つくづく自分の小市民ぶりが嫌になる
水を酒に変える「酒池の術」は、本来は紫龍の専門外の術である。その術を、かなり大きな湖で使うことで、紫龍はいつも術を使った夜は疲労困憊である。
神にとっては、眠ることも嗜好のひとつである。紫龍も夜には天界の遊郭に行ったり、夜の町を上空を飛来して、山に隠れる近隣の妖怪達の様子を見に行ったり、家で朝まで夜空を見ながら飲んでいることが多い。
だが、この術を使った日の夜だけは、紫龍も決まって居間の畳の上に臥して、珍しく深い眠りについていた。
そんな紫龍が浅いまどろみから覚醒したのは、居間のすぐ横の縁側から聞こえる、ぶつっ、ぶつっという音であった。
「……」
目が覚めたという実感の後、鼻腔に隣のキッチンから、味噌汁の匂いが届いた。炊飯器からは炊煙が上がり、甘い香りがする。
久し振りによく寝た、と、我ながら思いながら、縁側の雨戸を開ける。
「あ、お師匠様、おはようございます」
縁側の、庭の向こうに見える山の裾野からようやく朝日の頭だけが顔を出したくらいの光で庭の赤土に降りた朝露を光らせ、小紋の袖をまくって、裾や顔を少し泥に汚しながら、むしりとって山にした雑草をゴミ袋につめている音々がいて、紫流にお辞儀をした。
「……」
庭の奥のほうにいる初春は、黙々と草をむしっていたが、紫龍の姿絵を見て、かがんでいた体を立ち上がらせた。
紫龍が足元を見ると、縁側に、初春のぼろぼろの竹刀が立てかけてあった。
「昨日酒に酔ってぶっ倒れておいて、もう今日になって鍛錬か」
紫龍は呆れ半分に言った。
「――悪かったな、昨日は」
初春は苦々しげに紫龍に言った。年相応に、屈辱的な思いに反発する思いがあるようだ。
「お前が酒を飲んだ理由なんてのは、大体餓鬼の考えそうなことじゃ、想像はつく――で、どうじゃった? 初めて飲む酒の味は」
「――何であんなものを、みんな喜んで飲むのか分からなかった……」
「――そのうち分かる時が来るかも知れんし、いつまでも分からんかも知れん――少なくとも分かるのは今じゃなかった、というだけのことじゃ。酒のみならず、この世のすべてのことがな」
「――そうか」
初春は頷いた。
「あんたが俺をここに運んでくれたのか?」
「運んだのは比翼じゃよ。どうやら奴は、お前を気に入ったらしい」
「……」
初春は黙り込んだ。
「そのまま置き去りにしていた方がよかったか?」
そんな初春に、紫龍は切り込んだ。
「お前が今の自分の人生に嫌気が差しておることはわかっていたからな、そうすることも情けかも知れんと思って、比翼にも言った」
「随分とはっきり言うな」
初春は笑った。
「いいね、そういうの」
「何?」
紫龍は呆気に取られた。
「お前、儂は今結構酷いことを言ったぞ。今だけじゃなく、お前がこの家に来て以来、お前からすれば無茶苦茶とも言えるような言い分を聞いているだろうに。普通に自分の家に自分とは違う生き物が住んでいるということすら、何でそんな簡単に受け入れる?」
「うーん」
初春は言葉を咀嚼するために、少し息を吐いた。
「何て言うか、あんた達の言い分は確かに無茶苦茶だけど、分かりやすいと言うか……結構自分にスッと入ってきたんだよな」
「は?」
「俺がこの町に来る前、どんな生活をしてたか、あんたも音々から聞いてるんだっけ? 俺は両親が離婚して、しばらく親戚の家をたらい回しになってたんだがな――両親も親族も、みんな言ってたよ」
「……」
「『大丈夫、いつかご両親が何とかしてくれるから』だの、『遠慮しないで何でも言ってね』だの……どいつもこいつも、心にもないこと吐いてたよ。自分は正しいんだ、いいことをやっているんだ――そんな感じの綺麗事をな。そんな連中は結局、俺を施設に預けるってのをなし崩しにやったんだ。連中は最後まで、その選択で俺がどれだけ苦しむか、人生が滅茶苦茶になるか、それを考えることすらしなかったよ。それどころか、『それがあの子にとって一番いいのよ』だとさ……」
