そりゃ生活かかってますし
少女が自主反省も兼ねて壊れた襖の修復をし、居間の片付けをしている間に、少年が草むしりをしている庭に2台のトラックが止まった。
引っ越し業者と家電量販店のトラックであった。
運ばれてくる荷物は少しの段ボールと安物のパイプベッド、そして長年使った古びたマウンテンバイクがひとつ。
引っ越し業者が持ってきた荷物には家電は一切なく、その分の家電を家電量販店のトラックが冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器をまとめて運んできた。どれも一人暮らし用の小さめのもの――しかもどれも処分品になるであろう家電量販店の一番安いものであった。
段ボールの荷物預かり先は『東京』になっていた。
少年は家電を指示した場所に置いてもらった以外はほとんど荷物を居間に集めた。それ以降は草むしりを中断し、荷物の整理を一人黙々と始めた。
一階は男達が派手に飲み散らかしていたのを見て、少年は基本的なパーソナルスペースを2階の部屋に定めた。午前中から昼過ぎにかけて少年は軽い荷物を上の部屋に運び込み、インテリアを定めた。2階の洋室には大きめのクローゼットがあり、少年の持ってきた衣服はそこに全て収めた。
「……」
草むしりからほとんど休まずに少年は実にてきぱきと動く。普段この時間には居間の畳に寝転がってキセルをふかしながら徳利の酒をあおっている男も、少年が家の中を絶えず動き回っているので落ち着かず、少年にちょっかいを出すタイミングも逃し、やがてふてくされて居間の縁側に引っ込んで日向ぼっこに追いやられてしまった。
腕時計を見ると午後の2時半を回っていた。
「さて……」
少年は時間を確認すると、まだ引っ越し業者の運んできた荷物もすべて片付け終えてはいないが、2階で服をこざっぱりしたものに着替えて、届いたばかりの自転車に乗って家を出発した。
「忙しない小僧じゃ」
男はようやく少年がいなくなって、清々したように尻を掻いて畳に寝転がった。
「東京って江戸のことですよね」
少女はまだ片付け途中の段ボールの縁を見る。
「随分と遠くから来たんじゃな。あんな所じゃ道理であいつから天上人や妖怪の気配を感じんわけじゃ」
「あのあたりから住む場所を追われてここに流れてきた土地神様も多いですしね」
「……」
男は徳利を置いて立ち上がる。
「どちらに行かれるんですか?」
「ふん、どうにもあの餓鬼が気に入らんのでな。奴の弱みでも見つけてやろうと思っての」
そう言って男は酒を口に含んで、ぶっと口から酒しぶきを霧のように飛ばすと、瞬時に家の裏の山の木陰から昨日庭に来ていた大きな白い毛並みの山犬が顔を出した。
「こんな日の高い時分から珍しい」
「あの餓鬼を追うぞ」
男はそう言うと、ふわりと山犬の背に乗り山犬は強く庭の土を蹴った。
山犬はまるで雲を踏み台にするように、空の上を何度も蹴って、飛ぶように町の方へ向かって行ってしまった。
「お師匠様にも困ったなぁ」
巨大な山犬が街の方に飛んでいく姿を見上げながら、少女はため息をついた。
「……」
誰もいなくなった家。男が外出することは珍しく、少女にとって一人きりになるということ自体がかなり久しぶりのことであった。
少女は二階の部屋に登り、部屋のドアを開けた。
少年が荷物を運びこんだ部屋は、まだ段ボールやゴミ袋はあるもののほとんどのレイアウトを終えて、概ね綺麗に整頓されていた。窓際にはベッドが置かれ、カーテンも既につけられている。本棚や小さなちゃぶ台型の机もあり、あとは衣類をまとめるだけの状態になっていた。
その部屋の隅に、少女が少年を見た時から感じていた違和感――それを特に強く発するものが置かれていた。
それ――黒い布製の細長い袋を開き、少女はすらりと中のものを取り出した。
そこには柄の部分が黒ずみ、弦が緩みかけているほど使い古された一本の竹刀が入っていた。
少年の臭いを嗅ぎつけて山犬が向かった先は、神庭町にある駅――少年が昨日初めてここに降り立った、神庭駅であった。
男が自らこの街に降りてきたのはかなり久しぶりのことであった。
