さっさと誰か殺してくれよ
秋葉紅葉と柳雪菜は、その場に凍り付いていた。
後ろで見ていた初春が、押さえ込んでいた人の腕をまるで獣のように食いちぎったこと、そこから出る流血という、あまりの非日常の出来事
その後の初春の攻撃はあまりに速く、正直何が起きているのかの理解が追いつかなかった。相手は一撃で這い蹲っていくけれど、拳も蹴りも全く派手な音は立てない。
初春の戦いがあまりに静か過ぎて、目の前で起こっていることとの釣り合いが取れておらず、ただただ理解できないものと、初春の鬼気迫る迫力に、背中越しでも怯えることしかできなかった。
「……」
3人とも急所や内臓に激しいダメージを与えられて、意識が朦朧としていた。
呼吸が苦しく、ただ速くなる鼓動が、目の前の初春への恐怖を更に増大させた。
「ご、ごめんなひゃいごめんなひゃい、助けて……」
この期に及んで救いを求めるひとりの顔を、何も言わずに初春は蹴り飛ばした。
「……」
――こういう奴等を見ていると、自分の今の立場ってのがよく分かる。
学校に行くことも出来ず、未成年で両親も後見人もいない。自分の身分を証明するものがない、する人がいない故に、この国ではそんな人間を這い上がらせる道はない。
俺の上には、今こうして這いつくばっている連中みたいな奴がゴロゴロいる。ろくな力もない、大した努力もしてない癖に、身分だけで俺を見下ろしていい気になってる馬鹿が。
つくづく人間ってのは、つまらない、馬鹿馬鹿しい生き物だと思う。
馬鹿馬鹿しくて、目に映るもの全てを壊したくなる――自分も含めてな。
「水に殺意や悪意はないが――お前達みたいな人間が自分の認識の間違いを知った時――そして、あらかじめ用意した逃げ道を塞がれた時にする表情ってのを見ると、さすがに愉悦を覚えるよ……俺もまだまだだな。水のような心で生きるってのは難しいな……」
自虐を呟きながら、初春は倒れるひとりの上に馬乗りになって、左手で顎を掴んで、殴りやすいように顔を固定した。
「ひ、ひいいいいいいいいいっ!」
これから自分が目を背けることも出来ずに殴られることを知った男は悲鳴をあげた。初春の拳は細身の身体からは想像も出来ないほど重く、一撃喰らうだけで自分の身体が壊れていくのが、数発喰らっただけで十分な恐怖として刻み込まれていた。
「……」
――つまらん。
こいつらいたぶっても、このまま縊り殺しても、きっとあっけないだろうな。
不意に、直哉と張り合っていた頃の想いが胸を突く。
昔は人間に散々いたぶられていた側だったから、人を壊す――殺すなんてことはもっと大事――とんでもないことだと思っていたが。
――それは、俺が強くなったからそう感じるのか……
初春は拳を振り下ろす。
「アッ!」
殴られた男は甲高い悲鳴を挙げて、涙を流した。
その直後に、初春の足の方で水の流れる音がした。恐怖のあまりに相手が失禁したのだった。
「……」
だが、初春はこの時感じていた。
まるで、自分の拳が自分自身を殴ったような痛みを。
「く……」
初春は再び拳を振り下ろした。
その拳は相手の耳を掠め、アスファルトを力なく殴った。
もう一撃、惰性で振り下ろした拳は、もう人を壊す力など全くなく、相手の腫れ上がった頬を小さく撫でただけであった。
「う、うう……」
もう目を閉じていた相手だが、呻く初春の声に目を開ける。
初春は歯を食いしばって、どうしようもなく流れる涙を必死でこらえていた。首の血管が浮き出るほど強く歯を食いしばっているが、それでも大粒の涙がぼろぼろと相手の身体に落ちていく。
「――俺が知ってる強い奴は――こんなんじゃねぇよ!」
初春は震える声で絶叫した。
「こんな奴等にナメられてんじゃねぇよ! 弱い奴いたぶって喜んでんじゃねぇよ! こんな奴等と同じところで勝負してんじゃねぇよ! 勝負しなきゃいけない奴は、別にいるんだよ!」
初春の今まで抑え込んでいた想いが爆発した。
人間の憎しみより――そこから巻き起こる殺意や破壊衝動より。
無力な自分への怒りが勝った。
「じゃあどうすればよかったんだよ! 俺にはどうしようもなかったんだよ! 好きでこんなことしてるわけじゃねぇんだよ……」
初春の声は尻すぼみになり、最後の方は消えるようにか細くなった。
初春はもう完全に戦意を失っていた。
「消えろ――さっとと消えちまえよ! 弱いお前らには何の用もねぇよ!」
初春の怒りに満ちた声が、這いつくばる3人に向けられる。
