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俺は昔から、『水』と『風』の付いた言葉が好きでね

 レストランは常に7割方の席の埋まりを維持しながら、とても忙しいわけでもなく、かといって暇でもなさそうな感じで時間が過ぎていく。

 雪菜は先日図書館で借りた本を読みながら、初春の方を窺う。

 相変わらず愛想はないけれど、色々と先のことを計算して、突っ立っている時間がほとんどない。このレストランは10時には閉店なので、もうできる限りの閉店業務を進めているのだ。

「……」

 そして、クラスメイトの秋葉紅葉の方も見る。

 肩まで伸びる栗色の髪を、左右で小さく編み込んだツインテールにしている。化粧は薄いけれど、血色のいい顔色を生かして、すごく元気な女の子に見える。胸とかお尻とか、出るところは出ているけれど、太っているわけではなく、結んだ前掛けのところがきゅっとくびれていて、女の私が見てもスタイルがいい。

 中学時代から、学校の可愛い女子の上位に入っていて、私とは縁のない、いつもクラスの中心にいた女の子だった。

 ホールには二人しか出ていないから、たまに二人がホールで会話を交わすのが見えた。

「……」

 ――いいなぁ、私もあんな風に、神子柴くんと話せたら……

 おもむろに、紅葉が雪菜の席の前に来て、おしぼりを差し出した。

「柳さん、ポテト持った手で本読んだら、油で本が汚れちゃうでしょ? これ使ってね」

 紅葉はにっこり微笑んだ。

「あ、ありがとうございます……」

 雪菜から見たら、紅葉はスクールカーストでは雲の上の存在である。こんな風に声をかけてもらえるとは思っていなかったのである。

「ふふ、こうして話すのって初めてだね」

「は、はい……」

「でもびっくりしたよ。柳さんが神子柴くんを知っているなんて」

「いえ、そんなものじゃ……」

 雪菜は赤くなり始めた顔を本の装丁で隠した。

「……」

 やっぱり――柳さん、神子柴くんのこと、ちょっと意識しちゃってるみたいだな……

 そう思った紅葉は、お客様の残りのテーブルを整理し、洗い場に持っていく初春の方を見た。

「お願いします」

 初春は洗い場の障害者クルーにもいつもそう言って、食器を置いていく。

 障害者クルーはいつも帰る時に、流し台をピカピカにして帰るのだそうだ。俺は仕事をちゃんとやる奴には最低限の礼は尽くす――そう言ってたな。

 ――きっと気付いてないんだろうなぁ。私が見たって少しは分かるのに。

「……」

 ――でも、もしかしたら気付いているのかな。

 神子柴くん、ココロに言ってたもんね。自分は学校にも行っていない、『ろくでなし』だって。

 いつも飄々としてるから気付かないのだけど……

 ――神子柴くんは、そういうところに遠慮してるのかも知れない。

「……」

 もしかして、秋葉さんも神子柴くんのことが……

「何やってるんだ、秋葉」

 そう言って、初春は自分の持っているトレイの底で、紅葉の頭を軽く叩いた。

「仕事しろ仕事」

「ぶー」

 飄々とした態度でパントリーに帰っていく初春を、苦々しい思いで見る紅葉であった。

「――やっぱり神子柴くん、秋葉さんにもあまりペースを握らせないんですね……」

「え?」

「――神子柴くんは、ここずっと『何でも屋』を作るのに忙しいのは分かってたんですけど、それ以外の事って、私まだほとんど知らなくて……」

「……」

 紅葉はレジ横に貼られている『ねんねこ神社』のチラシを見た。

「『何でも屋』――神子柴くんって、本当に、何を考えているんだろう……」


