俺の人生は、もうとっくに詰んでる
次の日、少年は店長の指示通りランチタイムの勤務ではなく、ディナータイムのシフトに入るために、いつもよりも遅い11時からの出勤になった。
昨日の話を聞かれたかと思っているパートの女性達は少年に対し酷くよそよそしい接し方で、仕事の指示をすることもほとんどなかった。少年の無反応ぶりが酷く不気味だったのである。
ギスギスした空気を抱えたままランチタイムが終わり、時間は夕方の4時半になっていた。
少年は5時から始まるディナータイムに備えて遅い昼食をとるための休憩に入った。
さすがに昨日の事があったからかいつもは長居するパートの女性達も今日は仕事が終わるとすぐに帰り、控室は少年一人だった。
少年は自分で作ったオムライスをテーブルに置き席について、ふうと息をついた。
仕事内容はマニュアル通りにするだけだからどうということはない。
別に人間関係もどうでもいいが――
学校に行っている頃と違って、こうして出勤する時間や食事をとる時間がすぐにころころ変わる……人が飯を食う時間に自分は働く。出勤時間も変わるから生活も思い通りになりにくい……特に睡眠時の疲れの取れ方の違いを感じる。
これがお金をもらうために働くってことか。働くために多少の不自由を享受しなければならない。そんなことを考えた。
「……」
この先どうするか……
そんなことを考えている間に控室の扉が開いた。
息をせき切って入ってきたのは、少年と同世代の女の子だった。栗色の茶髪を肩の下まで伸ばし、編み込んだツインテールを作っている。身長は160センチくらいで華奢な体つきだが、胸はかなりの主張をしていた。このあたりの高校の真新しいブレザーを着ている。校章の横にⅠというバッジをつけているから少年と同い年である。
「あ……」
少女はびっくりしたような顔をした。恐らく少年のことを噂に聞いていたのだろう。
「……」
「は、はじめまして」
少女は気さくに笑顔で声をかけた。
「――どうも、はじめまして」
少年は会釈を返した。それを終えると少年はオムライスに匙を伸ばした。
「わぁ、このオムライスいい仕上がりですね。お客様もこのオムライスが出たら喜びますよ」
少女は少年の前のオムライスを見て、少年の向かいの席に座った。
「……」
「店長から噂に聞いています。ここに入ったばかりなのに仕事はすぐにできるようになったって。すごいですね。私なんて……」
「――別に無理に話してくれなくていいですよ」
にこやかな少女の声を少年の静かな声が遮った。
「え?」
「自分の立場は弁えてるんで――仕事では邪魔にならないように相努めますから」
そう言って少年は食べかけのオムライスを手に取って、控室を出ていく。
店舗から厨房裏の廊下に続く階段に腰掛け、少年はオムライスを食べる。
「……」
別に控室を去るつもりはなかったが、あの少女の高校の制服を見た時に少年はこの街に来る直前のことを思い出してしまった。
少年にとって果たせなかった約束のことも……
ディナータイムの層が薄いということは先に店長から聞いていたが、入ってきた面子を見て少年はそれを納得した。
厨房に3人少年の他に同世代の男子が入ってきたが、入ってきて早々禁止されているピアスをはめて入ってきた時点で少年は酷く嫌な予感がした。
まともにマニュアルを覚えていないし、オーダーが途切れればシフトお構いなしに裏に煙草を吸いに行き、厨房での私語も客に聞こえるような声のでかさで話している。
このファミレスはオーダーから13分以内に料理を提供するマニュアルがあるが、大して忙しくもないのに提供率が70%を切った。ランチタイムの提供率は90%オーバーなのに。
もう個人のレベルや連携という以前に、従業員のやる気の問題であった。店長もクレーム対応を見越してさっきの少女達と一緒に最初からホールに出ている。
「……」
