戦神は、時代遅れの神なのじゃよ
刀身から光が収まり、視界はまた暗い夜の森に変わる。
「?」
しかし、その反りの強い刀身には何の変化もない。その白刃も、太刀自体も何も変わっていない。
「……」
――何だったんだ、今の光は。
――いや、それよりも。
初春は刀身から目の前で体勢を立て直す、青と紫の炎を帯びた馬に視界を戻す。
そして一瞬、周りを一瞥して、状況の確認。
初春の後方は、馬が突進で薙ぎ倒した木が前を塞いでいて、もうこれ以上かわしきるのは不可能。
となると――
「ギリギリで突進をかわして、剣の峰で馬の足を薙ぎ払う……」
この日本刀の刀身は、細身だがかなり長い。馬の動き自体は単純だし、急な方向転換はできないから、成功率は高いだろう。
初春は太刀を持つ右腕を前方に出し、太刀を引いて構えた。鞘走りに期待したいところだが、初春には居合いの経験がないし、この反りの強い刀では、峰を前に向けての居合いはむしろ危険だと判断。
「よし――これで動きを止めるぞ」
初春の心が決まる。
その瞬間、初春の心は、水を打ったような『無』に入る……
相手の動きを止め、後の先を取ることのみだけの構えに。
「ブオオオオオオオオオオッ!」
それを見て、馬も再び荒い息を漏らして、再び突進をしてくる。
大木を薙ぎ倒す突進――しくじれは即死。
「……」
馬との接触3メートル前の地点だけを見て、初春は小さく右に体を動かし、そのまま右肘を畳んで、片手で剣の峰を思い切り馬の足に向けて薙いだ。
ヒュン!
不意に、そんな風を切るような音がしたと思うと、太刀の柄を握る初春の手首に、強いしなりを感じた。
初春が太刀を薙ぎ払った瞬間に、太刀の刀身は小さく枝分かれし、皮製のベルトのようにしなる無数の触手と化して、馬の胴体と4本の足に無数に絡みついた。
「え!」
初春がその変化を目を捉えた時、無数の触手はまるで鋼鉄のように硬化し、馬の四肢を完全に抑え込んだ。
馬は地響きを立てて、大木に突っ込み、無防備に山肌に倒れこんだ。
「ブウゥ……ブオオオオオオッ!」
わめき散らしながら、四肢に絡みついた触手を外そうともがき苦しむが、触手は既に鉄の硬度となっており、びくともしない。
「……」
初春の握る太刀の柄はそのままで、そのまま先端の根が無数に伸びているが、根の方はまだ皮のように、切れにくいしなやかさを保っており、馬が暴れるたびにぶらぶらと揺れていた。
「……」
柄を手に持つ初春と、結界術をかけながらその様子を見ていた比翼は目を丸くした。
「ぼ、坊や、何をしたんだい?」
「――まさかあの剣をあそこまで使いこなすとはな……」
紫龍と比翼がその後すぐに結界を張り終わると、将器を撒き散らしていた風穴が閉じていき、また元の山肌に戻った。
紫龍と比翼は、まだ柄を離せない初春の元に駆け寄った。
「坊や、大丈夫かい?」
「あぁ、俺に怪我はないが……」
初春は自分の握る剣の柄と、その柄から伸びる無数の触手に掴まれ、暴れている馬に目をやる。
「瘴気は収まったから、この子もじきに正気に戻るさ」
比翼は仕事終わりの煙管に火を点けた。
「この子はまだ力が弱いが、火車の子供だ。悪事を働いた死者の亡骸を黄泉へと連れ去る、かなり力の強い妖怪の部族だ。それを人間の坊やが止めるなんてね」
「俺がやったんじゃない。やったのはこの刀だ」
初春は触手の垂れ下がるこの刀を差し出した。
「逃げ道を倒れた木に塞がれて、剣の峰で足を薙いで、殺さずに動きを止めようと思ったら、いきなり剣の形が変わって、こんな風に……」
「――成程。殺さずに、か……」
紫龍も煙管をふかしながら言った。
「いざという時には盾になるその刀を念のために渡したんだが――こんな使い方も出来たのか」
「紫龍殿、この刀は何なんだい?」
「これは儂が若い頃に、高天原の刀匠に頼んで作らせた太刀じゃ」
紫龍は持っていた十文字槍を軽く手放すと、十文字槍は光になってその場に雲散霧消した。
「朱雀」
紫龍はそう呼ぶと、紫龍の手に光が集まり、その手には2メートル半はある巨大な和弓が現れ、紫龍の手に納まった。
