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『ろくでなし』っていうんだよ

 山犬が家の庭に降り立つと、もう先に比翼が帰っていて、ここに集まっていた神々達も、瘴気が収まったのを見て、あらかた自分達の住処へ帰った後であった。

「お師匠様、ハル様!」

 山犬が帰ってきた音を聞いて、音々はすぐに家の外に出て、二人に駆け寄った。

「わあっ!」

 また小紋の裾を踏んずけて、べちゃりと前のめりにコケる

「おいおい……」

「いたた――だ、大丈夫ですか、お怪我は?」

「お前が言うな。大丈夫だよ、俺もおっさんも」

 初春はそう言って、音々の額にかかる髪を分けた。

「少し擦り剥いてるぞ。お前こそ治療が必要だ」



 家の中で一息ついて、時計を見ると8時半を回っていた。紫龍は居間の隅に胡坐をかいて寄りかかる。

「――小腹が空いたな」

 初春は紅葉のお婆さんから貰った、蓮根のきんぴらと、漬物の入ったタッパーを持ってくる。

「ハル様、それは?」

「ん? 今度始めるバイト先で貰ったんだよ。なかなか美味いぜ」

 初春は特に気に入った蓮根のきんぴらに箸を伸ばす。時間が経って冷やしたから、さっき食べた時よりも味が染みている。

「――癖になるな、これ」

「――おひとつ、もらってもいいですか」

 音々は訊いた。

「ああ、美味いぜ、ほら」

 そう言って、初春は箸で蓮根をひとつつまんで、音々の口の前に差し出した。

「えっ?」

「ん?」

 初春は首を傾げたが、しばらくして、キッチンに行き、小皿に蓮根を取って、割り箸と共に音々に渡した。

「悪いな、配慮が足りなくて」

「……」

 音々は、少ししょんぼりしながら、蓮根に口をつける。

「味醂とお酒――胡麻油と、鷹の爪……確かに美味しい……」

 吟味して、味付けをリサーチする。

「しかし坊や、大したもんだね。初めて荒ぶった妖怪を見ただろうに、少しも怯んでなかったね」

 比翼が初春を讃えた。

「……」

 紫龍もその話題に、ぴくりと反応する。

「怖くなかったのかい?」

「……」

 初春は箸を止めて、言葉を選んだ。

「自分でも不思議なんだが――今日はすげぇ楽しかったな」

「え?」

「こんな感覚久し振りだ――あの馬と向き合った瞬間――逃げ場が倒れた木に塞がれて、その時はさすがにやばいと思った。失敗したらあいつの突進で体中の骨がバラバラになって、すげぇ痛い思いして、死ぬかもしれない状況だったのにさ、ゾクゾクするほど楽しかったんだ。それでいて、自分の心が、ものすごく静かでさ。ああいうの、ゾーンに入る、って言うのかな」

