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癖の強い剣じゃ。

 雪菜と別れ、今日は夕食を食べたから、スーパーには寄らず、初春は自転車を家に走らせる。

 駅前の通りを抜けて、道が農道に入ると、初春は自分の切る風が、妙に湿っぽい空気に変わったことに気付いた。そしてそれは、家に近づく度に強くなる。

 家に続く最後の山道をいつも通り歯を食いしばって登ると、初春は自分の家の前で少し驚いた。

 草むしりをほぼ終えた初春の家の庭に、沢山の没落した神達がごった返していた。

「あ、ハル様、お帰りなさい」

 外で来客達にお茶を配っていた音々が、初春に気付いて駆け寄った。

「今日は何だ? 今日は満月の夜じゃないだろう」

「それが――今日は町から瘴気が強く出ていて」

「瘴気?」

「とにかくお疲れでしょうし、中に入ってください。お茶を淹れますね」



 居間に戻って、土産の蓮根のきんぴらと漬物を冷蔵庫に入れ、初春は座った。

 部屋には、比翼や、いつもの没落神達が、縁側から山の方を窺っていた。

「ん?」

 初春も縁側から、庭を見渡した。

「人の形以外の奴等がいないな。いつもいる一つ目とか、あのでっかい頭した奴とか――あと、おっさんも」

「紫龍殿は山に行って、瘴気の出ている元を調べに行ってるよ」

 比翼が言った。

「山――あぁ、そういえば今日、山から変な靄みたいのが立ち上ってるのが見えたっけ」

「ハル様、瘴気が見えたんですか?」

 音々が驚いたように言った。

「最近町中でも、たまに変なのが見えるようになってきたからな。昼間はほとんど外に出てないんだけどさ」

「ふぅん――坊や、本当にこっちの世界にどんどん近づいていってるんだね」

 比翼が言った。

「この町の人間ってのは、都会に比べて瘴気が薄い――だから妖怪も大人しくて、私達神とも共存して暮らせるんだけどね。神ってのは元々人からの感謝や信仰――つまり『徳』から生み出されたもの。それに対して妖怪やアヤカシは、死者の残留したこの世の未練や、生者の悪い願い、湿った心の生み出した強い願いの生み出した者達――願いの差で生み出された者達」

「――この家に来ていた、あの異形の奴等もか」

「もっとも、最近じゃ妖怪もこの現世に留まれる場所を失って、数も減ったし、最近じゃこちらの世界のことを感じられない鈍い人間も増えたから、瘴気に中てられなければ、滅多に人を襲うこともない――特にこの町じゃ大人しいんだけどね。ただ、たまに人間から発せられる瘴気に中てられて、酷く荒ぶるような奴も現れる」

「……」

「瘴気は妖怪やアヤカシの心を狂わせ、狂わされたアヤカシにとって、私達天上の者は忌むべき存在――神を襲い、人の心を惑わせ、人に道を踏み外させる」

「そういえばおっさんが言ってたな。音々みたいな弱い高天原の住人は、妖怪にとってはご馳走も同然だって」

「どの神も同じさ。神を喰えばその妖怪は力を増す――だから紫龍殿はこの家の庭に結界を張ってある。この町に暮らす神にとって、瘴気を感じたら、この家に隠れろというのは、紫龍殿の定めた決まりなのさ」

「……」

 そうか――だからおっさんは、俺をこの家から追い出そうと。

 この家がなくなったら、ここにいる全ての神が行き場を失い、瘴気に中てられた妖怪達に怯えて暮らすことになる。

 初春は縁側に出て、空を見上げる。

 山の方に、夕方と同じ、黒ずんだ靄が立ち昇っているのが、星の明るい神庭町の夜空の下で、はっきりと見えた。

「――俺も、ああいうのを垂れ流しているって、おっさんが言ってた」

「あぁ、坊やの瘴気は、町からでも山まではっきり感じたよ。すぐに収まったけど、一瞬でとてつもなく強い瘴気を出したね。でも、あれだけの強い瘴気を一瞬で収めるなんて、坊やは自分で自分を律せている証拠だよ。そうじゃなかったら、紫龍殿もそこには感心してたよ」