 閉店1時間前の9時になると、もう客はほとんど家に帰るために席を立つ。農業に従事している人間が多いこの町では、総じて皆朝が早いためだ。

 今日は特に暇で、9時を過ぎて残っている客は、雪菜一人だけになった。

 すでに初春達も閉店業務を進めている。ドリンクバーを解体して洗い、明日のシルバーも準備し、レジの金を数える。

「柳、ラストオーダーだけど、何か食後のデザートでも頼むか?」

 もう一人しかいないので、初春と紅葉が二人でオーダーを聞きに来た。

「だ、大丈夫です」

「そうか。ところで読書は進んだか」

「はい――思ったよりも静かでよかったです。私――友達もいないから、こういうところに来るのも初めてで」

「そうだったの?」

 紅葉が驚いた顔をした。

「今度は神子柴くんがキッチンの時に来るといいよ。神子柴くんの作る料理は美味しいから。私のお勧めは、この『スイーツマウンテン』だよ」

 紅葉が下げたメニューを開いて雪菜に見せた。

「――そう言えば二人とも、帰りとか大丈夫なのか? もう9時過ぎてるけど」

「……」「うーん……」

 この時、二人は互いに初春からの言葉を待っていた。確かに地元とは言え、街路灯も少ない道をこの時間、一人で帰るのは、ちょっと怖い……

「はぁ……俺でよければ――あと、方向が二人同じなら、送るよ」

「本当?」

 紅葉の表情がぱっと明るくなる。

「神子柴くん、たまにはいいところあるなぁ。いつもはすぐ帰っちゃうのに」

 そうやってつい期待していないふりをしているけど。

 本当は、すごく嬉しかったり……

 その反面で雪菜は、嬉しい反面で、少ししょんぼりしていた。

 ――そうだよ、私だけが特別じゃないよね。神子柴くんは、みんなに優しいんだよね……

 分かってはいるけど……


「よっし、片付けおしまい! レジも奇跡的に合ってた!」

「本当だな、いつもレジを一日一回はミスるのにな」

「そ、それはちょっと前の話だよっ! 私だって結構カードとか商品券の種類とかクーポンも戸惑わなくなってるんだから」

「はいはい。偉い偉い」

「むー」

 初春はキッチンを片付けて、最期の業務メールを打つ店長に売り上げを渡す。

「お疲れ様です」

 そう言って、初春と紅葉はタイムカードを打った。ロッカーで着替えてまだホールで待っている雪菜と合流する。

 初春は考えていた。

 柳も秋葉と一緒に帰れば、少なくとも学校で話をする相手はできるだろうし、俺がいれば、気まずいということもないだろう。柳は口下手を気にしているみたいだし……友達作りなんて、俺の柄じゃねぇけどな。

「秋葉の家はココロを送ったから知ってるが――柳の家は知らないな。ていうか俺に住所知られていいのか?」

「大丈夫です。家は神明です」

「あ、じゃあ私と同じ方向だ。手間が省けるね」

「やれやれ」

 そう言って、ファミレスを出て、もう店長の車しか止まっていない駐車場の脇のスペースにある駐輪場へと3人で向かった。

「秋葉さん、俺達が送ってやろうか?」

 後ろから声がして、3人が振り向く。

 そこには学生服のワイシャツを出し、ベルトを腰まで下ろしたファッションのキッチンクルー3人がいた。

「何だ、ホールで女にコナかけてるって言ってたからどんな女かと思えば、ぱっとしねぇ女だな」

 一人が雪菜を見てそう吐き捨てた。

「……」

「二人とも、付き合う相手考えた方がいいんじゃねぇの? そいつ将来性ねぇって。学校にも行けねぇし金もねぇ、ここで汗水働いて、自尊心保つのが精一杯の社会の底辺だぜ。その上口ばっかでよ」