「ひ……」
ダメージの残った3人は、まだほとんど立ち上がれもしないような状態だったが、初春の気が変わらないうちに、我先にと這うようにして駐車場を出て行った。
駐車場が初春、紅葉、雪菜の3人だけになり、途端に静かになる。
肩を震わせる初春の背中を、紅葉と雪菜は心配そうに見守っていた。
「はぁ……」
初春はその場に仰向けに倒れこみ、大の字になって夜空を仰いだ。
「み、神子柴くん……」
雪菜が心配そうに初春に駆け寄ると、紅葉も分けも分からずに、初春のところへ走った。
「う……」
初春の視界は再び溢れる涙で星が滲んで見えた。
「――痛ぇ……」
初春は唇を震わせ、消えるような声で星に呟いた。
「もう――さっさと誰か殺してくれよ……」
「……」
「――何すりゃいいんだよぉっ……」
まるで駄々をこねるような力のない声で言う。
「俺はナオとは違う――あいつみてぇに上手くは振舞えねぇよ……ユイみたいに優しくもなれねぇよ……ずっと誰も俺に価値なんて認めてくれなかった――今更何をしろって言うんだよぉっ……」
「……」
「諦めたくない――必死に足掻いてるよ……けど、どんなに頑張っても、道がねぇんだよ……」
初春は目を抑えて、苦しそうに泣いた。泣いているのがみっともなくて、歯を食いしばるけれど、もう自分でもどうしようも出来なかった。
「……」
その側に寄り添う紅葉にも雪菜にも、初春の言っていることの意味はほとんど理解できなかった。初春が何故泣いているのかも。
でも――二つだけ分かったことがある。
初春は、自分達や、学校で会う自分達の同級生よりもはるかに強いこと。
そして――その初春が自分自身を嫌っていて――それに酷く絶望していることだった。
その初春の悲しみや絶望があまりに深いことがわかって。
中途半端に何も声をかけてやることができずに、ただ普段弱さを見せない初春の、子供のように泣く姿に、痛ましさを感じる以外なかった。
そんな3人の耳元に、ドップラー効果によって徐々に音を高くするサイレンが耳に届く。
しばらくして小さなパトカーが一台駐車場に止まり、運転席から警官が、助手席からさっき叩きのめした奴の一人が出てきた。
「こ、こいつです! こいつが俺達をいきなり殴りつけて」
「……」
虚ろな目をしたまま初春は上半身だけ起こした。
「しかし君ね――相手はこの一人だけかい? そっちは3人が痛めつけられたと言っていたが、一人に3人がやられたのかい?」
「そんなことはどうでもいいでしょう! みんなこいつにやられたのに変わりないんだから」
「まあ――そんなわけだ。署に行って話を聞かせてもらいたい。同行願えるかい?」
「――ええ……」
初春は気もそぞろなままパトカーの後部座席に促された。
「神子柴くん、行っちゃダメだよ!」
紅葉は初春がこれからとんでもないことになってしまう予感がして、恐怖から思わずそう叫んだ。
「……」
しかし初春はもう自分がこの先どうなるか考えるのも面倒臭くて、押し込まれるようにパトカーに乗った。
「秋葉――柳――ごめん、送るのは無理そうだ……」
最後紅葉と雪菜の耳に、消えそうな初春の声が届いた。
初春を乗せたパトカーはそのまますぐに駐車場を出て行ってしまった。
この町の派出所に来た初春は、さっき叩きのめした3人と共に、警察の事情聴取を受けていた。
とは言っても、喋るのはほとんどやられた3人ばかりで、初春は椅子に座ってぐったりしていただけだったが。
「ふーっ」
警官はペンを手に取った。
「ところで君、さっきから何も喋らないけれど、とりあえず親御さんに連絡させて欲しいんだけど」
「――そんなもんいません」
「いない? そんなことはないだろう。一人くらい身内は」
「いません」
「ふぅ……じゃあ君は今一人で暮らしてるのかい? 大変だねぇ、偉いねぇ、でも周りに当り散らすようなことは……」
「五月蝿ぇな!」
初春は席を立って警官を怒鳴った。
「俺は親に捨てられた。親は互いに不倫していて、俺が義務教育が終わるまでは家庭裁判所に離婚を認めないって言われていた。俺が中3になったらせいせいした顔で離婚した。身内も俺を引き取ってくれなかった。施設に入るのを断って俺は一人で生きる選択をした、だから親がいない! あんたは親に捨てられたら親を自分で作れるのかよ! 俺にどうにもならねぇことを俺に言うんじゃねぇよ! 親がいないのをどうしろってんだよ!」
