣になるって事かい? 妖怪の中でも高位に位置する火車が、人間の坊やに?」
「ええ、神子柴殿には瘴気に囚われた私を救っていただいた恩もあります。それに神獣を得るにはどのような形でも妖怪を負かすこと――それが常でしょう」
「え? じゃあおっさんが乗ってる山犬も、比翼の白蛇も元は妖怪ってこと?」
「そうさ。私は知恵比べで――紫龍殿は腕比べで勝って、かつて妖怪だったこの子達を従者として使っている。高位の神につく神獣は神の徳を分け与えられて力を増すし、知性もつくし高天原から討伐の対象にもならない好待遇になる0らね。下手したらそこらの中級神程度が束になっても高位の神獣一体に敵わないこともあるよ」
「へぇ……」
「その中で、元々高位の火車なんかを神獣にするなんて、すごい贅沢だよ。火車なら七福神くらいの高位神だって喜んで迎え入れるのもいる」
「ですが私は死者を黄泉に誘い悪人を浄化する、瘴気と近しい妖怪――忌み嫌う者もおります。特に福の神と呼ばれるような方々にはね」
「……」
「それに私はまだ力は弱い――神子柴殿の生きている時間程度の時間ではまだ酔狂にしかなりますまい」
「……」
初春は黙って体をほぐし始める。
「――ハル様?」
「まあ、音々の活動時間も短いし、早いうちに足の速い神獣がいればと思っていたからな。『ねんねこ神社』のためには、頑張って捕まえないとな」
「ふむ、やる気になったようじゃな。それでは、範囲はこの山の今儂らの視界の範囲内で。十数える間に火車は距離を取り小僧はそれから追いはじめる――それでいいな」
「よっし」
初春が頷くと、紫龍が、よし、と言って火車の尻を押した。
そこから10数えて、初春がスタートする。
しかし軽く走っているように見えても歩幅が段違いであり、山の中腹は傾斜になっている上に足場も石が所々に転がっており、とても追いつけるものではない。
「はあ、はあ……」
2、3分も走って、火車の息子はまだ流しながらちらちらとこちらの追う足を気にする余裕まで見せる。
「こりゃあ――100年経っても捕まる気配はないねぇ」
「……」
比翼の言うとおりである。初春ももう追いはじめた瞬間にそれは分かっていた。
「はあ、はあ……」
さっきから腰回りに挿したこの大振りの刀が重い――走るスタミナはいるが、それだけではこの重りもあってすぐに息が切れてくる……
となると――この刀を何かに変化させるしかない。
どうせ駄目で元々――やってみるか。
初春は鞘から刀を抜いて目の前で水平にかざすと、左手を刃の腹にあてがって、目を閉じる。
光が刀身を包み込み、徐々に初春の上半身を覆うと、刀の姿は柄ごと消失し、初春の両腕には分厚い腕輪、腰の後ろに大振りの四角い筐体の付いたベルトに変化する。
「ん?」
わざわざ変化させるものが射程を伸ばすようなものではなく、あんなおかしなものに変えたことに音々、比翼、紫龍の3人とも違和感を持つ。
初春は右手首の腕輪から掌に伸びる突起を握り、そこについているボタンを押した。
初春の右手からアンカーの付いたワイヤーが射出され、ブシュッという空気の破裂するような音と共に、火車のいる位置のすぐ近くの大木に向かってワイヤーが伸びていく。
ガツッという音と共にアンカーが大木の幹に食い込むと、腕輪から伸びたワイヤーが急速に巻き取られ、初春の体を宙に浮かせるほどのスピードで大木へと引き寄せていく。
「うっ」
そのスピードは火車の息子の走力すら凌駕しており、今まで余裕の距離を空けていた火車の息子も肝を冷やし、反射的にアンカーの刺さった大木から背を向ける。
「……」
初春はそれを目で追いながら左腕を伸ばして、左の腕輪からも同様に掌に伸びた突起にあるスイッチを押す。
二つの爆発音がして、左の腕輪と腰の筐体の左側から二つのワイヤーが射出され、火車の息子の退路を塞ぐように伸びていく。
