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生暖かい目で俺を見るんじゃない

 もうすぐ春休みも終わり、高校生も入学式、始業式の時期である。バイト先のファミレスの窓から見える桜の木も、蕾が膨らみだし、ダウンジャケットがいらないほどの暖かな陽気を感じるようになっていた。

 アイドルタイムの閑散としたホールの、主に補充作業をしながら。

「はぁ」

 初春は、ため息をついていた。

 ――大きなことを言ったはいいが、どうしたものか……

 彼が今悩んでいるのは、音々のことである。

 昨日の話し合いで、これから初春と音々が取り組まなければいけないことは3つ。


 1、『何でも屋』をはじめたことをこの町に知らせること。

 2、それを知らせた上で、仕事を取ってくること。

 3、周りの人間に、姿の見えない音々を、『神様』として認知させること。


 以上の3つである。

 どれもなかなかハードルが高い。

 1に関しては、まずは広告宣伝に使える軍資金のなさが課題。2は、1がクリアできなければそのステップには進めない。3は、『何でも屋』というだけでも胡散臭いのに、神様なんてものを語ることで、さらに胡散臭さが増す点だ。

「優先順位としては、3→1→2――かな……」

 初春はとりあえず、問題解決の流れを順を追ってクリアすることにした。

 3は、これからの仕事の意味を成すものであるし、これが明確にならなければ、最終目的である、音々を神様にするという目的が達成できない。取り掛かる上で、無駄になる予算も少ないし、宣伝の方法を探しながら、まずこれを定めることにした。

「おっと」

 不意に時計を見て、初春はパントリーにあるエスプレッソマシンで、コーヒーを入れる。

 トレイに載せて、アイドルタイムによく来る常連の、初老の男女の寄り合いグループに、食後のコーヒーを運んだ。

「食後のコーヒーでございます」

 カップに音を立てず、綺麗な提供だが、愛想はない。

「おやおや、ありがとうねぇ」

 もう少し歯が抜けて空きっ歯になっており、滑舌も少しよくないお婆さんが言った。六人がけのテーブルに、今日は4人で来ているが、風呂敷に入った荷物が席の隙間を埋めており、シルバーカーもない老人達にしては大荷物である。