「……」
「それを見ていたからかな。この町に来て、あんた達が馬鹿正直に自分の都合を語って、邪魔な俺をこの家から追い出そうって考えて、実力行使までするような馬鹿正直な反応をしているのを見て、妙に納得しちまったんだよな。反吐が出るような綺麗事を吐いて、自分の罪悪感から逃げたり、他人がどんな目にあうか考えることをしないような人間より、正義面しないあんた達の方がよっぽどマシだな――」
「……」
二人の間にいる音々は、そんなことを淡々と語る初春の横顔の涼しさに、たまらなく悲しくなるのだった。
今でも初春の衣服や私物からは、彼のことを語るアヤカシの声が、彼女には幾重の音の螺旋となって聞こえている。
そして、初春自身の心の変動も、心音や、血流の流れ、体の軋みで伝わってくる……
見事に何の変化もないのだ。
もう人間とはそういうものであるということを完全に享受している。
それが彼女にも分かったのである。
「……」
紫龍もその答えに面食らった。
「筋金入りの人間嫌いじゃな、お前は」
もはやそれ以上にかける言葉がなかった。
「昨日のお前の様子を見て、分かった。お前は基本戦いが嫌いなのだろうが――人間相手になら、容赦なく戦える。それこそ、相手を殺すことも」
「……」
「今のお前は、少しタガが外れただけでも、目に映る人間を皆殺しにするじゃろう」
「……」
音々には、その目の前の状況が上手く理解できなかった。
人を斬ることを、止めるわけでも諌めるわけでもなく、淡々と事象のひとつとして語る紫龍と。
そのことに対して、否定もせずに淡々と頷き、今の自分を確認する初春。
自分とは根本的に、人間に対する捉え方が違うのだと、思い知るのだった。
「どうするんだお前は。これから、人を斬ることで、人間に自分への仕打ちを償わせるつもりなのか?」
紫龍は、突き放すような口調で言った。
「……」
初春は空を見上げた。
「――この町に来た頃は、自分はそうするのだろうと思っていた」
「何?」
「俺の人生は滅茶苦茶になった――滅茶苦茶にされた、と、思っていたからな」
「……」
「だが実際、俺はよく分からなくなってるんだよ。この町に来て、少なくとも自分の生活水準が、東京にいた頃よりも明らかに上がってるからな。家賃は法外に安い上に、おかしな生き物を享受できれば部屋の景色も最高だし。飯なんて、ハンバーグやオムライスなんて、東京にいた頃にはとても食えなかったようなものを、バイトに行けば毎日食えるし――そんなものしかくれなかった親に、煩わしい気遣いをすることもない。同級生が絡んでくることもないし――つまんねぇことだが、十分すぎるんだよ、俺にとっては。そんな十分すぎる生活ができるって分かって、毒気が抜けてるってのかな――親を捨ててよかった、とさえ思っちまう」
「……」
あまりにも気の抜けた話に、少し気負い気味だった紫龍も思わず脱力した。
「まったく、笑い話さ。つくづく自分の小市民ぶりが嫌になる……」
初春はそう言うと、珍しく自嘲を浮かべた。
「ハル様、珍しく笑いましたね」
音々が驚いたように言った。
「そう見えるか?」
初春が穏やかな声で言った。
「これでも、心じゃ泣いてるんだけど」
「え?」
「親と離れることで、自分は以前よりも水準の高い暮らしを手に入れた――はじめは不安だったけれど、自分ひとり食わせる程度の生活って、思ったよりも楽だった。それを知ってからは、もうあの暮らしに帰りたいとも思わない。この町に来てから、自分が15年住んだ、あの区営団地の自分の部屋を思い出すこともないんだ。親がいて、ありがたかったなぁ、とも思わない――多分今の時点で思わないんじゃ、自分の人生で、今後親のありがたみや、自分の生まれ育った町をありがたいと思うことは、二度とないんだろうと思う」
「……」
「けどさ――俺は本音を言えば、人間の言っていた『社会の厳しさ』ってやつに、自分を叩きのめしてほしかった。それで自分の考えが甘かった、間違っていた、と思えれば――俺は人間を恨むことをせずに済んだ、人を好きになる努力もできたかもしれないのに……」