「弓?」
「儂は武芸は火器も使えるが、主に4つの武器を使う。太刀の白虎、斧の玄武、槍の青龍、そして弓の朱雀じゃ。だが、どうしてもこの4つを使いこなすのに、一度召還した武器を引っ込めて、また新しい武器を取り出す、というのが不満での。その時間差を克服したいと考えて、この剣に期待したのじゃ――これはな、一言で言えば持ち主の思いによって、その姿を変える刀じゃ。小僧、もうその妖怪は次第に瘴気も抜けてきておる。少し貸してみろ」
そう言って、紫龍は初春の手に握られる、太刀の柄を取った。
紫龍がひとりで柄を握ると、触手は光を帯び、潮が引くように柄の中に吸い込まれていき、やがて光ははじめの反りの強い太刀の姿を形作ると、光が消えて、また元の白刃の太刀の姿に戻った。
「この剣は、持ち主の思いでその姿を変えられる」
紫龍がそう言うと、今度は太刀は柄まで光を帯び、太刀の二倍近い長さの直槍に変わった。
「その形も一定でなく、様々な形に変化が可能だ」
そう言うと槍の先端だけが光を帯び、先端の片側に鎌の付いた方天戟の形状に。それを確認すると、また光を帯びた槍の先端は、鎌を斧に変えたハルバード形に変わった。
「へえぇ、便利な剣だね」
比翼は感心した。
「……」
「はじめは儂もそう思ったのじゃが、この剣には致命的な欠点があった」
「欠点?」
「小僧、何か分かるか?」
紫龍は、初春に太刀を返し、戦いの勘の鋭い初春に質問を投げた。初春は情報を整理する。
「――つまり、戦いの最中の持ち主の感情に左右されやすい、ってことか」
「その通り」
紫龍は頷く。
「戦場での自分の抑えがたい高揚や恐怖、警戒などの心情に左右されて、自身でも思いもしないような形状変化をしてしまうことがある――それは時に状況を好転させることもあるが、肝心な時の暴走は自身を危険に追いやる――この刀は戦いにおいて決してよいことではない。自身の心が乱れる戦場では、とても使える代物ではない」
「……」
「ただ、恐怖に関しては、自らを守る盾として働く。小僧もこんな戦いは初めてじゃろうから、万が一の時に、盾にもなるこの太刀を預けたのじゃが……」
いくら大きなことを言っていてはしても、所詮人間の子供。
自分の命が危険に晒されれば、恐怖に慄いて、願うのだと思っていた。
『死にたくない』と。
だが、初春の持つ『無の心境』は、紫龍の想像をはるかに超えていた。
動きを止め、なおかつ傷を負わせずに――それのみに特化した後の先を狙うだけの構えが、この太刀の能力を引き出したのか。
恐ろしい奴じゃ――あんな凶暴化した妖怪を前に、怖くはなかったのか。
「……」
そんな初春は、手に持つ太刀の方を、気になるようにずっと見つめていた。
「坊や、その太刀が気になるのかい?」
比翼が訊いた。
「――無法を以て有法と為し、無限を以て有限と為す……」
初春は呟いた。
「ジークンドーの極意だ。実践では形式的な型は役に立たないから、型を捨て、攻撃も防御も無限の中から、その場で限られたものを取捨選択し、最も有効なものを繰り出す……この剣はまさにそれだと思ってな。もしこの刀を自由自在に使うことができたら――」
初春は、この剣の可能性に非常に強い興味を示した。
「ウ……」
紫龍が初春の心に戦慄している中、倒れていた火車の子供がゆっくりと立ち上がった。
鬣の炎は青と紫の斑から、赤とオレンジの優しい色に変わり、目の鋭さも消えていた。
「し、紫龍殿、比翼殿。私は……」
「風穴が開いて、瘴気に中てられていたんだよ」
「そ、そうですか――火車として、不覚の極み……」
「火車は元々黄泉に深く関わる妖怪じゃ。人間界で黄泉につながる風穴から瘴気を浴びれば、他の妖怪よりも影響を受けやすい。次からは風穴が開いたら、すぐに逃げることじゃ。お前の母親はそうしていたぞ」
「紫龍殿――申し訳ありません。紫龍殿の手を煩わせる結果となり」
そう火車の息子が言いかけたとき。
風穴が閉じたことを確認し、山の奥に隠れていた妖怪達が現場に挙って顔を出し、飛んできたのであった。
そして、初春達の前に一際大きな、鬣に紅蓮の炎を宿した火車が降り立った。