「……」

「なんとまあ……」

 比翼は呆れ返った。

「――ん?」

 呆れ返った瞬間に、比翼は初春に近づき、鼻を初春の体に向ける。

「――何だ?」

「ん? いや、瘴気の臭いにかき消されていたが、最近坊や、いい匂いがするな、と思ってね」

「え?」

 音々が不安そうに立ち上がった。

「――何だ?」

「いえ……」

「……」

 比翼は音々の顔色を見て、初春の方を向いた。

「ところで坊や、この町には慣れたのかい?」

「――何でそんなことを訊く?」

「私は縁結びの神だからね、坊やに世話になっているし、この町で気になる女の子でもできてないかなと思ってね」

「……」

 音々は、初春の沈み込む横顔を伺った。

「――そんなのがいたとしても、詮無い事だな」

 初春は言った。

「中卒で定職もない、家族の助けもない、社会の最底辺が惚れた女に何をしてやれるよ」

「そうかい……」

「……」

 沈黙。

「――ちょっと走ってくる」

 そう言って、初春はタッパーを冷蔵庫にしまいなおし、そのまま家を出て行った。

「――匂いがしたのか?」

 初春の気配が消えたのを確認してから、紫龍が比翼に訊いた。

「ああ、最近坊や、いい感じの匂いがするんだよ」

 神は人間と比べ、はるかに五感が鋭い。音々はアヤカシの声を聞くだけでなく、普通の音にも敏感で、ずば抜けた耳を持っているが、比翼は鼻がいい。

 特に比翼は、相手の好意を香気として感じ取る力を持っており、訊かなくともその人が誰かに想われているのかが分かる。

「しかも複数だね。といっても、まだ恋の蕾――ちょっと気になるな、くらいの感情だ。そんな感情を坊やに向け始めている女の子が、少なくとも最近現れ出してるね」

「――何故それを本人に言わんのだ。あの歳の小僧なら、悪い気はすまい」

「私は縁結びの神だからね。勝手に外野が、本人の純粋な想いを伝えてしまうのは、その想いに失礼だろう? そんな野暮はしないのさ」

「――ふん、その商売の下手さで、有能な神なのに仕事が減ってしまったというのに、殊勝なことじゃ」

「……」

 そんな紫龍の皮肉を笑いながら、比翼は音々の方を見る。

「わ、私、お風呂の準備をいたします……お師匠様もハル様も、疲れてますでしょうし」

 そう言って、とたとたと風呂場に引っ込んでしまった。

「――同じ神から人間に向けられる香気なんて嗅いだ事がないのだけれど、もしかして、あの娘も、もう感謝じゃなくて、坊やのことが気になりだしてるんじゃないのかね」

「何?」

「紫龍殿は遊郭にも行かれるが、娘のことには目が行き届いてないようだね。ここ最近、あの娘の坊やを見る目が、少し変わってきているような気がしてね。元々あの娘は坊やに懐いていたから、まだ感謝の気持ちなのかも知れないけど……」

「――天界の住人が、人の小僧をな……」



「はあ、はあ……」

 初春は毎日30分以上を目安に神庭町内を走っている。

 ランニングコースは特に定めていない。見知らぬ町の土地勘をつける作業を兼ねているからである。

初春は山を下り、神庭町の海岸に来ていた。

 壁のような防波堤を上り、テトラポットの詰まれた地帯を抜けると、小さな砂浜の広がる綺麗な海岸になっている。海水浴場として売り出すには、猫の額のように狭いが、地元民が泳いだり、潮干狩りをする程度なら十分だろう、という程度の場所だった。

 この場所も、初春のお気に入りの場所である。この町の星空が気に入った初春は、自分の部屋のバルコニーと、この砂浜に寝そべって見る星空は、金のない初春にはとても贅沢であった。

