血糖値が心配になる
高校生組の始業式が始まったため、初春は以前に比べると、格段にランチタイムの出勤、そしてキッチンでの仕事が増えるようになった。
この時間帯のパートクルー達は、初春を奴隷呼ばわりしていたことを聞かれたのかと思い、しばらくは初春に対して妙に優しかったが、その後に彼がディナークルーに包丁を持ち出して威嚇した話(実際は、相手が相当話を盛っているのだが)が伝わると、あからさまに初春を避けるようになっていた。
初春自身も、元々ここで人と馴れ合うつもりではなかったので、淡々と仕事をこなしていた。周りの従業員が自分を馬鹿にしていることを知ってはいたが、特にそれに対しても言及していない。仕事終わりに包丁を連日ピカピカに研いで帰る習慣も、相変わらず続けている。
元々初春にとっては、他人に居場所が用意されていない、この状況が普通なのである。
この日もパスタ場をひとりで回した初春は、仕事中にパート達と仕事以外の会話をほとんどすることもなく、ランチのピークを終えた。以前かばって以来、自分に信頼を置いたのか、皿洗いの障害者クルーといつも休憩が同じ時間である。
「ミコシバくん、ミコシバくんのつくったまかないはおいしいよ」
「――そりゃどうも」
障害者クルーは初春の苗字を最初は言えずにいたが、少し慣れた今も噛みそうな舌足らずな口調で連呼する。
休憩室で、障害者クルーの食べるまかないの鯖の味噌煮定食を横目に、自分の作ったペペロンチーノをすすりながら、初春は包丁を持ち出した以前の行動を後悔――するわけもなく、やはり、何でも屋のことを考えていた。
「音々……ねね……うーむ」
頭で音々の名前を反芻しながら、彼女と可愛いものを関連させる名前を組み合わせようと試行錯誤するが、なかなかまとまらない。
「そもそも可愛いものって――何なんだろ」
ペペロンチーノを食べ終わり、おもむろに自分の携帯の画面を見る。
「うお」
そこには、5時間で20通の音々からのメールが届いていた。内容は取り留めのない話とか、仕事している初春をねぎらっている言葉とか、お昼ご飯を食べたかとか、そんな瑣末な内容ばかりだったが。
「……」
初春の携帯が、半日でこれだけのメールで埋め尽くされたのは、当然初めてである。
――よっぽど自分の覚えたメールを打つのが楽しいのかな。
なんて思っている間に、すごい勢いで控え室の扉が開く。
びっくりして扉の方を見ると、息をせき切った秋葉紅葉が、初春の方を見ていた。
「秋葉……どうしたんだ?」
「はあ、はあ……み、神子柴くん、いつも仕事終わったらすぐ帰っちゃうから、3日前からずっと入れ違いで帰られてたから、今日は急いで来てみた……」
紅葉は照れくさそうに、少し貼りついた額の髪の毛を直した。
「この前話したアルバイトの話なんだけど――よかったら連れてきてほしいって言うから、早く知らせなきゃと思って」
「本当か?」
「う、うん。でも、大丈夫かな、と思って」
「何が?」
「――言ってなかったけど、働いてほしい時間って、すごく朝早いから」
「――ちなみに何時?」
「――大丈夫かな? 朝の3時からなんだけど……」
「……」
――その時間、東京では大多数の人が、深夜と呼ぶだろうな。
「――もしかして、アルバイトって、農業?」
「う、うん。うちのおじいちゃんとおばあちゃんが、山の方で結構大きな畑をやってるの。若い男手がいたらなぁ、って言ってたから」
「……」
まあ――そうだろうな。何となく分かってた。実際アルバイト情報誌を見て、この町の求人じゃ、それしかないだろうと思ったし。
そう言えば、一度行った秋葉の家って、結構でかかったからな――地主の娘なのかな。
「あ、あんまり突然唐突だよね。朝の3時とか――あはは……」
さすがにこれだけここで働いていて、早朝に農業は――東京から来たって言ってたし。
紅葉はさすがに無茶振りだったかと逡巡した。
「ありがとう、秋葉」
しかし、初春はあっさり承諾した。
「ちょうど入り用だったからな。どんな仕事でもありがたい」
「そ、そう?」
「ああ、朝は得意だし、朝のバイトなら、両立できそうだ」
「よかったぁ」
紅葉はほっと一息ついた。
「神子柴くんなら、おじいちゃん達もきっと気に入ると思うな。じゃあこれ、おじいちゃんの農場の地図と住所。仕事の前に一度、暇な時に行って、顔合わせしてみて。掛け持ちの事情も話してあるし、二人とも今はずっと家にいるから、いつでも押しかけていいって」
紅葉は四つ折のメモ用紙を初春に手渡した。山間にある初春の家からなら、このファミレスよりもずっと近い。
接客は相変わらず無愛想だけれど、暇な時は車まで荷物を運んだり、老人や子供に優しい彼の接客を見て、紅葉は今回のことを思いついたのだった。