「ははは、しっかしこいつは最高に笑えたな」

 そう言って、真ん中の一人が初春の方に何かを差し出した。

 それはファミレスの入り口に貼らせてもらった『ねんねこ神社』のポスターである。

「何でも屋――だってよ! キチィー!」

「イテテテテ! 名前のセンスもそうだけど、やってることがとにかくイテぇ!」

「この絵とかも、女子受け狙い過ぎだっての。結局若い女捕まえてやること考えてやがんだろ!」

 3人の高笑いが夜空に響く。

「ちょっと! やめなさいよ!」

 紅葉が少し強めに怒った。

「神子柴くん……」

「……」

 初春は黙って一歩前に踏み出した。

「それ――喧嘩売ってんのか?」

「あ?」

 薄ら笑いを浮かべながら、ポスターを持つ一人が首を傾げた。

「そんなつもりねぇって。単純にこいつの感想を述べただけだぜ?」

「同僚としての忠告だって。もう少しこいつのセンスを見直した方がいいって」

「ま、どうせ客なんて来ねぇよ。来たところでやってるのが半端者のお前じゃ、客がキャンセルするっての」

 そう言って、ポスターを持っている男がそのポスターを両手で引き裂き、その場で足元にして、汚い靴で足蹴にした。

「……」

 初春はそれを見た時、音々が泣いていた時のことを思い出し、酷く胸糞の悪いあの思いがぶり返してきた。

 あいつの人間を思う優しい心が――こんな奴等に思いを汚されている。

 そのことが、酷く腹が立って仕方なかった。

 そして……

「――やんのかやんねぇのかどっちだ!」

 さっきからあからさまな挑発を繰り返している目の前の連中に腹が立った。珍しく初春は3人を怒鳴りつけた。

 後ろにいる紅葉も雪菜も、普段落ち着いている初春の怒りを孕んだ大きな声に、背筋が凍った。

「分かんねぇ野郎だな。俺らがお前なんかマジに相手にする意味ねぇっての」

「そうそう。放っておいてもお前、ここにしがみつかなきゃ生きてけねぇんだろ」

「みんな中卒で身の程わきまえてねぇお前と働くの嫌がってるし、また勝手に問題起こしてそのうち追い出されりゃ、勝手に野垂れ死にだ」

「だから初めから、俺らの勝ちは決まってるからな。乞食殺すにゃ刃物はいらない――ってか?」

 そう言って、また3人が笑い出した。

「ほぉ……成程。馬鹿だと思ってたけど、それなりに頭いいな。確かにそうされたら、俺はこの狭い町で一文無しになる――確実に死ぬな」

 しかし、馬鹿笑いの激しさとは対極の冷徹な声で、初春は答えた。

「しかし――それをやられりゃ俺が野垂れ死ぬ、ってことが分かってて、お前等はそれをやる……」

「あ?」

「――それを何で『殺人』って言わないんだろうな――刃物で殺せば裁かれる罪で、その行動を取れば相手が死ぬと分かってそうする奴は裁かれない……何が違うっていうんだ? 本当に人間の唱える正義ってのは難しいぜ……」