 潮騒の音を聞きながら――美しい神庭町の星空を見ながら。

 初春は、思いを馳せていた。

「……」

 結衣からの電話を無視する度に、初春は実感していた。

 自分の心の、いまだ寸分も陰ることのない程熱い、結衣への想いを。

 そして、その結衣を賭けて、強大な直哉と戦うことに対する渇望を。

 ――それが果たされなかった、その未練を。

 その想いが、二人の電話を無視する度に、募っていることを。

 最近直哉がよく自分に言っていた言葉を思い出す。

『俺は激アツの場面で力を発揮するタイプなんでな』

 東京にいた頃は、その言葉の意味がよく分からなかった。

 でも――結衣の想いに気付いて、その言葉の意味が判った気がする。

 短い間だったけれど、結衣を賭けて直哉と戦うと決めた時は、毎日心がゾクゾク震えた。

 自分の最愛のものがかかっている場面で、己の全てを出し尽くして戦えること。

 ――それは、14年生きてきた自分の全てを肯定できてしまうほどの喜びに満ちているとさえ思えるほどに、初春の心を躍らせていた。

 思想も夢もぬくもりも知らない初春の心が、初めて自分のために何かを望んだ時間だった。

 それを今日、山で火車と対峙した時に、改めて感じた。

 しくじれば即死ぬかもしれない――そんな状況だというのに。

 自分がその状況で、全力を出し尽くさねばならないことを、震えるくらい楽しいと思ったことに。

 自分が、その頃の二人と共にいた頃の時間と、心の高揚に、どうしようもないほど飢えていることに。

 もっとあんな、全身の毛が逆立つような場所にいたいと、希った。

「……」

 大の字に寝転がり、星空を見上げると、また妙に哀しくなって、嗚咽もなく、初春の目に涙が伝った。

 火車と対峙した高揚が心に残る中で、その時の想いが鮮明になり、二人に対する未練が溢れた。

 この町の生活が気に入らないわけじゃない。妖怪達と暮らすことも、人間と一緒にいるよりもずっと気が楽だし、家族を捨てたことに後悔もない。

 勿論今やっている何でも屋の計画だって、嫌々やっているわけじゃない。音々を神様にする事だって、別に慈善でやろうなんて気もない。

 ただ……

 この想いだけは、どうしようもないみたいだ。

 この町での暮らしに、特別大きな不満はないんだ。

 ただ――できることなら、俺は欲しい。

 直哉と結衣のような、心が震えるほどの思いで向き合える何かが……



 ――それから3日後、初春は朝の3時に、久し振りに目覚ましで目覚め、周囲が真っ暗な中を自転車に乗って、紅葉の祖父母の家へと向かっていた。

 庭に入ると、お爺さんはツナギ、お婆さんもモンペを着て、初春が来るのを待っていた。

「お、来たね。今日が初仕事だ。眠くないかい?」

「大丈夫です。この3日で少し早く寝る習慣に変えてきたんで」

「よし、じゃあ今日はキャベツ畑だ。行こう」

 そう言って、まだ日も昇り始めていない中、お爺さんがトラックに乗り込む。

 初春は荷台に乗って、ようやく空の下の方がわずかに明るくなった空を見る。

 この家の周りは、多分動物を飼っている牛舎や鶏舎、そして農家の家だろう家が少し見える以外は、ほぼ一面の畑になっていた。

 トラックが止まり、その場に下りると、初春の目の前には、山の麓までずっと続くような広大なキャベツ畑が一面に広がっていた。

「ほい、これを持って」

 初春はお婆さんから、かなり大振りの、よく研がれた包丁を渡される。

「え? このキャベツを全部、これで?」

「ははは、そりゃ無理ですよぉ、これで摘むのは、加工しないで売りに出すキャベツだけですよ。傷が付いたらまずいものは、これで付け根を切って収穫するんです」

「その間に俺が加工用のキャベツを機械で収穫する。1時間ほど手摘みをやったら、今度は機械で根を落としたキャベツを段ボールに詰めながら拾う作業だ」

「……」

 ――マジで? この何万あるか分からないキャベツを、少なくとも全部拾って?

 とは言え、初春は元々こういう、頭を使わず、黙々と他人と喋ることもなく続ける仕事が好きなので、すぐに順応を見せる。

 元々自分がコツコツやっていれば、いつか終わると分かっている仕事は好きだ。元々目立たない場所でそういう雑務をこなす仕事に回されがちだったので、そういう仕事が目に見えて減るような仕事はやりがいを感じる。

「段ボールは農協の規格があって、生産者の名前が入るんだ。サイズは農協の規格で決まっていて、Lサイズなら8玉、Mサイズなら10玉、この段ボールに入れる。まずはサイズの大体の見分けを覚えるところからだねぇ」

「はい。でもすごいですね。これだけのキャベツを規格まで揃えて売り出すなんて」

「形の揃わないものは、サラダや揚げ物の付け合せみたいな、用途に合わせて加工して売り出すんだ。そっちも重要だけど、スーパーとか大口に買ってほしいから、みんな必死だよ」

 東京にいた頃にはまったく馴染みのない仕事に、初春も次第に興味を持ち始める。

 一時間、包丁をひたすら引く仕事を続けた後、収穫機の後ろに転がっているキャベツを拾って、ひたすら段ボールに詰め込む仕事を続ける。それを畑の機械の通り道に置いてあるパレットに載せて、段ボールが積み上がったらお爺さんがフォークリフトでトラックに積み込む。