「もしお荷物が大変なら、タクシーをお呼びしますが、いかがですか?」

 初春はお婆さんにそう訊いた。

「あぁ、タクシー? そうだねぇ、ちょっと買い物帰りにみんなで一休みしたくてここに来たんだけど……もう疲れちゃったしねぇ」

「呼んでもらいましょうか?」

「みんなで一緒に乗れば安いしねぇ」

 席にいる他のお爺さんお婆さんも頷き合う。

「じゃあ、お願いしようかしらねぇ」

「かしこまりました。それでは、お帰りになる頃に、ベルでまたお呼びください」

 初春は一礼して、食べ終わった食器をトレイに載せて席を跡にする。

 食器を洗い場に持って行こうと踵を返すと、赤ちゃんの鳴き声が響く。

若いお母さんが抱いている、生後一年弱の赤ちゃんが、火がついたように泣き出したのだった。

「ほらほら、いい子だから……」

 お母さんは周りの迷惑にならないようにと、声を殺して必死に赤ちゃんをあやすが、なかなか泣き止んでくれない。

 初春は急いで食器を置いて、お母さんの席に駆け寄る。

「お客様、レンジで温める離乳食や、粉ミルクが必要でしたら、こちらで温めてお持ちしますが、いかがでしょうか」

「あ――店員さん? そ、そうですね、きっとおなかがすいたんだと思いますので……」

 店員に注意されると思ったのか、お母さんはほっとしたような表情で、けいたいしていた粉ミルクのスティックと、プラスチックの哺乳瓶を取り出した。

「哺乳瓶、一応消毒いたしますか?」

「そこまでしていただけるんですか?」

「まあ、今は暇な時間ですし」

「じゃあ、お願いします」

 初春は哺乳瓶を受け取り一度パントリーに戻り、哺乳瓶にポットに入っているお湯を入れた。

「あちち……」

 熱くなった哺乳瓶を、アルコール除菌した手で持ち、大体40度くらいに温めたお湯の入ったピッチャーを、まだ泣いている赤ちゃんのいる席へと急いで持っていった。

「どうぞ。お湯と冷水もありますので、ミルクの温度を調整してください」

「あ、ありがとうございます」

 お母さんがその場で粉ミルクを作って、赤ちゃんに飲ませると、赤ちゃんも一心不乱に哺乳瓶を吸い続け、まるで凪のようにレストランが静かになった。

 パントリーの影で赤ちゃんの様子を見ていた初春は、ほっと一息ついた。

「ふふふ」

 そんな初春の横から、不敵な笑みが聞こえる。

 声の方を見ると、紅葉が初春の顔を見て、ニコニコと笑っていた。

「いい接客だったね、神子柴くん」

「――別に、暇だから仕事している振りをしただけだよ。マニュアルに書いてあったし」

 初春は伸びをした。

「暇で突っ立ってるだけってのも、疲れるしなぁ」

 そう言って、初春は気だるそうにパントリーを出て行く。

「……」

 最初は怖い人だと思っていたけれど。

 一緒に働いてみて、紅葉は、妹の心が何故初春に懐いたのか、その理由が分かったような気がしていた。

「――優しいんだ。子供とかお年寄りには」

 相変わらず自分にはぶっきらぼうな態度ばかりとる初春に、紅葉は少し複雑な表情をした。

 ベルが鳴り、初春はさっきのお年寄りのテーブルへ行く。

「そろそろお暇しようと思いまして……」

「かしこまりました。タクシーをお呼びしますね。お荷物もレジ前までお持ちしましょうか?」

「本当?助かりますねぇ」

 お婆さんが笑顔を見せたのとほぼ同時に。

「うわあっ」

 背後に声と共に、どさっという声がしたので振り向くと。

 紅葉が何も載せていないトレーを持ったまま、ホールの廊下でこけていたのであった。

「あらあら、紅葉ちゃん、また躓いたのね」

 おばあさんの一人が言った。

「えっへへ、またやっちゃいました」

「でも、紅葉ちゃんの元気な働き振りを見てると、私達も元気になるからね。これからも頑張ってね」

「はい」

「……」

 紅葉は見た目は少し派手だが、性格的には真面目な女の子だ。

確かにドジが多い。頭も弱い。でも、いつも笑顔だし、元気だから、そのドジも愛嬌という感じで。

紅葉も、まだこのレストランに来て間もないが、常連にはもう名前を覚えられていて、可愛がっているお客様も多い。

初春は思った。俺も、そんな風になれたらよかったんだが……でも、あれは秋葉だから許されるのか。秋葉って、見た目も可愛いしな……

パントリーに下がって、ようやく一息つき、ディナー前にゴミ袋を変える。

このバイトを始めて、一番ショックだったのが、食べ残しをする客のなんと多いこと――まだ食べられる食材を捨てることに、初春は常に罪悪感を感じている。

「――ん?」

 ごみをまとめている間に、初春はあるものを見つける。

「――これ――使えるかな」



 今日は初春はランチタイムが忙しく、昼に賄いを食べられなかったので、4時に仕事を上がってから、自分で厨房に入り、賄いを作った。今日の食事はネギトロ丼である。

 初春がディナーメンバーが来る前の休憩室で賄いを食べていると、同じ時間に上がりの紅葉が、先に更衣室で着替えて、控え室に入ってきた。初春が作った、紅葉の賄いのバナナパンケーキが、控え室のテーブルに置かれている。

「お疲れ様、神子柴くん」

「ああ」

 スプーンでネギトロ丼を掻きこみながら、初春は隣に置いている薄い本のページをめくる。

 向かいに座るので、紅葉もその本の中身が見えてしまう。その本――フリーペーパーは、アルバイト情報誌であった。

「え? え? 何でアルバイト情報誌見てるの? 神子柴くん――ここ、やめちゃうの?」

 びっくりして、紅葉は訊いた。

「やっぱりホールの仕事に無理に入れちゃって――嫌だったの?」

 紅葉は初春に少し責任を感じて、変に問いただすような口調になってしまう。

「いや、当分ここにはいるよ。飯代が浮くバイトなんて、好条件だし」

 初春の一人暮らしは、ここの賄いと、期限切れ食材の持ち帰りによって、東京にいた頃と同じ程度の出費で、はるかにまともな水準を保つことができていた。

「ただ、体も空いてるし、バイトの掛け持ちできないかな、と思って」

 アルバイト情報誌は、音々の何でも屋を開業するに当たり、当面は宣伝だが、それ以外にも色々と軍資金が必要になると考えた初春が、選択肢の一つとして、レストランに置いてあるフリーペーパー置き場から拝借したものである。

「金は精神安定剤代わりになるしな。とりあえず最初は貯金を作ろうかと思って」

 これは初春の本音である。保護者の同意は、念のために履歴書を何部か原本をコピーしてあるので、これで何とかなるなら、音々のことがなくても、初春はいつかはバイトを掛け持ちしようと考えていた。