まったく狙いを定めずにあてずっぽうで打ったワイヤーの片方が運よく火車の息子の目の前の大木の幹を捉えた。初春はそれを左腕の感触で感じるとすぐに右手のボタンを押して右腕の腕輪をパージして、巻取りを強制的に停止させる。
初春の体が左方向へと引っ張られる。火車の息子もスピードに乗っている故に方向転換が追い付かず、初春に捕まることを覚悟した。
だが。
ワイヤーと大木の中間地点から伸びる別の大木の枝が初春の眼前に迫る。
バキッという音がして初春が枝に突っ込み枝をなぎ倒すと、初春の体は吹っ飛び、そのまま地面に叩きつけられ転がり、ワイヤーを突き立てた大木に背中から鈍く叩きつけられた。
「ハル様!」
音々は初春に駆け寄る。紫龍と比翼もそれを追いかける。
「ハル様! 大丈夫ですか?」
「痛ってぇ……いい線行ったと思ったんだが――実際使うとまるでコントロールが効かなかった……」
体を起こしながら、初春は苦笑いを浮かべる。
「久し振りにすげぇ痛いぜ……」
「まさかあんな手で機動力を補うなんて、無茶をするね坊やは」
比翼は初春の擦りむいた傷口に手をかざした。
「受け身を取ったみたいだけど、全身打ち付けただろう。私の神力で少し治療してあげるよ」
「……」
初春が比翼の手当てを受けている間に、紫龍は初春がパージした右手の腕輪の残骸を拾った。
――まさか初見であそこまでの変化をやってのけるとは。飛び道具が使えない分をこんな形で補った。ワイヤーを射出する仕掛けはガスか……
しかしあの速度で体が宙に浮くような状態で恐怖もあった中で、変化が寸分も乱れることはなかった。
一切安定感のない武器のはずだが、あの小僧は思想に乏しい分ここまで使いこなすか。
制御するだけの身体能力はまだないが、一切の雑念を払うと迷いがなくなる。
それこそ――相手を殺すと決めれば、もうそれ以外のことは……
「すげぇ、こんなに痛みが引くとは」
「本職じゃないから応急処置程度だけどね」
「だが小僧。今日はこれで終わりだ」
「え? 何でだよもっとやらせてくれよ。もう何度かやれば勘が……」
「これ以上続けても、お前が木に叩きつけられて無駄な怪我をするだけだ。それにお前、今日は何でも屋の初仕事があるのだろう?」
「――そうだった。ちぇ、でももうちょっとやりたかったなぁ」
初春は体中が痛かったが、この刀を少し自分のものにできかけたことに多少の手応えを感じられた。
「――楽しそうだな。新しい玩具を貰った子供のようだぞ」
「そうか? 俺は玩具なんて買ってもらった記憶はないが――だが、少なくとも人に小便ひっかけて煽るような蝉みたいな人間叩きのめすよりは随分マシだな」
「……」
「やっぱり同じ戦うならこうでないとな。この刀をもっと上手く使いこなそうと思うと久し振りにワクワクするぜ」
「――ふん、気に入ってもらえて結構なことだ」
紫龍はそう言うと自分が拾った腕輪の残骸に念を込めて、初春のはめている腕輪とベルトを一度戻してから再び刀に念を込め、短剣型の銀のネックレスに変化させた。
「儂は彼岸に武器をしまえるが、人間のお前は小型化して身につけられた方が便利じゃろう。この状態であれば持っていてもコロコロと変化をさせることもないし邪魔にもならん。この状態にするには、この刀に休むように念じろ」
紫龍はネックレスを初春に向かって投げた。初春は生まれてアクセサリーなど付けたことがなかったが、光沢のある銀の短剣型ネックレスを首に身につけた。
「しかし坊やの愛刀になるなら何か銘があるといいね」
比翼が言った。
「紫龍殿、この刀の銘は何というんだい?」
「儂もこの刀は試し切りをした程度で名づけることもしなかったのでな――小僧が決めればいい。その小型化した状態から、銘を唱えれば刀は元の姿に戻るはずだ」
「……」
初春は首を傾げる。
「――よし、じゃあ銘は『ユキクモ』にするよ」
「ユキクモ?」
「あぁ。この刀は決まった形を持たない――それこそ水が流れ雲を作り、風に流れるような自由な剣……」
「なるほど、行雲流水――『行雲』を訓読みしてユキクモか」