「うお、結構荷崩れするんだな。気をつけて詰まないと……」

「もうそんなに積み上げたの。やっぱり若い人は動きがいいねぇ」

 仕事の速さもさることながら、仕事の丁寧さも兼ね揃えており、初春の初仕事の勤務態度は、老夫婦の期待に見事に応えるものだったようである。



 作業を中断して、老夫婦の家に帰ると、既に朝食が用意されていた。

「今日は若い子が来るから、ロールキャベツを作ってみたの。うちの畑で取れたキャベツよ」

 そう言って、コンソメスープでじっくり煮込まれたロールキャベツにかぶりつく。

「美味しい……これが野菜の甘味ってやつですか?」

「自分の仕事が近くに感じられると、また美味しいでしょう」

 お婆さんもロールキャベツを頬張って、初春に笑いかけた。

「いや、しかし君、細いからちょっと心配したけど、いい仕事ぶりだったじゃないか。体が空いた時は、いつでも手伝いに来て欲しいくらいだよ。これから大根とかも収穫があるからね。いっそレストランを副業にしてもいいんじゃないか?」

「――どんだけこの町の畑って広いんですか」

 ――食事を終え、庭にある物置に作業で遣ったものをしまいに行く。

 生活サイクルの違う仕事の初出勤ということで、今日はファミレスのバイトは休みにしてある。4時間ずっとかがんでの作業と力仕事だったが、日ごろ鍛えている初春は、十分バイトの掛け持ちは可能だと確信を得た。

 今日は日曜日、日曜日に仕事をしないのは、この町に来て初めてなので、今のうちに『あれ』を完成させるか……

「あ、ハルくんだ!」

 そう言って、元気な声を出して、初春の横に飛び込むようにやってきた小さな影があった。

「ココロ……」

「神子柴くん」

 また声のした方を見ると、ガウチョパンツに白の首長トップスという、女子高生らしいいでたちの秋葉紅葉が立っていた。

「秋葉――」

「今日初仕事だよね。ココロに言ったら、神子柴くんに会いたいって聞かなくて……」

 そう言って、紅葉は初春の方を見る。

 レストランの白シャツに黒パンツも似合うけど、薄手のインナーにチノパンってだけの着こなしも、武骨な神子柴くんのイメージにぴったり。そんなに背が高くないけど、体のラインが綺麗だし、特に腕の筋肉が出てるのが、紅葉のお気に入りであった。