駅前とは言え神庭駅の周辺は特別な賑わいというのは何もない。コンビニやファミレスがあるのと、個人経営の小さな飲食店や、古びた本屋、クリーニング屋、軽トラックが前に止まった電機屋――そんなものがある商店街。その商店街も3分の1はシャッターが閉まっているのだった。
少年はその中の一つ――全国チェーンのファミレスの中に一人で入った。男を乗せた山犬は、ファミレスの客席のキャパ以上に広大な駐車場に降り立ち、男はファミレスの窓に張り付いて店内を窺った。
店の中では少年が油シミのついたワイシャツを着た、店長であろう小太りの中年と話をしていた。
男も少女ほどではないが抜群に耳が良かった。少年の会話もしっかりと耳に入る。
「君、この3月で中学を卒業だろう? しかもこの町の人間ではないだろう」
「はい」
「親御さんは?」
「ここにはいません。しかし履歴書にある通り、保護者の承諾はありますので」
「いない?」
「はい。だからこれからは一人で生きていかなくちゃいけないんで、働きたいんです」
「高校には?」
「行きません」
「……」
店長はペンの尻をこめかみに当てながら、少年の姿を見た。
少年は中肉中背で特別目を引く美少年という感じはしないが、全体的に切れ長の瞳に薄い唇と、日本人らしいすっきりした印象の風貌をしている。抑揚には乏しいが話し方もしっかりしており、まだ中学生ではあるが店長の中では少年個人に抱いた印象は決して悪くなかったのである。
「うーん――確かに君、シフトは朝も夜も土日も入れるというのであれば魅力的なんだが」
「……」
ただ、両親もおらず身内と一緒に暮らしておらず中卒なんて、同情する人間よりは怪しむ人間の方が多いだろう。少年はそれを理解している。
同情なんて欲しくもないが、少年は面接の結果はその前者の人間に出会えるかどうかで決まるだろうな、と予感していた。
そして運のいいことに、目の前の店長はその前者の人間だったのである。
「うん、まあ試用期間ということで明日から1週間来てもらおうか」
「ありがとうございます」
店長が差し出した手を少年は立ち上がって握り返した。
「ん?」
店長は少年の手を握った時にぎょっとしたのだった。
「すごい手をしているな」
「そうですか?」
「まあ頑張ってくれ。中卒だからってこの仕事は差別はないから」
「……」
少年は店の前で深々と一礼してから、店を出た。
男は少年が出てくるのを見て、そそくさと山犬に乗って家に戻っていった。
少年はレストランの駐輪場に止めてある自転車の前で、一度携帯電話をポケットから取り出した。
「……」
『直哉』『結衣』という二人から、それぞれ50通以上の連絡が入っていた。着信履歴はどちらも10回を超えていた。
少年はそれを確認して、携帯電話の電源を切った。
それから一週間、少年は実に整然とした生活を送るのだった。
毎日朝5時半に起き、顔を洗い、歯を磨き、街を5キロのランニングの後に、庭の草むしり。
7時半には簡単な朝食をとり、シャワーで汗を流して9時にはバイト先に向かってランチタイムの厨房に入る。休憩中に賄いで昼食。
5時にバイトが終わると、そのまま町立図書館に向かい自主勉強。7時に図書館が閉まると駅前のスーパーを覗きつつ家に帰り、簡単に筋トレのメニューをこなし、ファミレスでもらった期限切れの食材を簡単に調理して夕食を摂り、シャワーを浴びて、図書館で借りた文庫本を読み、11時には眠る。
毎日この繰り返しであった。
当然この生活なので、いまだにこの家に居座る男や少女ともほとんど出くわすこともなかった。少年は家の中で男や少女と出くわしても、まるで見えていなかったように無視を決め込んだ。
少年の生活に弱点を見出そうとしていた男であったが――
この少年はあまりにも生活の隙がなかったのであった。
「今日のランチの空揚げ、仕込みできてます」
「23卓のハンバーグ、あと30秒でオーブンから出ます。パスタ場やばかったら言ってください」
ランチタイムのキッチンはホールもキッチンも40代くらいのパート労働者が多い。15歳の少年は一人異質な存在だった。
