友達――か
駐輪場に戻って最初に目に付いたのは、初春が押さえ込んだ相手の腕を噛みちぎった時に出た流血だった。小さな肉片と共に血はアスファルトの隙間に入り固まりかけていた。
それまで初春が何一つ言葉を発しようとはせず、ただついてきていた紅葉と雪菜は、まるで迷子になった子供のように心細かった。
二人とも普段は飄々とした初春がこれほど格闘に長けているとは思わなかったし。
それに――酷く相手を痛めつけても薄笑みひとつ浮かべずに淡々と相手を殴りつけていた初春のことが理解できなかった。
頭に血が上っていたようにも、報復を楽しんでいるようにも見えないのに、あそこまでやった初春の心――
そして、初春が初めて吐露していた、自分の今の境遇に感じていた苦痛――
それらが全く見えないことが、ただ無性に怖かった。
今まで自分達が抱いていた初春の印象とは、あまりに違い過ぎた。
もう初春は随分と落ち着いていて、一度も二人の方を振り向かなかったけれど、その落ち着き方がさっきまでと落差がありすぎて、二人は不気味ささえ感じていた。
そして――二人は同様の不安と心配を抱えていた。
同僚の人間をあそこまで叩きのめした初春は――もうここの仕事を辞めることを覚悟しているのか。
そうなったら――もう初春と会えない気がして。
「い、いやぁ、でも驚いたよ。神子柴くんがあんなに強かったなんて……」
そんな不安に引きずり込まれそうな気持ちに何か楔を打ちたくて、紅葉は軽いノリで初春の背中に声をかけた。
「――あぁ」
初春はまだ駐車場に落ちていた、連中に破り捨てられ、足蹴にされた『ねんねこ神社』のポスターを拾った。
「……」
あの時――初春は音々の泣き顔を思い出して、音々を悲しませるようなことをする連中に妙に腹が立ったが。
少し頭の冷えた今は自覚があった。
俺は今、秋葉と柳を不安にさせているということを、派出所からこの駐車場までの二人の視線を感じながら、ずっと感じていた。
「はぁ」
弱々しい溜め息を吐いた。
「ざまあねえや――二人にやなもの見せちまったな――その――すまん」
初春は二人に向き合って、何だかバツの悪そうに頭を下げた。他人に対して自分が全面的に悪いと思って頭を下げる経験がなかったので、何だか照れくさかった。
それと同時に――頭を下げながら、脳裏に直哉のことを思い浮かべていた。
あいつはいつだって相手に頭を下げなかった。誰かを悲しませたり心配させることもしなかったな。
だからと言って理論や武力で武装しているわけじゃない――力で相手を従わせているわけでもなかった。
今思うとそういうのも『強い』って言うのかな、と思う……
多分腕っ節だけなら、今の俺は直哉にも勝てるとは思うけれど……
ただ単純に『直哉は優秀』『直哉は強い』と刷り込みのように聞かされてきたことで今まで抱いていたイメージとは違う強さを、直哉は持っていたような気がする。
それが何なのか、まだはっきりと言語化できないのだけれど……
少なくとも、こうして関係のない人間を心配させるようなことはしなかっただろう。
「ぐすっ……」
その言葉を聞いて、雪菜は初春から目を背けて泣き出した。
「お、おい、柳……」
「す、すみません――なんか、いつもの神子柴くんになってたから、安心したら……」
「……」
「私――神子柴くんがあの時、何を思ってたのかとか、全然わからなくて――分からないことって、こんなに不安なんですね……」
「柳……」
「本当だよ、神子柴くん。何も話してくれなきゃわかんないよ……」
紅葉も、内心の不安が雪菜の涙のおかげで少しずつほどけ、何とか笑顔を作ろうと努めた。
「だから――こういうのはもう――ダメだよ」
「……」
多分昔は、直哉に比べて何もできないことを結衣に心配されることがすごく情けなくて、恥ずかしくて……
――今思うと、俺が直哉みたいになりたかったのは……
「……」
酷い脱力感に襲われる。
俺は結局、結衣にもっと格好いいところを見せたかったのだ。
直哉のように、安心して自分を見てもらえるようになりたかった。
俺は――ガキの頃からずっと、結衣のことが好きだった。
自分が思っているよりもずっと――思想を持つことが許されなかった故に、気付かなかっただけだ。
そして俺はそのために5年間も鍛錬を続けてきたが。
あの頃と大して変わっていない――結衣どころか、紅葉や雪菜にさえ、不安にさせるようなことばかりしている。