 初春はこの町に来る直前に、身内にされたことを思い出していた。

 あの連中もそうだった。あの連中は俺の人生を全て否定し、なかったことにしようとしていた。

 俺は身内に間違いなく『死ね』と言われていたし、そう願われていた。自分達の選択で、俺の人生が滅茶苦茶になることも分かっていた。

 だが――それは人間の世界では、罪ではないらしい……

 つまり――俺を殺すことは、既に法に認められた必然ってわけだ……

「だが――実にほっとしたぜ」

「は?」

「俺は人間が嫌いだ――だから人間に首を突っ込むのが煩わしいと思って、多少なら報復はしないんだがな――」

「え……」

「人間嫌いは人間に報復はしないが――さすがに殺りに来てるなら例外だな。そろそろお前達の顔を見るのもうんざりしてきたところだし、丁度いい」

 そう言って、初春は一歩、二歩と3人の方へ足を進める。

「秋葉、柳――悪い。送るのに俺を待っていてもいいが――嫌なら逃げろ、待ってるなら目を閉じてろ」

「み――神子柴くん、何をするつもりなの?」

 紅葉の声は小さく震えていた。

「……」

 雪菜も、あのポスターを破られた時から、何とか今の初春を止めないと大変なことになると思ったが、あまりに静かな初春のその声に、背筋が凍りそうになっていた。

 二人とも、今の初春の様子を、怖い、と感じていた。

「へ」

 歩を進める初春の後ろに脇の2人が斜め後方にそれぞれ回り込み、初春は3人に囲まれた。

「まあ、死んだ方がましって心境なのかねぇ」

 目の前の男は、余裕の笑みを浮かべた。

「は? 何が言いたい?」

「あの時お前が俺達を止められたのは、キッチンに包丁があったからだ。違うか?」

「……」

 初春が沈黙している間に、初春の両後ろから二人がそれぞれ初春の腕を片方ずつ抑え込み、肩ごと背中の方へと回させた。

「だけどお前、今は武器もねぇ……つまり俺達を殺すような力はねえわけだ。なのに虚勢を張って、殺るなんて言っちゃって……ヒザ笑ってるぜ?」

「……」

「言い忘れてたけど、俺達3人中学じゃ柔道部だったんだぜ」

「ふぅん……」

 興味なさそうに初春は頷いた。

「テメェ――早くも抑えつけられてサンドバックの体勢だってのによ。余裕かましてんじゃん」

「お前と違って相手の強さ次第で都合を出したりひっこめたりはしないよ。だからお前達の実力は関係ない。俺が殺されるなら、それはそれでいい」

「ふ――スカしてんじゃねぇぞ!」

 前方の一人は、抑えつけられて空いた初春の腹に拳を入れた。

「神子柴くん!」

「ハハッハハハハハ! 抵抗できねぇオモチャってのは最高だぜ!」

 拳を入れている男は夢中になって初春の顔やら腹を滅茶苦茶に殴った。

「おいおい、俺達もこいつにゃムカついてるんだ。楽しみはちょっと取っといてくれ……」

 そう後ろの一人が言いかけた瞬間。

「ぎゃああああああああああああああ!」

 突然初春の右手を抑える男が大きな悲鳴を上げた。

「いっ!」

 体を抑えつけられていた初春だったが、体を思いきり捻り首だけを後ろに向けると、抑え込んでいた男の腕に噛み付いていた。

 そして次の瞬間、軽く隙間を開けた口をもう一度奥歯で噛み直すと、首の筋肉で一気に男の腕から肉を噛みちぎった。

 肉を剥ぎ取られた男の腕は、勢いよく血が噴き出し、もう初春を羽交い絞めするどころではなくなった。もう一方を抑え込んでいた男も、その異様な血の吹き出し方に気圧され、初春からばっと後ずさった。

 自由になった初春の口元も、血まみれになっていた。街灯に暗く照らされた瞳で、さっきまで自分を殴っていた男を睨みながら、噛みちぎった肉片をぶっと血の飛沫と共に噴出した。

「何驚いてる? ジークンドーじゃ噛み付きはルールとして認められてるんだ」

 初春は腕で口元を軽く拭う。

「お前、拳の感触で俺にダメージがほとんどないって分からないのか? 随分楽しそうだったが、こんなしょぼいパンチで俺に喧嘩売ってるのかよ……」

 そう言って、初春は自分の腕時計を見た。

「36、37、38……」

 時計を見ながら、初春は数字を読む。

「テメエっ!」」

 腕から血を流している一人を除いて、無事な二人が隙だらけの初春に先に攻撃を仕掛けた。

「40、41……」

 初春は目の前の男の拳を、自身の縦拳の肘の交差で軌道をずらしつつ頬にフックを決めたと思うと、そのフックの軌道を見ることなく飛び上がって、後ろを取っていた二人目に踵からの回し蹴りを顎に叩き込んだ。

「あぐっ……」

 両者とも顔面の激しいダメージに一瞬体が硬直したところに、初春は顎に蹴りを入れた相手には追い打ちのアッパーを顎に叩き込むと、その相手が吹き飛ぶのを見ることもなく踵を返し、頬を打たれて目に火花を散らしている目の前の男に、瞬時に胃腸に向けて水平蹴りを放った。

「ぐえっ!」

 激しいダメージに蹴りを腹に入れられた男は膝をついて、高山病にかかったかのように蹲る。

「ひ!」

 初春の目線が腕を食いちぎられた男の方へ向く。

 男の目では、初春の攻撃が速過ぎてほとんど何が起きたのか分からない程であった。どちらも二発喰らったのは分かったが、初春の動きが完全に想像を超えていたこと――そして初春の実力と、本当に自分達に向けられている殺意の強さを見誤っていたことを一瞬で理解した。

「ひいいっ! だ、誰か助……」

 男は血だらけになった腕を抑えながら、踵を返して駐車場から逃げ出そうとした。

だ、誰か近くを通りかかってくれ! ケーサツでも呼んでくれなきゃ、俺達はこいつに……

 その思考は、後ろから自分のワイシャツを抑えられた感触が伝えた恐怖で、一気に雲散霧消した。

 次の瞬間、グイッと後ろに強い力で引っ張られた男はそのまま後ろに尻餅をつかされると、尻の痛みが脊髄反射で脳が感知した頃には、初春が眼前に腰を曲げて目線を落としており、駐車場のアスファルトに頭を叩きつけるような拳を、ハンマーのように振り下ろした。