神庭町では珍しいランチタイムに広い座席に座れるこのファミレスは、過疎化している神庭町のビジネスマンの定番のランチスポットであった。当然仕事量も尋常ではない。
少年は勤務者の少ないこのランチタイムの担当を任され、一週間が経っていた。
14時を過ぎるとランチタイムの勢いが止まり、アイドルタイムと呼ばれる中休みのような時間に突入する。
主にこの時間は17時頃のディナータイムに向けて、食材を仕込む時間に使われる。
「じゃあ、お先に失礼するわね」
「はい、お疲れ様です」
「いつも仕込みをちゃんとやってくれてありがとうね。おかげで朝からバタバタしなくていいからすごく助かってるわよ」
15時になるとパートで出ていた主婦層が上がりの時間になり、少年は店長とぽつぽつとくるオーダーをこなしながら食材を仕込んでいく。
少年はスライサーで玉葱をスライスし、ボウルで水にさらして辛味を飛ばし、ザルに上げていく。
「もう仕事には慣れたかい?」
少年の隣の作業台で、段ボールに入ったレタスをサラダ用に包丁で切っていく店長が言った。
「ランチタイムの奥様方から好評だぞ。仕込みもきっちりやるし、提供時間も早いし、いい新人を取ったってな」
「ありがとうございます」
「はは、相変わらず落ち着いてるなぁ。だがたった1週間でちゃんと仕込みもメニューもマスターするなんてなぁ。ディナータイムに取った高校生なんて……」
「そりゃ生活かかってますし、仕事は覚えますよ」
オニオンスライスを作り終えた少年はディナー用の米の洗米に取り掛かる。
この一週間で少年は立派にこのレストランの戦力になりおおせていた。よそ者の少年だったが、仕事を真面目にやるのを見て、店長も胸を撫で下ろしていた。
「もしよければ、今度はディナータイムにも入ってみないか?」
店長はレタスを刻みながら、少年の背中に声をかけた。
「君はもっと稼ぎたいんだろうがさすがに15歳を8時間以上働かせられんがね。ただディナータイムもできれば8時間働きやすくなるしな。それに同世代も多いから、話もできると思うぞ」
「――ええ、どうせ暇だし、シフト空いてるんだったらやりますよ」
「そうか、助かるよ」
少年は洗米した米を冷蔵庫に入れ、次は唐揚げの仕込みのためのボウルを取る。
「しかし――本当に高校に行かないのか?」
店長が少年に再び声をかける。
「見たところ、本当にバカじゃなさそうだし、高校に行った方がいいんじゃ……痛っ!」
言葉を言いかけた店長は声を上げて小さく呻いた。
少年は振り向くと、店長の親指と人差し指の間の股が切れて、血がかなりの勢いで流れ出していた。
「大丈夫ですか?」
「あぁぁ――大丈夫」
店長は流し台で血を洗い流しながら、少年の持ってきた絆創膏を受け取った。
「最近この包丁、以前よりも良く切れるんだよねぇ……」
「……」
ガシャアン!
不意に大きな音が厨房内に響く。
音の方を見ると、食器洗浄機の近くの棚の下で小太りの男性が皿を落としたらしく、数枚の皿が派手に割れていた。
「失礼しました」
少年はホールに向けて言った。
「う、うう……」
この小太りの男性は軽度の知的障害を抱えている。
ランチタイムの12時~ディナーのピークの21時まで、皿洗い専門としてここで働いている。他の仕事はない。
全国チェーンの企業のいわゆる障害者枠雇用である。
「ちっ」
隣にいた店長の舌打ちが少年の耳に届いた。
「何やってるんだ! さっさと片付けろ!」
自分が怪我をしたことで気が立っていたのだろう。ホールに聞こえないような程度の荒れた声で、店長は男性を怒鳴った。
「ご、ごめんなさい……」
あたふたしながら立ち上がって箒と塵取りを取る男性。恐らくこういう時に何を言うべきなのか、言葉を知らないのだろう。怯えているような表情をしている。
「……」
唐揚げ粉を鶏肉に和え終わりバットに移し替えた少年は、器具を洗浄し男性の許へと駆け寄った。
「危ないですよ。破片が食材に入ると大問題ですから」
少年は男性の持っていたゴミ袋を二重に変える。
「ご、ごめんなさい……」