無様だ……我ながら。
「あ、あのさ、神子柴くん」
不安そうな声で、紅葉が声をかける。
「神子柴くんは――どうしてその、何でも屋をやろうと思ったの?」
「……」
初春は少し言葉を咀嚼した。
「――仲間がさ、人の役に立ちたいって言ったんだよ」
多分音々のことを話しても混乱するだろうから、それだけ言った。
「それを――ホームページはいたずらメールばかりだったし、あいつはそれを見て泣いたってのに……なのにポスターを足蹴にする奴まで現れて」
「……」
そうか――だから神子柴くんはあんなに怒って。
「――あ、あの……」
雪菜が優しい声で初春の横に立つ。
「ご、ごめんなさい――私、この前神子柴くんのこと、何も知らなくて……」
「え?」
「私の話――聞いてほしいから待ってて、って――自分の事ばかり言って……」
「あぁ……」
「……」
雪菜はこの時、自分の息が苦しくなる感覚を感じていた。
でも――言わなきゃ――今言わなきゃ……
「だ――誰かに自分のことを話すのって――すごく、怖いと思います……私も――ずっと怖くて、話せなかったんです――」
「……」
「でも――言わなかったら誰にも分からないままで――すごく怖いままで――だ、だから――神子柴くんにも、もっと自分のことを話してください……辛いことも、悩んでいることも」
「……」
「私は――今は聞くことしかできないですけど――話してほしい――です……そういうのを知らないこと――私は、怖いです……」
「そうだよ――私にもそういうの、もっと話してほしい」
紅葉も悲しそうな顔をしていった。
「私、バカだからさ――神子柴くんが何で苦しんでるのかとか、言ってくれなきゃわかんないよ――でも――言ってくれるなら、何もできないかもしれないけど……一緒に悩むことはできるよ」
「秋葉……」
いつも明るい紅葉の目にも、涙が浮かんでいた。
「か、簡単に無責任なことは言えないけど――私――神子柴くんがいなくなったらイヤだよ……」
「――いなくなる?」
「絶対そういうこと考えてたもん……また、バイトをやめるつもりだったでしょう?」
「……」
――確かにその通り。本当はあの3人組を殺すつもりでいたし、その後人間の法なんかに裁かれてもいいとも思っていた。
「でも――私は神子柴くんのこと……」
紅葉はそこで言葉に詰まる。
今の感情を初春に、こんな場面で伝えることを躊躇した。それはきっと同情と受け取られるかもしれないし――何よりこういう場面で伝えることが、横にいる雪菜に対しても卑怯に思えて。
「私も――神子柴くんにはあんなことはもうしてほしくないです……」
雪菜も同様の思いを抱えていた。
「……」
そう言うと二人は、初春を見て哀しそうな顔をして泣いた。
「二人とも……」
「だって――友達だから……」
「はい――友達です……」
二人の、今の精一杯の言葉だった。
「……」
自分の弱さを噛みしめている時に、その二人の言葉と涙は初春の心にかなり堪えた。
俺は――結衣も、この二人にもまだ応えられない……
俺は――弱い……
「!」
不意に初春の頸椎に何かが走ったように感じた。
妙に湿っぽい臭いが鼻に届き、嫌な気配が3人の周りを覆った。
「――来る……」
初春は空を見上げた。
その時。
「う……」
突然目の前にいた紅葉と雪菜が、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
「え?」
初春が思わず駆け寄ると、二人は小さな寝息を立ててそこに眠っていた。
「朱雀」
頭上でそんな声がした。
空を見上げると、頭上で山犬に乗った紫龍が巨大な弓で、目の前の大きな人型のアヤカシに矢を射かけた。
左肩を矢に射抜かれたアヤカシは駐車場に落下してくる。
「くっ」
初春は倒れ込んで、紅葉と雪菜を庇った。
ぐちゃっという変な音がして、アヤカシは背中からアスファルトに墜落した。ボロの着物を羽織り、黒い肌と空洞の目と口があるだけの恐ろしい風貌をしていた。
遅れて山犬も初春の姿を隠すように着地した。
「おっさん」
「下がっていろ小僧。すぐに終わる」
そう言って紫龍は持っている『朱雀』と呼ばれる弓を光に戻すと。
「玄武」
そう声に出すと、光を纏い、柄の長く、刃先が銀色に光る巨大な斧が現れた。普通に考えて、このサイズなら30キロ近くありそうな巨大な斧だった。
「……」