少年はパスタ場、サラダ場、フライヤーを駆け回りながら、色々な疑問を一気に解決した。
この状態じゃ明日の仕込みなんかそりゃやらないだろうな……そして、こんな素性のわからない自分を雇うのも頷ける。
そして店長も、仕事を覚えたら自分をこちらのシフトに入れてこいつらの面倒を見させる気だった――自分ははめられたのだということも。
「ペスカトーレとアラビアータ、ポモドーロまとめて持って行ってください」
少年は提供台の向かいから伝票を整理し、一つずつ片付けていく。
「最後のカルボナーラもすぐに出します」
「は、はい!」
先程の少女も少年の指示に対応する。
「く……」
自分より先輩がいちいちメニューをマニュアル本を見ながら作っているから仕事が遅い……一番まともに回っているのが障害者がやっている洗い場とはな。
8時を過ぎるとディナータイムのピークも落ち着きだし、ようやく厨房も落ち着き始める。
しかし厨房は悲惨な有様だった。補充も明日の仕込みも全然終わってないし、提供率は結局少年の奮闘で75%まで持ち直したが、提供が遅くて注文を取り消したテーブルが3組も出た。
「あーあ、今日も終わったぁ」
少年は9時上がりなので上がる前の厨房の片付けをしている間、他の厨房クルーはひとかたまりになって作業台に寄りかかって談笑している。
「なあ、仕事が終わったらどっか遊びに行かね?」
「もう金ねえっての。ここらじゃこんな時給安いバイトしかねぇしなぁ」
「働いてほしかったら、もっと金出せっての」
クルーは髪留めの着用を嫌がっているから、髪を触ると茶髪が作業台に落ちる。しかも髪にはワックスがついている。その手で調理をしていたのだ。
「おい新入り、お前も作業終わったら遊びに行くか?」
クルーの一人が、離れて仕事している少年に声をかけた。
「――俺はいいです」
少年は静かにそれだけ言う。
「あっそ。親切で言ってやったのに」
「バカだなぁ、中卒は大変なんだよ」
「お前、それ言う? カワイソー!」
再び大笑いが厨房に響き渡る。
「……」
厨房にガシャガシャと音が響く。
少年と同じ9時に上がる洗い場担当の障害者クルーが、上がる前に食器を各配置に補充しているのである。一度に沢山の枚数を持つから、皿同士が揺れるだけで音がする。
もう何年も同じ仕事をしているのだろう。時間配分もしっかりできていて流し台がピカピカになっている。
クルーが3人立っている作業台の下にデザート用の皿を冷やしておく冷蔵庫がある。障害者クルーは、3人の横にある冷蔵庫を開けるために3人の横にかがんだ。
「――ちっ」
クルーの一人が舌打ちすると、そのまま障害者の背中に蹴りを入れた。
「おいブタ、俺達の横に来るな、汚ぇんだよ」
「毎日毎日皿洗いばかりで油ギトギトしてるし、臭ぇよ」
「俺達にちゃんと断ってから皿をしまいな」
他の2人もしゃがんでいる障害者を囲んで蹴りを入れた。
「す、すみません、すみません……」
障害者クルーはそれしか言葉を知らないようにその言葉を繰り返すが、表情はニコニコしている。
別に蹴られて喜んでいるわけじゃない。自分のことをそうして気に掛けることを自分が心配されていると勘違いしているのだ。
ブタというあだ名も蔑称だということが分からない……みんな自分を見て笑ってくれていることをいいことだと思い込んでいるのだった。
「す、すみません」
「こいつそれしか言えねぇのかよ!」
3人は次第に苛立ちを覚えた顔になる。
「這いつくばってろよ!」
クルーの一人が拳を振り上げた。
しかし、その拳は振り上げた先で抑えつけられる。
厨房の整理をしていた少年が、その拳を自分の手で掴んでいたのだ。
「――何だよ」
「先輩、障害者いじめなんて見てて気分がいいもんじゃないんで、やめていただけますか」
少年は3人を睨んだ。
しかし。
「――ぷっ!」
「ぎゃははははは!」
それを聞いた3人は大笑いした。
「お、お前がこいつの心配する?」
「……」