「……」

 あの、バイト先でバイト仲間に包丁を突き付けた日――ココロを助けた日に。

 あのおっさんは、怪我をして帰ってきた。穢れと言っていたか――変な痣を作って。

 おっさんは、山で今日も、戦っているのか。一度対峙したが、あのでたらめに強いおっさんが手傷を負うような奴だ。

「音々、比翼。おっさんは今、あの山にいるんだな」

「は、ハル様、まさか山に行くつもりですか? 危険ですよ!」

「あのおっさんは、俺が瘴気を垂れ流していると言っていた――なら、それがどんな結果を招くのか、知っておきたいんだ。俺のしたことであのおっさんに貸しを作るのは気持ち悪いしな」

 そう言って初春は、音々の方を見た。

「それに――おっさんに啖呵切っちまったからな――何でも屋を始めて、餌同然の音々と行動を共にして、危ない目にあっても、黙って音々を見殺しにするようなことはしたくねぇって――それを考えるいい機会だ」

「……」

 それを聞いた瞬間、音々の目から、大粒の涙がこぼれた。

「――音々?」

「す、すみません――なんか、気持ちがごちゃごちゃになっちゃって……」

 照れを隠すように、音々はかぶりを振りながら、初春から目を背けた。

「ハル様の気持ち――すごく嬉しいです――ですが――ハル様に危ないことはしてほしくなくて――心配で……」

「……」

 比翼は煙管の灰を落として、その様子を窺った。

「――まあ、止めても行くだろうしねぇ、坊やは」

 比翼はやれやれと肩をすくめて立ち上がる。

 自分の着ている白梅模様の着物の袖から、鈴を取り出し、ちりりんと一つ鳴らすと。

 庭に、比翼がここに来る時にいつも乗っている、丸太のような胴体を持つ巨大な白蛇が空から飛んできて、庭に降り立った。庭にいた神々達が場所を開ける。

「私は戦闘する力はほとんどないから、上空から見るだけか、遠くで見るだけになっちゃうけどね」

「え? これに乗せて空飛ばせてくれるの?」

「――坊やって、意外に子供っぽいところあるよね……」

 比翼の後ろに、白蛇にまたがるように初春は乗った。

「音々、あんたはここで瘴気が収まるまで、他の逃げてきた者の世話をするんだ。万一ここで瘴気にあてられたものが出たら、紫龍殿の預けている嚆矢で知らせるんだよ」

「は、はい!」

「行くよ坊や。つかまっておいで」

 そう言って比翼は、白蛇の頭の横を小さく叩くと、白蛇は大きく空に舞い上がった。

「うおおおっ」

 丸い胴体の蛇につかまる場所などなく、体のバランスを取らないと振り落とされそうで、体幹を鍛えている初春もその乗り心地に声が出た。

 しかし、舞い上がる時の衝撃はあったものの、上空に上がりきり、軌道を安定させると、ひどい衝撃も、揺れも極度に小さくなった。高速道路を走る車並みのスピードで走っているのに、風の煽りもほとんど感じない。