「母上」
火車の子供がそう言った。
「……」
この山みたいにでかくて筋骨隆々の鋭い目つきの馬が女なのかよ。妖怪の性別とか、見た目じゃまったく分からん。初春はふとそう思った。
「坊、今回の件、火車としてあるまじき失態と心得よ。火車たるもの、黄泉の瘴気に耐えねば一人前とは言えないよ」
「も、申し訳ありません」
それでも競走馬よりも大きな体躯の火車の息子は、小さく縮こまるように謝った。
「しかし紫龍殿。息子を助けていただき、感謝いたします」
「礼ならその小僧に言え。そいつのおかげで、殺さずに止めることができたのじゃ」
紫龍は煙管の先で、初春の方を指した。
「……」
火車の母親は、初春に近づき、頭を下げて、小さな初春の姿をまじまじと見た。
「……」
「貴殿、近頃この山で有名になっておる、人の子だな」
「あんた、最初に俺があの家に来た時にいた妖怪だな」
「すまない。息子を救ってくれたこと、感謝いたす」
「俺も何もしてない。勝手に刀がやったことだ」
「――改めて名を教えてくれぬか」
「神子柴初春だ」
「ふむ、神子柴殿か。その名、記憶に留めよう」
火車の母親は頷くと、その目で今度は息子の方を見た。息子はその視線に気付き、初春の前に立ち、頭を垂れた。
「神子柴殿。今日のお礼に、あなたが困った時があれば、いつでもお力を貸すことを約束しましょう」
「――それなら、俺の主が作っている『何でも屋』に協力してくれ」
「何でも屋、ですか?」
「ああ、いつでも家に来てくれりゃ、話を聞かせるよ」
「――かしこまりました。何かあれば、いつでも馳せ参じますゆえ」
再び火車の息子が頭を垂れると、比翼が火車の息子の横に駆け寄った。
「――ほら、さすがにあんなに大木を薙ぎ倒すほど暴れたんだ。あんたは傷だらけだよ。紫龍殿、私はこのこの手当てをしていってから戻るから、先に帰って休んでいておくれ。お前達も、瘴気に荒らされた山と、他の仲間の様子を見回りに行っておくれ」
比翼は妖怪達に指示を出し始めた。
比翼の先導で、妖怪達は山の各々の場所へと散っていき、山道に紫龍と初春と山犬が残された。
「……」
どうにも最初のやり取り以来、二人でいるとバツの悪い二人で、元々初春は無口なこともあり、会話はまったく弾まない。
紫龍は煙管をふかしながら、途方に暮れる。
「音々も他の神達もいない場所で、ずっとあんたに聞きたいことがあったんだ」
だが、最初に口を開いたのは初春だった。
「あんた、そんだけの力があって、何でこんなまどろっこしいことやってるんだ? 水を酒に変えるとか、行き場のない神や妖怪の世話を焼くとか。あんたなら、もっと高天原なんかで、実のある場所にいられるんじゃないのか?」
「……」
「今日だってそうさ。あんたなら、あの馬を仕留めるのは簡単に出来たはずだ。なのに殺さずに救うなんて面倒な手を取った。でも、実際上手く手加減できそうになかったから、あんなに手こずってたんだろ? 俺相手でも、自分で打たなきゃ動きを止められなかったあんただ。あんたはそもそも、不殺なんて戦いは不得手なんだ。あんたも分かってるはずだ」
「――ふ」
紫龍は自嘲を浮かべた。
自分の本質を、こんな小僧に見抜かれたことが、妙に可笑しかった。
「――あんた、昔天界の罰で、三途の川にいたんだってな」
初春は言った。
「何?」
「そこで鬼に変わった小さな子供を斬っていたと聞いた」
「比翼の奴じゃな。余計なことを……」
紫龍は舌打ちした。
「その時の罪滅ぼしのための不殺ってわけか? こんな片田舎で天界とも交わらずに生きてるってのは」
「……」
紫龍は、黙って持っていた錫杖を地面に突き、山犬を自分の近くに呼び寄せた。
「お前も乗れ、その話は空の上でしてやる」
山犬の背中は比翼の白蛇よりも広く、初春が寝転がっても十分なほどの広さだった。その白い毛はまるで羽根布団のベッドのようにふかふかで、空を飛び上がるときも、大して衝撃のない、快適なものだった。
まるで雲をジャンプ台にするような山犬の飛翔は、星の地表が見えそうなくらいに空に近く、星屑をばら撒いたように空が明るく見えた。