「聞いてるぜ。お前高校にも行かずに、両親もいないでこの町に来たよそ者だってな」
「中卒フリーターで両親もいないなんて、もうお前の人生詰んでるじゃん」
「お前、世間一般でみりゃそこの障害者と変わらない社会の最底辺組だろ? こいつの心配してる場合? こんなところでいくら頑張って仕事したって、社会で最底辺なのは変わらないぜ」
「……」
俯く少年に、クルーの一人は後ろから膝に蹴りを入れた。少年の膝は崩れ、厨房に膝をつく。
「今のうちに他人に対して服従することを覚えた方がいいぜ。今後の人生、人の足を舐めて奴隷になることをしなきゃ、お前ら最底辺は生きていけないよ」
「ぎゃははははは!」
クルー達の大笑い。
「……」
少年はその耳障りな笑い声の中で、思った。
そうか――俺はこんな連中よりもはるか下にいて。
そして――こんなのに足蹴にされ続けるのが、俺のこの先の人生か……
頑張っても、頑張っても。
パートの糞婆共は、まだ会って1週間もしないのに俺を奴隷認定していた。
こいつらに至っては3時間だ――その僅かな時間だけで。
俺の人生を、この先ろくに会話もしないような奴等が一瞬で嘲笑する。
俺のこの世で最も嫌いなものが……
――人間が。
「お前も俺達に服従して、奴隷になってりゃいいんだよ!」
クルーの一人が少年に向かって再び拳を振り下ろした。
「……」
少年は拳を自分の裏拳で払いのけると、そのまま相手の手首を掴んで立ち上がり、素早く後ろに回り、相手の腕を背中にひねって抑えつける。
そしてもう片方の手で、厨房の作業台の上に乗っていた包丁を取って相手の首筋に刃をあてがった。
「う……」
あまりに速いその動きに棒立ちすることしかできず、クルーは息を呑んだ。
「――動かないでね。頸動脈斬れちゃうから」
「ひ……」
包丁をあてがわれたクルーは抵抗もできないまま、他の2人に助けを求めるように視線を送る。
だがその前に二人とも、少年の殺意を帯びた視線に牽制されている。悲鳴を上げることも抑え込ませるほど、少年の眼光の鋭さは鬼気迫るものがあった。
「ううう……」
少年の隣でうずくまっていた障害者クルーも本能的に恐怖を感じたのだろう。尻もちをついたまま、少年から後ずさった。
「こ、こいつ……キレやがった……」
「――先輩、中卒の俺が先輩に奴隷の歴史でもレクチャーしてあげましょうか」
包丁の刃を寝かせて、少年は包丁で軽くクルーの首に刃を当てた。
「古代ギリシャの有名な都市国家スパルタ――この都市には一般市民の10倍の人口の奴隷がいました。奴隷が一致団結して反乱を起こせば普通に勝てる……だがこの都市で奴隷の反乱は起きなかった。何故だか分かりますか?」
「う……」
包丁をあてがわれた状態でまともな思考も受け答えもできないクルー達は、何も答えなかった。
「正解は――スパルタの一般市民が全員奴隷10人分以上の戦闘力があったから――だよ」
「……」
「つまりね――人を力で奴隷にするってのはあんたらが思っているよりもずっと危険な行為なんだよ。古代でそれが分かったから、それ以降の奴隷は暴力ではなく金で作られるようになった……それくらいの力がない奴は寝首を掻かれました……こんな風に」
そう言って少年は、包丁を持っている手を勢い良く横に引いた。
「ひいっ!」
包丁をあてがわれたクルーはカン高い悲鳴を上げたが、包丁は首の皮を軽く掠めただけで、クルーの首元に冷たい風を横切らせただけであった。
「はあ……はあ……」
少年の腕に明確な震えが伝わり、脂汗が包丁の刃を伝った。
「――あんた達に今更言われなくても知ってるよ。俺の人生は、もうとっくに詰んでる……」
再び首筋に包丁を構え直すと、酷く静かな声で少年は話し始めた。
「だが――そんな俺が何で今、こうして生きているか分かる? あんた達みたいな思い上がったいけ好かねぇ野郎を何人か見繕って、ぶっ殺してやりたいと思っているからだよ」