初春は悲しかった。
右も左も分からないまま、一人で生きていくことを半ば強制され、生きていけるかも分からなかった中で、何とか自分を食わせていける目処が立ったことで。
昔よりも一層、自分の両親が頼るに値しない、尊敬にも値しない、自分の人生に何の好影響もない人間だったことを、思い知らされてしまった。
自分を産んだ人間が、そんな人間だったことが、はっきりと分かってしまった。
自分がこの状況で叩きのめされれば、人間はくだらない生き物だという自分の考えが間違っていたと、今までの生活を悔い改めることもできただろうに。
改めて、人間とは救い難い生き物だと――俺が情けなどかける必要などない生き物だと、思えてしまった。
それを教えたのが、自分を産んだ親だということが、悲しかった。
「――そんな中でこうも思っている」
穏やかな口調で初春は言った。
「俺は結局、人間じゃないんだろうな。獣と同じさ。腹が満ちれば怠惰の限りを尽くし、腹が減れば目を血走らせて狩りに出る――今はそこそこ腹が満ちているだけで、いつかこの生活も、人間に脅かされるか、満足がいかなくなる時が来る――そうしたら、俺は人間を狩るんだろうな、とも思う」
「……」
紫龍は思った。
この小僧は今、運命のど真ん中にいる。
この小僧は、自身が凡才である上に、人間に虐げられ続けられた経験から、善悪に興味がない。
自分が理由も分からず虐げられる側に回った故に、傷つき傷つけることに思想がない。
思想がないゆえに、あまりにも純粋すぎる。
だから、これからの運命で、どちらにも傾きえるのだ。
音々のように、その手を差し伸べるのか。
自分を傷つけた人間へのように、その手を血に染めるのか。
そして――
「だが、お前はしばらくはそうはならんじゃろう」
紫龍は言った。
「お前を今、そこに留めておるのは、東京に残した仲間のこともあるんじゃろうからな。お前の言葉を借りれば、お前は腹が減っても、それがある限り、人を斬らんだろう」
「……」
初春は、一番触れられたくない場所に触れられたのを明確に態度に表し、目を閉じるのだった。
「そりゃ思うさ。遠く離れたとは言っても、この場で俺が人を殺しちまったら、あいつらは殺人鬼の幼馴染になっちまって、色々とやっかまれるだろう……俺のせいで、あいつらの株さえ落ちちまうのは忍びないからな……」
そう、それは初春が東京にいた時に、自分の中で唯一守らなければと思ったもの。
唯一の行動理念であった。
それは常に、今の初春の怒りの衝動を抑え込んでいる。
だが……
「だが――この町に来て、俺はまたいつかあいつらと同じ道を歩けるように自分を磨こうとも思った。だが、現実にはこんな周回遅れになった状態で、あの二人にたった数年で再び追いつく――それが不可能に近いことも分かっているんだ」
「……」
「きっと――今感じる距離が、遠くなれば遠くなるほど、思い出ってのも遠くなっていくんだろうな――そして、あの二人のことに遠慮する必要もなくなるほど、思い出が風化したら――俺はあんたの言うとおり、すぐにタガをはずせる気がする」
「……」
紫龍は、昨日の比翼の言葉を思い出していた。
距離とは、思い出を残酷なまでに蝕む。
この小僧は、人間が嫌いと言いながら、自分が仲間だと思っていた二人も、また人間であることを知っていた。
その二人がいなくなれば――小僧にとって人間とは、ただの憎しみの対象でしかなくなるだろう。
「少しだけ最初の質問を変えよう――現時点でお前は、人を斬りたいか?」
少し強い口調で、改めて紫龍は訊いた。
「――斬りたくない、といえば、嘘になるかな」
「え?」
音々は心配そうに声を上げた。