学校に行っていない、親がいない、親戚がいない、保証人がいない……
その全てが、身内から『死ね』と言われた初春にはどうしようもないことだった。
その『どうしようもないこと』が、人間の社会は持っていて当たり前のように見られていて。
それを持っていないことは、切符を失った乗客のように、列車に乗ることを拒否される。
「好きでこんな生き方してんじゃねぇんだよ! あんたの金にもならねぇ同情や心にもねぇ褒め言葉なんていらねぇよ!」
本当は笑ってるんだろ。
何も持ってない俺を蔑んでるんだろ。
「――つーか俺に話を聞くなら、あの駐車場にある監視カメラの映像を見てからにしてくれないかな。そこの連中が俺を後ろから抑えつけて、3人がかりで嬉々として俺を殴ったところから始まった映像があるからよ」
「!」
その初春の言葉に、3人の顔から一気に血の気が引いた。
そう、監視カメラには自分達が先に初春を後ろから押さえつけ、3人がかりで初春を殴った姿が収められている可能性がある。
「や、やっぱり僕達、これで失礼します! あはは……」
そう言いながら、何かをもみ消すように3人は脇目も振らずに派出所を出て、逃げ去ってしまった。
「……」
あまりの逃げ足の速さに、呆気に取られる警官。
「――まあ、被害届の取り下げと判断していいか……じゃあ」
「……」
初春は何も言わずにパイプ椅子から立ち上がった。
「……」
警官は、初春のさっきの問いに何の答えも出してやれずにいた。しかしここで下手に何か言っても、こちらは初春を拘束したこともあり、火に油を注ぐと思って、黙っていた。
勿論初春は、先程の言動も含めて、謝罪もしない警官に腹が立ったが、もうそれ以上に、自分の無力さに腹が立っていたので、もう何かを言うことも煩わしかった。
初春は何も言わずに、警官に謝罪するチャンスも与えないまま、ふらつくような足でファミレスの駐輪場に止めてある自転車を取りに、足を進めた。
派出所の前を通り過ぎようと思った時。
向かう先から息をせき切らせて派出所に走ってきた、紅葉と雪菜の姿が見えた。
「はあ、はあ、ま、待ってください」
紅葉は派出所の前で、息も絶え絶えのまま声を絞り出した。
「み、神子柴くんは――3人に一方的に、絡まれただけなんです……」
元々文系少女で体力のない雪菜は、紅葉以上に息も絶え絶えだった。
「あ、明日駐車場の監視カメラを……見れば……」
「……」
――わざわざそれを伝えるために、走ってきたのか。
「それもう俺が言ったよ。それ言ったら、あの3人はもう逃げていった」
初春はお人よしに若干呆れながら言った。
「そ、そうですか……」
「じゃ、じゃあ神子柴くん、もう帰れるんだね」
「あぁ……」
気もそぞろなまま、初春は生返事をして一人また歩き始めた。
真っ暗な神庭町の道を一人歩く初春。
ふと、その道で。
初春のジャケットの袖を、両方からくいと引っ張られた。
気もそぞろなまま振り向くと――紅葉と雪菜が初春の袖をつまんでいた。
「秋葉――柳――」
「だ、ダメだよ神子柴くん、約束破っちゃ。私達をまだ送っていってないでしょ?」
「え……」
「……」
初春は戸惑った。
「じゃ、じゃあ――途中まで、ついていっても、いいですか……」
雪菜はガチガチになりながら言った。本当は「今だけ、そばにいてもいいですか」と言いたかったが、紅葉もいる手前、引っ込み思案の雪菜にはこれが精一杯であった。
「――ああ」
初春は力ない返事をした。
「――ちっ、ドジったな。監視カメラがあったとは、とんだ邪魔が入りやがった」
「でも、その映像を店の連中に見せれば確実にあいつを追い出せるぜ」
「とにかくあいつ、絶対このままじゃ許さねぇ……」
派出所を逃げた3人が復讐に燃える目をしながら、湿った空気を垂れ流しながら夜道を歩いていると。
突然闇夜に春の嵐が巻き起こり、、旋風が3人の横を通り過ぎたと思うと。
3人の視界の先には大きな山犬に乗り三度笠を被り袈裟を着た一人の男が立っているのが見えた。
「――は?」
象のような山犬の巨大さに、最初は3人も目を疑った。
「やれやれ――あの小僧がこれ以上荒れると、あいつも悲しむしな――こやつらもこのままでは瘴気を生み出しかねんし、ひとまず絶っておくか……」
紫龍はそう呟いてから、自身の愛刀、『白虎』を抜いて正眼に構えた。
「は? ま、マジで……」
「う、うわあああああああっ!」
3人の悲鳴が空に響いたと思うと、途端静かになった。