年齢は多分30歳前後だが、その歳の半分近くの少年にも男性は少ない語彙でそう繰り返すのだった。
「……」
少年はゴミ袋を縛る。そしてハンバーグをワンセット、ベルトコンベア式のオーブンに流す。
「店長、仕込みが終わったんで、ゴミを捨てながら休憩に行ってきます」
「あ、あぁ……」
店長の返事を確認して、厨房を出る少年。
「……」
コック帽を取りゴミ袋を厨房裏に捨てると、もう一度厨房に戻ってさっきオーブンに流したハンバーグの鉄板を木枠に乗せる。少年の賄いである。
ハンバーグとライスを持って従業員用の控室へと向かう。
無遠慮な笑い声が聞こえる。さっき上がったパート達がまだ控室にいるのだろう。
「最近厨房は仕事が楽だわ、仕込みをしないでいいしね」
「あの無能の店長も久々にいいの取ったわね」
年齢を重ねた女性というのは何故こう話し声がでかくなるのだろう。外にまで筒抜けだ。
「でも、あの子学校にも行ってないよそ者っていうじゃない」
「おまけに両親もいない、ちょっと不気味よね」
「本当本当、最近変な事件も多いし……学校にも行ってない子ってなんか怖いわ」
「いくら仕事をするって言っても、普通じゃない子なんて不気味だわ」
「いいのよ。私達も仲良くする気はないんだし、楽できるなら利用してやればいいのよ」
「あの子だってここ辞めさせられたら行き場もないだろうし、言うこと何でも聞くしかないんだから、あの障害者よりもまともな召使いが入ったと思えばさ。適当におだてて楽させてもらえばいいのよ」
「あははは!」
「……」
少年はその笑い声が聞こえているうちに控室のドアを開けた。
少年の姿を確認したパートの女性達は一様に声をぴたりと止めた。
「――お疲れ様です」
気怠い抑揚のない声で少年は女性達に言い、控室の奥の空いている席に座り、ハンバーグとライスをテーブルに置いた。
「お、お疲れ様……」
「い、今休憩なの?」
「はい、仕込みも終わったんで」
「そ、そうなの、あはは……」
「じゃ、じゃあ、休憩の邪魔しちゃ悪いわね。私達もそろそろ帰ろうかな……」
そう言って、女性達はそそくさと帰り支度を始めた。
「――お疲れ様です」
静かな声でハンバーグをナイフで切りながら少年は言った。
何も言わずに女性達は部屋を出ていく。
「……」
女性達は自分達が飲んでいったグラスも、まだ煙を立てる灰皿も片づけずに出て行った。
少年は煙草の臭いが不快なのでグラスと灰皿をホールの流し台に持っていってから、一人になった控室でハンバーグをゆっくりと食べ始めた。
「……」
その様子を山犬の背に乗ったまま、ファミレスの上空から見上げる男。
「あの小僧、明らかに纏う空気が変わりましたね」
「――帰ろう」
男は山犬にそう指示し、家の方へと帰っていく……
山犬のスピードであっという間に家に戻った男は、家の上空で山犬の背から飛び降りて着地する。
「ふぅむ、あの餓鬼を追いだすことのできる術は……」
そんなことを呟きながら男は家の敷居をまたぎ、居間へと向かう。
「ん?」
居間のちゃぶ台には少女が座っている。
「あ――お師匠様……」
男を見上げた少女の目には涙が浮かんでおり。
その目はもう涙を拭った跡で真っ赤になっていた。
「――何じゃお前」
「あの――お師匠様……お師匠様に意見するなんてこと、酷く無礼であることは分かっています。でも……」
「ん?」
「あの――あの方をここから追い出そうとすることは――もう、やめませんか?」
「何?」
「……」
少女には学がない。その上この男への恩義もあり、酷く逡巡していた。
だからこんな時に、自分の思いをどう伝えればいいのかがよくわからなかった。
「また『声』を聞いたのか?」
「……はい」
「……」
男は総髪の白髪交じりの短髪を触る。
「――何を聞いたか知らんが、この町には行き場をなくした神や妖がこれからも集まってくる。その連中達のためにも、人間に踏み荒らされないこの場所は必要なんじゃ。お前にとってもな」
「……」
「あの小僧の存在は儂らにとっては異物なのじゃ。あの小僧にしても神や妖などと関わるべきではない。勿論奴が神を頼るのであれば、話は別じゃがな」
「……」