「何だ、よかった……」

 紅葉はほっとその大きな胸を撫で下ろす。

「よかった?」

「え?」

 そう初春に首を傾げられて、紅葉ははっと思う。

 あ――あれ? 私、何で神子柴くんがバイトを辞めないでくれて、こんなにほっとしたんだろう……

「そ――それでそう? いいバイトは見つかりそう?」

 何だか急に恥ずかしくなって、紅葉は初春に訊いた。

「――いや、求人が少ないし、ほとんどが高卒以上希望だしな……なかなかないもんだな……」

「……」

 紅葉は逡巡した。

 何で神子柴くんは高校に行かなかったの? と、訊いてみたかった。

 神子柴くんは、今まで学校で会ってきた男の子達とは、何かが違う。

 その『何か』が、仕事を一緒にするたびに、気になり始めていて。

 紅葉は、そんな初春のことを、もっと知りたいと急かした。

 だから――何だか、ついこの人に、世話を焼きたくなる……

「バイト――不定期でもいいなら、心当たりあるんだけど……訊いてみようか?」

 紅葉は少し思わせぶりな感じに呟いた。

「え? 本当か?」

 初春はスプーンを置いて、一気に体を乗り出した。

「う、うん」

 ち、近い、顔が近い! 狭い控え室で、向かいで座るのもちょっと照れるのに!

 赤面して、声が震えそうなのを何とか飲み込んで、紅葉は頷いた。

「た、多分、若い男の子の手がほしいって言ってたし――歓迎してくれると思う」

「そうか、もし秋葉にとって迷惑じゃなかったら、頼む。訊いてみてくれないか?」

「わ、わかった」

「そうか。ありがとな、秋葉」

「……」

 神子柴くんは、私によくお礼を言う。

 普段は表情がないけれど、こういう時に見せる素直な表情は、本当に助かったと、ほっとしているようで。

 そんな反応をしてくれると、私も嬉しくなり。

 そして――恥ずかしくなる。

「ふ、ふふ、また私に借りができちゃったね。神子柴くんは」

 そんな気持ちを知られるのがまた恥ずかしくて、つい紅葉はその大きな胸を張って、虚勢を張るようにお姉さんぶった。

「賄いはいつも作ってるだろ」

「ええ? 安いよ、もっとサービスで返してもらわなくちゃ」

「……」

 初春はやれやれと肩をすくめた。

「なあ、秋葉、じゃあ借りついでに、もうひとつ頼みたいことがあるんだけど」

 初春は紅葉に、テーブルに手を突いて頭を下げるポーズを見せた。

――「え? それだけでいいの?」

「ああ、秋葉が店にいる時だけでいいから、頼む」

 しゃべっている間にネギトロ丼を平らげた初春は、丼を下げに洗い場に行く。

「……」

 控え室に残された紅葉は何となく初春を待つ。

 そう言えば、神子柴くんと上がり時間が一緒なのって、初めてかも。

 ――神子柴くん、『一緒に帰ろう』とか、言ってくるかな……

 そんなことが頭をよぎったけれど。

「よし、秋葉、お疲れさん」

 一度控え室に顔を出した初春は、紅葉にそう告げると、従業員用の出口に向かっていってしまった。

「え? ちょ、ちょっと待って」

 紅葉は慌てて荷物を持って、初春を追いかけた。

「神子柴くん、まだ4時なのに、もう帰っちゃうの?」

「ああ、これから図書館に行って調べものがあるんだ」

 外に出ると、初春は使い古した自転車の鍵を外して、素早くまたがる。

「秋葉も、明るいうちに帰った方がいいぞ。それじゃな」

 そう言い残すと、初春は自転車を立ちこぎで加速させ、神庭町のすいている駅前のロータリーを走り去ってしまった。

「……」

 ひとり残された紅葉は、その後ろ姿を見送りながら、はぁ、と、自分の無駄な期待にため息をついた。



 その少女は、今日も図書館に来ていた。

 5時を過ぎると、何となくあの人が来るのではないかと、2階にある読書室の入り口の扉をつい見てしまう。

 このあたりで見慣れない、同世代でこの施設に来る人が、少女にはとても珍しかった。

 だけど、それ以上に。

 いつも辛そうに参考書に向かい合っていたあの人が、昨日は少し様子が違った。

 調べ物だろうか、大量に分厚い本を借りてきて、真剣な表情で本に目を通していた。

 何か大事なものでもあるのだろうか。

 そして、その少年は今日も図書館にやってきた。

 今日は席に、自分の荷物を置いて、とりあえず席を確保すると、一度読書室を出て、本を探しに行くのだった。


『広告を作る前段階で重要なのは、オーディエンスの特定、予算の確定、広告ストラテジーの3つである』

『一言に広告といっても、販売を促進する、生活を豊かにする、社会に貢献する、流行を生み出すなど、多くの方向性を持つものである。目的を明確にした広告ほど、効果の高いものである』