「ハルくん、おじいちゃん達といっしょににはたらくの?」

 心はとことこと初春の方へと来る。

「ああ、とりあえず邪魔じゃないならだけどな」

「お仕事、大変だったかな」

「一応歓迎してもらったよ。むしろレストランを副業にして、こっちで働いてみないか? って誘われたくらい」

「そ、それはダメだよ! 神子柴くんがいないと、バイト、やばいんだから……」

 紅葉は全力で否定する。

「……」

 そんな紅葉には申し訳ないが、実際はあのレストラン、俺を嫌ってる奴が多そうだし、それも悪くないかな、なんて、少し思っていた。

「ところでココロ、今日は随分おめかししてるじゃないか」

 初春はしゃがんで、心と目線を合わせる。心はギンガムチェックのスカートに赤のカーディガンを羽織って、靴はライトの付いている子供靴だ。

「これからお姉ちゃんとおでかけか?」

「うん! これからクレハちゃんと電車に乗って、学校で使うものを色々買いに行くの。絵の具とか、色鉛筆とか、お洋服も見るんだよ」

「……」

 初春は、胸に憤りを覚える。

「――そうか、学校か……学校は楽しいか?」

「うん、この前はお友達とかくれんぼして遊んだの」

「そうか、それはよかったな……」

「……」

 いつもどおり、子供の前では穏やかで優しいけれど。

 初春の纏う空気がまた変わったことに、紅葉は気づいていた。

「ハルくん、クレハちゃんともいっしょにはたらいてるんでしょ?」

「ああ」

「クレハちゃんがね、ハルくんのお話をよくしてるの。ハルくんのお料理がおいしいって」

「こ、ココロ!」

 紅葉はぎょっとした。このお子様が変なことを口走らないか、一気に心拍数が上がった。

「ハルくんは、クレハちゃんのこと、すき?」

 だが、そんな紅葉の静止も間に合わず、ココロはド直球の質問を初春にぶつけたのだった。

「……」

 ――終わった。

 体中の力が抜けて腰砕けになりそうになる紅葉。

「――ココロ」

 初春は口を開いた。

「俺はね、ココロも行ってる学校に行ってないんだよ。学校にも行かずにふらふらしている奴――そういうの、なんていうか知ってるか?」

「ん――わかんない」

「『ろくでなし』っていうんだよ」

「ろくでなし?」

「そう、お姉ちゃんが俺みたいのと一緒にいたら、お姉ちゃんはみんなから馬鹿にされちゃうんだよ。だから、お姉ちゃんはそういう奴じゃない、もっとかっこよくて、勉強も運動も一生懸命やっている奴のことが好きになるんだよ。俺みたいなろくでなしなんか、相手にしてないさ」

「ん――よくわかんない。私は、ハルくんもクレハちゃんとなかよしでいてくれたらうれしい」

「そうか?」

「だからね、ハルくん、がんばって『ろくであり』になってね!」

「ろくであり? 面白い言葉が誕生したな――ココロってもしかして天才か?」

「えっへへ……」

「……」

 軽妙な冗談を口にしながら、心の頭を撫でてやる初春を、紅葉は沈痛な思いで見ていた。

「――神子柴くんは、ろくでなしなんかじゃないよ……」

 紅葉は、こらえきれずに言った。

「いつも仕事頑張ってるじゃない! 子供とかお年寄りにだって優しいし、神子柴くんの作る賄いも美味しいじゃない!」

 少し荒い声を出して、自分が泣きそうになるのを必死にこらえる紅葉。

「……」

 初春は、そんな紅葉の剣幕に、心と一緒に気圧されていたが。

「――俺が社会の最底辺這いつくばってるのは変わらないさ。現にあのファミレスの連中だって、俺を奴隷だなんて言ってやがるしな」

 初春は淡々と言った。

「でも――ありがとな、秋葉。言葉だけはありがたく受け取っておくよ」

 淡々と礼を言って、初春は再び心の方を見る。

「ココロ、お姉ちゃんと一緒だからって、はしゃいでまた財布を落とすんじゃないぞ」

「だいじょうぶ。あたらしいヒモをつけてきたの」

 そう言って、心はカーディガンの中にしまってあった、猫のがま口財布を見せた。

「……」

 その財布を見た瞬間、初春の脳裏に青天の霹靂が走った。

「――ね、ねえ、神子柴くん。今日確か、バイト休みだったよね」

 そんな上の空の初春に、紅葉が声をかける。

「も、もし今日暇なら、今日、買い物に付き合ってよ。今までの借りを、荷物持ちで返してもらうのもありかな、って……」

「……」

「べ、別に来られない用事があるって言うなら、それでもいいんだけどっ」

「お……お……」

 初春は声なき声を漏らしながら、ココロを両手で空にかざすように抱き上げた。

「わははははっ! ココロ、ありがとな!」

「え?」

 初めて見る初春の呵々大笑に、紅葉は呆気に取られる。

「ハルくん、すごくうれしそう……」

「ようやく決まったぞ、名前が!」

「名前?」

 紅葉は首を傾げた。

「悪い秋葉、俺、今日はやることができた。急いで帰らなきゃ」

 そう言うと、有無を言わさずに初春は庭に止めてあった自分の自転車にまたがり、一気に門扉を出て、全速力で農道を駆け抜けていってしまった。

「……」

 あまりの速さに、呆然と立ち尽くす紅葉。

「あらら、もう行っちゃったのかぁ」

 紅葉が振り向くと、そこには重箱を持ったお婆さんがいた。

「おいなりさん作ったから、お土産に渡そうと思ったんだけど……」

「すごいいきおいで出てっちゃったの。ハルくんって風みたいだよね」

「風、か……」

 本当に、捉えどころがない。何考えているかまったく分からなくて。

 いつも捕まえられそうな時に、風みたいにすり抜けていってしまう。

 さっきだって、結構恥ずかしかったのに……

 ――神子柴くんのバカ。

「真面目ないい子だったねぇ。紅葉の彼氏だったら私も嬉しいのに」

 お婆さんが笑いながら言った。

「でも、あの子、変に私達に遠慮してたしねぇ――きっと、今までほとんど人に優しくされたことがないんだろうねぇ」


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