「だが、色々と思うところもある――俺にだって間違っていることも、知らないことも沢山あって、人間だけが悪いと決め付けて事を起こして、単なる八つ当たりをするのも、何とも器の小さい話だとも思うしな……だが、きっとそうなる時は、きっとそうなるように、俺も色んな道を歩んでそうなるんだろう――水は方円の器に随う、だ。俺が人を殺すのであれば、人は俺に殺されるような生き物だと思わせたのだろうよ」
「……」
「色々と思うことはあるんだが――俺はこの町に来て、少しばかり人間のしがらみから自由になれた気がするからな――どうせなら、人を斬る前に、心も自由に、これからのことを曇りのない心で見極めてみたい」
「……」
「急ぎはしないが、同じ場所にいつまでも留まらない、そして自分の形さえ無理なく変える――そんな水や、風のような心で、この世界を見てみたい――俺は酒の味も、女の抱き心地も、美味い料理の味も、この世界のことをほとんど何も知らない無知な餓鬼だ。それを知りたい――知った上で、これからどうするのかを決めたい。それがこの町に来る前に、仲間に教えてもらった、俺の理想の生き方だからな」
そう言って、初春は音々の方を振り向いた。
「その一環として、俺は音々が神様になれるように協力するさ。俺はそれで、世界を見てみたい」
「ハル様……」
「――なるほど、人のためになることを何かしてみて、人間がどんな反応を示すか――その上で人間を裁くかを決める、か」
「これは俺の持論だがね、人間嫌いってのには、大きく分けて二種類のタイプがいると思っている。ひとつは、自分が高尚で清廉な生き物だと思っているが故に、人間を醜いと見下しているタイプ――もうひとつが、人間という生き物にどうしても馴染めなくて、自分を卑下して距離を置いてしまっているタイプだ。同じ人間嫌いを名乗っているが、俺は個人的には前者のタイプは嫌いでね。自分が高尚で優れた生き物だと思い込むなんて、傲慢な人間そのものだ。俺は自分が間違っているって可能性をすべてつぶした上で人間嫌いを名乗りたいタチでね」
「お前なりの意地というわけだ」
「無実の奴をいたぶるようなことを自分なりに戒めてるのさ」
「ふ……」
後ろ向きなのか前向きなのか分からないが、紫龍はこの斜に構えた小僧の考えを面白いと感じた。
そして、ひとまず安堵した。
もし初春がここで、人を斬るということを決断するようであれば、紫龍は初春を斬ることも考えていた。
もう実際の人斬りからは遠ざかっている紫龍は、初春を斬ることに、先日から懊悩していたのである。
「音々」
そんな紫龍をよそに、初春は音々に声をかけた。
「お前は人のためになれる神様ってのにずっと憧れてると言ってたが――悪いけど、俺は人間ってのが、そんなお前が心を砕いてまで救うに値するものとはまったく思ってない」
「……」
「でもさ、お前のその気持ちを踏みにじることをしないようには、俺も気をつける。それでもよかったら、お前に協力させてくれ――それとも、人のためになりたい神様に、俺みたいな従者はクビかな」
音々は首を振った。
「ハル様は――人間ですよ。それも、とびきり優しい人間です」
世間知らずの音々は、初春の言葉のほとんどの感情が理解できなかった。
だが、何だか悲しかった。
「ハル様。私――人間に認めてもらいたいとか、役に立ちたいとか、そんな神様になりたいって言ったんですけど――ひとつ、それに追加してもいいですか?」
「――なんだ?」
「私――ハル様みたいな優しい方が、ちゃんと優しいままで暮らせるような――そんなことができる神様になりたいです。それを、ハル様を笑顔にすることで、考えていきたいです」
そう言うと、音々は草むしりで泥のついた、紅葉のような小さな手を差し出した。
「これからも、よろしくって意味です」
「……」
初春はしばらく逡巡したが、音々の手をとり、ぎこちなく握った。
音々の手は、ずっと家で家事をしていたからか、少し荒れていたけれど、掌がふにふにと柔らかく、竹刀の素振りでマメだらけの初春の手には、まるで別の生き物のもののように感じられた。
「――ありがとな」
少し照れたような声で、初春は小さく呟いた。