「もういいよ。神獣は自身の周りに結界を展開するから、風の煽りもないし、反重力が働くからね」

 前にいる比翼も大きな蛇の背中で、座る向きを入れ替えた。

「お?」

 初春もそれを見て、白蛇の体に足を置いて、立ち上がってみる。まるで平地の上に立っているみたいに何の違和感もない。

「うわぁ……」

 初春は立ち上がって、下に広がる神庭町の街並みと、上空から更に近くなった星空を見上げ、嘆息した。

「すっげぇ――綺麗だなぁ……前から興味はあったが、もっと早く頼んで乗せてもらえばよかったよ」

「……」

 比翼はそんな初春の様子を見ていて、感じた。

 紫龍の言っていた言葉――初春は、流れる水や、自由に舞う風の心を持っている。善悪の頓着もなく、縛るものもなく、自由にありたいという心。

 それ故に、瘴気に中てられるようなことがあれば、一瞬で悪にも染まりえる。

 こうして空を飛ぶことで、こんなに心を躍らせる、子供らしいところもあるのだ。それこそ強い瘴気になんて中てられたら、どうなってしまうのか、恐ろしいね……

「坊や、紫龍殿のところに行きたいってのは、坊や自身のけじめのためだけってわけじゃないだろう?」

 前方の山を見据えながら、比翼は言った。

「自分をあれだけ打ち負かした紫龍殿の戦いに興味があるんだろう? 稽古じゃない、死合うつもりでの紫龍殿の戦いにさ」

「――何だ、ばれてたのか。まあ、音々とおっさんに啖呵切っちまったからってのが一番で、それは二番だけどな」

「……」

 紫龍殿のことは、少し苦手そうだけど、好奇心のあることには、素直に興味を示す。

「本当に子供だねぇ……まったく、こりゃ苦労するわ……」



 瘴気の立ち上る黒い靄の柱の上空近くに来ると、比翼は白蛇の動きを止めた。

「この子が嫌がってる……これ以上は近づけないね」

「ん?」

 星空の下で明るいので、初春は山林の陰に何かが蠢いているのが見えた。

「おっさん?」

「え?」

 比翼が初春の方に視線を切った瞬間。

 大木の一つが薙ぎ倒される大きな音と共に、青白い炎のようなものが、小さく山林を明るく照らすのが見えた。

「あれは?」

 それは、馬の姿に似た、四足歩行の生物で、(たてがみ)が青と紫の斑に光り、炎のような熱を帯びていた。

 あいつと似たような奴が、家に来たことがある。そいつはもっと――初春の家くらい大きくて、鬣が完全に炎になっていたが。

「あれが――瘴気に祟られた妖怪? あいつと似た奴が、家に来ていたことがある」

「ああ、私達も顔馴染みの妖怪の子供だ……」

「……」

 青と紫の炎に照らされ、倒れた大木で開けた山の陰に、紫龍の姿が見えた。

 直垂のついた黒の軽鎧を纏い、手には十文字槍を持って、いつもまたがっているあの山犬の背に乗っている。

「まだ傷を負ってはいないが、あの馬の動きが速くて、瘴気の穴を封じられていないようだね」

「……」

 初春は瘴気の立ち上っている柱の下を見下ろす。

 柱の下は底の見えない穴のように暗く、そこに梵字で書かれた陣が光の文字で書かれている。文字の隙間を縫って、瘴気が噴き出ている感じだが。

「まずいね、瘴気を出す風穴を結界で抑えているが、あれじゃ結界が外れそうだ。即席の結界しか張れないほど、動きが速いようだね」

「……」

 初春は、相手の動きを見る。

 確かにあの悪路で本物の馬並みのスピードがある。だがあれなら、おっさんのあの腕なら、殺すことはすぐにもできそうだ。

 ということは……

「比翼! おっさんと山犬の近くに寄ってくれ」

 初春はそう叫んだ。

「はあ、はあ」

 紫龍は逡巡していた。

 そろそろ自分の作った即席結界の限界が近いことが分かっているのである。

「……」

 あの結界が外れたら、こんなに近くにいるあいつはもう、正気に戻れなくなるだろう。近くに隠れている他の妖怪も中てられて襲ってきたら、殺すことを考えなければいけない。

 そろそろこいつを殺すことを考えねば、被害が広がるかもしれない……

 考えているうちに、炎を纏う馬はまた紫龍と山犬に突進してくる。