「わざわざそれ伝えるために、走ってきたのか……悪かったな」
「そ、そうだよ! 私神子柴くんのケータイ知らないんだもん! また私に貸しひとつだからね、神子柴くん」
「――貧乏人に貸し作っても仕方ないと思うが」
初春は、増え続ける紅葉への貸しに、自虐的に微笑んだ。
初春は少なくとも、結衣を除けば中学3年間で、ほとんど女子と交流していない。男子との交流も、直哉以外はほとんどないけれど、男子剣道部の部長をやったりしていた分、女子との交流に比べれば、まだあった方だと言える。
紅葉は、初春の人生の中で関わったことのないタイプの女子である。細身だが主張の激しい胸に、栗色の明るい髪、左耳にひとつだけ開いているピアス、薄い化粧を施してはいるが、しなくても整った顔をしていて、いつもニコニコして。スクールカーストなんてものがあるなら、間違いなく最上位にいるタイプである。
こういうタイプの女子は、基本的に初春を馬鹿にするのが常であった。『ぼっち』『根暗』『中二』など、基本的には初春を貶めては面白がっているタイプ――自分の会話の内容もないくせに、軽々に『キモイ』『ウザイ』を相手に放って、早々に会話の優位性を取った気になって、相手を見下すタイプ。
初春の最も嫌うタイプの人間であり、初春にとって最も遠い立場にいるタイプだ。
だから、そういうタイプの紅葉が、まるで直哉や結衣のように、自分に貸しを作ったり、作られたり、世話を焼いたり焼かれたりする関係というのは、理解にいまだ苦労していた。
この神庭町で、秋葉紅葉の存在は、初春の乏しい人間関係の中では、最も制御しにくいものになっている。
人間に貸しを作るというものが、酷く気持ちが悪いのだが、結果的に、紅葉に何度も助けられているので、借りっぱなしというのも上手く消化できずにいる。
――まあ、消化できたところで、俺はこの町に何の当てもないし、こういう話は結局従うしかないんだけど。そういうのは、紅葉を利用しているみたいで気が引ける。
――贅沢言える立場じゃないってことか……
「じゃあ、お詫びに飲み物でも貰ってきてやるから、座って待ってろ」
初春は、従業員は自由に飲めるドリンクバーの飲み物を取りに、一度控え室を出て行った。
控え室に残る紅葉。
「……」
紅葉は少しふてくされた。
神子柴くん……ちょっと恥ずかしかったんだけどなぁ。
まったく、神子柴くんって、仕事では気が利くのに、こういうところは気が利かない。
この会話の流れって、ケータイ番号交換しないかって提案してくれてもいいのに。
女のこっちからは訊きにくいから、上手く誘導するきっかけになるかと思って、走ってきたんだけどなぁ……
――でも、これもまた、神子柴くんらしい――かな。
紅葉も、見た目は派手だが、その主張しすぎな胸と、顔立ちの整い方から、高校に入ってから、何人もの男子が紅葉の連絡先を訊きに殺到した。ほとんどの男子が目を血走らせて。
基本的に、男子は紅葉に対して、自分から自分のことを伝えようと頑張っていた。
だけど、神子柴くんはそれをしない。ノリがよさそうに見せたり、女の子の前でカッコつけたり、自分のことを語らない。秘密主義者で、彼のしていることには、不思議なことが多くて。時に、危なっかしいことも多くて。
――何か、気になってしまう。
「……」
あぁぁ――でも、この人のそんな気まぐれを待ってたら埒が開かないかも。
紅葉がかぶりを振ると、初春がコップを二つ持って戻ってきた。
「秋葉は、ミルクティーのガムシロ二つでいいか」
そう言って、紅葉の前にミルクティーのカップを置いた。
「え? 私がいつも飲んでるの、覚えてたの?」
「そりゃ覚えるだろ。俺の作った賄いのバナナパンケーキやらイチゴパフェに、ガムシロ二つのミルクティーとか、見てて血糖値が心配になる」
「……」
まだ肌寒い日も多いから、いつもはホットだけど、走ってきた後だから、何も言わずにアイスミルクティーを持って来る。
――こういうことに関しては、気が利くのが、何か悔しい……体の心配とか何気にしてくれてるし。
何か、本当に――悔しい……
「――ね、ねえ、神子柴くん。ケータイ教えて!」
紅葉は、恥ずかしさを勢いで隠すように言った。
「よ、よく考えたら、知ってればこうして走ったりしなくていいわけだし、シフトのこととか、今度のバイトのこととか、連絡取り合えたら便利だし。ココロとも、いつかまた会ってあげてほしいし……」
うあぁ……なんか私、偶然とか便利さとか装って、何かかえって不自然になってない? ちょっと必死すぎる感じっていうか……女からこんなに訊くってどうなの?