『近年、インターネット広告の収益率が伸びており、Webでの広告は、今では現代人にとって欠かせないものになっている』

「――うーん」

 初春はとりあえず、広告に関する本を一通り目を通し、特に広告を作る前段階の状態の勉強を重点的に始めるのだった。情報が多く、何とか情報を整理するので精一杯だったが。

『広告とは、マーケティングの一環であり、言い換えればプロデュース業である。製品、流通、価格、販売促進の4つの面で、対象をフォーカスする』

「……」

 なるほど、マーケティング、か……

 今回の何でも屋の場合、対象になるのは労働力というよりも、音々の特殊な力。

 つまり、音々自体が、自分たちの主要な商品になるわけだ。

 俺は、あいつを神様にプロデュースする――それが今回の広告の目的、か……

 しかし……

 姿の見えないあいつをプロデュース、か……こいつは難しい。

 音々は、見た目はかなり可愛いけれど、姿が見えないのでは、その長所は意味がない……

 対象を、プロデュース、か……とりあえず、その視点でもう少し資料を探すか……

 初春は閉館時間30分前に、とりあえずの方向性を決め、使えそうな本以外は棚に戻してから、次はマーケティング、プロデュースに関係する本を探しに行った。

『戦略的マーケティング』『商品のよさを引き出すには』なんてタイトルの本をいくつか手にとって、山に積み上げていく。

「――ん?」

 ふと、本棚にこじんまりと置かれた、白地に黒い太字で書かれた本のタイトルに目が行く。

『この本を読めばあなたもモテモテ! 人気者になるための方法!』と書かれていた。

「……」

 この本――エロ本を買うよりある意味恥ずかしい本だな……多分寄贈されたものだと思うが、相当必死な人が読むやつじゃないか。

 しかし……

 音々が言っていた。神様は信仰を集め、社や祠を建ててもらえるのが夢だと。

 ――それって、つまり、あいつを人気者にしなきゃいけないってことなのかな……

「……」

 何かの参考になるかもしれない、と思い、初春はその本を手に取った。


 少女は毎日、閉館時間直前に、今日借りて帰る本を貸し出しカウンターに一冊持って行く。

「お願いします」

 少女は使い古した図書カードを館員に見せる。

「またこの本? 気に入ったんだね」

 図書館のスタッフだけは、少女の数少ない顔馴染みである。40代の女性はにこやかに笑って、貸し出し手続きを始める。

 手続きを待っていると、例の少年――初春も、両手に分厚い本が6冊ほど段に積み上げられていて、前もろくに見えない状態で階段を下りてきていた。

「うわ」

 誰にも聞こえない小さな声で、少女は呟いた。

 今日も分厚い本を沢山読書室に持ってきては、すごい集中力で本を読み漁っていたな……

 勉強をしていた時は、何だか少し辛そうだったのに、本を見ている時は、本当に一心不乱に読んでいる。

 本が好きなのかな、あの人も……

「うお」

 だけど初春は、前も見えない状態で階段を下りていたので、少し体のバランスを崩し、本の山がぐらりと傾いた。

 どさどさ、と音がして、初春の持っていた本が廊下にぶちまけられてしまった。

「あ……」

 少女はカウンターから離れ、少年の方へ駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 そう言って少女は、手近にあった本を拾った。

「ああ、すまない……」

 初春も挨拶もそこそこに、本を拾い出す。

「……」

 しかし本好きの少女は、本を拾いながら、彼の読んでいる本の内容を追ってしまっていた。

『戦略的マーケティング』『広告作りに必要な10の要素』……

 難しそうな本を読んでいるんだな……

 そんなことを思いながら本を拾い、もう一冊、手近にある本を拾う。

「……」

 少女の拾った本のタイトルは『この本を読めばあなたもモテモテ! 人気者になるための方法!』である。

「……」

 ど、どう反応すれば……

 少女が一瞬彫像と化している間に、初春も本を拾い終わった。

「ど、どうぞ……」

 少女は初春に、恐る恐るといった感じに、本を差し出すのだった。

 なるべく平静を装う、といった顔で。

「――ん?」

 初春もその少女の様子に、はじめは首を傾げたが。

 少女の持っている本の一番上の本のタイトルを見て、その謎が解けたのであった。

「おいコラ、ちょっと待て。生暖かい目で俺を見るんじゃない。君が今思っているのは誤解だ。これはいわゆる思春期男子が他の雑誌の間にエロ本を挟んでこっそり買おうとするような、そういう黒歴史な行動ではなくてだな」

初春は少女に戸惑いながら捲し立てた。

「……」

口調はぶっきらぼうだが、少し恥ずかしそうに、そして怒り方も下手くそで……

今までずっと様子を見た限りでは、もっと取っつきにくい人だと思ったのに……

「ふふふ……」

友達もおらず、人前で滅多に笑わない少女も、そんな初春を見て、思わず笑ってしまった。


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