「くっ」

 かわしながら風穴の方へと向かうが、すぐに馬も取って返して紫龍を追ってくる。

「おっさん!」

 不意にその声がした方を向くと、白蛇に乗った比翼と初春が、山犬のほぼ横を並走していた。

「お前達」

「おっさん、俺があいつの注意を引くから、比翼と結界を張り直してくれ」

「何?」

「殺さず止めるなら、それが一番いいだろ。結界を張ってあの穴を塞げば、あいつは正気に戻る可能性があるってことだ。だからこんなまどろっこしいことしているんだろ」

「……」

 対峙を見ただけで、儂の目的を見抜いた。この小僧、戦いの勘は相当鋭い。

 確かに、こいつはある程度自分の身の守りの心得もあるし、度胸は買える男である。殺さずに止めるためには、どうしても囮は必要。

 ――もう迷う暇はなかった。

「2分だ。この悪路であいつから、それだけ逃げられるか?」

「見た感じ、あいつに飛び道具はなさそうだ。なんとかやってみる」

「よし。小僧、こちらに飛び移れ」

 紫龍の言葉を聞いて、初春は白蛇からジャンプして、並走する山犬の背に飛び乗った。

「引き付けるには、武器が必要じゃ」

 紫龍は小さく呪文を唱えると、光を帯びて、何もないところから、剣を取り出した。漆を塗られた黒塗りの鞘を持つ日本刀――反りの大きい『太刀』と呼ばれる昔ながらの剣であった。

「癖の強い剣じゃ。あまり闇雲に振らん方がいいぞ」

「わかった」

「坊や、無茶するんじゃないよ」

 初春は鞘を自分のジーンズのベルトに差し、山犬の背を飛び降り、山肌に着地した。

 自身の目の前に降り立った人間を見て、馬は首をこちらへ向ける。

 初春は鞘から剣を抜く。

 美しい白刃の太刀が、闇夜に光る。

「来い!」

 その言葉を聞き、馬は風穴とは逆方向の初春に突進してきた。

「!」

 初春はその圧力に息を呑む。

 獰猛な息遣いと鼓動、地響きを起こすような足音――

 それはもう明確な悪意――ためらいのない殺意を、目の前の馬に感じた。

 今まで自分が対峙したような人間とは違う――対峙して初めて味わう圧力。

「……」

 初春は横に飛び、そのまま山林に走る。木がある程度相手の方向を限定するため、後ろを向いて逃げても対処しやすいと考えたからである。

「はあ、はあ」

 2分――何とか相手を巻いて逃げられ。

 しかし、後ろから響く轟音に初春は振り向いた。

 初春の通り抜けてきた木々を次々になぎ倒し、馬はこちらを追ってくる。

「ブゥオオオオオオオッ!」

 鼻息とも鳴き声とも取れる大きな声を上げ、馬は背後から突進してくるか。スピードに乗って方向転換を急にできないことを知った初春は、それを紙一重で真横に飛んでかわした。

 すぐに立ち上がり、方向を変えようとするが。

「うっ」

 なぎ倒された木が、初春の逃げ道を塞いでいる。

「くっ……」

 しまった――ただ走ってかわすだけなら十分できると思ったが――自分の機動力を封じられるとは。

 急に止まれない馬が勢いを殺し、再び踵を返して初春の方へ向かってくる。

「……」

 背を大木でふさがれ、今から逃げ一辺倒の体勢を作っても、追いつめられる。

 初春は、右手に握る太刀の柄をぎゅっと握り締めた。

「紫龍殿、まずいよ、坊やが!」

 紫龍と共に風穴の前で術を展開した比翼が、初春の方を窺った。

「ああ、だがもう術の準備を始めてしまった。もう援護はできん!」

「……」

 初春は覚悟を決めた。

 反りの強い、竹刀とは全く違う勝手のこの剣だが――実戦で使いこなす。

 初春は太刀の柄を握り直し、剣の腹を前に出した。

「ここで抑えるぞ――殺さずに、動きだけを止める」

 そう、初春が呟いた瞬間。

 白刃の太刀が急に白光を強く発し、あたりを真っ白に包み込む。

 初春も、馬も視界を奪われ、遠くにいる紫龍と比翼も、その閃光に目を奪われる。

「あれは!」


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