「お前は今日役に立った。特別にこの町の星空をくれてやろう」
「……」
山犬は自由に星屑の空を踊る。ここが空の上で、どちらが上か下かも分からなくなるほど星空が近くなる。
まるで真珠をばら撒いたように綺麗だった。
「貴様は戦というものに出たことがあるか?」
その星空の下で、山犬の背に仰向けに寝転がって、煙管をふかす紫龍は訊いた。
「いや、ないけど」
「そうじゃろう」
紫龍は頷いた。
「それを軟弱と責める気などない。この世ではそれが普通なのじゃ。勿論この世に戦はまだあるがな、それはもう、戦略や戦術や、個人の武勇で何とかなるようなものではない。核兵器なんてものも出来、今の人間の戦は、この星を滅ぼす規模の破壊と同義になっておる――儂ら戦神の役目など、もうとっくに終わっておるのじゃよ。今の戦など、破壊神の役目と同義であって、儂らが知る戦など、もうとっくにこの世にはない――儂ら戦神は、時代遅れの神なのじゃよ。もうとっくにこの世から必要とされておらん。毘沙門や摩利支天のような阿呆はそれをまだ認められんようじゃがな」
「……」
時代遅れの神――その言葉が、初春の耳に強く印象に残った。
「それを儂はあの三途の川で悟った――磨き上げた武芸も、戦術も、泣き叫ぶ子鬼を切る役にしか立たん……散々賽の河原で石を積み上げ、苦しんだ末に鬼になってしまった子供に、最後まで痛みを味あわせて死をやることしかできない自分は、一体何のための神なのか、儂の斬った子供達の魂は、輪廻の先でどうなってしまうのだと、無力感に襲われた……昔は自身の欲望のみで人さえも斬っていたが、そこで子供を斬るうちに、そんなことを考え、自分の戦神としてのあり方に、疑問を持ってしまった。死ぬ者に救いを与えん、高天原の連中にも」
「……」
空を舞う山犬が風を切る音が、反重力の結界の向こうから聞こえる。
まるで、子供のすすり泣く声のような音……
「そうしているうちに、自分の神としての力が衰えていることを知った。もう誰も、戦なんてものを求めなくなったことを感じた時、儂もいずれは消える神になったことに気づいた。それを知ったら、天界の言うとおりに、賽の河原で子供を斬るだけで従っていることができなくなった……そう思った時に、儂は賽の河原を抜け出したのじゃ」
「……」
初春は、星空を見上げた。
こんなに星が近くに見えるほど空に近づいても、それでも届かない神の住まう世界。
そんなところで人間を見下ろし、悠久の時を過ごす神という存在。
死なない神は、いずれ死ぬ者に、優しくできるだろうか……
天罰のない神は、慈悲のない行いを、悔い改めるだろうか……
そんな存在が、いつか自分が死ぬということを知ったら……
それはもう、神ではなくなるということなのだろうか……
――途方もない話だ。初春には想像もできないような苦悩。
だが。
「この前はあんたが俺に質問をしていたが――俺もあんたに、もうひとつ聞きたい」
初春は言った。
「そうして戦うことを律するってのは、辛いものか?」
「なに?」
「俺と戦った時も、あんたは言っていた。あんたの戦神の血が疼く――って。あんたはあんたなりに今の自分を律して、それなりに今の気持ちに満足しているんだろうが、心のどこかで、自分の戦神としての最期を飾るような奴と戦いたい――そんな願望を持っていると見るね」
「……」
「それだけ戦う力があって、それを捨てるってのは、どう踏ん切りをつけるものなのかな、と——今の話を聞いていて、ふと思った」
「……」
紫龍は暫し押し黙る。
「――何故それが分かった?」
「分かるさ――いや、そういう気持ちが俺にも、分かるようになった、ってのが正確かな」
「……」
「おっさんみたいに、戦うことが自分の価値になっているような奴が、そうして戦えなくなる――それを納得させるのは、とてもしんどいんだろうなってのは、今は分かる気がする……」
初春は、山よりもはるかに高いところから見る星空の美しさに、久し振りに『哀しい』という気持ちを思い出していた。