自問自答しながら、妙にドツボにはまった感のある紅葉。
「――あぁ、いいよ。基本不精だから返事に基本期待してくれないことと、俺に不幸のメールと美人局の誘いのメールを送らないこと、一日2通以上メールを送らないことを受け入れてくれるなら」
初春は淡々と言った。
「返事は頑張ってよ! それに2番目のって、私がひどい人みたいじゃない! それで、3番目って、そんなに私とメールするのが嫌なの?」
「悪いな。俺女子とアドレス交換なんてしたことないから、つい警戒してしまったんだ。俺も思春期男子だし、あんまりメールが続いてしまうと、うっかり惚れそうなんで」
「えっ?」
勿論初春は、今までの紅葉の言葉を、紅葉が気にするほど深刻には聞いていないし、当然何も考えていない。今の3つの条件も、初春なりのジョークと、自分が紅葉に気があるという勘違いを未然に防ぐために言ったのであった。東京にいた頃に、自意識過剰な女子にストーカー扱いさえされたことのある初春なりに、恋愛感情など抱きませんので、自意識過剰に巻き込まないでくださいね、という予防線である。
「……」
しかし、初春の拙い思春期男子の覚醒と比べたら、紅葉は年相応の、そういう言葉が気になってしまう、お年頃の女の子である。
「――べ、別にそんなの気にしなくていいのに。と、とにかく交換してくれるんだね。じゃあ、ID教えて」
「あぁ悪い。俺友達いないから、そういうのダウンロードしてないんだ。赤外線も使い方を知らん」
「……」
二の句に詰まる紅葉。
「――そういう生暖かい空気とかいらないから。別に隠すわけじゃねぇし、もう既にこのファミレスでもそうだけど、俺、基本ぼっちだから」
「し――仕方ないなぁ。じゃあ、無料だから私が設定してあげるよ」
紅葉は、ようやく初春に対してペースがつかめそうだと、目をキラキラさせた。
初春は黙って携帯電話を紅葉に手渡した。
「――あっさり渡しちゃうんだ」
紅葉は驚きながら、無料通話アプリのダウンロードを始める。初春の携帯は、家を出て一回しか開いていないから、充電がまだMAXであった。
「はい、IDも入れて、私の連絡先も入れたから」
紅葉がそう言って、携帯を初春に返そうとするその矢先に、初春の携帯電話が震えた。
初春が、携帯を受け取った瞬間にぎょっとする。
紅葉はその携帯電話の画面が切り替わるのが見えてしまう。
その液晶画面には『結衣』と書かれていたのが見えた。
「……」
「出なくていいの?」
「――いい、放っておいてくれ」
初春はそう言って、いまだに震え続ける携帯を放置する。
いまだにたまにかかってくる直哉と結衣からの電話を、こちらからぶつりと切るのも忍びなくて、最速で留守番電話に切り替わるように設定を変えてある。5コールもしないうちに電話は留守番電話に切り替わり、音が静かになる。
「……」
しかし、紅葉は液晶画面を見た初春が、一瞬表情を曇らせたことを見逃さなかった。
そして、それ以上に。
紅葉は明らかに狼狽し、そして、初春の横顔を伺った。
うそ――電話とかしてくる女の子とか、いるんだ。
この町の娘かな。それとも、この町に来る前――東京にいる娘……
「……」
でも、神子柴くんの携帯って、充電いっぱいあったし、神子柴くんがこのファミレスで携帯を充電しているのって、見たことないな……あれって普段、本当に携帯を使ってない人の携帯って感じだった。連絡を密に取っている感じじゃない。
それに――神子柴くん、電話の相手の名前を見て、明らかに空気が変わった。
私に『何も聞くな』って空気、すごく出してる。
「……」
話したくないことなら、無理には訊かないけど。
――また神子柴くんに対して、気になることが増えてしまったな……