紫龍は山犬から降りて、その斧を起き上がりかけているアヤカシの胸の真ん中を、巻を断ち割るかのように振り下ろした。
「ゴワアアアアアアアッ!」
巨大な斧が自分の体に容赦なく振り下ろされ、断末魔の悲鳴を上げたアヤカシは、白い光になって散り散りになり、やがて消えていった。
「……」
紫龍は斧を同様に光の中に消滅させると、初春の方を振り向いた。
「……」
――普通ならこんな斧でとどめを刺すなんて、目を背けるだろうに――命の感覚が薄らいでいる証拠だ。
あの3人の糞餓鬼は、こいつに殺されなかっただけありがたく思った方がよいだろう。
「あいつは――俺が瘴気で呼び寄せたのか?」
「ああ――お前の瘴気を感じて飛んできた。あれだけ強い瘴気じゃ。山にまで伝わっておるよ」
「さっきの奴は……」
「行き場を失って、人の心を食うことと、血に飢えていたアヤカシじゃ。この町であの家に来る奴とは別に、儂らと交われんあんな奴もこの町には沢山おる」
「……」
初春は拳を握り締めた。
「――最悪だな。今日の俺は。秋葉と柳に心配はかけるし、あの程度の奴等を痛めつけて、瘴気であんたの手を煩わせた……」
「まったくじゃ――未熟者め」
紫龍は吐き捨てるように言った。
「餓鬼のくせに変に大人ぶりおって――お前がいなくなればあの阿呆の命運も尽きる。それを自覚しろ」
「……」
悔しいが、返す言葉もない。
「そうか――俺は無責任に、音々にまで……」
それどころか、情けなさの上塗りだった。
「でも――明日から俺も失業かな――さすがにあの3人、俺をこのバイトから辞めさせる気だろうし」
「安心しろ。あの3人とお前の縁は既に絶っておいたぞ。お前に関する記憶も消してある――」
そう言うと、山犬は体を傾けて、背からさっきの3人組をどさどさと下ろして見せた。
「こいつら――」
「しかしこいつらも瘴気を出しておったから、儂も少しばかり灸を据えたが……そうするまでもなくこっぴどくやったもんじゃな。3人とも内臓をやられてしばらくは飯も喉を通らんじゃろう。3人のうち2人は肋骨が折れている。残る一人も歯が3本も折れておった」
「……」
「安心しろ。明日にはこいつら、恐怖に怯えてここに退職願を出しに来る。お前の記憶は消えても、何らかの恐怖としてそうするように心に植え付けたからな」
「……」
「――まあ、あの家の家賃代わりじゃ。次はないと思え。お前が野垂れ死ねば中級神共やアヤカシ共も退屈するし、あの家につまらん人間がまた来ても困る」
「――すまん」
「――ふん」
しおらしい初春を見て、紫龍はちょっと勝ち誇りたい気分だったが。
「この程度の奴等をいたぶった気分はどうじゃ。それこそお前の言葉通り、こいつらは蝉と同じじゃ。他人に小便をかけておちょくるだけで、叩き潰そうを思えばすぐできる……その程度の奴等と同等に立場を落とすな」
「……」
分かってる――理屈じゃわかってるよ。
でも――そうしたくても俺には道がない。直哉と戦うための道も、とうにない。
どうしたら……
「それで、じゃ……」
紫龍は倒れて眠っている紅葉と雪菜の方に歩を進めた。
「この二人の記憶はどうする?」
「……」
沈黙。
「――消してくれ」
「――いいのか?」
「ああ――俺の話を聞きたい、なんて言ってたけど――なんか、無理させてるみたいでさ……俺、あんなことしちまったし、気を遣ってるのかなって」
「……」
「俺のことで、二人に無理させるのも忍びねぇし……そうさせる自分に今、すげぇ……無性に腹が立つんだよ。自分の弱さに……」
初春の声が怒りに震えた。
多分、俺は今日、この二人との何かを壊してしまったのだと思う。
悪いのは他ならぬ俺で――あんなものを見せた後だ。この二人を巻き込んでも俺には先の道が見えていない――
だから――もう先がない。
「この二人からお前の記憶は消える――次に二人に会う時には、お前に他人のように接するぞ。それでよいのだな?」
「ああ――このふたりから俺が消えること――俺が一度それを壊したってのは丁度いい戒めだろ……記憶をなくした二人を見る度に今日の醜態を思い出して、自分を戒めるさ。二人も気に病むことはなくなるし――それが一番いいだろ」
「そうか……」
そう言って紫龍は二人の横に膝を突いて、二人の額に指を当て、小さく呪文を唱えた。
「――生きにくい小僧め」
紫龍の指先から光が溢れ、二人のことを照らしていくのを、初春は目も背けずにじっと見守っていた。
「友達――か……」