 男の脳は重い拳と、アスファルトに叩きつけられたことで激しく揺れて、脳震盪を引き起こす。酷い吐き気に襲われるし、指もまともに動かせないほどに酩酊した。

 よだれを垂らして、その傾向が表れたのを男の顔を見て察知した初春は、自分の腕時計を見た。

 秒針は58秒を指していた。

「一人は逃げようとしたが――一人当たり6秒の目標タイムはクリアか。普段ならこれで十分なんだが」

 初春は静かに腰を浮かせると、最初にフックを叩き込んだ、初春を殴っていた男の傍らに立つ。

「う……」

 腹を打たれていまだに酷い吐き気を催しながら四つん這いになって、体に酸素を取り入れようと深呼吸を繰り返していたが。

 男の頭は後頭部を初春に髪を掴まれて引っ張りあげられた。

「包丁がなきゃ粋がっても俺達を殺せない――そうでもなかったらしいな」

 初春はもう一撃、男の腹に拳を入れた。

「がはっ!」

 今度は胃液と共に、血が口から洩れた。

「こ、これ以上—―やったら訴えるぞ……! お前はもうこの店にいられなくなって死ぬんだ。こんなことしてタダで」

 ガスッ!

 言葉を言い終わる前に初春に顔を蹴り飛ばされた。

「は? 人を殺そうって言うのに法に裁かれる覚悟じゃなくて、法に守られるつもりだったってのか? 救いようがねぇな……人を殺したのに殺意がどうとか精神喪失がどうとか……クソみたいな議論して罪を認めねぇ人間様のやりそうなことだな。殺意が認められなきゃ人を殺しても許されると思っていやがる」

 蹴り飛ばすと、次は顎を殴り飛ばし、酩酊状態になっている男の方を見る。

「ま、待ってくれ! 俺達の負けでしゅ! だからやめ……」

「――俺は昔から、『水』と『風』の付いた言葉が好きでね」

 静かに話を始めた初春。

「水ってのは、本来とても優しいんだ。自分を頼り、敬意を表する者には危害を加えたりしない――だが時に牙を剥く――その牙を剥く相手は例外なく、自分を多少なりともナメた相手だ。そういう相手にはとことん容赦ない。それこそ何の悪意もなく殺すまで――その殺し方も実に静かだ。自分をナメたことを後悔しているだろう相手に、死ぬまでの走馬燈を与えて無慈悲に飲み込み、苦しい思いをさせて殺す」

「……」

「結構理想にしてるんだよ、そういう殺し方。お前等みたいに誰彼構わず傷つけるのは趣味じゃないし、愉悦も悪意もない――派手である必要もない。相手をナメてかかった――つまり、自分はそいつに撃たれる覚悟もないのにそいつを撃った――そんなクズだけを的確に殺したい。お前達は俺を殺る気だった――俺もお前等みたいな殺られる覚悟もないのに殺る奴はいけ好かねぇし、お互い殺る理由も殺られる理由も、それで十分だろ?」

「うひ! 殺すつもりなんてないでしゅ! ただちょっとからかって遊ぼうかと思っただけ」

「その『からかい』で、俺が野垂れ死ぬってことが分かってても認めねぇかい――多分法廷でもそうなんだろうな。俺の方が勝手な解釈をしたってことになって、正当防衛は認められないんだろう」

 沈んだ声で言いながら、初春は喚き阿る男の口に蹴りを入れた。

「ひべっ!」

「優しい世界だね、人間の世界って――俺はそんな世界に裁かれるから、安心して天に召されよ、ってか……」

 そのまま仰向けに倒れた顔をマウントを取って殴りつけながら、思った。

 音々――これが人間だよ。

 人を内心じゃ殺す気満々のくせして、その内心抱えて綺麗事を吐いてやがる。

 法だってそうだ。こいつらに殺意があったってことは決して認めない。

 俺の身内も同じ――あいつらのやったことは、殺人にも傷害にも虐待にも該当しない。

 過労死をさせる会社の命令を下す人間も、リストラを命じる社長も、生活かかっている受験生を落とす面接官も、いじめで相手を自殺に追いやった生徒も――ただ武器を使ってないだけで、人を殺してる奴なんて世の中にゴロゴロいるのに。

 それが殺人には当たらない? 理解できねぇし、したくもねぇ。同情の余地がねぇ。

 そして、初春の中に確かなものが芽生えるのがはっきりと感じられた。

 これ、殺れるな……

 初めて既に戦闘不能の相手に追い打ちをかけているが――うん、どうってことないや。俺を殺そうとした奴に何の同情も湧かないや。このまま間違いなく、こいつら、殴り殺せる……

 うん――殺れる……

 どうせいつかこいつらにここを追い出されたら野垂れ死ぬんだ。なら、ここで先に……

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